2018.05水牛 「ジャワ舞踊作品のバージョン(6) 『スコルノ』」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年5月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「ジャワ舞踊作品のバージョン(6)『スコルノ』」を寄稿しました。


ジャワ舞踊作品のバージョン(6) 「スコルノ」

2015年8月以来、久々にジャワ舞踊作品を紹介しよう。紹介するのは「スコルノ」で、ロカナンタ社から伴奏曲のカセットが出ている(品番ACD-143)。女性舞踊曲で、特に物語はなく、大人になりかけた女性が美しく身を装う風情を描いている。

「スコルノ」は1960年頃にクスモケソウォにより振り付けられた。彼はスラカルタ宮廷舞踊家にして基礎練習法・ラントヨを考案した人である。私が師事したジョコ女史はクスモケソウォの後を継いでコンセルバトリ(国立芸術高校)でジャワ舞踊を指導した人で、この曲を初演したうちの1人であり、また1979年にロカナンタ社で録音された時にも関わっている。今回の内容は、ジョコ女史から聞いていたことである。「スコルノ」はラントヨの後に最初に学ぶ舞踊曲として振り付けられた。実はジャワ伝統舞踊のレパートリーが増え始めるのは1970年代からで、これは宮廷舞踊の解禁(1969年~)と関係がある。まだ宮廷舞踊が知られていない頃に、ラントヨと併せて宮廷舞踊の基礎的な動きを練習するために作られた曲なのである。他にゴレッという舞踊の要素も採り入れている(後述)ものの、スラカルタ宮廷舞踊のようにバティックの裾を長く引き摺るように着付をする。

次に音楽について。カセット版では伴奏曲は「パンクル」(スレンドロ音階マニュロ調)なのだが、実は元々は「スカル・ガドゥン」(スレンドロ音階マニュロ調)を使っていた。変更はカセット化よりもずっと以前、振付後間もなくのことだという。「パンクル」はガムランをやっている人なら誰もが知っている曲だから、初心者にもなじみがあって踊りやすいという理由で、クスモケソウォ本人が変更したという。さらに、市販カセット版は実は短縮版である。それでも16分21秒もあるが、オリジナル版は22分もある。「スコルノ」の録音監修者はマリディ氏だが、短縮はジョコ女史が手掛けている。なぜ短縮したのかと私が尋ねたところ、カセット会社が要請したとのことだった。ジャワ舞踊曲はだいたい15分以内の長さだが、それはカセット会社がテープの片面(30分)に2曲が収録できるよう、短縮を要請するかららしい。

カセット版の進行に沿って振付の流れを説明する。前奏があって本体の曲に入る…が、踊り手はまだ舞台の端にいて、曲が1周してから舞台に出る。現在ではそんな悠長なことをせず、前奏の最後の音から舞台に出ることが常態化しているが、いきなり踊り出すのは宮廷の美学に反するのである。その後はスリシックという小走りで出ていき、舞台を1周すると、舞台奥から前方に向かって真っすぐ歩いてくる。これは戦いの舞踊(ウィレン)の展開と同じだ。そして床に座ってスンバハン・ララス(一連の合掌に至る振付)をする。そのスンバハン・ララスの前につけられたスメディという型が、カセット版では削られた。これはクスモケソウォ独自の祈りの型で、同じカセットに収録されている別のクスモケソウォ作品「ルトノ・パムディヨ」のオリジナル版にもあるのだが、こちらもカセット版で削られている。クスモケソウォの作品を考える上では重要な振付なのだが、そもそも宮廷舞踊にない振付なので仕方ないかという気もする。床に座るところからテンポは倍の遅さになり、歌が入ってゆったりした流れになる。その後は立ってララスという動きを右、左(右の動きを左右反転したもの)、右と3回やる。ここの動きはラントヨと同じだが、カセット版では1回に減らされている。スンバハン・ララスを経てララスを左右に繰り返すという流れは、宮廷舞踊の定型だ。

ララスの後、太鼓がチブロンに代わり、さらに遅くなってイロモIIIというテンポになる。チブロンは音が高く、いろんな音やリズムパターンが表現できる太鼓である。チブロン太鼓でイロモIIIのテンポで踊る女性舞踊とくれば、スラカルタにはガンビョンがある。しかし、この舞踊は民間起源で性的なニュアンスがあるため、1960年代半ばまでは一般子女は踊らない類の舞踊だった。特にクスモケソウォはガンビョンを認めなかった人だ。大人の女性が踊ることのできる健全で上品な舞踊…ということでゴレッの要素を取り入れたのだと思う。どの辺がゴレッ風なのか。まず、ゴレッの代表的なスカラン(リズムパターン)を使う。ガンビョンのスカランにこそ性的な意味合いが込められているから、これは当然だ。そして、スカラン同士をつなげるつなぎのパターンもガンビョンとは変える。具体的には、マガッと呼ばれるつなぎを使わない。これは私自身が太鼓の先生から指摘されて初めて気づいたことなのだが、マガッにはガンビョンぽさがあると、クスモケソウォは考えていたようである。さらに、イロモIIIからIIへという、ガンビョンにはないテンポの変化がある(ガンビョンではIIIからIに変化する)。なお、イロモIIIの演奏部分は、オリジナルでは4ゴンガン(4周)あるが、カセットでは1周削られて3ゴンガンになっている。こんな風に構成された「スコルノ」はジョグジャカルタのゴレッとはまた別物になっている。

「スコルノ」は元々ラントヨの後で挑戦できるように作られた曲だから、使われるスカランもとても易しく、振りのつなぎも非常にシンプルだ。むしろ、せっかちにはゆっくり過ぎて間がもたないような舞踊である。クスモケソウォの舞踊は、次世代のガリマンやマリディに比べても素朴で、作品としての複雑な魅力や華やかさには欠ける。しかし、ラントヨや「スコルノ」の振付は、ジャワ舞踊の基礎を抽出し教えると言う点で優れた指導者だったと感じさせてくれる。



ラントヨについては、2002年11月に『水牛』に寄稿しています。実はこれが記念すべき寄稿第1作でした。サイトのアーカイブスにはこの頃の文章は掲載されていませんが、私のブログに掲載しています。(↓)
ブログ右列のリンク集
 >『水牛』アーカイブ未収録記事
  >2002年11月号 ラントヨ
2018.04水牛「別天地」
この文章にも書きましたが、2月半ばから3月半ばまで、1ヶ月間缶詰でインドネシア語を教える研修講師として、別府に行っていました。実はここ3年くらい、毎年3月、8月とこの仕事をやっているのですが、今まではりんくうタウンの研修センターでやっていたのが、今回初めて別府にある大学施設を使っての研修となりました。大分県が誘致したそうです。というわけで、私にとっては初の九州上陸でした。ただ、自宅に戻って後、3月は翻訳の仕事に忙殺され、あっさりした文になっています。

