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3/3 ジャワ舞踊と和籟弦打と美の宴@都城
早春を舞う ジャワ舞踊と和籟弦打と美の宴
ジャワ舞踊、笛、太鼓、アートによるライブパフォーマンス


日時: 2019年3月3日(日)13:00~14:20 (開場:12:30)
会場: レインボーハウス 
     宮崎県都城市夏尾町6223

13:00~13:15 ジャワ宮廷舞踊 "Srimpi Anglirmendhung"前半
13:15~13:40 休憩・歓談
13:40~14:20 ライブパフォーマンス

■コラボレーション:
冨岡三智: ジャワ舞踊
井上大輔: 笛(能管、長菅尺八、篠笛)、桶太鼓、薩摩琵琶
        音楽家、劇壇井上天幕主宰
        https://gekidaninouetento.wixsite.com/inouetentozero
水口麿紀: アート
        アート工房ミルトス主宰
        http://mirutos.info/

■主催: レインボープロジェクト

20190303都城

昨年同様、今年も別府にインドネシア語研修の仕事で来ていますが、その別府から足を延ばして宮崎に初上陸、ジャワ舞踊を舞ってきました。土曜午前中の仕事を終えて12:30 職場発―別府駅―【バス・パシフィックライナー号】―宮崎駅―【JR日豊本線】―西都城駅―【迎えの車】―ミルトス工房着20:20頃と、約8時間の旅!九州は広い…。この日も翌日も雨。

このプロジェクトを企画してくれた水口さんとは、実は1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに知り合っています。被災した水口さんが私の地元に疎開して来られ、何度かアトリエにお邪魔しました。当時、鉄や木などを使ったオブジェを製作されていた水口さんは2000年(私は留学中)に高千穂へ転居。その後も年賀状でやり取りはありましたが、九州に行かれた水口さんは明るい光に満ち溢れた絵画作品を描くようになり、その変化に私は目を見張り、何があったのだろう…とずっと気になっていました。九州に行く機会も全然なかったところ、思いがけず別府での仕事が入ったので連絡を取ると、このようなライブを企画してくれました。相変わらずパワフルで軽やかな生き方にエネルギーをいただいて戻ってきました。また、今回水口さんが共演にと紹介してくれたのが井上大輔さん。繊細な声や物腰なのに、出てきた音は背骨にびくっとくる。ぶっつけで相手の出方を見ながらのライブは、とても刺激的でした。

●"Srimpi Anglirmendhung"前半
●都城IMG_4440 - blog

●都城IMG_4445 - blog


●ライブパフォーマンス
●都城IMG_4460 - blog

●都城IMG_4462 - blog

●スタッフや参加者の方と
●都城IMG_4472 - blog
手前右から: 水口磨紀、私、井上大輔
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2019.03水牛「インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年3月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」を寄稿しました。

実はタイトル詐欺の文章で(笑)、下見だけして住まなかった家の持ち主にまつわる思い出。


インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域

前回はインドネシアに最初に留学した時に住んだ家のことについて書いたが、その時に下見したものの結局入居しなかった家(の持ち主)の思い出について今回は書いてみよう。

住む家の契約を終え、引っ越し目前という時になって、宿の従業員が新たな情報を聞き込んできた。宿の斜め向かいの家で借り手を探しているというのだ。実は、そこに家があることを私は全然知らなかった。表通りから一本入った宿の辺りの家々には高い塀が巡らされていて、塀の奥にどんな建物が立っているのか全然見えなかったのだ。今さら仕切り直しをする気はなかったが、後学のために家だけ見ておきたいという気になり、物件を見せてもらった。持ち主はアラブ系の顔だちと服装をしていた。塀の中には広い庭があり、一人で住むには手入れが大変そうだった。私が礼を言って断ると、持ち主は「お構いなく、すべてはアラーの思し召しのままに…」という意味の言葉を返した。まだイスラムのこともほとんど知らなかったこの頃、イスラムの人はそういう風に発想するのか…と新鮮に感じたことを覚えている。

この持ち主自身はパサール・クリウォン地区に住んでいるとのことだった。実は、その地区には織物を商うアラブ系インドネシア人が歴史的に多く住んでいる。伝統文化のセンターである王宮の塀のすぐ外側(東側)の所だが、金曜礼拝の前後にこの辺りを通りかかると、全身を黒づくめの衣装で覆った女性が集まってくることに驚く。ゆるやかなイスラム教徒が多いジャワ人芸術家たちとだけ付き合っていると、こういうイスラム世界は見えてこない。ちなみに、2016年にジャカルタのスターバックス前でテロを起こした首謀者もこの地区の出身だ。この後私が住むカンプンバル地区(王宮の北側)の目と鼻の先である。実は、そのテロ事件が起こる前は、wikipediaのパサール・クリウォンの項目にはアラブ系の人がそこに集住した経緯が詳しく書かれていた。テロ関係のことを調べている友人にもそのことを教えてあげたのだが、事件後数日で記事のほとんどが削除されてしまった。何かまずいことでも書かれていたのかもしれない。というわけで、王宮の東側というとこの家の持ち主のことが思い出される。
2019.02水牛 「インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年2月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」を寄稿しました。

