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ジャワの立膝
現在放映中の大河ドラマ『麒麟がくる』は、明智光秀を主人公に室町時代の終わりから戦国時代への移行を描くドラマである。本作では当時行われていた立膝が所作に取り入れられているのが、従来の大河ドラマと違うとところである。実は、現在の正座は江戸時代以降のもので、当時の貴人の女性は立膝で座っており、そのために、着物の小袖も身幅が広く作られている。ただ、残念なことに、本作でも着物のデザインは江戸風であり、身幅が狭くて、女優は座りにくそうにしている。時代劇と言えばほぼ江戸時代が舞台だから、おそらく今後の使いまわしのことを考えて、戦国時代もののドラマであっても着物は江戸時代のデザインにしてきたのだろうと思う。

ということをツラツラ考えていて思い出したのだが、過去にジャワの立膝についてエッセイを書いているので、ご笑覧あれ…。高橋悠治氏のサイト「水牛」の2016年8月号に寄稿した「ジャワの立ち居振る舞い」である。サイトのアーカイブで読んでもらっても良いのだが、このブログにも記事をアップしていて、写真も添えているので、その方が理解しやすいと思います。
 ↓
記事「水牛2016.8 ジャワの立ち居振る舞い

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2020.03水牛「ジャワ舞踊作品のバージョン(7)ガンビョン」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年3月」(水牛のように)コーナーに、
ジャワ舞踊作品のバージョン(7)ガンビョン」を寄稿しました。

※ ちなみに私の過去記事は以下から読めます。
『水牛』冨岡三智アーカイブ 
『水牛』冨岡三智アーカイブ 未収録記事一覧 



ガンビョンについては、2003年1月号の『水牛』に寄稿した「ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(2)民間舞踊」の中で書いている。ここまで古い号はバックナンバーでもカバーされていない。ちなみに、これが『水牛』への寄稿3作目だった。その次は2014年11月号に「ジャワ舞踊の衣装 ガンビョン」を寄稿していて、これはバックナンバーにある。意外にも、それ以外は書いていない…ということで、今月はガンビョンについて書こう。

まず、私の手許に残る幻(?)の2003年の『水牛』寄稿記事からの引用…。

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ガンビョンはチブロン太鼓の奏法とともにスラカルタで発展した、現在ではスラカルタを代表する舞踊ジャンルである。その太鼓奏法も現在ジャワ・ガムランにおける演奏会スタイルの標準になっている。ガンビョンは楽曲優先の舞踊で、太鼓が繰り出す手組み(スカラン)を聞いて、踊り手がそれに合った振りを踊る。ガンビョンでは最初4つと最後のスカランが決まっている他、終わり方にも定型がある。他は順不同とは言え、歩きながら踊るスカランと止まって踊るスカランを交互に演奏しなければならない。これらの制約の中で太鼓奏者は数多くのスカランから自由に選んだり、また即興的に作ったりして演奏した。

ガンビョンは女性の単独舞であるが、実は1960年代後半まではガンビョンは一般子女が嗜むにはふさわしくない舞踊だった。ガンビョンを踊るのは、レデッ又はタレデッと呼ばれる流しの女性芸人か、または商業ワヤン・オラン(舞踊劇)劇場の踊り手に限られていた。その芸風は歌いながら踊るというもので、しかも性的合一に至るコンセプトを描いた扇情的な振りが多かった。

それは農村の豊穣祈願の踊りに発するからだという。(日本でも農耕儀礼ではしばしば性的な行為が模倣される。)だがそれゆえ多産を願うものとして、昔からしばしば結婚式ではプロの踊り手を呼んでガンビョンを踊ってもらったという。現在でも結婚式や各種セレモニーでガンビョンが踊られることが多いのは、根底に儀礼的な性格をまだ残しているからだろう。