高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年4月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「別天地」を寄稿しました。

高崎山
APUから望む高崎山



別天地

2月から3月の1か月間、インドネシア語を教える仕事で別府にいた。私としては初めての九州上陸。大阪から車ごとフェリーに乗り込み、早朝に別府湾に入ると目に飛び込んできたのが烏帽子のような形の山。あとになって、あれが猿で有名な高崎山だと知る。湾岸沿いには他に高い山はなく、この地と海を見晴らすには格好の場所だ…と思っていたら、四方を見極めることができるため、かつては「四極山(しはすやま)」と呼ばれていたそうだ。豊後守護・大友氏が山城を築き、南北朝時代には九州北朝方の拠点だったらしい。

湾沿いに平地と地獄温泉がへばりつくように広がり、その背後に500m級の山がある。仕事はその山の上であり、山頂からは弧を描いて一面に広がる別府湾と高崎山が一望できる。仕事場には毎日、麓のアパートから車で通っていたのだが、その帰り道、対向車とすれ違うのも難しいような山道のカーブを曲がった所で、ふいに眺望が開けて海が見える。そこからもう少し下るとビバリーヒルズみたいなお洒落な住宅街の一画に入り、下り坂の向こうに真っ青な海面が続く。山道から見るよりも海の色が青いのは、それだけ海に近いのかもしれない。ここからさらに下って麓の高台にある神社からは、眼下の湯煙が上がる地獄温泉の向こうに海が見える…。海なし県育ちの私には、海が見える風景はいくら見ても見飽きず、山と海がある光景こそ日本の原風景のように思えてくるのだった。

そのうちふと、小学生の頃に学校で見た社会科のテレビ番組のことが思い出された。清水市を舞台に農業や漁業の様子が描かれていた。調べてみるとどうやらそれは『ぼくらの社会科ノート』(NHK教育)という番組の「清水篇」だったようである。この番組が心に残っているのも、子供心に、海(海幸彦)の仕事と山(山幸彦)の仕事が産業の基本だと思っていたからだろう…と今にして思う。

別府から戻ってきてこの2週間は翻訳の仕事に忙殺され、自宅に籠っていた。時々2階の窓から遠くの山々を見ても、ここからは山の向こうには山しか見えない。けれど、あの山々に南朝方が籠っていた頃、九州でも戦いがあったのだなあ…と別天地に思いを馳せている。
2018.02水牛「ジャワ舞踊の衣装(3)頭部の装飾」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年2月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「ジャワ舞踊の衣装(3)頭部の装飾」を寄稿しました。



ジャワ舞踊の衣装(3)頭部の装飾

前回まで上半身と下半身の衣装を説明してきたので、今回は頭部の装飾について。ジャワ舞踊では頭部の装飾には①イライラハン(髪型と冠が一体化した被り物)を被る、②鉢巻状のものや冠を頭に着ける、③結髪だけ、の3種類がある。

①イライラハンを被るのは物語のキャラクター設定がある場合、つまりはマハーバーラタなどの物語を演じるワヤン(影絵人形芝居)の人形の意匠を模倣した格好をする場合である。たとえば、女性だとスリカンディ、男性だとアルジュノなどのキャラクターの被り物を想像してほしい。それらは固い張り子で成形され、黒いビロードの布が貼られている。これは髪の毛を表しており、後頭部や頭頂部に向かってクルンと丸くなっているのは、髪をまとめ上げていることを示している。そして、頭部をぐるりと巻いている金色(またはカラフルな色)の部分がジャマン(冠)というわけである。ジャマンの部分はワヤン人形同様、水牛の皮から作られている。イライラハンはキャラクタに―よって、髪型の部分の形もジャマンの形も決まっていて、アルス(優形)であればジャマンの先は丸くなっており、ガガー(荒型)であればジャマンの先はとがっている。

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↑左:正面から見たスリカンディのイライラハン
 右:サイドから見たスリカンディのイライラハン


②は宮廷舞踊で使われる。槍や剣の鍛錬をする兵士を描いた男性舞踊(ウィレン)や女性舞踊のスリンピでは、踊り手自身の髪の毛をまとめ、布から作られた鉢巻状の物(兵士用)や王女用の冠を頭に着ける。①と違って、頭頂部は全部覆われずに空いている。このような舞踊は物語を下敷きにしていない。民間舞踊でも、ゴレッはスリンピのスタイルを模倣しているので、スリンピと似た冠を被る。なお、スリンピやゴレッの冠だが、王宮では金属製のものが使われるが、民間(芸大なども)では水牛の革製で、つまりは①のジャマンと同じである。

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↑ゴレッの冠(化粧がものすごく薄い…)

③結髪のみというのは女性舞踊にしかないが、それは男性は正装では必ず頭巾を被るからだろう。宮廷女性舞踊のブドヨではグルン・グデ(大きな髷という意味)という髪型に結う。これは宮廷女性の正式の髪型である。ただし、『ブドヨ・クタワン』だけは花嫁の髪型に結う。また、スリンピ用にはカダル・メネッという結い方をする。余談だが、これは逆立ちトカゲという意味である。ポニーテールにした毛束の先を持ち上げて顔の周りに沿わせ、櫛で留める形状がそのように見えるらしい…。実は、スリンピの衣装は2種類あり、②冠を被っても③結髪をしてもどちらでもよい。しかし、冠を被る場合は上半身はコタン(肩を覆う上着)、結髪ならコタンかムカッ(肩を露出するコルセットのような上着)と決まっている。ちなみに、民間女性舞踊ガンビョンの髪型はブドヨと同じである。これは、かつて宮廷人の集まる場に呼ばれたガンビョンの踊り子が、その髪型をするように指示されたためだと私は聞いている。

カンティル
↑グルン・グデの結髪(実は本文では言及していないが、白いジャスミンの花で飾ると、同じ髪型だがバングン・トゥラッという名前に変わる…)

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↑右の女性の髪形がカダル・メネッ。この写真はジャワで見た舞台公演のプログラム。




2018.01水牛「ジャワ舞踊の衣装(2)上半身の衣装」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年1月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「ジャワ舞踊の衣装(2)上半身の衣装」を寄稿しました。



