2023年10月02日 (月)
※ 実は10月にアップし忘れていて、2023.11.6にアップしました。
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年10月」(水牛のように)コーナーに、
「ジャワ舞踊のレパートリー(2)男性舞踊」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/10#post-9309
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
ジャワ舞踊のレパートリー(2)男性舞踊
冨岡三智
先月に続き、今回は男性舞踊優形のレパートリーについて。私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。男性舞踊については留学後にゼロから始め、芸大の授業履修と教員のパマルディ氏に師事と両輪で進めた。女性舞踊と違ってまだほとんど見通しがなかったので、パマルディに選曲してもらった基本的な演目をやることになった。以下、★印は日本あるいはインドネシアで上演したことがある曲。
最初の留学で習った演目を順番に挙げるとまず「タンディンガン」、次いで「トペン・グヌンサリ(ガリマン版)★」で、これらは1年生後期の授業内容である。1セメスターで2曲習う。留学してクラスに入った時にはすでに授業が始まっていたので、クラスの内容を追いかける形でレッスンを始めた。「タンディンガン」(戦いの意)は芸大では男性舞踊の基礎としてラントヨ(セメスターI)の次にやる演目として位置づけられ、男性優形のクラスでは優形の人物2人の戦い、男性荒型のクラスでは同じ曲で荒型2人の人物の戦いとして同一曲で練習する。戦いものの練習曲だが人物設定はないので、自分でキャラクターを設定したり、また荒型×優形のように組み合わせたりして上演できるようになっている。
その後は「パムンカス」、「メナッ・コンチャル★」、「ガンビルアノム」、「トペン・グヌンサリ(PKJT版)★」といった単独舞踊を習う。これまで挙げた6曲にはすべて市販カセットがある。トペン~とあるのは仮面舞踊で、パンジ物語出典の舞踊は仮面を使う。「メナッ・コンチャル」については『水牛』2014年2月号、2つのグヌンサリについては『水牛』2014年4月号に寄稿した記事で書いているので参照を。「パムンカス」以外はキャラクターがある。パマルディ氏曰く、ここまでは基本的な舞踊なので、アルスをやるなら全部やりなさいとのこと。単独舞踊としては芸大には他にワハユ・サントソ・プラブォウォ氏の振り付けによる「ブロマストロ」があるのだが、それは習っていない。パマルディ氏曰く、それはもう少し難しい曲だから、基礎演目をやったあと自分の方向性として強いキャラクターをやりたいなら習ったらいいという話だった。
2回目の留学ではパマルディ氏は一層忙しく、また当時は現代舞踊・創作を教えることが多かったので、私は授業だけでなんとかマスターし、試験も受けた後でパマルディ氏に見てもらってアドバイスしてもらうという形にした。以前に習った曲を再度授業で履修しつつ、新たに「パンジ―・トゥンガル★」、「カルノ・タンディン」、「パラグノ・パラグナディ」、それから「バンバンガン・チャキル」を履修する。これらには市販カセットがなく、芸大が授業用に録音したものを使う。いずれも芸大で3年生後期以降のカリキュラムだ。前の3曲は古い宮廷舞踊を復曲させたもので、アルスの極みのような曲。「パンジー」は単独舞踊(トゥンガルは1人の意)だが、もともと2人でやる曲を1人でできるようにガリマン氏がフォーメーションを変えたもの。この曲については『水牛』2015年10月号に寄稿した記事「パンジ・トゥンガル」を参照。次の2曲は戦いもの。優形同士のキャラクターの戦いである。「カルノ・タンディン」は複数つながっている曲の最初が、スリンピでも使う「ゴンドクスモ」。グンディン・クタワン形式の曲で、この形式の曲はスリンピでいくつか使われるけれど宮廷舞踊らしい曲でラサ(味わい、感覚の意味)を出すのが難しい。「パラグノ・パラグナディ」は戦いの場面に続くシルップの場面でイラマIVが出てくるところが難しい。このテンポが出てくるのは、私が知る限りではこの舞踊だけ。