さて、開放的な気風のマンクヌガラン宮ではガンビョンを取り入れ、接待用の娯楽舞踊として洗練させた。そして宮廷舞踊の要素を付加し、即興的な要素を排して歌いながら踊るのも止め、レデッのイメージを払拭した演目「ガンビョン・パレアノム」を作り上げる。それでも当初は親族が踊るのはタブーだったが、60年代後半には親族も踊るようになった。パレアノムはスラカルタの舞踊家達に知られて広まり、また芸術機関でもガンビョンをスラカルタを代表する舞踊として取り上げるようになって、ガンビョンは一般に定着した。

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ガンビョンは楽曲がラドラン形式かグンディン形式かによって太鼓(ひいては振付)のパターンの組み方が違う。どの曲を使っても良いのだが、ラドラン形式なら「パンクル」、グンディン形式なら「ガンビルサウィット」という曲を使うのが定番で、カセットも市販されている。いずれもガムランを嗜む人なら誰もが知っている曲である。上で述べた「ガンビョン・パレアノム」もメインで使う曲は「ガンビルサウィット」だが、通常のグンディン形式のガンビョンではやらないケバルという演出(速いテンポで踊る)を追加しており、別物になっている。

「ガンビョン・パレアノム」がマンクヌガラン王家で最初に作られたのは1950年、初演されたのは1951年の王家当主(マンクヌゴロVIII世)の妹の結婚式であった。なお、「パレアノム」(若いニガウリの意)はマンクヌガラン王家の旗印のことで、同王家を代表する曲として作られたことを端的に表している。このオリジナル版は宮廷舞踊のように構成されており、長さも45分あった。1973年に(次で述べるガリマン版が作られた翌年に)15分の短縮版が王家で作られた。

王家の外で初めて「パレアノム」をアレンジしたのはガリマンで、1972年のことである。カセットも市販されている。ガリマンは誰かの結婚式でマンクヌガラン王家の「パレアノム」を見て(おそらくマンクヌゴロ家縁者の結婚式だったのだろう)、生き生きとしてダイナミックな展開に魅了され、自分でもアレンジしてみたのだという。ガリマン版の特徴は10分と短いこと、そして決まっている最初の4つの太鼓の手組(スカラン)のうち1つしかやっておらず、さらに他の手組もあまり知られていないものや自分で創作したものを入れていることである。このガリマン版は当初は批判されたらしい。しかし、音楽家でもあるガリマンは、民間のレデッが必ずしも順番通りにスカランを演奏するわけではないことを知っており、かつ規則通りに踊るとガンビョンはどれも同じような舞踊になってしまうため、あえて変化をつけたようだ。

ガリマン版が出た翌年頃、私の師:ジョコ女史も義弟の結婚式で上演するために「パレアノム」をアレンジした。ガリマン版を土台にしながら、最初の部分は規則通りにスカランを並べている。端的に言えば、ガリマン版(主要部であるインガーの長さが2周期)の前に1周期足して3周期にしている。ジョコ女史はなるべくたくさんのスカランを教えられるようにアレンジしたので、18分余りもあって結構長く感じる。このジョコ女史版は、芸術大学のカセット・シリーズの中に入っている(ただし入退場の曲は、ジョコ女史とは異なっている)。

ジョコ女史は自分がアレンジした「パレアノム」をある舞踊団体で教えていたが、芸術大学(当時はASKIと言った)教員がそれを習い覚え、ジョコ女史版(3周期)の3周期目をカットして、入退場の曲を変えてPKJT-ASKI版にアレンジした(PKJTは当時芸大の学長が兼任していた芸術プロジェクトの名前)。これが1979年のことで、カセットも市販されている。ただ、これはあくまでも結婚式上演用のアレンジで、私が芸大で授業を履修していた時に「ガンビョン・パレアノム」として習ったのは、長い方のジョコ女史版であった。

実はこれ以外に、ガリマンと並ぶ2大巨匠のマリディも「ガンビョン・パレアノム」をアレンジしていて、カセットも出ている。が、基本はジョコ女史版と同じで、入退場曲をさらに変え、スカランを1つ差し替えているくらいである。マリディは、同世代のガリマンやジョコ女史がアレンジしているのを見て、自分もやらねばと思ったらしい。

