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2019.08水牛「犠牲祭(イドゥル・アドハ)」
久しぶりの更新です。4大学(兵庫、大阪、京都、奈良)での非常勤講師の仕事がなかなかに大変で、自転車操業のような毎日でした。7月末にあわただしく成績採点を終え、8月はここ数年恒例のインドネシア語集中研修講師の仕事に入っています。さて…

高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年8月」(水牛のように)コーナーに、
犠牲祭(イドゥル・アドハ)」を寄稿しました。

いったん書いてから添削している間に、肝心なことが抜け落ちてしまっていました。以下に1996年4月28日に経験した犠牲祭のことを書いていますが、実はこの日の早朝にスハルト大統領夫人Ibu Tienが亡くなりました。Ibu Tienは私が留学していた町スラカルタの出身で、亡くなってすぐに遺体はスラカルタに送られました。「Ibu Tienのように偉い人は、犠牲祭のような良い日に亡くなるんだね…」と人々が言っていたことを思い出します。



犠牲祭(イドゥル・アドハ)

犠牲祭(イドゥル・アドハ)は世界中の人々がメッカを巡礼する大巡礼の最終日を祝う行事で、イスラム教徒にとっては断食明けの大祭(イドゥル・フィトリ)と同じく重要な祭日だ。インドネシアでは祝日で、各町内会ごとに集まって供出されたヤギやウシなどの生贄を自分たちで殺し、皆で肉を分け合い、調理して食べる。今年の犠牲祭は8月11日で、その後には独立記念日(8月17日)も控えているから、今年のインドネシアの8月はとても賑やかになりそうだ。

さて、私が初めて留学した1996年の犠牲祭は4月28日だった。イスラムの祭日はイスラム暦(1年354日)に従うので、西暦で言えば毎年約11日ずつ早くなる。つまり、この23年の間に4月、3月、2月…12月、11月…とどんどん前倒しになって、今年は8月になったというわけなのだ。留学当時の日記が見つかったので、今回は1996年4月28日の犠牲祭の思い出について書いてみる。

私は4月13日には一軒家に引っ越していたが、犠牲祭の日はそれまで住んでいた宿のあるRT(町内)に見に行った。宿の従業員が、このRTは全戸がイスラム教徒だから犠牲祭はにぎやかだよ~、おいでよ~と誘ってくれたのだ。一方、新しく入居した家のRTの住人はほとんどキリスト教徒だったようで、特に町内では何もやらなかった。

朝9時から始めるというので行く。この町内は1つのガン(小路)を挟んだエリアである。このガンから大通りに出る手前にある排水溝の大きな蓋(コンクリート製)が開けられ、ホースが引かれていた。ここで屠殺するようだ。そして、小路にはヤギが10頭近く、牛も1頭つながれている。これらは住人らが供出したもの。持てる者は分に応じて持たざる者に施しをするのがイスラムの教えなのだ。だから、犠牲祭の数日前になると、急に街にヤギを売る人・買う人が現れる。ヤギ相場も値上がりするようで、お金に余裕がある人は少し前からヤギを仕入れておいて、犠牲祭直前に高値で売るようだ。私の日記には生後4~5年の小さ目のヤギが11万ルピアというメモが残っている。ちなみに、当時のレートは1ルピア=約20円。私の宿滞在費半月分の値段なので、庶民にはそれなりに大きな金額である。

さて、ヤギから屠殺が始まるが、肉屋ではなく地域の住民が手がけていることに驚く。ずっとお祈りを唱えている小さい子供たち(小学生低学年までくらい)に囲まれて、大人の男性がヤギの頸動脈を切り、血を排水溝に直接流す。子供たちと違って、私は怖くてその瞬間をどうしても正視することができなかった。その現場が見えない所につながれているヤギも自分の命運を察知し、順番が回ってきても抵抗してなかなか動こうとしない。屠殺されたヤギは木の枠にぶら下げられて解体が始まり、皮が剥がされ、肉や内臓が取られて骨だけがきれいに残る。皆とても手慣れていて、作業がてきぱきと進む。

解体の力仕事は男性がやる一方、内臓や肉のブロックを小さくしたり調理したりするのは女性。私も1頭分だけヤギの腸を伸ばすのを手伝うことにした。とはいえ3人がかりである。大きなざるに腸の塊が1頭分載せられてくる。塊に手を当ててみるとまだ温かい。さっきまで生きていた証。不思議に怖いとは感じず、命をいただく愛おしさを感じる。1人目がそのくねくね曲がった腸チューブをつまんで塊からはがし、しごく。2人目と3人目はそのしごかれたチューブを受け取ってさらにしごき、腸内の内容物を押し出してきれいにする。肛門に近い辺りでは内容物は全部コロコロした糞に変化してぎっしり詰まっている。1頭だけ…と気楽に考えていたが、腸がものすごく長いことに気づき、嫌気がさしてきた。いま調べたところ、ヤギの腸の長さは体長の25倍あるらしい。ヤギの体長は1~1.5mだから、腸の長さは約25~35mとなる。うろ覚えだが、2時間くらいひたすら腸をのばしていた気がする。