ジャワ舞踊の衣装(2)上半身の衣装

昨年10月号で下半身の衣装を説明したので、今回はその続き。

ジャワ舞踊では下半身にはジャワ更紗(バティック)を巻く。…と10月号に書いたが、実は例外があることを書き忘れていた。それは宮廷舞踊ブドヨの場合である。ブドヨでもバティックを巻くことはあるのだが、儀礼性の高いブドヨではチンデというインド伝来の模様の布を巻く。現在のジャワではチンデといえば染めだが、本来は織りである。実はジャワ王宮では、チンデは貴族がその地位を示すために使われる。男性なら帯やズボン(バティックの下に穿く)身に着ける。女性舞踊でそのチンデを下半身に巻く時の上半身の衣装は、通常のバティックのサイズより縦も横も2倍大きいドドット・アグンというサイズの布に、森羅万象を示すアラス・アラサンという柄(森に棲む各種動物の柄)を金泥で描いたもの。結婚式の花嫁衣裳の姿でもある。宮廷でも「ブドヨ・クタワン」という、今でも門外不出の舞踊にしか使われない。それ以外のブドヨには、上半身にドドット・アグンのサイズのバティックを巻く。

・素材

宮廷舞踊のスリンピや、宮廷舞踊から発展したゴレック、あるいはワヤン・オラン(舞踊劇)の上半身の衣装は、ビロードの布に金糸や金コード、ビーズなどで刺繍したものだ。デザインには袖無しで前開きのコタンと、ビスチェのように肩が露出するムカッの2種類があり、スリンピにはどちらのタイプも用い、ゴレックではコタンを用いる。ビロードはどう見ても西洋風に見えるが、事実、イタリアで発明され、ルネサンス期に発展した素材だ。日本には南蛮貿易で伝来したことを考えると、ジャワ島に伝わったのも日本とそう変わらない時期ではないかと思う。伝統技法のバティックとの組み合わせは変に感じるが、バティックも発展したのは17世紀頃からと、ビロード伝来時期とあまり変わらないようである。当時の宮廷人にとってはどちらも最新の豪勢な素材で、宮廷の権威を示すにふさわしい素材だったのだろう。

一方、民間舞踊のガンビョンでは木綿に絞りを施した布を胴に巻き付ける。この布のことをクムベンと呼ぶ。絞りは世界各地で古代から見られる手法で、庶民が着用できる(安い)素材なのだ。アクセサリも豪華ではなく、その代わり、ジャスミンの花輪を首にかけ、ジャスミンやカンティル(モクレンの仲間、指先くらいの大きさ)を髪に挿す。実はガンビョンの舞踊では、このジャスミンの花を身に着けることが重要なのだと着付の師に教えられた。ガンビョンは本来豊穣祈願の舞踊なのだが、その踊り子たちが身に着けたジャスミンの花には病気を直す力があると信じられ、観客たちは欲しがったそうである。

・色

ジャワ舞踊では、上半身の衣装の色と腰に巻くサンプールという布の色の取り合わせがコーディネートで重要になる。特に舞踊劇ではキャラクターを表現する上で色が重要だ。たとえば、スリカンディはスラカルタ様式では赤色のムカッに青色のサンプールを組み合わせることに決まっている。赤い衣装は荒型用の色だが、スリカンディは女性ながら司令官として戦場に立つ女性なので赤色がふさわしく、赤×青のコントラストでキャラクターの強さを一層強調するのである。一方、優美なキャラクターを表現したり、曲の優美さを強調したりしたいなら、黒、紺、深緑、深紫などの落ち着いた色のビロードの上着に深い色の緑色やマゼンタ色のサンプールを合わせるのが良い。黄色やオレンジ色のサンプールは舞台映えするが、キャラクターがついているので、宮廷舞踊には合わないと私の着付の師匠は言う。また、日本人だと紫色の上着にはピンク色をコーディネートしたくなるが、ピンク色はジャワではほとんど見ないように思う。どうも、ジャワ人にはピンク色は煽情的な色に見えているのではないかと感じている。

ジャワでは特定の色の組み合わせに名前がついていることがある。一番有名なのはパレアノムと呼ばれる若い緑色×黄色の組み合わせだろう。これはマンクヌガラン王家の旗印の配色である。ちなみにパレは苦瓜、アノムは若いという意味。だから、同王家が振り付けて有名になった作品「ガンビョン・パレアノム」では、緑色のクムベンに黄色のサンプールを合わせる。
2017.12水牛「能舞台に舞うジャワ舞踊」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2017年12月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「能舞台に舞うジャワ舞踊」を寄稿しました。

以前投稿している舞台写真やビデオも併せてご覧ください。
舞台写真1 http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-900.html
舞台写真2 http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-902.html
衣装写真  http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-901.html
舞台映像  http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-899.html

私のエッセイのバックナンバーはこちら→ 冨岡三智アーカイブ
※ 2002年11月から同サイトに寄稿しています。




能舞台に舞うジャワ舞踊

冨岡三智

去る11月25日に奈良春日野国際フォーラム「甍」能楽ホールでジャワ舞踊を上演する機会を得たので、今回はその話。この上演は日本アートマネジメント学会第19回全国大会の関連企画「能舞台に出会う」の一環で、能舞台の魅力を引き出すというのがテーマだった。私自身、能舞台でジャワ宮廷舞踊を舞ってみたいという希望を長らく持っていた。能をインドネシアで紹介する事業を実施した(水牛2007年2月号参照)のも、両者の空間感覚に通じるものを感じていたから。今回その希望がかない、しかも学会のサポートもあって照明の使用などをホールに認めてもらうことができたのを嬉しく思う。

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奈良春日野国際フォーラム「甍」能楽ホール

●『ブドヨ〜天女降臨〜』

これは今回の私の上演題目で、ジャワ宮廷女性舞踊『スリンピ・アングリルムンドゥン』の前半を1人で舞った。スリンピは4人の女性による宮廷舞踊、ブドヨは9人の女性による宮廷舞踊の種類で、演出や衣装が異なる。この曲は今ではスリンピだが、本来はブドヨとして作られた。振付やステップにブドヨの儀礼的な性格を色濃く残しており、かつ、ブドヨとしても最も古い時代のもので、演目としても「重い」。だから、今回はブドヨとして扱い、ブドヨの衣装であるドドット・アグンを着た。

能舞台で上演するならブドヨだと決めていたのだが、それは、ブドヨの起源が神代に天女が天界の音楽にあわせて舞ったことにあるとされているから。鏡板の松に降臨する天女が舞うとすれば、それはやはりブドヨだろう。ジャワの王はブドヨ上演を通じて王国の安寧を祈念する。それらの点が、天界の調べにのせて国土の繁栄を祈念しつつ、宝物を降らせながら昇天していく『羽衣』の世界に通じるように感じる。