まだ携帯電話も普及していない、不動産屋もないインドネシアの古都ソロ(正式にはスラカルタ)での家探しについて。今にしてとても残念なのは、この当時のご近所さんと撮った写真が1枚もないこと。



インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し

昨年の11月号、12月号で留学していた芸大のキャンパスについて書いたので、今回は私が住んでいた地域の話。

留学してどこに住むのかは大きな問題だ。留学先の芸大(スラカルタ市/通称ソロ市にある)には寄宿舎はないので、遠方出身のインドネシア人学生はだいたい大学周辺にある下宿に住む。しかし、インドネシアではプライバシーがあまりないので、私には下宿で住むのは到底無理そうに思え、一軒家を探すことにした。大学での授業以外に、スラカルタ王宮やマンクヌガラン王宮にも通うから、これらの場所に近くて、大学にはバスや自転車で通える範囲がいい。また、日本では駅や銀行や中央郵便局が近くにある所に住んでいて便利だから、インドネシアでも似たような環境がいい…ということで、クプラボンかカンプンバル辺りで家探しをすることにした。クプラボンはマンクヌガラン王宮とその東側の地域だ。カンプンバルはその東側の地域で、市役所、中央郵便局にバンク・ヌガラ・インドネシア銀行があり、スラマット・リヤディ通りを挟んで南側にはスラカルタ王宮がある。また、幾つかの系統のバスは中央郵便局を経由していて、交通の便も良い。

1996年当時のスラカルタに不動産屋はなかったので(今はあるだろうか?)、聞き込みをして探すしかない。知り合いに聞く以外に、何軒かの個人経営規模のホテルに飛び込んで、オーナーに一軒家を持ってませんか?と尋ねてみた。そういう人なら、他にも不動産を持っているのではないかと思ったのだ。実際に家を紹介してくれた所もあったが、立地条件が合わなかった。そうこうしているうちに、あるホテルの人から人を紹介された。いくつも不動産物件を知っていて、紹介してくれるという。その人を信用しても良いものかどうか不安だったが、とにかく用心して物件を紹介してもらうことにした。一応エリアは決めていたが、せっかくの機会でもあるので、もう少しエリアを広げ、提案してくれた20軒余りを見て回った。

紹介してくれる家はどれも寝室が3~4室もあるような大きな家で、その後の状況を見ると会社が借りているケースが多かった。しかし、ついにカンプンバルの街中で小さくて手頃な家に行き当たる。その家の管理を任されている人はその隣のRT(町内会)の会長も務めており、信頼できる人だった。この人に当たったことが幸いで、抜け目のない仲介者にも高すぎない礼金を支払って別れることができた。もっとも、今から思えばあの仲介者の持っていた情報はどれも良質で、だからこそあの管理人とも巡り合えたのだなと思う。

私が契約した家は市役所の裏門を出てすぐの所にあった。現在は裏門から出入りできるのでその辺りは賑やかになっているが、当時は門は締め切られていた。私の家探しの条件は、電気も水道もあり、固定電話もついていること。電気はともかく、町中でも水道のない家はあった。そして、固定電話のある貸家は町中でも少なかった。さらにこの家の台所には流し台があり(伝統的な作りで流し台がない家もわりとある)、家の外にも洗濯用の蛇口があり、いずれも水が勢いよく出た(水がちろちろとしか出ない家もある)。電気は蛍光灯で明るい。おまけに屋上には物干し場があり、家の内側から出られるようになっている…など、私には理想的な家だった。さらに契約後に判明した良い点は、街中の家なので水道水の質が良く、ゴミ回収も毎日あり(毎月、ゴミ回収代を町内会に支払っていた)、カマル・マンディ(水浴場)の排水溝が大きく、水が良く流れたこと。

この家に入居するに当たり、私の方から依頼して入居契約書を作成した。管理人が用意した文面には、家に誰かを泊める場合は町内会長に報告すべしとあって驚いたのだが、これはインドネシア人が入居する場合でも同じだったようだ。当時はまだスハルト独裁政権時代で、現実には友達を泊めても問題はなかったが、建前上はこの文言が必要だったということだろう。近所づきあいに関しては、留学しに来ているのだから町内会の諸々の付き合いはしなくても良いと、管理人とRT会長が言ってくれた。これは具体的には冠婚葬祭の時に人手を出したり、近所の男性たちが交代でやっている夜警の当番をしたりしなくてもよいという意味だったと思う。実際、町内でお葬式があった時、私は参列して香典を出したけれど、手伝いは要請されなかった。そうそう、この近所づきあいをあまりしなくてよい、他人に過干渉しないというのも町中に住むメリットだ。ちょっとしたものをお裾分けして立ち話する程度の付き合いは私もなるべくするようにしていたけれど、程よい距離感があった。