こんな風に「ガンビョン・パレアノム」が大流行したのは、マンクヌガランで作られた演出の面白さが核にあっただけでなく、結婚式で上演する機会が多く、かつカセット化によって多くの人が習い踊ることができるようになったという点が大きい。
2/24大垣 IAMASで踊る
情報科学芸術大学院大学(IAMAS)第18期生修了研究発表会・プロジェクト研究発表会(2/21-24)のうち、「タイムベースドメディア・ガムランコンサート」において、ジャワ舞踊ガンビョン・パンクル(Sl.M)を踊りました。(1曲目演奏にも入りました。)

日時: 2月24日(月・休)12:30-13:30
場所: 岐阜県大垣市 ソフトピアジャパンセンタービル
     1F エントランスホール(信長像のある所)
演奏: マルガサリ
入場無料
演目: 
1) Gd. Turulare kt.2 kr. mg. 4 (soran) pl.
2) Ldr. Semar Mantu
3) IAMAS 校歌
4) Uler Kambang
5) 舞踊 Gambyong Pangkur sl. M

https://www.iamas.ac.jp/exhibit20/

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信長像と
2003年公演「ダルマニンシウィ」練習映像
== Indonesian follows Japanese. English follows Indonesian. ===

2003年に私も参加した公演「ダルマニンシウィ」のドレスリハーサル前の練習映像です。主催により許可が出ましたので、ここに公開します。スラカルタ宮廷舞踊家のクスモケソウォが振り付けた2作品をその直弟子が踊り、クスモケソウォの孫が3作目を振り付けています。最後に出演関係者でクスモケソウォの墓参をしています。

Latihan Dharmaning Siwi di Sono Seni (Retna Pamudya, Sri Pamoso, Dharmaning Siwi, dan jiarah)


この公演の詳細については以下のエッセイで書いていますが、このエッセイはサイト『水牛』のアーカイブには未収録で、本ブログに掲載しています。

『水牛』 2003年3月号 「ジャワでの舞踊公演(1)公演の背景」 
『水牛』 2003年4月号 「ジャワでの舞踊公演(2)」




Gladi kotor untuk Pagelaran Tari "Dharmaning Siwi" (Darma Bakti Seorang Anak kepada Leluhurnya)
Ujian Penciptaan Tari Pascasarjana ISI Surakarta
oleh Djoko Tutuko

* Rekaman gambar oleh Michi Tomioka ini terbuka untuk umum atas izin dari Djoko Tutuko.

30 Januari 2003 latihan di tempat pentas (pendopo Sono Seni), Surakarta
31 Januari 2003 jiarah ke makam RT Koesoemokesowo (1909-1972)

1. "Rentna Pamudya" (versi asli)
pencipta tari: RT Koesoemokesowo
penari: Retna Maruti (murid RT Koesoemokesowo)

2. "Sri Pamoso" (penggalian)
pencipta tari: RT Koesoemokesowo
penari: Sulistyo Tirtokusumo (murid RT Koesoemokesowo)

3. "Dharmaning Siwi"
pencipta tari: Djoko Tutuko
pencipta musik: Suwito
penari: Michi Tomioka, Saryuni Padminingsih, Hadawiyah Endah Utami, Sri Styoasih, Susiwi Hadinoto, Aru Jybtarti, Ali Marsudi, Hartanto



Rehearsal of "Dharmaning Siwi" (Dedication from the grandson to his grandfather/ Surakarta Court dancer:RT Koesoemokesowo and his mother/dance master: Sri Sutjiati Djoko Soehardjo),
the graduation performance of the Graduated school of Indonesian Institute of the Arts Surakarta
presented by Djoko Tutuko

* This image recording by Michi Tomioka was open to the public with the permission of Djoko Tutuko.