「バンバンガン・チャキル」は見目麗しい武将と羅刹チャキルの戦いもので、チャキルは荒型である。昔から商業ワヤン・オラン舞踊劇で人気の、スラカルタを代表する演目だ。この演目についても『水牛』2004年6月号に寄稿した記事「バンバンガン・チャキル」で書いている。この授業では、学生はチャキルを踊ってくれる相手方を自分で探し、授業外に自分たちで振付を考えて試験に臨む。相手役は同じクラスの人でも、他のクラスや学年の人に頼んでも良い。決まった振付がないのは、昔から踊り手が振り付けるのが伝統だからとの理由だったが、4年生後期のカリキュラムになっているので、自分で振り付られるようになって一人前ということなのだろうとも思う。
留学を終えて2003年の夏、ジャカルタで「スリ・パモソ★」を習う。これは宮廷舞踊家クスモケソウォ(私の宮廷女性舞踊の師匠であるジョコ女史の舅)の曲で、2003年2月に上演された。その経緯については、2020年11月号『水牛』に寄稿した記事「『スリ・パモソ』作品と復曲の背景」に詳しいが、その時に復曲させ踊ったスリスティヨ・ティルトクスモ氏に習った。私はその復曲の過程も見ていて、さらにその曲も自費録音させてもらっていたので、格別の思い入れがあった。
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「2023年10月」(水牛のように)コーナーに、
「ジャワ舞踊のレパートリー(2)男性舞踊」を寄稿しました。
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ジャワ舞踊のレパートリー(2)男性舞踊
冨岡三智
先月に続き、今回は男性舞踊優形のレパートリーについて。私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。男性舞踊については留学後にゼロから始め、芸大の授業履修と教員のパマルディ氏に師事と両輪で進めた。女性舞踊と違ってまだほとんど見通しがなかったので、パマルディに選曲してもらった基本的な演目をやることになった。以下、★印は日本あるいはインドネシアで上演したことがある曲。
最初の留学で習った演目を順番に挙げるとまず「タンディンガン」、次いで「トペン・グヌンサリ(ガリマン版)★」で、これらは1年生後期の授業内容である。1セメスターで2曲習う。留学してクラスに入った時にはすでに授業が始まっていたので、クラスの内容を追いかける形でレッスンを始めた。「タンディンガン」(戦いの意)は芸大では男性舞踊の基礎としてラントヨ(セメスターI)の次にやる演目として位置づけられ、男性優形のクラスでは優形の人物2人の戦い、男性荒型のクラスでは同じ曲で荒型2人の人物の戦いとして同一曲で練習する。戦いものの練習曲だが人物設定はないので、自分でキャラクターを設定したり、また荒型×優形のように組み合わせたりして上演できるようになっている。
その後は「パムンカス」、「メナッ・コンチャル★」、「ガンビルアノム」、「トペン・グヌンサリ(PKJT版)★」といった単独舞踊を習う。これまで挙げた6曲にはすべて市販カセットがある。トペン~とあるのは仮面舞踊で、パンジ物語出典の舞踊は仮面を使う。「メナッ・コンチャル」については『水牛』2014年2月号、2つのグヌンサリについては『水牛』2014年4月号に寄稿した記事で書いているので参照を。「パムンカス」以外はキャラクターがある。パマルディ氏曰く、ここまでは基本的な舞踊なので、アルスをやるなら全部やりなさいとのこと。単独舞踊としては芸大には他にワハユ・サントソ・プラブォウォ氏の振り付けによる「ブロマストロ」があるのだが、それは習っていない。パマルディ氏曰く、それはもう少し難しい曲だから、基礎演目をやったあと自分の方向性として強いキャラクターをやりたいなら習ったらいいという話だった。