さて、この家のオーナーは当時50くらいの女性だった。彼女はビジネスオーナーで仕事人間でやってきたが、その年になって結婚したい人が現れ、結婚してメダン(スマトラ島)に移るので、その自宅を貸そうとしていたのだった。この家の使い勝手の良さは、オーナーも女性で1人暮らしをしていたからかもしれない。この家の右隣りにはおばあさんが住んでいた。品の良いカトリック教徒で、家にはオルガンがあり、復活祭が近づくと人々が集まってよく讃美歌を歌っていた。また、私の家の前には中華系のおばさんとスンダ人の旦那の年配夫婦が住んでいた。私が2000年になって再留学した時にはこの右隣の家のおばあさんも中華系のおばさんも亡くなっており、また私が住んでいた時にお葬式を出した家は大手企業に買われ改築されて、すっかり様変わりしてしまった。
2019.01水牛 「平成の最後、昭和の最後」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年1月」(水牛のように)コーナーに、
平成の最後、昭和の最後」を寄稿しました。


平成の最後、昭和の最後

平成天皇が万感を込めた誕生日の会見のお言葉を述べて1週間後、平成最後の正月が穏やかに明けた。昭和最後のお正月はこんなものではなかったな…と不意に思い出す。

ご病気の昭和天皇を憚って様々な行事が取りやめとなり、私的イベントまでが不謹慎だと自粛された。その年、私は大学4年生だった。卒論を仕上げるため、帰省せずに1人で下宿に残っていた。1月7日、大家さん(1人暮らしのおばあさん)のわざわざの知らせで私は崩御を知り、卒論締切(10日)間近という緊張感がぷつんと切れてしまった。戦後生まれで格別天皇びいきでもない自分がそのような感情に襲われるということは、経験するまで分からないことだった。あれは、戦後という1つの時代が終わったという虚脱感のようなものだったのだろう。

卒論を提出した翌日、友人と大学の門前のファミリーレストランで卒業旅行の打ち合わせをすることにしていた。しかし、そこも他の店も軒並み臨時休業していて、結局、大学で打ち合わせした。崩御の日から多くの飲食店が休業していたのは本当だった。あの同調圧力の強さは、戦時中はかくやあらんという雰囲気だった。

平成天皇の退位によって、やっと昭和的なものが良くも悪くも終わるのだろう。私は明治~大正~昭和と生きた祖父母のように三代を生きることになり、「昭和は遠くなりにけり」なんて感慨をそのうち漏らすのだろう。
1/5 初舞
1月5日初舞として、"Srimpi Sukarsih"を1人で復習。最初に習ったスリンピなので、一番好きで、自分の原点を確認できる。映像は私の指導でインドネシアで製作された"Srimpi Sukarsih"。公開は2014年だが、収録は2011年。リンク欄の「映像(宮廷舞踊)」にもあります。

https://www.youtube.com/watch?v=jks1ZAZkysY
新年
初春のお慶びを申し上げます
本年もよろしくお願い申し上げます

2019(平成31)年己亥元旦

IMG_1553 ブログ2018年正月

昨年の活動
05/13 「大阪能楽大連吟」(四天王寺)に出演
06/09 バティック展/けんちくの種(箕面市)にて
     ジャワの伝統衣装の着付とお話
09/02 「インドネシア・日本まつり」(大阪市)にて踊る
     Gambyong Pangkur
09/22 『ハノマンの紅の旅』公演(箕面市)にて踊る
     Gambyong Pangkur
10/13 第10回「観月の夕べ」/岸城神社 公演主催 
     以下3曲を踊る。Srimpi Anglirmendhung前半、
     自由舞:地歌三絃:「由縁の月」 by 津塚美葉 
     自由舞:ジャワの詩の朗誦(モチョパット)
12/02 インドネシアフェスタ in Naraにて踊る
     Golek Manis
12/18 大阪樟蔭女子大学 「芸術と鑑賞」レクチャー
     以下3曲を実演。Bedhaya Pangkur,
     Retna Pamudya, Gambyong Pangkur
2006.11水牛「動きを揃えること」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年11月号『水牛』寄稿
動きを揃えること

複数の人が一緒に踊るとき、たぶん私たちのほとんどは全員の動きが揃っている点をとても評価する。バレエやミュージカル、ラインダンスなどで、大勢の踊り手が一糸乱れずに踊っているさまを見るのは壮観だし、そこに美しさを感じる。けれど、揃っているのが美しいというのはある1つの価値観であって、絶対的なものではない。

バレエやミュージカルやラインダンスなどには、振付家という全体を統括する人がいる。画家が一点透視法を用いて画面に絵を描いていくように、振付家は、自分の目という一点を基準にして、大勢の踊り手を額縁舞台の中にデザインしてゆく。踊り手の動きは1つに揃えられ、個々の面貌が消されて、最後には1つの線として配置される。そうしたときに初めて別の美しさが見えてくる。それが全員が揃っている美しさ、なのだ。

そういう視線が1970年代にジャワ・スラカルタの伝統舞踊界にも持ち込まれた。アカデミー(ASKI、現在の国立芸大)の学長で、かつ中部ジャワ芸術発展プロジェクト(PKJT、1969~1981)の長も兼任していたゲンドン・フマルダニという人が、西洋芸術の概念を持ち込んで伝統舞踊改革を推し進めた。それは一言で言えば伝統舞踊の舞台芸術化で、その中でもPKJTの一番の特徴が、複数の人で踊る演目(特に女性舞踊)で全員の動きを一糸乱れぬように揃えたことなのだ。当時それは驚異的で新鮮で、一般の人たち、特に若い層の心をとらえたのだが、その一方で、舞踊関係者からはロボットみたいだという批判も受けていた。