ヤギやウシの赤身や内臓は持ち帰り用に秤で測って分配される。それ以外にその場でヤギ肉の煮込みが調理され、皆で食べた。全部の解体と下ごしらえ、調理が終わって食事にありつけたのは2時過ぎだったと思う。暑さと周囲に充満する肉の匂いと空腹で頭がぼーっとしていたことを思い出す。こういう経験は1度で十分だというのが正直な感想だが、それでも経験できてよかった。命をいただいて食べることの重さを、私は腸の重さとして実感することができた…。




7/4 ジャワ舞踊ワークショップ@桃山学院大
ジャワ舞踊ワークショップ「ジャワ舞踊のメロディとリズム」を下記のとおり実施しました。ジャワ舞踊のメロディ(宮廷舞踊の系統)とリズム(民間舞踊の系統)を体験してもらいました。

日時: 2019年7月4日(木)16:50-18:30
場所: 桃山学院大学1号館206教室にて
主催: 桃山学院大学インドネシア研究会(小池誠教授代表)

5.19岸城神社奉納上演
5/19(日)開催のむすび市(岸和田市・岸城神社)でのバリ舞踊&ジャワ舞踊奉納は無事に終了しました。ご来場くださいました皆様、ありがとうございました。ジャワ舞踊を上演したメンバーは昨年まで10年間、岸城神社で「観月の夕べ」公演を主催していた仲間たちです。「観月の夕べ」公演は昨年の第10回を以て終了しましたが、長年のご縁もあり、今回はむすび市での奉納となりました。

岸城神社むすび市 ジャワ舞踊奉納
日時: 5月19日(日) 奉納舞踊 12時半過ぎ~3時頃
会場: 岸和田市 岸城(きしき)神社 社殿前


1. 「サリクスモ」 (ジョグジャカルタ様式)
by 坂口由美子、村岸紀子、竹田敦子、櫻井有紀、谷口あかり
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2. 「ガンビョン・パンクル」(スラカルタ様式) 
by 岡戸香里
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3. ワヤン・カンチル
ダラン(語り&人形遣い): アナント・ウィチャクソノ
写真で解説しているのは西田
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4. 「ゴレッ・アユンアユン」(ジョグジャカルタ様式) 
by 西岡美緒、坂口由美子、村岸紀子
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5. 「スリンピ・アングリル・ムンドゥン 前半」(スラカルタ様式) 
by 冨岡三智
桐原さん撮影

演奏者:
アナント・ウィチャクソノ、西田有里、東山真奈美、松田仁美、近藤チャコ、山下奈美

ジャワ組出演者全員で
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写真撮影:
1~4、集合写真… 中口順児さま
5.… 桐原喜彦さま
5/19(日)奉納公演のお知らせ
5/19(日)開催のむすび市(岸和田市・岸城神社)にて、バリ舞踊「ルジャン」の奉納に続き、ジャワ舞踊の奉納があります。ぜひご来場ください。ジャワ舞踊に関しては、昨年まで10年間、岸城神社で「観月の夕べ」公演を主催していた仲間たちがガムラン生演奏で舞踊曲を奉納します。なお、「観月の夕べ」公演は昨年の第10回を以て終了しました。長年のご声援に感謝申し上げます。


岸城神社むすび市 インドネシア舞踊奉納公演
日時: 5月19日(日) 奉納舞踊 12時半過ぎ~3時頃
会場: 岸和田市 岸城(きしき)神社 社殿前

※ むすび市開催時間: 午前10時〜午後4時
   雨天の場合でも屋内にて上演します。

●ジャワ舞踊の演目:
  いずれも15~20分の曲です。私は3を踊ります。
1. 「サリクスモ」 (ジョグジャカルタ様式)
2. 「ガンビョン・パンクル」(スラカルタ様式) 
3. 「スリンピ・アングリル・ムンドゥン 前半」(スラカルタ様式) 
4. 「ゴレッ・アユンアユン」(ジョグジャカルタ様式) 