ジャワ宮廷舞踊は四方舞であり、大地を踏むステップが多いブドヨには特に呪術要素が強い(水牛2004年4月号参照)。能と言えばその摺足歩行が注目されるが、たまに床をドンと踏みしめる音に私は惹きつけられる。ジャワ宮廷舞踊にも、床を踏み鳴らすステップがあるのだ(その音からドゥブゥッと呼ばれる)。このステップは民間舞踊にはなく、宮廷舞踊を特徴づけるものになっている。

●柱と床

ジャワ宮廷の儀礼舞踊は、プンドポと呼ばれる壁のない建物の中央の、四本の柱で囲まれたホールのような空間で上演される。この4本の柱(ソコ・グル)は高い屋根を持つ建築全体を構造的に支えているだけではなく、日本の「大黒柱」という言葉のように徴的な意味合いを持つ。4本の柱が四方:東西南北を象徴するとされるのは能舞台と同じである。高い屋根の梁には祖霊神が棲んでいるとされ、4本の柱は天と地=プンドポの四角い空間を垂直につなぐ。ジャワ王家ではソコグルは1本の巨木を4分割して採られるが、それは、世界は結局1つの軸でつながっていることを示しているかのようだ。ソコグルの柱の中には布で覆われ、供物が置かれているものがあるが、それはその柱に霊が宿っていることを示す。

能舞台とプンドポの空間感覚には通じるものがあると前に言ったけれど、少し違う部分もある。プンドポでは柱が重視される一方、能舞台では床面の方が重視なのではないかと今回感じた。舞台上では必ず白足袋を履くのも、床面の保護という物理的な理由以上に、清浄さを尊ぶからのように感じられる。ちなみに、プンドポの床面は王宮なら大理石である。そして、本来なら裾にバラの花びらを巻き込んで舞う。だから、裾を蹴り出すたびにバラの花びらがこぼれ舞い散って、まるで散華のように見えるのだが、日本だと能舞台でなくても室内でこの演出をするのは難しい。

能舞台の床面は想像以上に滑らかで、体重をかけると自然と滑り出してしまいそうだ。この床上で『安宅』や『石橋』のような激しい動きができることに驚く。ケンセルという横に滑る動きが、何のひっかかりもなく流れていく。もちろん、それは足袋を履いているからこそだが、長く引きずる裾(ジャワ舞踊の衣装)に載って滑る(無論、そんなことはしてはいけない)よりも、よく滑る。橋掛かりを退場する時に客席の方を向いてケンセルしたのは、天空を滑るような感覚が表現できそうに思ったからだった。

その橋掛かりだが、実際に見える以上に遠いと感じた。実際に歩いた時間は揚げ幕を出てシテ柱まで1分、そこから舞台中央前方まで30秒であり、ジャワ宮廷舞踊の上演時には5〜8分くらい入退場に時間をかける私にとっては、時間的に長いわけではない。けれど、思った以上に橋掛かりから観客も舞台も遠く、違う世界から1人で舞台に上陸していくという感覚が確かにあって、少し怖さを感じた。

●照明

今回の舞台で私がこだわったのは、地明かり以外に照明器具を持ち込むことだった。能では〜ジャワ宮廷舞踊でも同じだが〜、舞台全体をフラットに照らした中で上演し、スポットライトなどオプションの照明を使うことはしない。そこに、見せるための舞台芸術(ジャワで言うトントナン)ではないという古典芸能の矜持を強く感じる一方、世阿弥なら使ったかもしれない…と、不遜にも思うのだ。私は2007年にジャワでブドヨ公演をしたときにも照明を使ったことがある。舞踊の振付を分析すると、当時の演出家も照明やズームカメラ(映像なら)など様々な技法を使いたかっただろう…と確信できる点があったからだが、賛否両論の反応があった。今回も賛否両論あるだろうな…とは覚悟している。

今回照明をつけたのも、第一に振付自体に陰影を感じさせるものがあるからだが、第二に、空間的、雰囲気的(神秘的だとか)な奥行を作り出したかったからである。地明かり照明は舞い手の姿をはっきり見せる一方、空間をフラットに見せてしまう。しかし、能が描くのは幽玄な空間であり、ゆがんだ時空の裂け目に顔を出す非日常の世界なのだから、現代のような舞台技術があれば世阿弥もそれを利用するのではないか?と私には思えてしまう。

私は橋掛かりを通る時に鏡の間から一筋のように光を照らしてもらい、また、舞台にいる時は遠く上手から一筋の光を投影してもらった。このような使い方は意外だったようである。実のところ、私が照らしたかったのは自分自身ではなくて床だった。私は平面的な世界に影を落とす存在(天女だけど)として舞台に登場したかった。能舞台では柱よりも床が重要なように感じると前述したけれど、光が差し込み、地面で照り返し、それが対象物に当たって影ができてこの世が切り開かれていくような空間が能舞台には合うのではないかな…と私には思えた。それが成功しているか失敗しているかは見た人の判断によるのだけれど、少なくとも私自身が見たいと思う能舞台空間を演出しようと思ったことは間違いない。伝統芸能の舞台でも、演者の技量だけでなく空間自体を見せることを考えても良いのではないかと思っている。

https://youtu.be/Fy_SIfJpvWE

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2017.10水牛「ジャワ舞踊の衣装(1)下半身の衣装」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
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※2002年11月から同サイトに寄稿しています。




ジャワ舞踊の衣装 (1)下半身の衣装

今回からしばらくジャワ舞踊の衣装を紹介しよう。ここでは私がやっているスラカルタ様式の舞踊衣装の説明が中心になるのだが、その前にジャワ舞踊が指し示す範囲について説明しておく。というのも、衣装には地方や様式の差がはっきり表れるからなのだ。

一般にジャワ舞踊はジャワ島で踊られる舞踊だと解されているけれど、伝統芸術の分野では、ジャワ島中部の王宮都市であるスラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタ(短くジョグジャと呼ばれる)の様式の舞踊だけをジャワ舞踊と呼ぶ。ちなみに、ジャワ島の西部(スンダ地方)の舞踊はスンダ舞踊、ジャワ島東部の舞踊は東ジャワ舞踊と呼ばれて、ジャワ舞踊とは区別される。また、ジャワ島中部のソロとジョグジャ以外の地域にもいろんな種類の地方舞踊があるのだが、それらもジャワ舞踊には入れない。つまり、中部ジャワの2つの王宮の影響を受けて、そのお膝元で発展した舞踊だけがジャワ舞踊なのである。

