7/29インドネシア伝統舞踊の会@奈良 公演告知
演目を加筆!(6/30) 公演終了までトップに固定
7/29(土)奈良市にて踊ります。入場は無料.ですが御予約制です。詳細は追記を参照。

20170729奈良市インドネシア伝統舞踊の会blog
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2004.04水牛アーカイブ「私のスリンピ・ブドヨ観」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

…ということで連載している「水牛アーカイブ」ですが、実はこの記事が私の記事としては一番古いものとして「水牛」に掲載されています。2004年のこの記事、2005年の1記事、が掲載され、2006年10月から連続して掲載されています。
➡ http://suigyu.com/noyouni/michi_tomioka/post_83.html

なお、本文にあるジャワ宮廷舞踊:スリンピとブドヨについては、どちらの映像も リンクの一番上、 映像(宮廷舞踊) に入っています。いずれも、私が踊っています。ご参照下さい。ちなみに、ブドヨの写真(Heru Santoso撮影)は、公演当時、Reader's Digest Indonesiaに掲載されたものです。




『水牛』2004年3月 
私のスリンピ・ブドヨ観


スリンピとブドヨはともにジャワの宮廷女性舞踊で、マタラム王朝の後裔のジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の宮廷に伝えられている。どれも完全に上演すると1時間ほどかかるので、現在では10~25分に短縮されている。スリンピとブドヨの完全版をできる限りすべて修得するというのが、私の留学時代の課題であった。今回はスリンピとブドヨ(完全版)という舞踊について、私が自分自身の舞踊体験から感じとったことだけを書いてみた。したがってこれらはジャワの文献に書かれていることでもなければ、舞踊の師が教えてくれたことでもない。また観客の立場から見た見方でもなく、私が5年間振付の時間を経験し続けて感じたことである。

●スリンピ

srimpi1 blog P1040564 blog


スリンピは4人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付は抽象的で、同じ振りを2回または4回、方角を変えて繰り返し、シンメトリーなパターンを描く。舞楽のようなものだと想像してもらえれば良い。宮廷舞踊では4本の柱で囲まれた方形の空間で舞うのだが、その空間の雰囲気も舞楽の舞台に似ているように思われる。

スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。

そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。私がそう言った時に、まさしくそう思うと言ってくれたジャワ人舞踊家が2人いた。(同意してくれそうな2人にしか話していないが)曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。

●ブドヨ

ブドヨ2 Heru Santoso blog

ブドヨは9人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付も抽象的で、同じ振りを方角を変えて繰り返すところなどもスリンピと同様であるが、9人という人数で踊られるだけに複雑なフロアパターンを多く描き、またシンメトリーでないものも多い。ブドヨはスリンピと違って多くの作品が失われてしまった。ただしブドヨの本歌とも言うべき「ブドヨ・クタワン」はいまなおスラカルタ宮廷で毎年王の即位記念日に行われている。これは門外不出の舞踊である。今に残る数少ないブドヨ、または元はブドヨであったと言われるスリンピ作品を舞ってみて痛感するのは、ブドヨは大地を歩く舞踊であるということである。

ブドヨに特有なステップのあるララスやプンダパンという動きでは、踊り手は前に進むかと思えば後退し、また進み……を繰り返す。大地を慎重に踏み固め、練り歩いているような気に私はなるのだが、歩くという行為自体が宗教的、呪術的行為になり得る。

アボリジニには聖地を結ぶ古い小道を儀式的に徘徊(walk about)し、それぞれの聖地で決められた儀式を行って、精霊のエネルギーの循環を助けるという信仰があるそうだ。またイギリスでキリスト昇天祭に催される「大地の境界線を打ち据える」(beating the bounds)儀式も似たような徘徊の行事だという。ライアル・ワトソンの「アース・ワークス」でこれらのことを儀式的徘徊の存在を知った時、また日本でも陰陽師が行うという反閇(へんばい、歩くことによって行う呪法)があることを知った時に、これらはブドヨと同じではないかという気がしないではいられなかった。

9人がこうやって大地を踏みしめてもぞもぞ、ぬるぬると移動するとき、私はこの9人が巨大な1個の生命体となって大地を這っているような感覚に襲われる。1人1人の踊り手は大地を踏みしめているのだが、1個の生命体となった時には、蛇のような足無しのものが這っていくという感じなのだ。特に9人が一列の隊形の時はなおさらである。だがこの生命体は9人の徘徊によって生じたエネルギーかも知れない。それは「気」のようなもので、霧が谷川の上を蛇のように(気とくれば龍に例えるほうが良いかもしれない)流れていくように、ブドヨのエネルギー体が大地を這っているのかも知れない。

何ともまとめようのない文章になってしまった。読者の方は、宮廷舞踊に対してなんと突飛なことを考えているのだと思うかもしれない。だが舞踊の動きはイメージの中に生き、そしてイメージは連想に支えられていると私は思っている。スリンピやブドヨを、こんなイメージを持った舞踊として表現できたらと私は思っている。
2004.03水牛アーカイブ「ラサを支えるもの」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2004年3月 
ラサを支えるもの


ラサとは味わい、感じ、感覚、感性といった意味である。技術的な上手・下手を越えて求められる、その芸術分野が持つ味わい、雰囲気と言えるだろう。私が自分のジャワ舞踊の達成度合いや課題についていろんな先生にコメントを聞いて廻った時、誰もが技術的な問題に先んじて言及したのが、(ジャワ舞踊の)ラサがあるかどうかだった。このことはたぶんジャワ舞踊に限らず、外国人が異文化の伝統芸術を学ぶ場合には必ず問題にされる点だろう。逆に指導者の立場からすれば、どうやって異文化の人間にラサを伝えられるかが課題となる。

あるときジャカルタ在住のジャワ人舞踊家に、「どうやってジャワ舞踊のラサを身につけたのか、今までどういう練習をしてきたのか。」と聞かれたことがある。なぜまた外国人にそんなことを聞くのだろうと不思議に思っていると、「私の弟子は皆とても上手なのだが、ジャワ舞踊のラサがない。そしてそのラサを教えることが大変難しい。」と続けたのである。その人はジャワで生まれ育った優れた舞踊家であり、また細かい点まで指導する人なので、この人にしてさえそうなのかと思いつつ、思わず、そうでしょうねと返答してしまった。実は私も今までジャカルタの若い子達のジャワ舞踊を見てきて、どうもラサが薄いのではないかと感じていたからである。(ここで言うジャカルタの人には、成長して後にジャワからジャカルタへ移った人は含んでいない。)

テクニック的にはジャカルタとソロの踊り手で差があるようには思えない。また公演において群舞で踊っているのを見ている限りでも、ジャカルタの子達にラサが欠けているようにも見えない。しかし個々人の動きに、それも特に練習段階で注目していると、衣装や遠目によるごまかしがきかなくなるせいなのか、あまりジャワ舞踊のラサがあるように感じられないのである。