2回目の留学ではパマルディ氏は一層忙しく、また当時は現代舞踊・創作を教えることが多かったので、私は授業だけでなんとかマスターし、試験も受けた後でパマルディ氏に見てもらってアドバイスしてもらうという形にした。以前に習った曲を再度授業で履修しつつ、新たに「パンジ―・トゥンガル★」、「カルノ・タンディン」、「パラグノ・パラグナディ」、それから「バンバンガン・チャキル」を履修する。これらには市販カセットがなく、芸大が授業用に録音したものを使う。いずれも芸大で3年生後期以降のカリキュラムだ。前の3曲は古い宮廷舞踊を復曲させたもので、アルスの極みのような曲。「パンジー」は単独舞踊(トゥンガルは1人の意)だが、もともと2人でやる曲を1人でできるようにガリマン氏がフォーメーションを変えたもの。この曲については『水牛』2015年10月号に寄稿した記事「パンジ・トゥンガル」を参照。次の2曲は戦いもの。優形同士のキャラクターの戦いである。「カルノ・タンディン」は複数つながっている曲の最初が、スリンピでも使う「ゴンドクスモ」。グンディン・クタワン形式の曲で、この形式の曲はスリンピでいくつか使われるけれど宮廷舞踊らしい曲でラサ(味わい、感覚の意味)を出すのが難しい。「パラグノ・パラグナディ」は戦いの場面に続くシルップの場面でイラマIVが出てくるところが難しい。このテンポが出てくるのは、私が知る限りではこの舞踊だけ。
「バンバンガン・チャキル」は見目麗しい武将と羅刹チャキルの戦いもので、チャキルは荒型である。昔から商業ワヤン・オラン舞踊劇で人気の、スラカルタを代表する演目だ。この演目についても『水牛』2004年6月号に寄稿した記事「バンバンガン・チャキル」で書いている。この授業では、学生はチャキルを踊ってくれる相手方を自分で探し、授業外に自分たちで振付を考えて試験に臨む。相手役は同じクラスの人でも、他のクラスや学年の人に頼んでも良い。決まった振付がないのは、昔から踊り手が振り付けるのが伝統だからとの理由だったが、4年生後期のカリキュラムになっているので、自分で振り付られるようになって一人前ということなのだろうとも思う。
留学を終えて2003年の夏、ジャカルタで「スリ・パモソ★」を習う。これは宮廷舞踊家クスモケソウォ(私の宮廷女性舞踊の師匠であるジョコ女史の舅)の曲で、2003年2月に上演された。その経緯については、2020年11月号『水牛』に寄稿した記事「『スリ・パモソ』作品と復曲の背景」に詳しいが、その時に復曲させ踊ったスリスティヨ・ティルトクスモ氏に習った。私はその復曲の過程も見ていて、さらにその曲も自費録音させてもらっていたので、格別の思い入れがあった。
2023年09月01日 (金)
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年09月」(水牛のように)コーナーに、
「ジャワ舞踊のレパートリー(1)女性舞踊」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/09#post-9267
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ジャワ舞踊のレパートリー(1)女性舞踊
冨岡三智
突然ながら、今までどんなジャワの伝統舞踊(スラカルタ様式)を習ってきたのか、レパートリーを振り返ってみよう。何をどのように習っていくのか、その方法は様々で人によって違うことと思う。自分がやってきたことを振り返るのは恥ずかしく、また誰の参考になるものでもないけれど、ご笑覧下さい…。
私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。その後、同大学大学院をカウンターパートとして、2006年8月~2007年9月に宮廷舞踊調査(公演や記録制作の活動)していた。留学以前に、短期で4回(1か月ずつ)現地に舞踊を習いに行っている。その2回目の短期渡航(1992年)から女性舞踊を師事したのがジョコ・スハルジョ女史で、その当時はジョコ女史はまだインドネシア国立芸術高校スラカルタ校を定年になっていなかった。その時にはまだ気づいていなかったが、スラカルタ宮廷舞踊を全曲修得していたジョコ女史に巡り合えたことは僥倖だった。私は女史が亡くなる2006年までずっと師事することになった。
私が通算5年余にわたる留学で一番やりたかったのは宮廷舞踊:スリンピ10曲とブドヨ2曲の完全版を師匠のジョコ女史から全曲修得することで、幸い目標を達成できた。習った曲名を挙げると、スリンピでは「アングリルムンドゥン」、「ゴンドクスモ」、「ラグドゥンプル」、「スカルセ」、「ロボン」(ここまで完全版で上演済)、「ルディラマドゥ」、「サングパティ」、「タメンギト」、「グロンドンプリン」、「ガンビルサウィット」で計10曲。ブドヨでは「パンクル」(完全版上演済)と「ドゥロダセ」の2曲。実は完全版を習う前にジョコ女史が手掛けた「ゴンドクスモ」短縮版も習ったが、短縮版で習ったのはこれだけである。芸大の短縮版と違っていて非常に勉強になったけれど、やはり長いバージョンの方が充実感があって好きだなあと思う。