前置きが長くなったけれど、ここから本題。ソロ様式の舞踊にはいくつかの種類があり、種類ごとに着付が変わる。このシリーズでは、部位ごと―今回は下半身―に注目して、舞踊の種類ごとに衣装がどのように違うのかを説明してみたい。以前にも書いたことがあるが、東南アジアの伝統衣装は、おしなべて下半身が伝統の染めや織りの素材、上半身にビロードなど外来素材を使うことが多い。

●カイン・バティック

ジャワ舞踊では下半身にバティック(ジャワ更紗)と呼ばれる布=カインを巻くが、日本人がジャワ更紗と聞いて想像するような赤や青色を使った花鳥柄はジャワ舞踊では使わない。ソロやジョグジャのバティックは地味な茶色が基調で、舞踊にはパラン(波型刃の剣)模様という半ば抽象的な柄を用いる。パラン模様は、本来王族だけが着用できる禁制柄である。

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▲パラン模様

普通の正装の場合、ソロではソガ色(黄色がかった茶色)のバティックを着、ジョグジャでは焦げ茶と白のコントラストの強いバティックを着る。そのため、なぜワヤン・オラン(舞踊劇)ではソロでも白のパラン模様のバティックを着るのか疑問に思っていたのだが、亡き師匠が言うには、ソロでも以前は舞踊には白地のパラン模様のバティックを着るのが普通だったそうだ。なぜなら、それはソロとジョグジャに分裂する以前のマタラム王家の意匠だからだという。

しかし、舞踊劇以外の舞踊作品ではソガ色のバティックを着用することが多い。それはソロらしさを強調するため、ジョグジャではなくソロの舞踊だと強調するためだろうと思われる。たとえば、今やソロを代表する舞踊にガンビョンがある。これは1970年代以前は一般子女が踊るにふさわしくないとされ、商業劇場の踊り子しか踊らなかった。そのガンビョンの衣装にはソガ色のバティックを着ることが多いが、1950~60年代には色物のカインを着ていたという話を聞いたことがある。色もののカインを着るというのは、つまり、ジャワ王宮の舞踊ではないということを示しているのだ。それが、王宮の舞踊の影響を受けて洗練され、芸術高校や芸術大学で欠かせない演目となってくると、バソロらしく、王宮の雅を取り入れたバティックを着るようになったということなのだろう。

女性カインの巻き方
▲ガンビョンの衣装、ソガ色でパラン模様のバティック

●着付

スラカルタの女性舞踊には、サンバランと呼ばれる裾を長く引き摺る独特の着付がある。通常のバティックより1mほど長い。これは王宮で踊られていたスリンピやブドヨ、あるいはワヤン・オラン舞踊劇でも着用する。また、もともとこの着付をしないゴレッという舞踊でも、この着付をする演目がある(『ゴレック・スコルノ』、『ゴレック・マニス』など)。

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▲ 『ゴレック・スコルノ』の衣装、裾を引き摺るサンバランの着方

サンバランはジョグジャカルタ舞踊にはない着付である。私が聞いた人は、本家のソロ王家がジョグジャ王家に使用を許さなかったのだと言っていた。実は、マタラム王家はソロとジョグジャの2王家に対等に分裂して消滅したのだが、分裂当時の王都(スラカルタ)や王の名前(パク・ブウォノ)を引き継いだソロの方が本家だと見なされている。ソロ王家は相手に使用を許さないというやり方で、自らの権威を表現しているのだ。

前項でも言及したガンビョンやボンダン(子供をあやす舞踊)では、通常の正装用の着方と同じように前身頃に襞(ひだ)をとったバティックを巻く。この襞は女性なら指1本分の幅で、端からきれいに折りたたんで作る。ソロとジョグジャではバティックの色が違うだけではなく、襞の取り方や巻き方も異なっている。ソロの場合、襞の数は7本~13本で奇数になるようにする。

ゴレックと言えばジョグジャを代表する舞踊だが、ソロにもゴレックがある。ただし、ジョグジャのゴレックが大人の女性用の作品で、音楽や振付が複雑であるのに対し、ソロのゴレックは子供用で単純だ。私の亡き師匠が子供の頃(1930年代)にはすでに子供用として定着していたと言う。ゴレックでは体の右側か左側に――ということはどっち向きに巻いても良い――大きく襞を作って着用する。ソロ王家の子供用の着付にはない巻き方だから、ジョグジャ舞踊の真似をして作られたのだろうと思う。(だから、着付が適当なのだ。)一方、上述の『ゴレック・スコルノ』や『ゴレック・マニス』は、ゴレックと銘打ちつつも大人の女性向けに作られた作品だ。だからこそ、サンバランの着付を導入しているのだろう。

blogジョグジャ・ゴレック
▲ ジョグジャカルタのゴレック、体の左側で襞を取る着方(写真:西岡美緒様)

舞踊劇から独立した演目で『スリカンディvs.ムストコウェニ』がある。どちらのキャラクターも女性である。スリカンディの衣装はサンバランだが、ムストコウェニの衣装はサンバランに似ているものの、片足は顕わになっていて、下にズボンを穿いているのも見える。実はムストコウェニは人間ではなく、姿を変えられる妖怪だ。この妙な姿はそれを表しているのだろうと思う。ソロ様式の舞踊では女性がズボンを穿くことはないが、ジョグジャ様式の舞踊ではスリカンディなどもズボンを穿いている。私がジョグジャ舞踊を見て一番驚いたのが、女性のズボン姿である。ソロの女性よりも強いなあ~と感じたのだった。
2005.03水牛アーカイブ「振付家名のクレジット(2)」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年3月号
振付家名のクレジット(2)


前回触れたスラカルタ舞踊の古典とも言うべき「ルトノ・パムディヨ」(1954年作)や舞踊の基礎「ラントヨ」(1950年頃作)がクスモケソウォ(1909~1972)の作だと聞けば、これはうなずける。クスモケソウォは宮廷舞踊家で、その立ち居振る舞いも容貌も宮廷美学の理想を体現していると言われていた。私は本人を直接知らないにしろ、その話に聞く人柄は見事に作品に反映されている、という気がする。

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では「マニプリ」はどうだろう。現在ではマリディ氏がリメークした「マニプレン」(1967年作、マニプリのようなものの意)が知られているけれど、実はそれに先行して「マニプリ」という作品があり、それはクスモケソウォ作だとされている。あくまでも優美なジャワ宮廷舞踊家のイメージと、飛び跳ねる感じのインド舞踊の動きは結びつかないなあと思っていた。