それよりも、ジャワのラサのないことは踊っていない時に如実に現れた。確か1997年、ソロとジャカルタの両方の踊り手が出る公演の合同練習を初めて見た時のことである。ジャカルタの女の子達はソロの子達よりも歩くのが大股で、足を開いて座り、早口でしゃべり、化粧が濃く、女性でも人前で煙草を吸う。その両者の雰囲気の落差に私はすっかり驚いてしまった。特に私はそれまでの留学生活のほとんどをソロの町から出ることなく過ごしていたので、よけいにジャカルタ勢に違和感を覚えたのかも知れない。このことで生活環境が舞踊に及ぼす影響について考えずにはいられなかった。

ソロはジャカルタに比べればまだまだ田舎で、保守的で、だから日常生活における所作や態度も都会の人達よりは控えめになるのだろうと思われる。話すのが遅いのも、生活のテンポがのんびりしているからだろう。余談だが、私がジャカルタに行って一番驚いたのが、人々のしゃべるテンポの速さであった。実はテレビドラマでも会話のテンポは速いのだが、あれはドラマ上のことだけだと思っていたのである。何のことはない、ジャカルタではそれが普通だったのだが、ジャワに滞在している限りはあれが非日常的な会話スピードにしか聞こえなかったのである。というわけで、ジャワ舞踊の抑制的でゆったりした動きは、いまだにジャワの日常の動きや生活テンポからかけ離れ過ぎてはいないように感じられる。

もっともジャワにおいても世代によって多少の違いはある。たとえば私の師(1933年生まれ)に比べて、現在の子達が取るポーズでは視線も手のポジションも高くなっている。つまり踊り手がまっすぐ前を見るようになり、腋を以前よりは開くようになったのである。これは、時代を経るにつれ、ジャワの理想の女性像がいつも伏目がちで控えめな女性からそれよりは自由で自己を持ったものに変化してきたからだと言える。

したがってジャワ舞踊のラサ自体もそれだけ変化してきているのだが、そうであってもなお、現在のジャワ舞踊のラサは現在のジャワの日常生活環境によって支えられている、と思えるのである。しかしジャカルタの若い人達にとっては、ジャワ舞踊は日常生活からかけ離れた、非日常のものになっているようだ。日本の都会と同様に、人々は郊外に住んで長時間かけて都心へ通勤し、稽古場に行くという生活になってしまっている。ジャワ舞踊はもはや稽古場でのみ再現されるものであって、その限られた場においては、ラサを吸収するのは難しいのかもしれない。
2004.02水牛アーカイブ「心をとらえるもの」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2004年2月
心をとらえるもの 


パフォーマンスというのは観客の存在、つまり見られることが前提になっている。そしてパフォーマーは見せるに値するものを生み出そうとする。だが見るに値するものというのは、見せるに値するものの中にのみあるのだろうか?

パフォーマーに見せようとする意思があるのかないのか分からない、こちらが見ていることなどもまるで意に介していないようだが、だが人を魅入らせてしまう何かがある……。そんなパフォーマンスもあるのだとなぜか私は昔から確信していた。ジャワ舞踊を始めた頃からこれはそんな舞踊なのだという直感があって、ただそこに在るというような舞踊ができたらなあと思っていた。だがこういうことを人に話しても、怪訝な顔をされるのだった。

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水牛の2003年3月号、4月号で私は留学の最後で経験した公演について書いた※注。この公演で私は男性4人、女性4人が出演する作品に出ていた。女性4人のうち、私以外は芸大の先生達である。このとき共演の先生達(女性)は私に、細部の動きやサンプール(腰に巻く布)を払うタイミングをもっと皆に合わせるようにと何度も言った。それは振付家が要求する以上であった。

芸大では普段から共演者のタイミングや動きの細部を揃えることをやかましく言い、それは女性舞踊の群舞(スリンピやブドヨ)に顕著だった。実のところ私は芸大のその方針には賛成しかねた。もちろん芸大が世界的に有名になったのは、本来は宮廷舞踊であったものを質的に転換していくことができたからだ。群舞で一糸乱れず動きを揃えるというのは舞台芸術としてのあり方を追究していった結果に思われる。先生達にとってそれはあまりに当然のことだったが、この公演ではそれを目指しているわけではないと私は解釈していた。

そうは思うものの、一緒に踊るとなるとやはり共演者からの言葉は気になる。リハーサルの時に私は振付家、P先生(私の男性舞踊の師)とS氏(この公演に出演する踊り手)に一人ずつ、どうなのかと聞いてみた。3人が3人とも「合わせる必要はない!」と断言した。

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それから半年後の昨年7-9月、私はインドネシアに行った。調査研究のためだったが、この機会にその公演の私の舞踊について批評やアドバイスをもらいたいと思っていた。公演が終わって2週間足らずで私は留学を終えて帰国したので、当時はそんなことをする時間的余裕も精神的余裕もなかった。日本に帰って半年経ち、ようやく私はこの公演のことを客観的に見られるようになっていた。

まずS氏にコメントをもらいに行った。S氏はテクニック面や表現面で多くのアドバイスをしてくれたが、人に見せようとする意識がなかった点で私が一番良かった、それがジャワ舞踊にとっては一番大切なことなのだ、と言った。こんなことを言ってくれた人は今までにいなかった。その後私はP先生に会い、S氏と同じようなことを言われ、また他にも何人にも聞いて廻った。

もう一人、私はサルドノ氏にもコメントをもらいたかった。あの試験公演の主査だったからだ。氏は現存の人の中で多分一番古くからクスモケソウォに師事している。クスモケソウォは私の研究テーマの中で中心的な人物だ。その話を聞くためにもサルドノ氏には会いたかった。サルドノ氏もS氏やP先生と同様のことを言ったものの、「だが、これは試験公演だという緊張がまだ少し残っていた。それも全く抜けてしまったら、もっと踊りは良くなるだろう。」とつけ加えた。さすが主査は厳しく見ているという気がした。続けてサルドノ氏はクスモケソウォの教えについて語った。

ジャワ舞踊では踊っている間に瞑想のような精神状態に、さらにはほとんど眠っているような状態に入るのが理想である。誰かに見せようという意識もなく、すでに自分が踊っているという意識すら消え失せている。どこにも力が入っていない。パッ・ムングン(クスモケソウォのこと)の舞踊はそんな舞踊だった。それは見たことがある人でないと分からない。説明のしようがないのだ。人に見せる意識のない舞踊は、人の目を魅きつけようとするどんなパフォーマンスよりも、かえって見る者の心をとらえる。ジャワ舞踊は精神的な舞踊だからと言って、我々はお香を焚いたりろうそくの火を使ったりして演出する。しかし、たとえば白昼の市場で誰かがいきなり踊りだしたとしたら、しかもその人が全く人に見られることを意識していないとしたら、それはお香などで演出されたパフォーマンスよりもずっと我々の眼をとらえるのではないか? 君はそういう舞踊を一人で探ってみなさい……。