アクセス:
南海本線・岸和田駅 徒歩10分、蛸地蔵駅 徒歩5分
岸和田城周辺には公共駐車場があります。
3/3 ジャワ舞踊と和籟弦打と美の宴@都城
早春を舞う ジャワ舞踊と和籟弦打と美の宴
ジャワ舞踊、笛、太鼓、アートによるライブパフォーマンス


日時: 2019年3月3日(日)13:00~14:20 (開場:12:30)
会場: レインボーハウス 
     宮崎県都城市夏尾町6223

13:00~13:15 ジャワ宮廷舞踊 "Srimpi Anglirmendhung"前半
13:15~13:40 休憩・歓談
13:40~14:20 ライブパフォーマンス

■コラボレーション:
冨岡三智: ジャワ舞踊
井上大輔: 笛(能管、長菅尺八、篠笛)、桶太鼓、薩摩琵琶
        音楽家、劇壇井上天幕主宰
        https://gekidaninouetento.wixsite.com/inouetentozero
水口麿紀: アート
        アート工房ミルトス主宰
        http://mirutos.info/

■主催: レインボープロジェクト

20190303都城

昨年同様、今年も別府にインドネシア語研修の仕事で来ていますが、その別府から足を延ばして宮崎に初上陸、ジャワ舞踊を舞ってきました。土曜午前中の仕事を終えて12:30 職場発―別府駅―【バス・パシフィックライナー号】―宮崎駅―【JR日豊本線】―西都城駅―【迎えの車】―ミルトス工房着20:20頃と、約8時間の旅!九州は広い…。この日も翌日も雨。

このプロジェクトを企画してくれた水口さんとは、実は1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに知り合っています。被災した水口さんが私の地元に疎開して来られ、何度かアトリエにお邪魔しました。当時、鉄や木などを使ったオブジェを製作されていた水口さんは2000年(私は留学中)に高千穂へ転居。その後も年賀状でやり取りはありましたが、九州に行かれた水口さんは明るい光に満ち溢れた絵画作品を描くようになり、その変化に私は目を見張り、何があったのだろう…とずっと気になっていました。九州に行く機会も全然なかったところ、思いがけず別府での仕事が入ったので連絡を取ると、このようなライブを企画してくれました。相変わらずパワフルで軽やかな生き方にエネルギーをいただいて戻ってきました。また、今回水口さんが共演にと紹介してくれたのが井上大輔さん。繊細な声や物腰なのに、出てきた音は背骨にびくっとくる。ぶっつけで相手の出方を見ながらのライブは、とても刺激的でした。

●"Srimpi Anglirmendhung"前半
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●ライブパフォーマンス
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●スタッフや参加者の方と
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手前右から: 水口磨紀、私、井上大輔
2019.03水牛「インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年3月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」を寄稿しました。

実はタイトル詐欺の文章で(笑)、下見だけして住まなかった家の持ち主にまつわる思い出。


インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域

前回はインドネシアに最初に留学した時に住んだ家のことについて書いたが、その時に下見したものの結局入居しなかった家(の持ち主)の思い出について今回は書いてみよう。

住む家の契約を終え、引っ越し目前という時になって、宿の従業員が新たな情報を聞き込んできた。宿の斜め向かいの家で借り手を探しているというのだ。実は、そこに家があることを私は全然知らなかった。表通りから一本入った宿の辺りの家々には高い塀が巡らされていて、塀の奥にどんな建物が立っているのか全然見えなかったのだ。今さら仕切り直しをする気はなかったが、後学のために家だけ見ておきたいという気になり、物件を見せてもらった。持ち主はアラブ系の顔だちと服装をしていた。塀の中には広い庭があり、一人で住むには手入れが大変そうだった。私が礼を言って断ると、持ち主は「お構いなく、すべてはアラーの思し召しのままに…」という意味の言葉を返した。まだイスラムのこともほとんど知らなかったこの頃、イスラムの人はそういう風に発想するのか…と新鮮に感じたことを覚えている。

この持ち主自身はパサール・クリウォン地区に住んでいるとのことだった。実は、その地区には織物を商うアラブ系インドネシア人が歴史的に多く住んでいる。伝統文化のセンターである王宮の塀のすぐ外側(東側)の所だが、金曜礼拝の前後にこの辺りを通りかかると、全身を黒づくめの衣装で覆った女性が集まってくることに驚く。ゆるやかなイスラム教徒が多いジャワ人芸術家たちとだけ付き合っていると、こういうイスラム世界は見えてこない。ちなみに、2016年にジャカルタのスターバックス前でテロを起こした首謀者もこの地区の出身だ。この後私が住むカンプンバル地区(王宮の北側)の目と鼻の先である。実は、そのテロ事件が起こる前は、wikipediaのパサール・クリウォンの項目にはアラブ系の人がそこに集住した経緯が詳しく書かれていた。テロ関係のことを調べている友人にもそのことを教えてあげたのだが、事件後数日で記事のほとんどが削除されてしまった。何かまずいことでも書かれていたのかもしれない。というわけで、王宮の東側というとこの家の持ち主のことが思い出される。
2019.02水牛 「インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年2月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」を寄稿しました。