この「揃っている動き」の発見は、当然ながら「群舞」という概念の発見と表裏一体の関係にある。フマルダニは1960~62年に欧米に留学してモダン・ダンスやバレエも学んでいる。そしてイギリスではバレエを見た感想を書き残しているのだが、そこには、空間におけるバレエの線のすばらしさと、ジャワ舞踊ではたとえ複数の人が一緒に踊っていても、それは単独で踊っている人が集まっているだけなのだ、という気づきが書かれている。この舞踊の線というのは明らかにコール・ド・バレエの人たちの軌跡を指していて、フマルダニ自身も群舞という概念を言い表すのにコール・ド・バレエという語をよく使っている。

しかし、フマルダニがコール・ド・バレエの概念をジャワ宮廷舞踊の演目(特に儀礼性の高い女性舞踊)にまで当てはめたのは間違いだった、と私は思う。確かに元来のジャワ宮廷舞踊には単独舞踊の演目はなく、複数(4人とか9人)で踊るものばかりだ。それに皆同じ衣装を着て、同じ振付を踊る。しかし、だからと言って、彼女らは群舞(コール・ド・バレエ)だと言えるのだろうか?たとえば、やはり宮廷の式学である舞楽も皆同じ衣装を着て同じ振付を踊るけれど(4人で踊るものなんかは、宮廷舞踊のスリンピととても似ている)、あれを私たちは誰も、コール・ド・バレエみたいなものだとは思わないだろう。ジャワ宮廷舞踊や舞楽の踊り手は、コール・ド・バレエのように、他の何か(主役)を引き立てるために背景化された存在ではない。舞台には彼らしかおらず、彼ら自身が「世界」、あるいは「宇宙」を代表している。舞楽の方は知らないけれど、ジャワの女性宮廷舞踊の踊り手には、各ポジションに「頭」、「首」、「胸」などという名前がついていて、つまりはそれぞれに意味がある存在なのだ。

一糸乱れぬ動きを、フマルダニは踊り手たちに毎日長時間の練習を課すことで、可能にした。全員の動きを経過点ごとに揃えて、手で布を払ったり、引きずっている裾を足で蹴り払うタイミングまで揃えていった。だから当時の踊り手=今の芸大の先生たち、とくに女性の先生たちは、全員の動きをいかに揃えられるかという点に練習の意義や達成度を見出す。女性舞踊にそれが顕著なのは女性舞踊の方が一緒に踊る人数が多いのと、それからやはり公演機会が多かったからだと思う。

私はかつて芸大の先生たちと一緒に公演したことがあって、来月もそのメンバーと一緒に公演することになっているのだが、この全員で揃えようという志向の強さには参ってしまう。今度の公演は私がスポンサーなので、とにかく、全員の動きは揃える必要がない、昔の宮廷舞踊のように個々の舞踊を踊ってください、と強く要望している。それでも先生たちは、「1人だけ動きが違ったら、間違えたと思われて嫌だ」と言う。他の人と揃わないということを、なんだかとても恐れるのだ。私としても、「むしろ古い上演の仕方として、あえて全員の動きを揃えてしまわないようにした」ということを、司会の方から言ってもらわないといけないなと思っている。

ジャワの音楽や舞踊にはウィレタンwiletanという語があって、個々の演奏家や踊り手の間で微妙に異なる個人様式のことを言う。過去の有名な踊り手は皆それぞれ独自のウィレタンを持っている。そういう単語があるということからも分かるように、各人でウィレタンが違うのはむしろ当たり前なのだが、先生たちのウィレタンに対する態度はこうだ。Aという公演ではaというウィレタンでいきましょう、とか、振付のこの部分はaというウィレタンだけど、あの部分ではbにしましょう、とかいう具合に、いろんなウィレタンをメニュー化しておいて、その中から1つ選んで揃えるのである。確かに芸大という所にはいろんな調査レポートがあるので、先生たちはいろんなウィレタンを知っている。私はウィレタンというのは踊り手の人格と一致した時におのずとにじみ出てくるもの、あるいは個々の踊り手がアイデンティティをかけて追求するものだと思うのだが、先生たちは、いろんなウィレタンをとっかえひっかえ使い分られることにプライドがあるみたいで、自分の個性にあったウィレタンを追求しようという姿勢があんまり見られない。(本当は、そういう意識がない、とまで言ってしまいたいぐらいだ。)そしてそれはたぶん、全体で揃えましょうという志向の高さと裏表の関係にある。

こういう具合だから、4人で踊るスリンピで、私と3人の芸大の先生が踊ると、当然私だけが揃っていないということになる。このことは以前の公演でも観客から指摘されてきたのだが、しかし上手下手は別として、私の舞踊の方がよりクラシックに見えるとも、何人もの人に評された。皆で揃えようという意識が私にはないのだが、それはつまり観客に見せようという意識が乏しいのだ。そういう観客へのサービス精神がないという点が、とてもクラシックな舞踊と映るらしい。来月(26日)の公演がどうなるか分からないが、また来月か再来月にその結果を書いてみたいと思う。
2006.10水牛「ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