30 January 2003 stage rehersal(pendopo Sono Seni), Surakarta, Indonesia
31 January 2003 visiting the grave of RT Koesoemokesowo (1909-1972)

1. "Rentna Pamudya" (the original version)
Choreography: RT Koesoemokesowo
Dancer: Retna Maruti (pupil of RT Koesoemokesowo)

2. "Sri Pamoso" (reconstruction)
Choreography: RT Koesoemokesowo
Dancer: Sulistyo Tirtokusumo (pupil of RT Koesoemokesowo)

3. "Dharmaning Siwi"
Choreography: Djoko Tutuko
Music Composer: Suwito
Dancers: Michi Tomioka, Saryuni Padminingsih, Hadawiyah Endah Utami, Sri Styoasih, Susiwi Hadinoto, Aru Jybtarti, Ali Marsudi, Hartant (pupils of Sri Sutjiati Djoko Soehardjo)

ジャカルタでのスリンピ公演映像
2007年にジャカルタ公演した時の映像です。公演後にすぐビデオでいただいたものの、windowsではずっと再生できず、最近やっと見ることができました。

Srimpi Gondokusumo (long version) in Jakarta



ジャワ、スラカルタ宮廷舞踊 (完全版)
日程: 2007年8月26日
会場: タマン・イスマイル・マルズキ
    ~ジャカルタ芸術大学構内 
    Teater Luwes劇場
舞踊: Michi Tomioka,
    Sri Setyoasih,
    Saryuni Padminingsih,
    Hadawiyah Endah Utami
主催: Michi Tomioka
2020.02水牛「訃報続き」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年2月」(水牛のように)コーナーに、
訃報続き」を寄稿しました。

※ ちなみに私の過去記事は以下から読めます。
『水牛』冨岡三智アーカイブ 
『水牛』冨岡三智アーカイブ 未収録記事一覧 



訃報続き

ここのところ、お世話になった方々が連続して亡くなった。追悼の意を込めて少し思い出について書いてみる。

昨年末の12月29日にはスプラプト・スルヨダルモ氏(74歳)が亡くなった。在野で国内外の舞踊家に大きな影響を与えた舞踊家で、私も尊敬する舞踊家の口からプラプト氏のことについて聞く機会が何度もあり、氏の影響力をつくづく感じたものだ。氏は聖なる場や自然と一体化し、内的なものから生まれる動きに従って踊る人だった。実はサルドノ・クスモ氏と同年(1945年)、同地域(スラカルタ市クムラヤン地域、宮廷芸術家が多く住んだ地域)の生まれである。この2人がジャワの現代舞踊の2大潮流をつくり出したと言って良い。氏は海外で指導することも多く、1986年にスラカルタに開いたスタジオ「ルマ・プティ」では国内外から学びに来る舞踊家を受け入れ、舞踊イベントなども開いていた。私も何度かそこでのイベントに参加したこともある。それ以外に、毎年大晦日から新年にかけてはヒンズー教のスクー遺跡でスラウン・スニ・チャンディ」(遺跡での芸術の集い、の意)というイベントを開催されていた。私も2011年大晦日に声をかけていただき出演したが、観光文化省の信仰局長やスラカルタ王家のムルティア王女を来賓に迎えるほどの規模の大きなイベントだった。

今年に入り、1月18日には留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のサルユニ・パドミニンセ女史(61歳)が亡くなった。私が芸大に留学した時に1年生の基礎の授業を受け持っていたのがサルユニ女史だった。私にとっては芸大授業で初めて習った女性の先生である。2度目に留学した2000年、ちょうど芸大に開設された大学院に入学したサルユニ女史は、私がジョコ・スハルジョ女史から受けていた宮廷舞踊のレッスンに、もう1人の教員と一緒に参加してくれた。そして2000~2003年の3年間はずっと一緒にジョコ女史の元で宮廷舞踊を練習し、2002年にはジョコ女史も入れて4人で芸大大学院の催しで『スリンピ・ラグドゥンプル」完全版を踊った。その翌年にはジョコ女史の息子が振り付けた公演でも一緒に踊り、2006年と2007年に私がスリンピとブドヨのプロジェクトをして3公演を制作した時にもすべて出演してもらった。芸大の授業では先生は見本を見せてくれるとは言え、最初から最後までついて踊ることはしない。しかし、長い宮廷舞踊をずっと一緒に踊る時間を共にできたことは、今から思えば非常に贅沢な時間で、言葉にならない影響をいろいろ受けたように思う。