まだ携帯電話も普及していない、不動産屋もないインドネシアの古都ソロ(正式にはスラカルタ)での家探しについて。今にしてとても残念なのは、この当時のご近所さんと撮った写真が1枚もないこと。



インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し

昨年の11月号、12月号で留学していた芸大のキャンパスについて書いたので、今回は私が住んでいた地域の話。

留学してどこに住むのかは大きな問題だ。留学先の芸大(スラカルタ市/通称ソロ市にある)には寄宿舎はないので、遠方出身のインドネシア人学生はだいたい大学周辺にある下宿に住む。しかし、インドネシアではプライバシーがあまりないので、私には下宿で住むのは到底無理そうに思え、一軒家を探すことにした。大学での授業以外に、スラカルタ王宮やマンクヌガラン王宮にも通うから、これらの場所に近くて、大学にはバスや自転車で通える範囲がいい。また、日本では駅や銀行や中央郵便局が近くにある所に住んでいて便利だから、インドネシアでも似たような環境がいい…ということで、クプラボンかカンプンバル辺りで家探しをすることにした。クプラボンはマンクヌガラン王宮とその東側の地域だ。カンプンバルはその東側の地域で、市役所、中央郵便局にバンク・ヌガラ・インドネシア銀行があり、スラマット・リヤディ通りを挟んで南側にはスラカルタ王宮がある。また、幾つかの系統のバスは中央郵便局を経由していて、交通の便も良い。

1996年当時のスラカルタに不動産屋はなかったので(今はあるだろうか?)、聞き込みをして探すしかない。知り合いに聞く以外に、何軒かの個人経営規模のホテルに飛び込んで、オーナーに一軒家を持ってませんか?と尋ねてみた。そういう人なら、他にも不動産を持っているのではないかと思ったのだ。実際に家を紹介してくれた所もあったが、立地条件が合わなかった。そうこうしているうちに、あるホテルの人から人を紹介された。いくつも不動産物件を知っていて、紹介してくれるという。その人を信用しても良いものかどうか不安だったが、とにかく用心して物件を紹介してもらうことにした。一応エリアは決めていたが、せっかくの機会でもあるので、もう少しエリアを広げ、提案してくれた20軒余りを見て回った。

紹介してくれる家はどれも寝室が3~4室もあるような大きな家で、その後の状況を見ると会社が借りているケースが多かった。しかし、ついにカンプンバルの街中で小さくて手頃な家に行き当たる。その家の管理を任されている人はその隣のRT(町内会)の会長も務めており、信頼できる人だった。この人に当たったことが幸いで、抜け目のない仲介者にも高すぎない礼金を支払って別れることができた。もっとも、今から思えばあの仲介者の持っていた情報はどれも良質で、だからこそあの管理人とも巡り合えたのだなと思う。

私が契約した家は市役所の裏門を出てすぐの所にあった。現在は裏門から出入りできるのでその辺りは賑やかになっているが、当時は門は締め切られていた。私の家探しの条件は、電気も水道もあり、固定電話もついていること。電気はともかく、町中でも水道のない家はあった。そして、固定電話のある貸家は町中でも少なかった。さらにこの家の台所には流し台があり(伝統的な作りで流し台がない家もわりとある)、家の外にも洗濯用の蛇口があり、いずれも水が勢いよく出た(水がちろちろとしか出ない家もある)。電気は蛍光灯で明るい。おまけに屋上には物干し場があり、家の内側から出られるようになっている…など、私には理想的な家だった。さらに契約後に判明した良い点は、街中の家なので水道水の質が良く、ゴミ回収も毎日あり(毎月、ゴミ回収代を町内会に支払っていた)、カマル・マンディ(水浴場)の排水溝が大きく、水が良く流れたこと。