今回掲載するのは2006年10月号の記事(9月号には寄稿せず):「ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て」です。実は、この記事に関してはサイト『水牛』のアーカイブにも掲載されています。
➡ ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て
それはともかく、私は2006年9月にインドネシアでこの映画を見て感想を書いたわけですが、タイミングよく、来年2月に東京で上演されるようです。

『オペラジャワ』上演
日時: 2月2日(土)14:00~120分
会場: アテネ・フランセ文化センター

     千代田区神田駿河台2-11 アテネ・フランセ4階
東京国際映画祭CROSSCUT ASIA提携企画映画上映会 ラララ♫東南アジア

exblogガドガド12月24日記事でも関連記事がいろいろ紹介されています。
インドネシアの映画:『オペラジャワ』Opera Jawa(監督:ガリン・ヌグロホ)@ CROSSCUT ASIA」:「ラララ♩ 東南アジア」後編 来年1月末





2006年10月号『水牛』寄稿
ガリン・ヌグロホの映画「オペラ・ジャワ」を見て

突然だが、この8月5日から1年の予定でインドネシアのソロ(正称スラカルタ)市にジャワ舞踊の調査で来ている。9月はじめに電話付の家を見つけて入居し、やっと自分のパソコンから直接原稿が送れるようになった。先々月に「舞踊の謝礼~1」という文を書いて、その続きはインドネシアに来てから書こうと思っていたら、すっかり気分が変わってしまった。それでその続きはいつかまたということにして(このフレーズ、しばしば使っている気がする)、今月はガリン・ヌグロホ監督の新作映画「オペラ・ジャワ」評を書いてみたい。



ガリン・ヌグロホは1961年ジョグジャカルタ生まれ。インドネシアを代表する若手映画監督で、日本でもその作品はよく上映されている。私が同監督の映画を見るのは「そして月も踊る」(1991)、「枕の上の葉」(1998)とその元になったドキュメンタリー「カンチルと呼ばれた少年」に続いて4作目になる。「オペラ・ジャワ」はベネチア、トロント、ウィーンの各映画祭に出品されている。

ちなみに私が「オペラ・ジャワ」を見たのは2006年9月1日、「ソロ・グランド・モール」内にある「グランド21」という映画館においてだった。ソロでは9月1日~7日までワヤンをテーマにした「ブンガワン・ソロ・フェスティバル2006」が開催されていて、ワヤン(影絵)、ワヤン・オラン(舞踊劇)からワヤンに題材をとる現代作品までいろんなものが上演されていた。このフェスティバルのオープニングを飾るのが「オペラ・ジャワ」で、上映に先立ってガリン・ヌグロホの挨拶もあった。

それではまず映画の内容について、少し長くなるが、招待状に書いてあったシノプシスを翻訳して引用する。

「これはガムラン・ミュージカル映画で、ガムラン音楽や舞踊の名手、インスタレーション作家に支えられている。このコラボレーション作品は真実を求めての争いについて語っているが、真実とは、多くの血を流した果てに打ち立てられるものなのだ。この物語は、小さい村に住むシティとスティヨという夫婦の物語である。彼らは壷を焼いて売っている。ところがその村では、ビジネスはルディロという金持ちの男が握っていて、いつもひどいことをする。シティとスティヨとルディロはかつてワヤン・オラン(舞踊劇)ラーマーヤナの踊り手で、スティヨはラーマ、シティはシンタ、そしてルディロはラウォノを演じていた。スティヨとシティの生活は倒産で先行き不透明となり、そこにかねてよりシティを愛していたルディロが彼女に取り入ろうとする。一方スティヨは、シティの内面の変化に気づいて、自分の経済力のなさや無気力さを感じている。3人の元踊り手は、三角関係に陥っているとは感じていない。ちょうど、ワヤン・オラン・ラーマーヤナの中の「シンタ焼身」の葛藤の場面のように。ルディロはあの手この手で、時には暴力的にシティを奪おうとし、無力なスティヨは、シティを閉じ込めようと極端な行動に出る。シティは動揺の中で自分の本心を見出そうとする。この3人の葛藤で残されたものがまさに今日の我々の光景であり、ラジオやテレビで見聞きすることだ。つまり多くの対立は暴力に満ち、困難を打開する方法は残虐性に満ちていて、最後は悲劇に終わる。スティヨはついに妻を追いかけて殺し、その心臓を取り出して、妻の心の声が本物かどうか確かめる。この映画はガムラン音楽、歌、舞踊、衣装、演技、ビジュアルとインスタレーションによるレクイエムであり、ジャワ文化というマルチカルチャーな表現の中で生まれた。虐殺への悲しみのレクイエム。その虐殺は、大地の果てでの極端な対立、不安に満ちた社会の対立から生まれた。これは、さまざまの悲しみ、災害の、対立の、恐怖の、そして血塗られた大地への悲しみのためのレクイエム。」

次に配役について。シティ役のアルティカ・サリ・デウィは2004年のミス・インドネシアで、彼女だけは舞踊と全然関係がない。スティヨ役がミロト、ルディロ役がエコ・スプリヤントで、この3人のセリフ=歌の部分はみな吹替である。他にイ・ニョマン・スロ(彼はバリ人)やレトノ・マルティ、そしてそれ以外にも多くの有名なソロの舞踊家やグループが出演している。音楽はラハユ・スパンガ。セリフ=歌は全部ジャワ語でインドネシア語の字幕がついていた。