宮廷舞踊(スリンピ・ブドヨ)と対極にあるのが民間舞踊(ガンビョン)で、私はこの対極にある舞踊を二本柱にしていた。ガンビョンは太鼓のリズムにのって踊るもので、自分で太鼓の手組を考えたいと思い、太鼓も習っていた。まず、とりあえず入手できる音源は全部踊れるようになりたいと思い、次のような曲を習う:「パンクル」、「パレアノム(ガリマン氏版)」、「パレアノム(PKJT版=2ゴンガン版)」、「パレアノム(ジョコ女史版=3ゴンガン版)」、「ガンビルサウィット・パンチョロノ」。ちなみにゴンガンとは曲の長さのこと。これらは市販の音源がある。他に、芸術高校自主録音の「アユン・アユン」(4ゴンガン、ジョコ女史版)、ジョコ・ワルヨ氏が太鼓を叩いている市販カセット2本。1本は私がどこかの店で買ったもの、もう1本は太鼓の先生が持っていたものだが(テープは半ば伸びていた)、どちらもその後どこの店でも見かけたことがない。古くて再版されなかったものかもしれない。それ以外に、市販のカセットにない太鼓の手組を習いたくて、マルトパングラウィットの太鼓の本に採録されている古い手組を太鼓の先生に叩いてもらって録音し(10ゴンガン、太鼓の音のみ)、それをジョコ女史の所に持って行って習った。
それ以外の曲でジョコ女史から習ったのが「ゴレッ・スコルノ」、「ルトノ・パムディヨ」、「ゴレッ・マニス」。どれも留学前から習っていた曲で市販カセットがある。1,2曲目がクスモケソウォ(ジョコ女史の舅)の曲だが、実は市販カセットは短縮版である。ジョコ女史によると、カセット会社はテープの片面(30分)に2曲収録したいため、長い曲は短縮するようにと要請してくるのだそうで、これらの短縮はジョコ女史が手掛けたという。私は元の完全版も習いたかったので、どちらも完全版を自主録音した。
さらに、ジョコ女史が振り付けた「クスモアジ」も習う。この舞踊作品については『水牛』2020年8月号に寄稿した「ジャワ舞踊作品のバージョン(8)『クスモ・アジ』」で書いているけれど、結婚式で夫婦神が新郎新婦を祝福するために降りてくるという内容で、男女ペアで踊る舞踊で私が習ったのはこれだけである。他の人が振り付けたこの種の舞踊は男女がラブラブな感じで踊るので(演出にもよるが)、私には気恥ずかしい。実はこの曲も録音の準備を進めていたのだが、先生が亡くなるなどで取りやめになってしまった。
最後に、マンクヌガラン王家の「ゴレッ・モントロ」最短版も習ったことがある。同王家の太鼓奏者ハルトノ氏の息子さんの結婚式にミチも踊ってくれと言われて(私は氏が指導するガムラン練習に参加していた)、2,3か月くらいせっせと舞踊練習に通い、多くの踊り手たちと一緒に出た。踊ったのはこの時限りなので、もう忘れてしまった。この王家の舞踊はかわいらしくて好きなのだけれど、どうも自分にはその可愛さが足りない…と気になってしまう作品。
「2023年09月」(水牛のように)コーナーに、
「ジャワ舞踊のレパートリー(1)女性舞踊」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/09#post-9267
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
ジャワ舞踊のレパートリー(1)女性舞踊
冨岡三智
突然ながら、今までどんなジャワの伝統舞踊(スラカルタ様式)を習ってきたのか、レパートリーを振り返ってみよう。何をどのように習っていくのか、その方法は様々で人によって違うことと思う。自分がやってきたことを振り返るのは恥ずかしく、また誰の参考になるものでもないけれど、ご笑覧下さい…。
私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。その後、同大学大学院をカウンターパートとして、2006年8月~2007年9月に宮廷舞踊調査(公演や記録制作の活動)していた。留学以前に、短期で4回(1か月ずつ)現地に舞踊を習いに行っている。その2回目の短期渡航(1992年)から女性舞踊を師事したのがジョコ・スハルジョ女史で、その当時はジョコ女史はまだインドネシア国立芸術高校スラカルタ校を定年になっていなかった。その時にはまだ気づいていなかったが、スラカルタ宮廷舞踊を全曲修得していたジョコ女史に巡り合えたことは僥倖だった。私は女史が亡くなる2006年までずっと師事することになった。