それも道理で、そのクスモケソウォ作の「マニプリ」も、名が表す通りインド舞踊のマニプリを元にしており、クスモケソウォが個人でインド舞踊風の動きを考案したわけではないのだ。

「マニプリ」が作られたのは1953年頃のことである。インド政府派遣の舞踊家アミット・ポールが、スラカルタにある国立コンセルバトリ(今の国立芸術高校)に来てワークショップをした。この人はインドネシア各地の舞踊を視察していて、スラカルタのコンセルバトリでジャワ舞踊を習い、代わりにコンセルバトリの人達はインド舞踊のマニプリを習った。とはいえ、アミットはマニプリのカセットテープを持っていなかった。(当時はまだオープンリールのテープしかない時代である。)せっかく動きを習っても音楽がなくては上演できないというので、当時のコンセルバトリの校長・スルヨハミジョヨが「ジャワの曲に動きをつけよう!」と言いだして、「マニプリ」が誕生したという訳である。ジャワの曲の構造に当てはまるように動きも少し変えたという。

この「マニプリ」は現ムスティカ・ラトゥ化粧品会社の社長の結婚式で初演された。私の舞踊の師であるJ女史(当時コンセルバトリにいた)も初演メンバーの1人だ。そしてマリディ氏もこの「マニプリ」上演を見ている。J女史が初演メンバーの1人だったことや、この「マニプリ」は現在の「マニプレン」よりもっとインド風で大人の舞踊だった(「マニプレン」は子供の舞踊として定着している)ことなどを、私は最初にマリディ氏から聞かされた。

その後J女史に「マニプリ」成立の事情をあれこれ聞いていると、コンセルバトリのワークショップの中から舞踊が生まれたということがわかってきた。一般に「○○氏振付」と銘打たれているとその人が100%動きを考え出したように思われるけれど、「マニプリ」の場合はワークショップの舞台となったコンセルバトリの代表者として、クスモケソウォの名前が挙げられていたのだ。クスモケソウォは当時コンセルバトリ唯一の舞踊教師で、位の高い宮廷舞踊家だったから、コンセルバトリでの業績はすべてクスモケソウォの名前に帰せられていたのだろう。そういう意味で、「ラントヨ」や「ルトノ・パムディヨ」をクスモケソウォが振付けたというのと「マニプリ」の振付家がクスモケソウォだというのは少々意味が異なる。

ところでマリディ氏はなんでそれを1967年になってリメークしたのだろう。その事情についてはうかつにもまだマリディ氏に聞いていない。私の友人は、「マリディ氏はアメリカに行った時にインド舞踊・マニプリを見て『マニプレン』を振り付けたという話を聞いている」と言う。それを考え合わせると、アメリカでインド舞踊マニプリを見てコンセルバトリの「マニプリ」を思い出しリメークしたのかな、という気もする。

現在では「マニプレン」のカセットが市販されているから、「マニプリ」、「マニプレン」(この呼称はしばしば混同して使われている)の振付家といえば、マリディ氏の名前だけが知られている。

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クスモケソウォといえば、1961年から始まっている「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家としても有名だ。これはプランバナン寺院の野外舞台で乾季の満月の前後に上演されている。現在では観光用舞台としてしか見られていないけれど、始まった当時は運輸・郵政・観光大臣管轄の下、スラカルタのコンセルバトリ校長・スルヨハミジョヨがディレクターを務め、スラカルタ宮廷とパク・アラム家(ジョグジャカルタ宮廷の分家でスラカルタ宮廷と縁戚関係にある)の舞踊家や音楽家が総力を結集して取り組んだ一大プロジェクトだ。(現在の出演者は地理的に近いジョグジャカルタから来ていて、スラカルタからは来ていない)

当時すでにコレオグラファーという用語が使われていて、クスモケソウォの肩書きはコレオグラファーである。この場合も本人が新しい動きや型を全部考案したというわけではなくて、総合演出家である。男性舞踊荒型と女性舞踊のパートに関してはアシスタントの振付担当者が別に3人ずつ位いた。なにしろ舞台が巨大(間口50m×奥行き14m)だから、群舞も含めて出演者が200~300人位いる。(200人と300人の差は大きいが、人によって言うことが違うのだから仕方ない。)それに猿だの鹿だの鳥だのいろんなキャラクターが出てくるから、振付家1人では対応は無理というものだろう。クスモケソウォが自ら手がけたのは主役のラーマ王子(優形)の動きなどである。

「ラーマーヤナ・バレエ」では他のアシスタントの振付家の名前も舞踊教師としてクレジットされていた。しかしそれでもクスモケソウォの名前が振付家としてクローズアップされるのは事実だ。それでそのことに不満を持って、公演が始まってすぐに降板した舞踊教師もいる。

こういう問題は舞踊が宮廷の中だけで上演されている間は起きなかったことだ。宮廷では王の名前だけがクレジットされ、舞踊家は平等に匿名だった。しかし舞踊が宮廷外に出ると、誰が創ったのかが問題にされるようになる。それは名声や金銭収入につながるから、振付の一部を担ったと自負する舞踊教師が振付家として自分の名前がクレジットされないこと、何でも宮廷舞踊家の業績になってしまうことに不満を抱くのも無理はない。

(続く)
2015.10水牛_「パンジ・トゥンガル」 (再掲、映像追加)
以下、高橋悠治氏のサイト『水牛』 2015年10月号に書いた、ジャワ宮廷男性舞踊(スラカルタ宮廷様式)「パンジ・トゥンガル」のエッセイです。写真、ビデオを追加して本blogに再アップします。

パンジ・トゥンガル1_撮影:坂口
撮影:坂口裕美子さま



「パンジ・トゥンガル」

いつの間にか月末になってしまい、またもや泥縄で原稿を書いている。というわけで、今回は、来たる10月3日の「観月の夕べ」公演で踊る「パンジ・トゥンガル」という曲のよもやま話を書いてみる。

「パンジ・トゥンガル」はスラカルタ宮廷に伝わる男性宮廷舞踊で―1650年パク・ブウォノ2世(1726-49)の作という―、1970年代の宮廷舞踊の解禁を受けて舞踊家の故ガリマンにより復曲された。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のカリキュラムに入っていて、3年生で履修する。男性優形(アルス)の極みとも言われる曲で、『パンジ物語』の主人公のパンジとは関係なく、キャラクターのない舞踊である。