私自身はこの映画に出演する舞踊家・音楽家の多くを知っていて、その作品も見ている。その目で見ると、この映画には彼らの個性や存在感、舞踊振付が十分盛り込まれていて魅力的だ。しかし、映画としてみると、登場人物、特に主演の3人の人物の掘り下げ方が弱い。そしてそれは出演者の演技力に問題があるというよりは、人物を行動に駆り立てる「必然的な物語」を監督が構築していないからだと私には思える。

まず、ラーマーヤナ物語をベースにする必然性が私には感じられない。①ラーマーヤナと、②シティとスティヨとルディロという3人の男女の物語では、人物の置かれている状況がかなり違っていて、相似していない。私たちがある古典の物語を下敷きにドラマを描こうとすれば、古典の中でドラマを生み出していた根本的な原因=外的状況を現代に再現しようとするだろう。なぜなら、人間の内面心理は(もちろん個人差があるにしろ)その外的状況から必然的に生みだされてくる部分があり、そこにドラマが成立するからだ。「元ラーマーヤナの踊り手だった」という設定だけでラーマーヤナの世界を借りてくるのは、少し皮相的な気がする。

3人の心理描写も中途半端なのは、これも外的な状況がきちんと描けていないからだろう。3人の心がそれぞれに揺れていることは感じられるが、その心の揺れの直接の原因がはっきりしない。だからドラマも進展してゆかないのである。いつの間にスティヨは妻を殺害しようとまで思いつめていたのか、シティはルディロやスティヨに対してどういう感情を抱いていたのか…。そういう点を監督自身が煮詰めていないように見える。したがってこれが悲劇だという主張ができていないのだ。

さらに、この②の物語を③現在の社会に満ちている悲劇・暴力というテーマにつなげるには無理がある。映画の最後に、ラブハン(ジャワ王家が毎年、南海に棲む王国の守護神に供物を捧げる儀式)をアレンジしたシーンがある。全人類の悲劇というテーマは、そのシーンの存在によって暗示されているだけで、②の物語から帰納的に導き出されたものではない。それだけではない。彼はシノプシスの中で悲しみの中に災害の悲しみにも言及しているが、これは人間関係の葛藤の中で起きた虐殺とは同レベルで扱うべきことではないはずだ。おそらく彼は自分の出身地であるジョグジャカルタ近郊で起きた地震の惨状が念頭にあり、レクイエムということで一緒くたにしてしまったのだろう。

このように、この映画では、①の物語、②の物語、③のテーマというのはオーバーラップもせず、深化もしない。ただ①の人物設定を借りて別の物語=②が展開し、そこに③のテーマが新たにくっつけられていった…だけなのだ。物語の力によって普遍的なテーマが迫り出されてくるわけではなく、イメージによって話が飛躍していくのである。もちろん①の物語の枠を借りて別の物語を展開しても良いし、論理的な展開よりもイメージ表現を重視しても良いが、もし彼がこの映画を通して普遍的な③のテーマを語りたいなら、それが①や②のドラマの展開を経て必然的に生まれてくるように構成するべきだろうと思う。

こんな批判的なことを書くと、ヌグロホ監督のファンには怨まれるかもしれない。ただ彼を少し弁護しておくと、このような話の展開の仕方はジャワ人にはありがちだ。ジャワでは個別の事例から論理的に普遍的な真理が導き出されるのではなく、その論理のプロセスがすっ飛んで、なんでも象徴・シンボルの話になってしまうことが多い。だから上のような私の意見は、私が話したジャワ人数人にはほとんど分かってもらえなかった。ヨーロッパでの映画祭ではどのように評価されるのだろうか。



それからもう1つ。「オペラ・ジャワ」に限らずガリン・ヌグロホの映画でいつも気になるのは、物語にとって必然性のない「ジャワ」の強調が多いことだ。「オペラ・ジャワ」の最初に、スティヨがスラカルタ宮廷の行事「スカテン」にアブディ・ダレム(家臣)の姿をして王宮に入るシーンがある。しかし、その後の物語におけるスティヨの境遇を見ていると、彼は別にアブディ・ダレムとして生きているわけでもなく、このシーンは物語とは何の関係もないことが分かる。

またスラカルタ王宮で即位記念日にのみ踊られるという秘舞「ブドヨ・クタワン」の映像が挿入されているが(踊り手から判断すると、これは『そして月も踊る』用に撮影した映像だろう)、これもシティとスティヨの物語とは全然関係がない。2人の愛の象徴としてブドヨの映像を出したのだと言う人もいたが、なぜ「ブドヨ・クタワン」でなければならないのだろうか。確かに「ブドヨ・クタワン」は王と南海に棲む王宮の守護女神との愛を描いているが、シティとスティヨの愛の引き合いに出すには格が違いすぎて、私には違和感がある。ガリン・ヌグロホは「カンチルと呼ばれた少年」でも舞踊・ブドヨ(この時は確かジョグジャカルタ様式のブドヨ)のシーンを挿入している。その時はナレーションから男女の愛の象徴として使っていることが明白だったが、この時も前後のストーリーとブドヨとは全然関係がなかった。