私が通算5年余にわたる留学で一番やりたかったのは宮廷舞踊:スリンピ10曲とブドヨ2曲の完全版を師匠のジョコ女史から全曲修得することで、幸い目標を達成できた。習った曲名を挙げると、スリンピでは「アングリルムンドゥン」、「ゴンドクスモ」、「ラグドゥンプル」、「スカルセ」、「ロボン」(ここまで完全版で上演済)、「ルディラマドゥ」、「サングパティ」、「タメンギト」、「グロンドンプリン」、「ガンビルサウィット」で計10曲。ブドヨでは「パンクル」(完全版上演済)と「ドゥロダセ」の2曲。実は完全版を習う前にジョコ女史が手掛けた「ゴンドクスモ」短縮版も習ったが、短縮版で習ったのはこれだけである。芸大の短縮版と違っていて非常に勉強になったけれど、やはり長いバージョンの方が充実感があって好きだなあと思う。
宮廷舞踊(スリンピ・ブドヨ)と対極にあるのが民間舞踊(ガンビョン)で、私はこの対極にある舞踊を二本柱にしていた。ガンビョンは太鼓のリズムにのって踊るもので、自分で太鼓の手組を考えたいと思い、太鼓も習っていた。まず、とりあえず入手できる音源は全部踊れるようになりたいと思い、次のような曲を習う:「パンクル」、「パレアノム(ガリマン氏版)」、「パレアノム(PKJT版=2ゴンガン版)」、「パレアノム(ジョコ女史版=3ゴンガン版)」、「ガンビルサウィット・パンチョロノ」。ちなみにゴンガンとは曲の長さのこと。これらは市販の音源がある。他に、芸術高校自主録音の「アユン・アユン」(4ゴンガン、ジョコ女史版)、ジョコ・ワルヨ氏が太鼓を叩いている市販カセット2本。1本は私がどこかの店で買ったもの、もう1本は太鼓の先生が持っていたものだが(テープは半ば伸びていた)、どちらもその後どこの店でも見かけたことがない。古くて再版されなかったものかもしれない。それ以外に、市販のカセットにない太鼓の手組を習いたくて、マルトパングラウィットの太鼓の本に採録されている古い手組を太鼓の先生に叩いてもらって録音し(10ゴンガン、太鼓の音のみ)、それをジョコ女史の所に持って行って習った。
それ以外の曲でジョコ女史から習ったのが「ゴレッ・スコルノ」、「ルトノ・パムディヨ」、「ゴレッ・マニス」。どれも留学前から習っていた曲で市販カセットがある。1,2曲目がクスモケソウォ(ジョコ女史の舅)の曲だが、実は市販カセットは短縮版である。ジョコ女史によると、カセット会社はテープの片面(30分)に2曲収録したいため、長い曲は短縮するようにと要請してくるのだそうで、これらの短縮はジョコ女史が手掛けたという。私は元の完全版も習いたかったので、どちらも完全版を自主録音した。
さらに、ジョコ女史が振り付けた「クスモアジ」も習う。この舞踊作品については『水牛』2020年8月号に寄稿した「ジャワ舞踊作品のバージョン(8)『クスモ・アジ』」で書いているけれど、結婚式で夫婦神が新郎新婦を祝福するために降りてくるという内容で、男女ペアで踊る舞踊で私が習ったのはこれだけである。他の人が振り付けたこの種の舞踊は男女がラブラブな感じで踊るので(演出にもよるが)、私には気恥ずかしい。実はこの曲も録音の準備を進めていたのだが、先生が亡くなるなどで取りやめになってしまった。
最後に、マンクヌガラン王家の「ゴレッ・モントロ」最短版も習ったことがある。同王家の太鼓奏者ハルトノ氏の息子さんの結婚式にミチも踊ってくれと言われて(私は氏が指導するガムラン練習に参加していた)、2,3か月くらいせっせと舞踊練習に通い、多くの踊り手たちと一緒に出た。踊ったのはこの時限りなので、もう忘れてしまった。この王家の舞踊はかわいらしくて好きなのだけれど、どうも自分にはその可愛さが足りない…と気になってしまう作品。
2023年08月03日 (木)
★NEW! 文末に公開された公演のURLを掲載しています。(2023.8.23)
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年08月」(水牛のように)コーナーに、
「 公演『名人の舞台』 」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/08#post-9221