その話の最中にサルドノ氏はしばしば立ち上がり、パッ・ムングンの動きはとにかく独特で自分ではうまく再現できないが、と言ってやって見せてくれた。その動きは全く普通のジャワ舞踊ではなかった。こんな動きがかつてあったのか、ジャワ舞踊の奥にはこんな世界があったのかと鳥肌が立った。S氏の舞踊を見た時にも私は呆然虚脱していた(らしい)が、サルドノ氏はS氏よりほぼ一世代上であって、より古さを感じさせた。いま眼前に繰り広げられている動きは決して見て美しいわけでなく、また型が決まっているとも言えず、半分眠りながら揺れているだけのような動きだったが、何か恐ろしいものを見た時のように私は目が離せなかった。

氏の言葉を胸に刻みながら、しかし最後に一人で探れと言われてがっくりきた。S氏にも一人で探求してみろと言われていたのだ。人に見られていることを意識しない舞踊を追究するというのは矛盾している。一体どうやって追究していけば良いのか、それはまだよく分からなかった。だが、私がうまく言葉に表せないでいた「ただそこに在るという舞踊」がどういうものか、それはおぼろげながら見えてきた気がする。2人は私のやりたい方向がそこにあると見抜いて、公案を与えてくれた。今まで辿ってきた道に続く、その行く先を指差してくれた人がいることを私は嬉しく思った。

最後に私は再びP先生を訪れた。P先生は自分より上の世代のS氏やサルドノ氏の話を興味深げに聞いてくれた。そして、芸大は芸術のあり方を近代化した、それがなければジャワ舞踊は今に残らなかっただろう、だがその過程でひきかえに失ったものも確かにあるのだ、と言ったのだった。

こんな風に多くの人を訪ねてアドバイスを受けながら、善哉童子の旅はこんなものだったのかなあという思いが頭をよぎっていた。



※注  
2003年3月号 「ジャワでの舞踊公演(1)公演の背景」
2003年4月号 「ジャワでの舞踊公演(2)」 
2004.01水牛アーカイブ「アジアのコラボレーション(2)」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

※2003年11月号には寄稿していません。




『水牛』2004年1月
アジアのコラボレーション(2) 


 先月は、10月18日かながわドームシアターと21日大阪国際交流センターで上演されたアセアン共同制作舞踊劇「リアライジング・ラーマ」の背景について書いた。今月は、この公演からアジア/アセアンの舞踊コラボレーションにおける難しさについて書いてみたい。

〈踊り手〉
「リアライジング・ラーマ」では、各国政府の文化関係の担当部門(インドネシアであれば教育文化省文化部)が踊り手を選考したようである。1カ国2人で、インドネシアとフィリピンが3人(ちなみに初演時はインドネシアとタイが3人)であった。基本的に初演からずっと同じメンバーである。インドネシアの場合、その3人は中部ジャワから1人、スンダから1人、バリから1人となっていて、文化面で優位な3地域から選んだという気がする。またシンガポールの場合はインド系とマレー系(初演時はインド系と中国系)が1人ずつだった。多分演目がラーマーヤナなのでインド系は外せないという選択ではなかったかと思われる。またマレーシア、ブルネイは皆マレー系であった。その結果、踊り手全体の1/3位がマレー系ということになった。そしてラーマ役:マレーシア人、シータ役:タイ人、ラクサマーナ役:タイ人、ラバナ役:インドネシア人となると、なぜ主要な役はタイやマレー系の人ばかりなのか、という不満が出た国(アセアン内)もあったらしい。多分一般観客ではなく、政府役人が言ったのではないかという気がするのだが、そこにはアセアンの中でも経済的に進んでいる国が主要な役を取って……というニュアンスが含まれている。

しかし政治力の差以前に、集まった踊り手の個性、能力、経験、リーダーシップ性の差もあればラーマーヤナに馴染んだ国とそうでない国という差もある。また現代舞踊が盛んで異なる舞踊とのコラボレーションに慣れた国もあれば、ほとんど自国の伝統舞踊しかない国もある。上記のような感想は妬み半分だと思うが、同様の批評の声が繰り返し上がってくるのがアセアン共同制作の難しさなのだ。

私が「リアライジング・ラーマ」の今回の公演を見る限り、配役は適切であったように思う。タイやインドネシアはラーマーヤナがかなり浸透している国であり、多分多くのアイデアがこれらの国の踊り手から出たことであろう。前回述べたように、ラーマーヤナが伝播しなかった国・地域もあるのである。それ以外に踊り手個人を見ても、たとえばシータ役の人はダントツに美人で華奢でシータのイメージにぴったりであったし、他の主要な役についてもキャラクターと踊り手のイメージが合っていたと私には思われた。しかし、それは私がインドネシアで舞踊を学んだからで、知らず知らずのうちにインドネシア的な基準でキャラクターをとらえているのだと批判されれば、それはそうかも知れないとも思う。

上記の4役以外の人たちは場面によって次々にいろいろな役になってゆき、群舞も多い。この群舞においては全体を通してあまり踊り手の個性やお国柄が生かし切れていなかったのではないかと感じた。しかし現代舞踊ということでまとめているのだからお国柄を強調する必要性はないという意見もあるだろうし、各国の個別性よりは共通性を打ち出したいという事情もあったかも知れない。またそれらをあまり尊重しすぎると見た目にもまとまりのない舞台になってしまうのも事実であろう。さらに音楽が先に決まってしまっているので、踊り手の個性を生かそうとしても音楽の方を変更していくという方法が取れなかったせいもあるかも知れない。ということを考えていくと、コラボレーションにおいては群舞の扱いが難しいのではないかとつくづく感じた。

〈芸術スタッフ〉
日本公演では簡単なリーフレットしか用意されず、そこには今回来日したスタッフの名前が載っているだけだが、実はそれまでの海外公演ではかなり詳しいカラーの英語パンフレットが用意されていて、そこにはツアースタッフだけでなくオリジナルの芸術スタッフの名前がきちんと挙げられている。しかし初演時のパンフレットと併せて読むとオリジナル・スタッフの肩書きにも若干の違いがあり、フィリピンがどんどん出張ってきたという印象を受ける。

日本公演パンフレットによると、来日したスタッフの内訳は作曲がインドネシア人で、プロデゥーサー、芸術監督・振付、脚本、装置・衣装、助芸術監督、技術監督、制作がすべてフィリピン人、照明は日本人である。(この照明家はフィリピン在住だが、アセアン10カ国のみの企画だったので前回までは参加しておらず、今回は日本公演だからということで加わったらしい。)しかし初演時のパンフレットによれば、このうち芸術監督・振付のフィリピン人は元は芸術監督のみで振付はタイ人、装置・衣装のフィリピン人も元は衣装デザインだけを担当し、衣装アドバイザーにミャンマー人と装置デザインにマレーシア人がそれぞれいた。その他に照明デザインがブルネイ人、サウンド・デザインがラオス人、ビデオグラファーがシンガポール人、テクニカル・ディレクターがベトナム人と、各国からスタッフが出ているのである。また日本公演で助芸術監督となっているフィリピン人は当初は参加しておらず、彼は日本公演直前のフィリピン公演のパンフレットでは助芸術監督&リハーサル・マスターとなっている。(しかし踊り手の認識では単にリハーサル・マスターで、助芸術監督と書かれていると私が言うと、皆驚いていた。)