このような「ジャワ」の強調、しかもジャワ王宮文化の強調は、彼が海外の映画祭を対象に映画制作をしているからではないだろうか。つまりジャワ人である彼が海外で自分の文化的アイデンティティを強調するために必要以上にやっていると思うのだ。そのために彼が表現する「ジャワ」は「ブドヨ=愛」、「ジャワ=王宮文化」のようにステレオタイプ化し、外人の眼から見たエキゾチックなジャワを再生産している。日本でも、「こういうところ(愛の表現)でブドヨを出すあたりがジャワ人ですね~」と感心する声を聞くから、おそらく映画祭というような場では評価を得やすいのだろうが、私には鼻についてしまう。彼自身はこの点をどのように自覚しているのか、機会があれば聞いてみたい気がする。



ここでは「オペラ・ジャワ」の映像の美しさや、全編に流れる音楽については触れていない。ただ映画を見たときから、ジャワ人にとって物語とは何なのかということを一番考えずにはいられなかった。そしてその一方で、私の頭にある「物語」、「人物の心理」、「必然」などという概念はどこから来たのだろう、という思いにもとらわれてしまった。だから威勢良くヌグロホを批判しているように見えるだろうが、私自身にもその批判の矢が向いているのである。



その後…

以上の原稿を送った後でこの映画の歌の担当者の1人に出会い、この映画についていろいろと彼の感想を聞くことができた。私が上のように「物語」の枠組みが弱いと思うと話したところ、インドネシアでもそれを指摘する声があるが、それはガリン・ヌグロホが敢えて狙ったことではないか、と言う。彼によると、この映画で歌の構成を担当したのがスティヨ、シティ、ルディロ役に計3人いて(みな芸大スラカルタ校の先生)、それぞれラーマーヤナの「シンタ焼身」のエピソードの展開に沿って歌詞を書いたのに、編集されたのを見ると、どれも歌詞の順序がかなり入れ替わっていて、驚いたらしい。ちなみに、舞踊のあるシーンで演出した人が、編集されたのを見て「なんでこうなるの?」と思ったらしいから、監督は人々が「物語を欲する」のを裏切りたかったのかも知れない、とも思う。

また、先ほどの歌の担当者は、ラーマーヤナ物語の枠から外れているということについてはヒンズー教の側から反対の声が上がり、それについての論争が新聞に盛んに取り上げられていたとも教えてくれた。そこでインドネシアの新聞を検索してちらっと目を通してみた限りでは、どうやら、インドネシア・ヒンズー教の最高組織(パリサダ)が、ヒンズー教を冒涜しているという風に批判したらしい。

実は私には、この宗教界からの批判というのは全く意外だった。もし「オペラ・ジャワ」がもっとうまくラーマーヤナ物語の枠を生かしてスティヨとシティとルディロの話を作り上げるのに成功したとしても、それがラーマーヤナ物語を冒涜するとは思えない。ラーマーヤナは物語であり、経典ではないはずだ。なぜこの映画にそんなに敏感に反応したのか、調べてみたら面白いかもしれない。
2006.08水牛「踊りの謝礼 ~1」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年8月号『水牛』寄稿
踊りの謝礼 ~1

中ジャワ・スラカルタの音楽家・舞踊家の間には、PY(ペイェー)という隠語がある。お金をもらって上演するという意味で、プランバナン寺院での観光舞踊劇「ラーマーヤナ・バレエ」が始まった1961年頃から使われ始めたという。PYとはpayu(パユ)=お金になる、の子音を取ったもので、それはつまり芸術行為によってお金を頂戴することを賤しむ気風があったからこそ生まれた言葉なのだ。この語を使い始めたのは、「ラーマーヤナ・バレエ」の総合振付家クスモケソウォの長男だと言われている。

「ラーマーヤナ・バレエ」はインドネシア初の観光用・大型野外舞台劇で、その中心的な担い手はクスモケソウォが教鞭を執るスラカルタの芸術高校関係者(教員、学生、教員の子の子)を中心に、あちこちにいる弟子たちなどだ。この人は宮廷舞踊家で、その中でも最も保守的な人だったから、芸術を学んでいる者がお金を手にするのはよくないと考えていた。宮廷舞踊家にとっては、舞踊は人格の陶冶のためにあるべきだったのだ。だから1960年代頃のギャラは「ミー・アヤム一杯分」だったという。当時大人だった人から子供だった人まで、世代の異なる3人が3人ともそう表現した。ミー・アヤムとは鶏肉入りラーメンだが、屋台で食べられる最も安い食事である。スラカルタからプランバナン寺院までバスで行って(団体バスで行くのだが、今の道路事情でも片道1時間余りかかる)舞台をつとめるのだから、子供ならともかく、大人にとっては全く割のあわないギャラである。出演自体を嬉しい、有難いと思えないと続かない。

だから、ラーマーヤナバレエの初期を担った、当時まだ中高生だった踊り手たちは、大学に進学するとラーマーヤナ・バレエから離れてしまうことが多い。例外だったのは初代ラーマ王子役で、ジョグジャカルタにある大学の医学部に通いながら、1968年に留学するまでずっとラーマをつとめた。これは親(医者)が裕福で、息子をクスモケソウォに習わせており、かつ「ラーマーヤナ・バレエ」の仕掛け人の1人だったから可能だったのだ。