1月22日にはバンバン・スルヨノ氏(芸名:バンバン・ブスール氏、60歳)が、翌1月23日には岩見神楽岡崎社中の元代表の三賀森康男氏が亡くなった。2人は、私は友人たちが2008年に企画したジャワ舞踊と岩見神楽の共同制作に参加して島根で『オロチ・ナーガ』を一緒に作り上げてくださった方々である。バンバン氏はマンクヌガラン王家の舞踊家として活躍するだけでなく、2000年に大学院が開設されて以降はサルドノ氏の助手として指導にあたり、呼吸や声についての独自のメソッドを持っていた。島根で公演した時には舞踊のワークショップもしてもらったのだが、バンバン氏の呼吸法や声にものすごく私の身体が感化されて、あくびが止まらなかったことを覚えている。三賀森氏は社中の中で最も年長ながら、最も柔軟な姿勢で受け入れてくれた。伝統を極めた人はこんなにも自在なのだと感じた。お互いに長い歴史を持つ岩見神楽とジャワ舞踊の間をつなぐすという経験をして、私は、遠く離れた場所でそれぞれ井戸を深く深く掘り下げていけば、いつかは同じ地下水脈に行き当たるのだな…と感じたことだった。
"Water Stone"(2008年の作品)映像公開
現代舞踊家の藤原理恵子さんと私のジャワ舞踊のコラボレーション作品のビデオをyoutubeで公開しました。2008年にインドネシアのフェスティバル(見本市となっていますが)で上演したものです。当時はまだビデオ映像をyoutubeにアップするような時代でもなく、今までひっそり埋蔵されていました。なお、このブログの記事分類「ジャワ舞踊出演」をクリックし、次に「 '08 リアウ現代舞踊見本市VI 」をクリックしていただくと、当時の公演に関する一連のブログ記事が読めます。

ビデオリンク➡ https://www.youtube.com/watch?v=XUq0Ik682z4



作品名: "Water Stone"
第6回リアウ現代舞踊見本市 にて初演
上演日: 2008年8月7日
会場: Anjung Seni Idrus Tintin-Bandar Seni Raja Ali Haji
    (インドネシア・リアウ州プカンバル市)
コンセプト: 冨岡三智
舞踊: 冨岡三智&藤原理恵子
音楽: 七ツ矢博資
サムネイル写真: Pandhuagie


Title: "Water Stone"
World Premiere in the 6th Riau Contemporary Dance Mart (PASTAKOM VI)
date: 7 August 2008
venue: Anjung Seni Idrus Tintin-Bandar Seni Raja Ali Haji
(Pekanbaru, Riau, Indonesia)
Concept Making: Michi Tomioka
Dance: Michi Tomioka & Rieko Fujiwara
Music: Hiroshi Nanatsuya
Thumbnail Image: Pandhuagie


以下、写真はすべてPandhuagie撮影(ビデオのサムネイルも)。このすぐ下の写真、藤原さんと私がシャム双生児みたいになっている写真は、2008年8月9日、コンパス紙全国版の第一面に掲載されました。

コンパス写真

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2020.01水牛「ネズミのいる生活」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年1月」(水牛のように)コーナーに、
ねずみのいる生活」を寄稿しました。