このように他国からのオリジナル・スタッフをどんどん排除していって、ツアーにはフィリピン人スタッフだけが行く、また他の肩書も取り込んでしまうことには多くの踊り手は不満を感じていたようだ。踊り手だけでなくインドネシア政府の担当部門の役人も辛らつで、「フィリピンは芸術性ではマレー系に勝てないものだから、経済力に物を言わせてそんなことをするのだ。」などと言う始末である。(これにはかなりやっかみが入っている。)企画自体がフィリピン文化センターで発足し、かなりの規模のプロジェクトだから(発足から6年、その間にアセアン10カ国+7カ国を巡回している)、フィリピンがかなり力を持つのもある程度無理はないのだろうが、日本公演で実際にフィリピン人スタッフばかりがクローズアップされてしまうと、日本人である私にとってもやはり妙な気がする。

〈芸術監督〉
フィリピンが出張っているように感じさせてしまう別の要因として、フィリピンがとった制作スタイル、とりわ芸術監督というものが他の国ではあまり馴染みが無いやり方だったからではないか、とも私は推測している。というのは、私の師をはじめ何人かが自分の周囲にはこのような権限の強いポジションが無いと言ったからである。たとえばインドネシアにはストラダラ(演出、監督)という単語はあるが、アート・ディレクターほどの絶大な権限はふるえないようである。この辺りのことは今後もっと観察してみたいと思っているが、芸術監督をたてるというやり方をアジア/アセアンの共同制作で前提にしても良いのか、他にも制作スタイルがあるのではないかと考えてみることも必要ではないだろうか。

……アセアン共同制作を謳ったプロジェクトは「リアライジング・ラーマ」だけではない。特に今年は「日本アセアン交流年2003」ということで多くの企画があったようだが、作品の芸術的完成度とは別に政治的な見方が入ってくるのが難しい。上でも述べたが、なぜ主役をタイやマレー系の人がするのかというような類の批評はどんなコラボレーションでも聞かれることである。たとえば以前に国際交流基金が制作した「リア」という作品について、なぜ大役を日本人(能役者)や中国人(京劇役者)が独占してマレー系はそれ以下の役なのか、という発言がインドネシアのセミナーで出たことがある。私には能や京劇の人の身体表現がその役に非常にふさわしかったと思えたが、その人はその点は問題にしなかった。またアセアン交流年の一環として12月に行われた公演(日本アセアン11カ国によるコラボレーション)についても、アセアンの共同だと言っても、結局日本は自分達が中心だということを謳っているだけだという感想が他の国の政府役人たちから出た。私にはそのシーンは芸術監督が自分の舞踊団をやたら目立たせようとしているように見えただけであったが、それが先のような感想になってしまうところが恐ろしい。




関連記事
http://www.philstar.com/starweek-magazine/186215/realizing-rama-experience-transformation

作曲のスパンガ氏が動画をアップされていました。↓
お知らせ
本日、本ブログの リンク>映像(宮廷舞踊)/court dance videos に、2012年9月8日、島根県松江市熊野大社で開催された第20回庭火祭で"Srimpi Anglir Mendhung"(完全版)を上演したときの映像をアップしました。

リンク集もぼちぼち充実させていっています。
2003.12水牛アーカイブ「」アジアのコラボレーション(1)Realizing Rama」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

※2003年11月号には寄稿していません。




『水牛』2003年12月号
アジアのコラボレーション(1)Realizing Rama


先月は月末の土壇場でコンピュータが故障して原稿が送れなかった。この原稿は先月のテーマを改めて思い出しながら(原稿が消えてしまったので)書き直したものである。

10月18日にかながわドームシアターで、21日に大阪国際交流センターで舞踊劇「リアライジング・ラーマ」の来日公演があり、大阪ではさらに20日にワークショップもあった。この公演で私の留学先だったインドネシア芸大の元学長・スパンガ氏が音楽家として、また私の男性舞踊の師・パマルディ氏が踊り手として来日した。私は留学時代からパマルディ氏にこの公演についてあれこれ聞かされたり、海外公演のパンフレットや初演のビデオを見せてもらったりしていた。また今回の来日公演で多くの踊り手の人達とも親しくなった。そういう訳で今回と次回ではこの公演について、またそこからアジア/アセアンの舞踊コラボレーションについてあれこれ書いてみよう。

この作品はアセアン文化情報委員会(COCI、1978年設立)によって1997年に企画された。アセアン加盟国各国から2~3人ずつ出演者を出してアセアンが共有できる舞台作品を制作し、加盟国、次いで世界の主要都市を巡回公演するというプロジェクトである。初演は1998年12月、アセアン6カ国首脳会議に合わせてベトナムで行われた。その後1999年にフィリピン、インドネシア、ブルネイ、シンガポール、マレーシア、2000年にタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、2001年にヨーロッパ(確かイギリス、ベルギー、ドイツ)、2002年にインド、韓国、中国、2003年にフィリピン、日本と巡回し、今回の日本公演で一応プロジェクトは終了だそうだ。カンボジアは1999年にアセアンに加盟したので(これでアセアン10となる)、企画当初はカンボジアは参加していない。カンボジア公演ではまだ同国の踊り手は参加せず、その翌年から参加したという。

表現形態として舞踊を選択したのは、言葉の壁がなく、且つアジアではシアターの中でも舞踊が重要な要素を占めているとの考えによる。それが現代舞踊であるのは、各国から踊り手を集めているため特定の民族の伝統様式だけを採用できないからである。これはアセアンの多民族国家の中でも同じであり、インドネシアなどもそういう理由で現代舞踊が盛んである。そのため今回集まった舞踊家達も伝統舞踊と現代舞踊の両方を手がける人が多い。しかし現代舞踊だと言ってもそれぞれの国の伝統的なテクニックから発展しているので、西洋の現代舞踊とは趣が異なる。またミャンマーとベトナムにはまだ現代舞踊というジャンルがないらしく、同国からの参加者にとっては結構大変だったらしい。特にミャンマーでは伝統舞踊といっても木偶人形振りの動きがあるだけで、人間振り(というのも変だが)はないと聞いた。

演目がラーマーヤナになったのはアセアンの多くの地域に伝わっているからである。ラーマーヤナが伝わっていない国はベトナム、シンガポール、ブルネイである。フィリピンには無いと考えられてきたが、ある地域の先住民族に伝承されていることが近年の研究で判明したという。またシンガポールにはないと言っても、インド系の人にはラーマーヤナは知られている。日本公演のリーフレットで脚本家とされている人は実は歴史学者で、このプロジェクトの一環として各国のラーマーヤナの比較研究をしている。ラーマーヤナと言っても受容した地域によって多少物語も異なるので、作品のコンセプトを固めるに当たって様々なアドバイスをしたのだという。