曲名は1人のパンジという意味で、本来は2人で戦うウィレンという形式の舞踊を1人バージョンにしたもの。1人版に直したのもガリマンで、私が勝手にアレンジしたわけではない。元の2人版の舞踊名は、通称「パンジ・クンバル」(2人のパンジ)、または「パンジ・スプー」(老いたパンジ)という。ただし、本当は「パンジ・アノム」(若いパンジ)だという意見もある。伝説として、スラカルタ宮廷には王位を継ぐ者が宮廷の宝物が納められた部屋で1人誰にも見られずに踊る舞踊があるといい、それが「パンジ・スプー」である。その舞踊を踊りながら、王たらんとする者は「人はどこから来てどこへ行くのか」というジャワ哲学の問いを自問するが、ガリマンの舞踊はその王の境地に至っていないという意味で「若いパンジ」ということらしい。

若い境地とはいえ、この舞踊はなかなか難解である。テーマとしては、他の宮廷舞踊と同様、内面の葛藤や克服に至る過程を描いているのだが、メタファとしての戦いのシーンがない。女性宮廷舞踊のスリンピやブドヨには戦いのシーンがあって、ピストルを発砲したり矢を射たりする。しかし、この舞踊では剣を抜きそうな感じになるが最後まで剣は抜かないのだ。2人版でもそうで、チャンバラやってカタルシス…というわけにはいかず、徐々に緊張感が積み重なっていくのだが、最後に何か感じるところが残る。

この曲は、宮廷女性舞踊のスリンピやブドヨのように、最初から最後まで息の長い節回しの女声斉唱(ブダヤン)がつくのだが、この舞踊のブダヤンが一番大変かもしれない。というのも、一番単調そうに見えるからだ。もっとも、ジャワ宮廷舞踊曲は現在人の感覚からすればどれも単調だが…。それでも、ブドヨの歌は音高がかなり上がり下がりするし、途中で転調するのもある。スリンピは大きい形式の曲から始まって複数の異なる形式のものをつないでいき、曲が変わるごとに雰囲気が変わる。ところが、「パンジ・トゥンガル/クンバル」の場合はラドランという小さい形式の曲がずっと続き、大きな速度変化がほとんどない。たぶん、歌手にすれば念仏を唱えているような境地だろうな…と想像する。それでも、私にとっては、その淡々とした流れの中に、緊張感が高まったり少しゆるんだり、焦ったり落ち着いたり、といった山や谷がいくつもあるのである。

この舞踊の振付について昔はよく理解できなかったが、最近はなんだか踊らされる曲だなあと感じている。自分の意志で動いているというより、舞台の四隅から目に見えない糸が伸びてきて、引っ張られていくような感じだ。そういう引っ張られていくような動きが多いのである。ジャワでは神にすべてをゆだね(パスラー)、神と合一する境地が理想とされる。大いなるものに身を委ねるように踊れたらよいのだろうが、そこまで悟っていない自分を自覚しつつ、10/3に臨んでいる…。



3)JavaDance&GamelanFestival(PanjiTunggai)観月の夕べ


ジャワ・スラカルタ宮廷男性舞踊「パンジ・トゥンガル Panji Tunggal」
第7回ジャワ舞踊・ガムラン奉納公演 観月の夕べ
2015年10月3日(土) 岸城神社 (岸和田市)にて
演奏: ダルマブダヤ
撮影: おおかわ登さま
2017.08水牛「ジャワの雨除け、雨乞い」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2017年8月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「ジャワの雨除け、雨乞い」を寄稿しました。

私のエッセイのバックナンバーはこちら→ 冨岡三智アーカイブ
※2002年11月から同サイトに寄稿しています。




ジャワの雨除け、雨乞い

日本での雨の降り方が熱帯地方化しているように思える折柄、今月はジャワでの雨のコントロール法について述べよう。

●雨除け

王宮で結婚式の行事があった時にやっていた方法が、竹ひごを束ねた箒を逆さ立てて、その先に唐辛子をたくさん刺すというもの。ネットで調べてみたら、祈祷師(パワン)がやる一般的な方法のようで、唐辛子以外にニンニクとバワン・メラ(赤エシャロット)も使うらしい。これらは唐辛子と並んでジャワ料理を代表する3大基礎香辛料と言えるだろう。どういう理屈で雨が止むのか分からないが、あるネット記事には「祈る人は確信してやるべし」と書いてあった(笑)。

水牛2017年8月号雨除け写真
2000年冨岡撮影、石柱に立てかけた雨除けのセット(この文章を書くときは写真を見直さなかったのですが、唐辛子の下に赤エシャロットも刺さっており、下にいろいろ香辛料が並んでいますね。)


私も雨除けのためにパワンを呼んだことがある。それは、2006年11月に舞踊「スリンピ・ゴンドクスモ」の曲を録音した時のことだった。この時は芸大のスタジオではなく、芸大元学長スパンガ氏の自宅のプンドポで録音した。プンドポは王宮や貴族の邸宅には必ずある伝統的な建物で、儀礼を行うための空間だ。ガムランはこういう場所に置かれている。壁がなく柱だけで屋根を支えている建物だから屋外も同然だが、プンドポでは天井に上がっていった音が下に降ってきて音響的には素晴らしく、ガムランとは本来こういう空間で上演されるものだと実感できる。スパンガ氏の屋敷は広大で、しかも塀の前には田んぼが広がっているから、雨さえ降らなければ夜は静かになる。というわけで、雨除けが必要なのである。11月は雨期に入っているし、それに録音予定の週には町内で結婚式が2つもある(ジャワでは自宅で結婚式を挙げることも多い)。それらの家でもパワンを呼ぶから、あっちで雨除け、そっちで雨除けされたら雲がスパンガ氏の家の辺りに集まってきて、録音日に雨が降るかもしれない!こっちでも雨除けが必要だ!と演奏者たちに要請されてしまったのだ。

それで当日パワンに来てもらうことになったが、他にも伝統的な雨除けの方法として、パンツをプンドポの屋根の一番上の柱に上げるというのもあるけど、やる?と冗談交じりに聞かれた。もちろん却下であるが、そういう場合、パンツは録音主催者の私のものであるべきか、家の当主であるスパンガ氏のものなのか…、また古い時代ならパンツではなく褌などになるのだろうか?などと色んな疑問が沸き起こる…。しかし、これもどういう理屈なのだろう。