※ ちなみに私の過去記事は以下から読めます。
『水牛』冨岡三智アーカイブ 
『水牛』冨岡三智アーカイブ 未収録記事一覧 



ネズミのいる生活

今年は子年というわけで、今月はネズミとの思い出をあれこれ語ってみよう。

●留学前の日本での話~
ある夜、風呂上がりのあと台所で本を読んでいたら、オーブンの下からすぐ近くの棚の下に何かが走った気配がする。直接姿を見ていないが、これはネズミだなと直感。しばらくすると、もう少し距離が離れたコーナーの物陰に走る影。またしばらくすると、今度は素早く移動せず、様子を伺いながら出てくる。果たしてネズミだ。物陰でない所にまで出て来たから、私の存在にはまだ気づいてなさそうである。このまま悟られなかったら私の勝ち…と勝負を挑む気になり、私は息をひそめ、視線は床に落とさず、気配を消した。…ネズミは物陰のない所を横断して、私のいる食卓の方に近づいて来た。が、まだ私に気づかない。…私は木になりきろうとする。…私の足元の近くまで来た。…私は緊張感を出さないように気をつける。…が、ここでネズミがいきなり私の足の甲に上ってきた!しばらく我慢したものの、ついに足が浮いてしまった。当然、ネズミの方も驚いてオーブンの下に一直線に逃げ込んでしまった!(実は食卓はオーブンの近く)ネズミにとっては、私の足は小山にしか見えなかったのかもしれないが、いくら何でも足に上った時点で気づきそうなものだ。私の気配の消し方がうまかったというより、あのネズミの方が鈍感だったように思えてならない。

●ジャワの話
最初の留学時に住んだ家には、二階の物干し場に上がる階段の中にネズミが住んでいた。何匹かいたかもしれないが、私が目にする時はいつも1匹だけだった。この家ではその階段がある家事部屋が一番奥で、次に水浴場と水屋があり、次に寝室があり、一番手前が客間になっていた。入居当初はネズミも警戒心が強くて家事部屋でもなかなか目にすることもなかったのに、いつの間にか水浴場に、さらに寝室に進出してくるようになった。とはいえ、私が気づくと猛ダッシュで階段の方に駆け戻る。私は家にいるときは客間で舞踊の練習をしていることが多かったが、そのうち寝室との境(ドアはついてない)の所にまで来る気配がするようになった。その頃には、私がネズミを目撃しても昔ほど速攻でダッシュせずに一呼吸おいて逃げ出したり、ダッシュしても途中で一瞬立ち止まってこちらを振り返ったりするようになっていた。

そんなある日、私は男踊りの練習に疲れて床に腰を下ろしていた。腰の両脇に垂らしたサンプールという布はつけたまま、無造作に後ろに払っていた。壁にもたれてお茶を飲みながらぼーっとすることしばし…、さて練習を再開しようとサンプールを見ると、なんとサンプールの上にネズミが後ろ座りに座っている!目と目が合い、お互いにフリーズしてしまった。とは言え、ネズミの方が一瞬早く我に戻り、ダッシュで逃げ出す。普段はネズミの気配が分かるのに、しかも私が身に着けている布の上に座られているのに、全然気づかなかったのが不思議だ。それにしても、なぜサンプールの上に座ろうと思ったのだろう…。

このネズミは一度水浴び場の水溜めに落ちたことがある。夜中に私が机に向かっていると、水浴び場から急にパーンと物が飛ぶ音が聞こえた。さてはポルスターガイストか!?と気味が悪くなりつつ水浴び場に行くと、水溜めからパシャパシャ水音がする。見ればネズミが足掻いていて、私の顔を見るやキーキーと声を出して必死に鳴く。横に水浴び用のプラスチックの手桶が転がっている。さては、ネズミがこの手桶に飛び乗ったところ、手桶がひっくり返ってネズミが水溜にはまり、その反動で手桶は宙に舞って床に音を立てて落ちたのだろう…。トム&ジェリーみたいな状況だが、それしか考えられない。それはともかく、手桶を横にして水面に平行にネズミの方に近づけて掬い上げ、床に放してやると、いつもほどに機敏でないが階段の方に戻っていった。