公演での音楽は録音を使用した。作品づくりの方法は音楽先行で、曲を先に作って録音してから振付している。したがってスパンガ氏は自分であれこれ振付を想像しながら作曲したそうである。作曲にあたっては振付同様に、特定の民族=自分の出身地のインドネシア的、ジャワ的音楽にならないように一番注意したと言う。また彼自身の試みとして、リズム楽器である太鼓などをメロディー楽器として、逆にメロディー楽器として使う弦楽器などをリズム楽器として使ってみたと言っていた。ところで猿が群れになって出てくるシーンではバリ島のケチャが使われていた。ケチャはもはや民族音楽というより、多分インターナショナルに猿のイメージを喚起する音楽だと考えたのだろう。

作品づくりでは、アセアンのどの国でも受け入れられ、大衆が楽しめる娯楽作品を目指したとのことだった。その意図は十分実現できていたと思うが、しかし大衆が楽しめる=子供受けすると勘違いしているのではないかと感じさせる部分もあった。それは衣装のせいもある。ラーヴァナやその手下の衣装はまるで子供向け番組(仮面ライダーなど)の悪役さながらにピカピカと電飾が光ったり余計な装飾が多かったりで、舞踊家の身体の表情をかなり殺していた。また舞台脇の字幕は不要である。字幕の文言はリーフレットと全く同じで、事前に読んでいれば十分にストーリーは理解できる。それにリーフレットの日本語はあまりこなれていなくて、これを字幕で読むと余計に分かりにくかった。

リアライジング・ラーマの舞台でずっとひっかかっていたのは、全体的に舞台の重心が高いのではないか、そして何となくおさまりが悪いのではないかということだった。ビデオで見た時は踊り手の上半身アップが多かったのでそうは感じなかったのだが、生の舞台で見ると踊り手の腰から下あたりの空間が空いているように感じる。この感じはバレエの舞台空間に似ているかも知れないと私は思い至った。今回の芸術監督、衣装、舞台装置といった制作スタッフは皆フィリピン人だが、どうも彼らが前提としている舞台空間、作品づくりのあり方は欧米的であるようだ。たとえば、インドネシアで見られるように音楽と舞踊を共同作業で作り上げていくというやり方でなく、作曲行為が独立していること、額縁舞台を使用すること、下半身はぴったりした素材やプリーツによって腰から下が軽いのに比べて大きい冠などで体の上部を強調している衣装など。また大勢の猿が天井から垂れ下がった布でブランコしたり、ラーマが橋を架ける場面では明らかに舞台の上方に重心がある。さらに舞台中央奥の蓮をイメージしたような装置(傘のように開閉してそこから登場人物が出てくる)も、垂直方向へ伸びるイメージを強調している。舞台背後に大きく映し出される映像や踊り手の影も、逆に舞台下の空間を小さくしている。しかしバレエではそもそも踊り手が爪先立っていて跳躍も多く、宙に浮かんでいるような世界を作り出しているから、空間の重心と踊り手の重心が一致している。しかし今回は制作側の視線の高さにくらべて、踊り手達の重心はまだまだ低いところにあって、そこにずれが生じたような感じを受けた。



関連記事
http://www.philstar.com/starweek-magazine/186215/realizing-rama-experience-transformation

作曲のスパンガ氏が動画をアップされていました。↓
2003.10水牛アーカイブ「舞踊とリハビリ」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

※2003年8月号、9月号には寄稿していません。




『水牛』 2003年10月号
舞踊とリハビリ

 
7月中旬から9月初旬まで研究調査のためインドネシアに行っていた。今回はソロとジャカルタを2度も往復して忙しく、8月、9月分の原稿はお休みさせていただいた。今月はこのインドネシア滞在中のことを書いてみたい。

今回の滞在でとにかく一番に会いたかったのが、今までずっと舞踊を師事してきたJ先生だった。私は留学を終えて今年2月に帰国し、先生は3月に入院された。ストロークだという診断で、日本で言う脳梗塞、脳卒中の類である。入院した当初、先生は右半身が不随で歩けず口もきけないということだった。女性が右半身に、男性が左半身に不随が出るのは症状が重いと言う人もいた。

留学でお金を使い果たしていたから、ソロに行けるとしても来年だろうと思っていた。折りしもその頃に友人の研究者からインドネシアでの共同調査の話がきた。助成金が取れたのでこの夏に手伝って欲しいという。これは私には天からの贈り物だった。この夏ソロに行けることになったから、行ったらレッスンして下さいと私は先生に電話した。

あまり体がきかない現状では、その言葉は逆にプレッシャーになるかも知れなかった。でも自分は必要とされていると感じて、かえって早く回復してくれるかもしれない。そう信じて1~2週間おきに電話をし続けることにした。最初に病院へ電話した時こそJ先生はまだ話せなかったけれどしばらくして退院し、その次に電話した時にはすでにたどたどしいながら話すことができるようになっていた。

7月にまずソロに入り、先生に会った。回復するなら以前のように踊れるくらいまで回復しないとね、という先生の言葉を聞いて安心した。確かに倒れる以前に比べればまだ弱々しいし、手首や指が動かせるようになるにもかなり時間がかかりそうだが、先生は辛抱強くリハビリに励んでいた。これなら大丈夫と思い、今までに習った曲を復習したいので、横で見ていて間違ったり忘れたりした部分があったら直して欲しいとお願いした。先生はまだ見本も見せられないと最初はためらっておられたけれど、私も日本でなまった体をリハビリするつもりだからと言い、まあやってみようということになった。

私は1週間後に10日間ほどジャカルタに行くことになっていたので、それまで毎日レッスンしてもらう。先生は椅子に座って見ていたが、曲に合わせて歌い出したので嬉しくなる。先生は以前から踊りながら歌うことがよくあった。歌いながら左手に持ったカセットケースでクプラ(舞踊への合図を出すパート)のリズムを叩いている。右手は上がらないにしても、首の動きや視線の向きはきちんと表現している。ただ1曲1時間のスリンピを通すのはまだかなり疲れるようだった。無理をせずに1時間でレッスンを切り上げ、ジャカルタから帰ったらまたレッスンして下さいと言って、私はジャカルタに発った。

ジャカルタでは主に資料集めやインタビュー調査をすることになっており、その一環としてJ先生の長女にも会った。J先生が入院した時のことにも話が及ぶ。J先生が話せるようになったのは良い治療師に出会ったからだという。その人の治療法は、患者の経歴を踏まえてその専門分野のことについて質問し、患者に答えさせるというものだったそうだ。J先生が長年舞踊を教えていたと知るや、その治療師は「スリンピというのはどういう舞踊なのですか? 何人で踊るんですか? 私にも分かるように教えてください。」という具合に舞踊関係のことを熱心に質問したのだという。するとJ先生の態度も変わり、必死で答えようとするようになったらしい。その2日後には声が出るようになり、数日後は歩けるようにもなったそうで、長女もそれには驚いたという。それまで2週間入院していた病院の治療では「今朝は何を食べたのですか」というような一般的な質問ばかりで、その時には何の進展もなかったそうだ。そこでの治療はJ先生の心の琴線には触れなかったのだろう。言葉というのは人に伝えたいことがある時に初めて出てくるものだ、と強く思わずにはいられなかった。