それはさておき、大学生になったラーマーヤナ・バレエの踊り手は、ホテルなどで舞踊のアルバイトをする。ジョグジャカルタでは、スラカルタと違って、毎日のようにどこかのホテルで公演がある。実際、クスモケソウォの孫娘もそうで、ジョグジャカルタの芸術大学に進学して下宿しながら、ホテルでの公演やパク・アラム王家主催の公演に出て授業料や生活費を稼いだという。

またジョグジャカルタの大学に進学したが、スラカルタに戻ってスリウェダリ劇場に出演していた元・出演者もいる。彼は最初、スリウェダリ劇場のギャラがラーマーヤナ・バレエよりはるかに高額なことに驚いたという。そのギャラで学費を全部賄えただけでなく、当時は高価なものであった自転車まで買えたという。スリウェダリ劇場は商業施設で、歌舞伎興行みたいに毎日公演を打ち、そのチケット収入で採算をとる。ここではしかるべき対価をもらって上演するのが当たり前であり、恥ずべきことではなかった。

(続く)



※ 上に「続く」とありますが、実は続きがないです(笑)。
2006.07水牛「風景が変わること」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年7月号『水牛』寄稿
風景が変わること  

ジャワ中部地震が起きてから1ヶ月が経った。私はまだ大きな地震に遭ったことがないから、被災について語る資格はないかも知れない。けれど、私自身の経験した小さな不幸について書いてみる。

最初の留学から帰国して間もなく、私は妹を亡くした。そのときになって初めて私は、今まで家族を亡くした人の気持ちを全然分かっていなかったのだと思わずにはいられなかった。私が留学している間に、私が舞踊を師事していたJ先生は夫を亡くし、P先生は父親を亡くしていた。私はお葬式に参列し、特に親しく師事していたJ先生の夫の年忌にはずっと参列していた。当時の私は私なりに先生達の悲しみに同情しながらも、ジャワ人は死を神の思し召しとしてあっけらかんと受け止めているように見える、などと感じたりしていた。私自身の身にそんなことが降りかかるまでは。

いかに第三者には気丈に見えていても、人の気持ちはそんなに簡単に割り切れるものではなく、いくら信仰心厚くとも(P先生はカトリック、J先生はイスラムを信仰している)、感じる悲しみの絶対量に違いはない、と今は思う。死をあっけらかんと受け止めているように見えていたのは、人生の不条理さをジャワの人々が心得ていて、それを受け止める心構えができていたからだと思う。そして逆に、当時の私には、そのことに気づくだけの感性がまだ備わっていなかった。

妹を亡くした後、私は舞踊の練習を1人で続けた。漠然と、ジャワ舞踊を手放してしまったら自分が崩壊してしまうような気がしていた。ガムランの曲を聴くだけでも胸が締めつけられて息苦しかったのに。なぜそんなにまでしてジャワ舞踊にしがみついていたかったのだろう。

「メナック・コンチャル」という舞踊曲がある。出陣する王子の雄雄しい姿の描写の後に、想いを寄せる姫の面影を追う王子の姿が描写される。曲の形式がそれまでのラドランからクタワンというゆったりとしたテンポに変わり、ボーカルが切々とした思いを歌い上げる。王子は今度の戦いで死ぬことを予期しているのだ。この作品のクタワンに移行する部分で、急に涙があふれてきた。死ぬことを予期した王子の激しいやるせなさが、急に私の胸にも突きあげてきたのだ。こんなことは、ジャワで練習していた時には一度としてなかったことだった。いくら作品のテーマや歌詞の意味を理解してはいても。また一度そんな風に聞こえてしまうと、もうそれ以外のようには聞こえてこなくなる。

妹が亡くなって1年半後、私は再びジャワに留学し、「カルノ・タンディン」という舞踊作品を習っていた。これは「マハーバーラタ」の中の物語の1つで、アルジュノとカルノという異父兄弟が敵味方に分かれて戦い、最後にはカルノが敗れる様を描いている。この曲には2人が離れていったかと思うと、向きを変えて近づいてくる、という振付が何度か出てくる。その向きを変えた時に歌が入ってくるのだが、そこで、カルノとアルジュノが自分と妹にダブって「もう2度と会えない」という気持ちがよぎったり、もう時間を元には戻せないと感じて、そのたびにいつも涙が止まらなかった。けれど、その箇所でそんな思いがこみ上げてくるということは、いくら作品を分析しても出てこないに違いない。この演目は重い演目で、上演される時にはお供えが必ず用意される、ということをいくら知っていても、それはやはり頭の先の理解にとどまっていて、お供えを用意せずにはいられない心の内をわかったことにはならない。

昨日の続きの今日があって、そして明日に続いていくという世界が破綻したとき、それまで見ていた風景は一瞬にして変わる。いくら被災地の映像を見、同情の念をもよおしても、この風景が変わらなければ被災者の気持ちには達し得ない、と思う(私は救援活動に携わる人々を批判しているのではない)。そしてまた芸術というのは、たぶん、それまでの安定した世界が破綻しようとするときにこそ見えてくるもののような気がする。
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