この家のネズミには他にもいろいろと思い出があるのだが、どうも私を警戒しつつも存在には気づいてほしくて距離を縮めてきたような気配があった。家ネズミは2年以上生きることもあるそうだから、同一のネズミだったのではないかなと思っている。日本の我が家にいたネズミもそうだが、はしこい割には間抜けなところがあって、そこが愛嬌のあるところかもしれない。
訃報: Bambang Besur氏と三賀森康男氏
2008年に「島根・インドネシア 現代に生きる伝統芸能の交流」プロジェクトを企画実施し、ジャワ舞踊と岩見神楽のコラボレーション『オロチ・ナーガ』(2008年9月)を公演しましたが、それに出演してくださったジャワの舞踊家バンバン・ブスール Bambang Besur(本名:Bambang Suryono)氏が2020年1月22日に亡くなりました。そして、その翌日の1月23日には、岩見神楽の岡崎神楽社中代表(当時)三賀森康男氏もまた亡くなられました。あまりの偶然に呆然としておりますが、ここに謹んで哀悼の意を表し、当時の記録類をここにアップしておきます。

●写真
blog プレスリリース
このプロジェクトのプロモーション用に撮った写真。バンバン・ブスール氏と。

島根・インドネシア~ 061
じいさん、ばあさんの役が三賀森氏、座っている人物の奥側の方(と思う)

島根・インドネシア~ 011
公演終了後に皆で記念撮影。中央の額縁を持っておられるのが三賀森氏。

●『オロチ・ナーガ』映像
(1/3) OROCHI NAGA - introduction -
  公演前の案内
(2/3) OROCHI NAGA performance
  公演
(3/3) OROCHI NAGA - gratitude -
  公演後の挨拶   

●ブログ過去記事
記事分類=ジャワ舞踊公演
➡ '08 岩見神楽+ジャワ舞踊 

●サイト『水牛』に寄稿した記事
ヤマタノオロチと立ち合う」、『水牛』2008年7月号
6月、コラボレーションに向けて岡崎神楽社中さんと打ち合わせや練習をしてきた時のこと。

石見神楽とジャワ舞踊によるオロチ・ナーガ」」、『水牛』2008年10月号
公演前の練習から公演の時のこと



概要
石見神楽とジャワ舞踊の共同制作作品『オロチ・ナーガ』
公演日: 2008年9月7日
会場名: 島根県浜田市三隅町 湊八幡宮
出演者: 岡崎神楽社中、Fajar Satriadi、Bambang Suryono
      冨岡三智
事業名: 島根・インドネシア現代に生きる伝統芸能の交流
主催: 三保三隅百姓会・パサール満月海岸、
     島根・インドネシア 現代に生きる伝統芸能の交流実行委員会
助成: しまね文化ファンド、インドネシア観光文化省、
     Pia Alisjahbana
後 援: 在大阪インドネシア共和国総領事館
訃報: Ibu Saryuni Padminingsih
2020年1月18日、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校(ISI Surakarta)教員のSaryuni Padminingsih氏が亡くなりました。私が男性舞踊&振付で師事するSilvester Pamardi氏の奥様で、私がスリンピやブドヨをジョコ女史に習っていた時、一番先に参加してくださり、スリンピやブドヨの公演では踊り手として、それ以外にも何かと助けてくださった先生でした。哀悼の意を示し、一緒に公演した写真や映像などを挙げます。

(1)2003年2月1日 「ダルマニン・シウィ」公演(振付 Djoko Tutuko)

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手前左がIbu Saryuni

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中央正面向きがIbu Saryuni

(2)2006年11月26日 宮廷舞踊「スリンピ・ゴンドクスモ」公演



20070304184256.jpg
手前右がIbu Saryuni

(3)2007年6月28日 宮廷舞踊「ブドヨ・パンクル」公演


Michi Tomioka from Kantor Pos on Vimeo.



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右奥がIbu Saryuni


(1) 写真撮影 Hari Sinthu
(2)、(3) 写真撮影Heru Santoso