ジャカルタやソロで先生のかつての教え子達に何人も会い、J先生にレッスンしてもらったと私が言うと皆が驚く。しかし長女から聞いた話もつけ加え、まだ教えたいという気持ちが先生にある内は大丈夫です、とにかく私は先生に教えることを強い続けてみますと説明すると、納得してくれる。しかしこの役割は私くらいにしかできないだろうとも思う。

これはうぬぼれではない。かつてのジャワ人教え子達はもはや年配のプロの踊り手、教師になっている。だから双方にメンツがあって、先生がパーフェクトの状態でなければ教えを乞う/授けることは難しいと思うのだ。実際に、J先生はストロークになったからもう踊るのは無理だねとか、まだ踊りたいと思っているの? ということを言ったジャワ人舞踊家もいた。そういう人達に対して、私はそれは違うと応酬する。J先生にとって踊ること、舞踊を教えることはすでに人生そのもので、舞台で踊ることができる・できないは問題ではない、舞台で踊るだけが舞踊家の生き方ではないのだ。

10日後ソロに戻る。さっそく先生に会いに行く。先生は待ちかねていて、ほら、ちょっと手が動くようになったのよと右手を見せてくれる。指が少し広げられるようになり、また腕全体を垂直に胸の高さくらいまで上げられるようになっていた。これには私も驚いた。10日の間にはっきりと目に見える変化があるとは私も思っていなかったのだ。

レッスンを再開する。先生ははるかに元気になっていた。2時間のレッスンができるようになっていたし、立って一緒に動いてくれる時間が増えた。まだ右手は十分に動かないにしても、胴の傾ける動き(leyek)も、後ずさりする動き(srisig mundur)もぼちぼちできるようになっていて、つまりそれは体のバランスが以前より良く取れるようになってきたからに違いなかった。私が帰国する前には右腕は胸よりもっと高く上げられるようになり、その状態を持続させられる時間も延びてきた。もちろん、手首を回したり(ukel)、手首・指を曲げたり(nekuk)という、舞踊には基本的な動きが回復するにはまだ時間がかかることだろう。それに医学的にどれくらい回復する見込みがあるのかも私には分らない。しかし、J先生の回復は舞踊を通してしかないことを私は確信しているし、先生の回復へのプロセスに人間として学べるものが多くあると思っている。
2003.07水牛アーカイブ「スラカルタの年中行事(2)」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』 2003年7月号
スラカルタの年中行事(2)

                    
前回に続き、スラカルタの1年の行事について述べる。インドネシアの祝日はほとんどが宗教行事に由来し、それぞれのカレンダー(例えばイスラム暦は1年が約354日である)で日が決まる。そのため日付だけでなく各祝日の順序も毎年変わる。今回は独立記念日以降の祝日について述べよう。

★8月17日 インドネシア共和国独立宣言記念日


8月ともなると、家の塀や各町の門のペンキを塗り直したり、「独立〇年」(たいていの町の門には書かれている)の数字を更新したりする光景があちこちで見られる。そしてさまざまな催しが隣近所、町や市、学校や各種団体の主催で行われ、それらはトゥジューブラサン(「17日の行事」の意)と呼ばれている。芸術家達も単に催しに呼ばれて行くだけでなく、自分達の地域で色々とイベントを仕掛けているようである。踊り手にインタビューしていると、よく踊った機会として結婚式の他に独立記念行事を挙げる人が多かった。

私が住んでいた町の中心部では、芸術への関心は低かった。独立記念行事と言えば昼にはパン食い競争、スプーン競争(正確な名称は忘れたが、スプーンに卵をのせて走る)や子供の塗り絵大会など、夜にはカラオケやダンドゥットというのがよくあるパターンだった。それでもなぜかは知らないが街頭で映画を上演した年もある。

しかし伝統芸術に関心のある地域ではガムランの演奏、舞踊やクトプラ(大衆演劇)の上演などをしている。私が行ったスリウェダリ劇場近くのある郡では、郡内のメインストリートに3つも舞台が設けられ、夕方から(昼からだったかも知れない)それぞれの舞台で子供によるジャワ舞踊大会や地域の人々によるガムラン演奏があった。

また市役所では必ず一晩のワヤン(影絵芝居)があったものである。96~98年には西暦大晦日と独立記念日前夜にはいつも市役所でワヤンがあった。98、99年は私は日本にいたので知らない。99年10月頃に市役所が焼かれ、それ以降2002年12月に再建されるまで市役所でのワヤンはなかった。今年の独立記念日はどうであろうか。

他の役所でも独立記念日の式典が前夜にあるようである。昨年スラカルタ郊外のある県でそれを見ることができた。本当はその式典を見るつもりで行ったのではなく、舞踊歌劇の上演があると聞いて見に行ったのだが。てっきり、役所の広場でいろいろ独立記念イベントがあってその内の1つだろうと思って行ってみたら、その上演は役所内での式典の一環で、出席者は制服姿の公務員や警察官ばかりだった。その式典は22:00過ぎ(予定では21:00)に始まり、いろんな演説があり、その折々に皆が「ムルデカ!(独立)」と叫んで拳を振り上げていた。この種の式典は日本では普通昼間にするのではなかろうか。ともかくこの行事はマラム・ティラカタン(マラムは夜、ティラカタンは一晩起きていることという意味)となっていたがオールナイトではなく、その舞踊歌劇の上演が終わった12時前後に行事は終了した。ところで、なぜこの舞踊歌劇が式典の一環で上演されたのか。実はこのグループはその少し前に県代表で中部ジャワ舞踊歌劇コンテストに出場し優勝したので、そのお祝いということだった。この県には芸大教官が多く住んでいることもあって芸術後援には熱心な地なのだが、それでも鑑賞しているお役人達は退屈そうな様子だった。

・9月24日 モハメット昇天祭

・11月25、26日 イドル・フィトゥリ(1424年断食明け)


イドゥル・フィトゥリの1ヶ月前から断食が始まる。王宮では断食期間中はガムランの音を出すことは禁じられており、舞踊の練習も1ヶ月休みとなる。この期間中に楽器や宝物を清めるという。

jamasan gamelan 2011
↑写真:2011年、マンクヌガラン宮で断食月に楽器を清めているところ

それでは町は静かなのかと言えば、そうではない。断食は日の出から始まるので、その前に皆食事(サウール)を取る。それが大体夜の2時半とか3時なのである。こんな真夜中にサウールを知らせるアナウンスがモスクから流れるのもうるさいが、それより前の1時半頃に近所の若い男達がグループでクントゥンガン(スリットドラム)を叩きながら歌い、「サウールの準備をしよう」と近所に触れて廻るのがもっとうるさい。これで必ず目が覚めてしまって、以後眠れない。これもイスラムの行事だとは思うものの、傍目には不良が夜中に騒いでいるのと変わりがないような気がする。