話を元に戻す。録音では夜8時集合にしていたが、私は準備のため7時過ぎにバイクで現地に到着した。しかし、道中で土砂降りの雨が降り始めたので怒り心頭である。8時には雨は小雨になったが、まだ誰も来ない。少なくともパワンは先に着いて雨除けのお祈りか何かをしていてしかるべきではないか?竹箒に唐辛子は準備しないのだろうか?などという思いが脳裏をよぎる。8時半頃に雨がやみ、出演者が集まり始めた。録音準備をやってとりあえず晩御飯である。この段になってパワンがやってきて、晩御飯を食べてすぐに帰って行った…。あとは演奏するだけとなった時には雨はすっかりやんで、しかも田んぼのカエルたちも全然鳴かない。演奏者たちはパワンの成果にすっかり満足だが、そもそも予定時間から遅れているのだし、1人ずぶぬれになった私にすれば結果オーライでも割り切れない部分がある。別に謝礼と晩御飯を用意しなくても雨はやむべくしてやんだような気がするし…。しかし、パワンにすれば、本来一晩雨のはずが録音を実行できる状態にできた成功事例だったのかもしれない。

●雨乞い

私が最初に留学したのは1996年の3月から2年間で、ちょうど雨季の終わり頃に着いた。そして乾季を過ぎ、次の雨季が来ようとする頃…。雨季は11月頃から始まり、本格的な降りになるのは12月頃からなのだが、この時は1月半ばになってもほとんど雨が降らなかった。ちょっと小高い所にある大学の周辺の下宿では井戸水が枯れる所も多く、大学に来てマンディ(水浴び)をする学生がこの頃は多かった。大学は公的機関だけあって井戸は深く掘られていたようだ。

そんな折、私が参加していたカスナナン王宮の宮廷舞踊の定期練習では、「スリンピ・アングリルムンドゥン」を練習する機会がぐっと増えた。この曲はムンドゥン(雲)という語を含むように、雨を呼ぶと言われている。宮廷舞踊のレパートリーの中でも1年に1回、即位記念日にのみ上演される「ブドヨ・クタワン」という曲に次いで重いとされる曲で、王宮の練習に参加して半年余りたったこの時点で、1度も練習したことがない曲だった。演奏家たちは農村地帯に雨が降るようにとお祈りをしたのちに演奏を始めたものだ。王宮の周辺では相変わらず雨は降らなかったが、郊外では微量だが雨が降ったという。

また、「ババル・ラヤル(帆を揚げる)」という曲が雨乞いのために演奏されたこともある。この曲はグンディン・ボナンと呼ばれる合奏形態で演奏される儀式用の曲の1つだが、雨と関わる由緒があるらしかった。これは、カスナナンではなくマンクヌガラン王家の演奏練習の日だったかもしれない。

これらの雨乞いは別に王家が公的にアナウンスして行ったわけではなく、王宮付き芸術家による私的な行為である。しかし、ジャワの王宮と農村との間にある精神的な紐帯を思い出させてくれる。音楽や舞踊にはこんな霊的な力があると信じられている。
2017.07水牛「ジャワの女王・女武将」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2017年7月」(水牛のように)コーナーに
今月は「ジャワの女王・女武将」を寄稿しました。

私のエッセイのバックナンバーはこちら→ 冨岡三智アーカイブ



ジャワの女王・女武将

現在大河ドラマでは「おんな城主直虎」が放映されているが、女ながら城主であるとか、女ながら戦いに赴くという物語には、何か人々の好奇心をそそるものがあるように思う。というわけで、今回はジャワの物語で有名な女王や女武将を紹介。

●ラトゥ・キドゥル

ジャワで最も有名な女王。名前は南(キドゥル)の王/女王(ラトゥ)という意味。ジャワ島の南に広がる海に住み、精霊界を統べる。ジャワ島南の沿岸部には海に女神が棲んで、緑色の服を着た人がいると海底に引きずり込んでしまうという伝承があるが、ジャワの王家(マタラム王国とその末裔の王家)は、代々のマタラムの王は彼女と結婚することで王権を得るという王権神話を伝えている。ちなみに、ニャイ・ロロ・キドゥルやロロ・キドゥルという呼び方もあるけれど、スラカルタ王家に仕える人は、ニャイ・ロロ・キドゥルと呼ぶのは間違い(ニャイは臣下のことだから)で、女王自身のことはラトゥ・キドゥルと呼ぶべきと言う。とはいえそれもまた通称で、王家での女神の正式の名前はカンジェン・ラトゥ・クンチョノ・サリ。スラカルタ王家に伝わる舞踊「ブドヨ・クタワン」の着付(パエス・アグンと呼ばれる花嫁衣裳の着付に同じ)は女王の姿を写したものと考えられている。この女王はマタラムの王と出会って三日三晩床を共にした時に王に戦いの法を伝授し、王国へ戻る王に対して何かあれば軍隊を率いて王を助けに来ると約束する。霊界の女王だから、彼女の援軍が来たら、霊を飛ばしてのバトルになるのかなあ…なんて想像する。

●スリカンディ
インド伝来の叙事詩「マハーバーラタ」に登場する女性武将で、アルジュノ(インド版ではアルジュナ)の妻にして弓の名手である。元のインド版ではシカンディンという名前だが、実はインド版ではシカンディンは女性ではなく、前世は女性だった男性で、設定が変わってしまっている。ジャワの「マハーバーラタ」では、戦場においてスリカンディは宿敵・ビスモをアルジュノの矢(神から与えられたもの)で倒すが、インド版ではアルジュナがビーシュマ(ジャワ版のビスモ)に致命的な矢を放つ。なんで設定自体が転換してしまったのか、その経緯は分からないが、少なくともここから読み取れるのは、ジャワ人は女性が戦って敵を倒すという話に抵抗がなかったということだ。インド版の話の方が男性上位の社会に見える。

●クンチョノウング
「ダマルウラン」物語に登場するマジャパヒト王国の未婚の女王。ちなみにマジャパヒト王国はインドネシア最後のヒンドゥー教の王国で、この後イスラム教の王国が勃興するようになる。王国はメナジンゴの反乱軍に狙われている。女王はダマルウランという若者が国難を救うという夢のお告げを得て若者を探し出す。ダマルウランは首尾よくメナジンゴを倒し、女王と結婚して国王となる。この「ダマルウラン」物語は、ジャワのマンクヌガラン王家ではラングン・ドリアン(歌舞劇)として上演される。出演者は宝塚歌劇のように女性ばかり、その人たちが恋々と歌い、美しい舞踊を見せるという、なんともあでやかな舞台だ。

●レトノ・ドゥミラ
マタラム王国初代の王・セノパティが攻略したマディウン領主の娘。領主が逃走しても、彼女は剣を取ってセノパティ相手に戦う。破れるものの、二人の間に愛が芽生える。
マンクヌガラン王家にはこの物語を描いた「ブドヨ・ブダマディウン」という舞踊がある。