この家に入居するに当たり、私の方から依頼して入居契約書を作成した。管理人が用意した文面には、家に誰かを泊める場合は町内会長に報告すべしとあって驚いたのだが、これはインドネシア人が入居する場合でも同じだったようだ。当時はまだスハルト独裁政権時代で、現実には友達を泊めても問題はなかったが、建前上はこの文言が必要だったということだろう。近所づきあいに関しては、留学しに来ているのだから町内会の諸々の付き合いはしなくても良いと、管理人とRT会長が言ってくれた。これは具体的には冠婚葬祭の時に人手を出したり、近所の男性たちが交代でやっている夜警の当番をしたりしなくてもよいという意味だったと思う。実際、町内でお葬式があった時、私は参列して香典を出したけれど、手伝いは要請されなかった。そうそう、この近所づきあいをあまりしなくてよい、他人に過干渉しないというのも町中に住むメリットだ。ちょっとしたものをお裾分けして立ち話する程度の付き合いは私もなるべくするようにしていたけれど、程よい距離感があった。

さて、この家のオーナーは当時50くらいの女性だった。彼女はビジネスオーナーで仕事人間でやってきたが、その年になって結婚したい人が現れ、結婚してメダン(スマトラ島)に移るので、その自宅を貸そうとしていたのだった。この家の使い勝手の良さは、オーナーも女性で1人暮らしをしていたからかもしれない。この家の右隣りにはおばあさんが住んでいた。品の良いカトリック教徒で、家にはオルガンがあり、復活祭が近づくと人々が集まってよく讃美歌を歌っていた。また、私の家の前には中華系のおばさんとスンダ人の旦那の年配夫婦が住んでいた。私が2000年になって再留学した時にはこの右隣の家のおばあさんも中華系のおばさんも亡くなっており、また私が住んでいた時にお葬式を出した家は大手企業に買われ改築されて、すっかり様変わりしてしまった。
2019.01水牛 「平成の最後、昭和の最後」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年1月」(水牛のように)コーナーに、
平成の最後、昭和の最後」を寄稿しました。


平成の最後、昭和の最後

平成天皇が万感を込めた誕生日の会見のお言葉を述べて1週間後、平成最後の正月が穏やかに明けた。昭和最後のお正月はこんなものではなかったな…と不意に思い出す。

ご病気の昭和天皇を憚って様々な行事が取りやめとなり、私的イベントまでが不謹慎だと自粛された。その年、私は大学4年生だった。卒論を仕上げるため、帰省せずに1人で下宿に残っていた。1月7日、大家さん(1人暮らしのおばあさん)のわざわざの知らせで私は崩御を知り、卒論締切(10日)間近という緊張感がぷつんと切れてしまった。戦後生まれで格別天皇びいきでもない自分がそのような感情に襲われるということは、経験するまで分からないことだった。あれは、戦後という1つの時代が終わったという虚脱感のようなものだったのだろう。

卒論を提出した翌日、友人と大学の門前のファミリーレストランで卒業旅行の打ち合わせをすることにしていた。しかし、そこも他の店も軒並み臨時休業していて、結局、大学で打ち合わせした。崩御の日から多くの飲食店が休業していたのは本当だった。あの同調圧力の強さは、戦時中はかくやあらんという雰囲気だった。

平成天皇の退位によって、やっと昭和的なものが良くも悪くも終わるのだろう。私は明治~大正~昭和と生きた祖父母のように三代を生きることになり、「昭和は遠くなりにけり」なんて感慨をそのうち漏らすのだろう。
1/5 初舞
1月5日初舞として、"Srimpi Sukarsih"を1人で復習。最初に習ったスリンピなので、一番好きで、自分の原点を確認できる。映像は私の指導でインドネシアで製作された"Srimpi Sukarsih"。公開は2014年だが、収録は2011年。リンク欄の「映像(宮廷舞踊)」にもあります。

https://www.youtube.com/watch?v=jks1ZAZkysY
新年
初春のお慶びを申し上げます
本年もよろしくお願い申し上げます

2019(平成31)年己亥元旦

IMG_1553 ブログ2018年正月

昨年の活動
05/13 「大阪能楽大連吟」(四天王寺)に出演
06/09 バティック展/けんちくの種(箕面市)にて
     ジャワの伝統衣装の着付とお話
09/02 「インドネシア・日本まつり」(大阪市)にて踊る
     Gambyong Pangkur
09/22 『ハノマンの紅の旅』公演(箕面市)にて踊る
     Gambyong Pangkur
10/13 第10回「観月の夕べ」/岸城神社 公演主催 
     以下3曲を踊る。Srimpi Anglirmendhung前半、
     自由舞:地歌三絃:「由縁の月」 by 津塚美葉 
     自由舞:ジャワの詩の朗誦(モチョパット)
12/02 インドネシアフェスタ in Naraにて踊る
     Golek Manis
12/18 大阪樟蔭女子大学 「芸術と鑑賞」レクチャー
     以下3曲を実演。Bedhaya Pangkur,
     Retna Pamudya, Gambyong Pangkur