さて断食21日目の前夜からはパッサール・マラム(夜市)が開かれ、世間は何となくそわそわした雰囲気になってくる。あと10日で断食明けという期待で、みな買い物など準備に取りかかるのである。この21日目の前夜にはカスナナン王宮からスリウェダリ(遊園地や劇場がある)までキラブ(行進)がある。馬車に乗った王族、宮廷人、お供え物、衛兵に楽士、各地から来たサンティ・スワラン(ジャワ化したイスラム歌唱、ルバナという楽器に合わせて歌う)楽団の行列が一方通行のスラマット・リヤディ通りを逆行していく。スリウェダリのプンドポに着くとイスラムのお祈りがひとしきり続いて、その後お供えが撒かれる。この行事をスリクラン(21日の行事の意)と言う。この日以降、スリウェダリ劇場では毎晩催しがある。

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写真2枚: 断食21日目前夜(Malem Selikuran)のキラブとスリウェダリのプンドポでの儀式

断食明けはちょうど日本の盆正月のような大騒ぎとなる。みな田舎に帰省するため大ラッシュが起こり、交通機関の料金は普段の約3割増の特別料金となる。デパートには菓子詰などの贈答品が並び、服地屋ではバーゲンがある。かつての日本の正月のように服を新調するもののようで、私も「子供に断食明けの服を下さい。」と言う物乞いに家に来られた経験がある。年賀状のようにギフトカードの交換もあり、断食明けが近くなるとカード描きのアルバイトをする若者が郵便局やデパートの前に出現する。さて帰省すると一族はみな年長者のもとに集まって、日頃の非を詫び許しを乞う。子供が親戚からお年玉がもらえるというのは日本と同じである。そして皆で一緒に墓参りに行く。ところでインドネシアではほとんど年中無休で営業している店も多いが、断食明けの初日はさすがにどこの店も休みになる。

断食明けの5日目にはクパットとアヤム・オポールというごちそうを作って食べる習慣がある。毎年隣りの家のおばさんが差し入れてくれたことを思いだす。またスラカルタの端にあるジュルッ公園(動物園がある)ではこの日にクパット撒きがあるという話も聞いたことがある。しかし、このクパットにしろアヤム・オポールにしろ普段から目にする食べ物で、日本のお節料理のように年に一度だけの料理という訳ではない。なぜこの日にこの料理を食べるのかはまだ聞いていない。

★12月25日 クリスマス

独立記念日の項で県主催の式典を見たと言ったが、この県が行うクリスマス行事も私は見たことがある。クリスマスと言っても1月11日になってからの実施で、この場合も私は舞踊上演があるというので行ってみたら、役所でのクリスマス行事だったというものだ。役所のホールには巨大なツリーが設置され、その隣に普通はゴング(ドラ)を吊るような竜の彫刻を施した木枠にベルが吊られていたのを覚えている。ここでの舞踊劇を構成したのはカトリック教徒の芸大教官である。劇の構成はヘロデ王の虐殺のエピソードから、救世主イエスがこの世に生まれるまでである。面白かったのはそのジャワ化ぶりであった。登場人物の衣装が全くジャワのものだったのは言うに及ばず、羊飼いと羊(ちなみに羊役は子供で、うさぎの踊りの衣装を着ていた)の掛け合いが影絵のゴロゴロ(道化が登場する場面)よろしく話から脱線してしまうあたりなど、展開もジャワ人受けするようになっていた。

また芸大とその隣にある大学との共催によるクリスマス行事というのも見たことがある。この時はキリスト教の影絵=ワヤン・ワハユの上演があった。ダラン(人形遣い)はやはりカトリック教徒の芸大教官で、上演前に「教会で何か行事があるときには是非ともワヤン・ワハユを・・・」という宣伝口上があって、約1時間上演した。確か人形は一般のワヤン・プルウォの物だったように思う。

これもやはりカトリック教徒の芸大教官の話。彼は自分が行く教会で、寄付を募る箱を廻す人に舞踊振付をしたという。見たかったが別の人から既に教会へ誘われていたので、断念した。

そして私が誘われて行った教会での演し物は高校生によるお笑い宗教劇で、イエスは携帯電話を持って登場した。ここでは登場人物はスカートを穿くなど衣装が西欧的だった。

以上、自分が知らない行事は言及せずに、経験したことだけを書いてみた。私はスラカルタのことだけしか知らないが、多分インドネシアの他地域では、同じ祝日でもいろいろな過ごし方、やり方があるように思う。
2003.06水牛アーカイブ「スラカルタの年中行事(1)」 
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

今回は2003年当時の祝日の順に、祝日の内容を書いています。が、インドネシアでは多くの祝日が毎年ずれていきます。特にイスラム関係の祝日は、イスラム暦(太陰暦)が1年=約354日であることから、毎年11日ずつ早まっていきます。どれくらいずれていくのかを感じてもらうため、本文の前に2003年と今年(2017年)のカレンダーを対比させてみました。2017年にあるメーデーは2014年に新設されたもの、政令指定休日はインドネシア政府が連休政策として、土日などと繋げて大型連休になるように追加する休日です。これが始まったのもそんなに古くありません。

祝日対比表
↑画像をクリックすると拡大します。




『水牛』 2003年6月号
スラカルタの年中行事(1) 


今回と次回でスラカルタの1年の行事について述べよう。ただし以下に述べる行事の日付は今年(2003年)の場合で、各体験談の日付とは一致しない。インドネシアの主な祝日は宗教行事に由来し、それぞれのカレンダー(例えばイスラム暦は1年が約354日である)で日が決まるので、日付や各祝日の順序も毎年変わるのである。ここではどういう祝日があり、その場合にどういう芸能イベントがあるのか、留学期間中での体験に基づいて書いてみることにする。なお私の留学期間は1度目が1996年3月から1998年5月の暴動直前までのスハルト時代、2度目は2000年2月から2003年2月までのハビビ~メガワティ時代である。

読んでいただければ分かるように、各祝日の行事はその前夜から始まっている。その理由は、イスラムでは日没から1日が始まると考えられているからと一般に説明される。しかしキリスト教のクリスマス・イブしかり、日本のお祭りの宵宮しかりで、その辺りの感覚はイスラムに限るものではあるまい。基本的にお祭りは前夜から寝ないで過ごすものだったというのも同じである。そのように寝ないで過ごすことをジャワではティラカタンと言う。

(注 ★は西暦で行われる祝日である。それ以外は毎年日が変わる。)

★1月1日 西暦正月

大晦日の夜にRRI(ラジオ局)やスリウェダリのワヤンオラン(舞踊劇)劇場に行けば、普段より力の入った演目の舞踊劇が見られる。

市役所では1999年に焼失するまでは一晩のワヤン(影絵)が上演されていた。市役所は2002年12月に再建され、23日に披露式典があってその夜にはワヤンが上演されていたが、その直後の大晦日にはなかったように思う。(披露式典の食事内容はかなりけちったものだったらしいので、その直後の大晦日にワヤンをするのは財政的にも無理だったと思うのだが。)

TBS(スラカルタ芸術センター)では、そこを拠点に活躍している芸術家が自分達で色々と上演し、また一晩のワヤンもあって、私は大晦日はいつもTBSに出かけていた。特に2000/01年度の正月は特別だった。最初は日没の祈りのパフォーマンスに始まった。そして21世紀に向けてカウントダウンをするということで、20:00から始まったワヤンを0:00に一時中断し、イスラム教、ヒンズー教、仏教、キリスト教の各代表者が集まって祈りを捧げ、続いてレンドラが詩を朗誦した。その後ワヤンは続けられ、一晩のワヤンが終わってからも、夜明けに合わせたパフォーマンスもあったりと21世紀への夜明けを意識したイベントが多かった。

しかし2002/03年正月の催しはつまらないもので、しかも0:00までに終わってしまい、ワヤンもなかった。これはその頃から各地の芸術センターへの政府補助がなくなって(全額か一部かまでは確認していないが)独立採算制になってしまったからなのだ。さらにこの日はテレビで、バリ島でテロ事件の犠牲者を悼む大掛かりなイベントの生中継があり、それには有名人も多く出ていて、家でテレビを見ていた人が多かったようだ。

・2月1日 イムレック(中国2553年正月)

中国正月とは太陰暦正月、つまり日本で言う旧正月のことである。2003年から正式に国の祝日となり、そのため今年は、スーパーで中華式年賀カードや正月用の食品をどっと売り出していた。ちょうど私が2度目に留学して来た頃から、スハルト時代には行えなかった中華系の人々の行事が行われるようになっていた。中華系の祝い事でなくともフェスティバルなど何かイベントがあるにつけ、バロンサイ(獅子舞)やリヨン(龍舞)が出て町を練り歩くということが行われるようになった。しかしこの正月には私は公演があって(「水牛のように」3月号、4月号で書いている)、どんな催しが町であったのか知らなかった。

ちなみにイベントがらみで鼓笛隊やパレードがある場合はだいたい、市役所からスリウェダリ(またはマンクヌガラン宮辺り)の間で、スラマット・リヤディ通り(東向き一方通行)を~往復する場合はその北のロンゴワルシト通り(西向き一方通行)も~通行する。私が住んでいたのがちょうどこの両通りの間で市役所の裏だったため、何かイベントがあると音でわかったものだ。

・2月12日 イドゥル・アドハ(イスラム犠牲祭)

この日の1ヶ月くらい前から町に犠牲用の山羊や牛があふれて、山羊臭くなる。この日の昼、カスナナン王宮から王宮モスクまでグヌンガン(食べ物で作られた神輿)が出る。

・3月4日 ジャワ=イスラム暦1424年正月

ジャワ人には西暦正月よりもこちらの正月の方が大事である。ジャワ暦の1月はスロ月と言い、一般にジャワ暦元旦のことをサトゥ・スロ(サトゥは1の意)という。この月は何事も慎むことになっていて、ジャワ人は結婚式や家の引越しをしない。そのためサトゥ・スロの前は結婚式ラッシュとなる。

さてこの前日夜(大晦日)にはキラブ・プソコ(宝物の巡回)という王宮の行事がある。まず夕方18:00頃からマンクヌガラン宮(分家)で始まり、マンクヌガランのプソコ(宝物)、そしてその廷臣達がその外壁の廻りを一周する。これは1時間足らずで終わる。本命はカスナナン王宮の方で、夜中の11時過ぎに始まる。こちらはプソコである白い牛(代々キヤイ・スラメットという名前を継承する)を先頭に他のプソコ(槍が多い)、廷臣達、村々からその巡礼に従いたいと出てきた人々などが続々と続き、王宮を囲む地域を1周する。王宮に戻ってくるのはほとんど明け方4、5時頃である。そのルート沿道には多くの人々が、牛を一目見ようと出ている。この牛を見たり、また牛に食べ物を与えたりするとルズキ(ご利益)があるという。

実は私も2001年にその行列に従ったことがある。歩いている間は無言でなければならない。ジャワの正装をして牛のテンポに合わせて歩くので非常に疲れる上に、夜中で体は冷える。しかし歩き終わった時の清々しい気持ちは、元旦に日付が変わった夜中の0:00に産砂神にお参りするときと同じだった。

また西暦正月と同様、RRI(ラジオ局)やスリウェダリのワヤンオラン(舞踊劇)劇場では普段より優れた舞踊劇が見られる。私も一度だけジャワ暦大晦日にスリウェダリで前座で踊ったことがあるが、後から多くの知り合いが来ていたことが判明し、赤面してしまった。案外多くの人が見に来ているようである。

・4月2日 ニュピ(サカ暦=バリ暦1925年正月)

・4月18日 キリスト受難日


2001年にカトリック教徒の芸術家を中心に、この日にプライベートなイベントがあった。カトリック教徒であるベン・スハルトというジョグジャカルタの偉大な舞踊家の1000日忌の日も近かったらしく、ベン氏を偲ぶ会をこの日に合わせて行ったのである。と言ってもカトリック的な楽器や歌を使うということはなく、ガムランや現代舞踊でよく使っている仏具のような楽器などを伴奏にインプロビゼーションで踊るというものだった。

 またキリストの受難日だったか昇天祭の関連だったか忘れたが、カトリック教会では地域対抗の賛美歌コンテストがあるらしい。私の住んでいた隣の家の人もカトリック教徒で、よくそこに人が集まって賛美歌を歌っていたことを思いだす。

・5月14日 モハメット降誕祭 
       
スラカルタ、ジョグジャカルタ、チレボンの3王宮では、イスラムを布教する手段として巨大なガムランを作り、降誕祭までの1週間王宮モスクの横で演奏して、人々をいざなった。それがスカテンの始まりで、この期間中は聖なる金曜日の前夜以外は朝から晩までガムラン・スカテンの演奏が続く。

この間王宮前北広場には様々な店が出、観覧車やメリーゴーランドなどが設置されて遊園地が出来る。ある年にはイルカのショーまでやっていた。40代半ば以上の人の話では、子供の頃はスカテンではレオッグ(東ジャワの芸能)など伝統芸能の上演があり、その賑わいぶりも現在の比ではなかったという。現在では伝統芸能は見られない。

降誕祭当日には、カスナナン王宮から王宮モスクまでグヌンガン(食べ物で作られた神輿)が出る。通常の年は4基(男女1対で2組)出るが、ダル年と呼ばれる8年に一度廻ってくる年にはその倍の8基が出る。2002年の降誕祭はその年に当たっていた。ちなみにイドゥル・アドハ、イドゥル・フィトリ(断食明け)でもグヌンガンが出るが、その数は半分であり、この時ほど人が殺到することはない。この神輿の食べ物を皆が争って取り合うのは、この食べ物に力が宿っていると考えられているからだと言う。

・5月16日 ワイサック(仏教大祭)
   
この日はインドネシア全土から多くの仏教徒がボロブドゥールに集まって大祭をするらしいが、私は行ったことがない。ある年にはワイサックの行事としてカスナンン王宮のパグララン(パビリオン)で、仏教団体の主催する仏教をテーマとしたワヤン(影絵)や舞踊の上演があった。

・5月29日 キリスト昇天祭