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
公演「名人の舞台」
冨岡三智
先月の7月5~6日に”Panggung Maestro”という公演がジャカルタの芸術劇場(Gedung Kesenian Jakarta)であった。私の知人が関わっていたため、公演プログラムをもらい、また7月22日には教育文化省文化総局のインターネットチャンネルIndonesiana TVで配信された時に私も視聴したので(リアルタイム視聴のみ可)、今回はその公演を紹介したい。
この公演はインドネシアの地方の伝統芸能を担ってきた名人(マエストロ)たちに焦点を当て、それらの芸術の保存継承と鑑賞につなげるべく企画されたもので、インドネシアの教育文化調査省、文化総局、映像・音楽・メディア局とスポンサーの企業や財団の協力のもと制作された。来年度以降もシリーズで続けていきたいとのことだが、今回第1回の企画として選ばれたのは3地域:パレンバン(スマトラ島南部)、アチェ(スマトラ島北部)、チレボン(ジャワ島西部)の芸能である。
公演タイトルにある「マエストロ」という語は言うまでもなく外来語で、伝統芸術の名人という意味で使われる。ジャワには名人を示す「ウンプempu」という語があるのだが、ジャワ芸術分野というイメージが強いのだろうか、「マエストロ」の方が広く芸術一般に使われているように感じる。私の記憶では2005~2006年頃からよく耳にするようになったように思う。今回の公演では、伝統芸術を上演するというだけでなく、その上演や指導で長年
功のあった名人に舞台に登場してもらうことが重視されていた。
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プログラム
(1)舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)
(2)音楽「ラパイ・パセ」(アチェ)
(3)舞踊「セウダティ」(アチェ)
(4)影絵(チレボン)
(5)仮面舞踊(チレボン)
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●舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)
この舞踊作品は1943~1944年頃、当時統治していた日本がパレンバン理事州(現・南スマトラ州)への来賓を歓迎する舞踊と歌を作るようにと要請して創られたもので、1945年8月2日にパレンバンの大モスクで初めて公に上演された。インドネシアの独立宣言(この2週間後の8月17日)以前に創られているので、案外古い作品である。2014年には南スマトラ州の舞踊としてインドネシアの無形文化遺産(日本のように「重要無形文化財」と言った方が分かりやすいかもしれない)に指定されている。余談だが、パレンバンといえば2018年にジャカルタと並んでアジア競技大会の開催地になった。
この舞踊作品は9人の女性によって踊られ、最前列の踊り手はキンマの葉などを入れた箱を持って登場し、舞踊の途中で来賓に勧める。この日の公演でも箱を持った踊り手が客席に降りて、映像・音楽・メディア局長にキンマの葉を勧めた。このキンマの葉一式は噛み煙草のような嗜好品で、このセットを準備しておいて客人に勧めるのがこの地域のもてなし文化で~日本の煙草盆のようなものと言える~、それがそのまま舞踊に取り込まれている。
この舞踊は通常はアコーデオン、ビオラ、太鼓、歌の伴奏で上演される。だから、西洋音階である。が、元々はガムラン楽器も使われていたとのことで、本公演では前述のスマトラの音楽とジャワのガムランを混ぜた伴奏になった。
9人の女性が豪華な伝統織物の衣装に金の冠を身に着け、手には付け爪をつけてゆったりと舞うのがいかにももてなしの舞踊だが、振付自体はかなりシンプルである。題名の「スリウィジャヤ」はこの地で7世紀に栄えた王国の名前であり、9人という人数はパレンバンの9つの河川を象徴するという。ジャワであれば9つの穴/チャクラと意味付けられるところだが、河川になぞらえるところが海洋交易で栄えたスリウィジャヤならではである。
この公演で踊るのは現役世代の踊り手だが、この舞踊の第一世代のDelima Tatung女史(93歳)と、その次の世代でなお現役で教えているElly Rudy女史(75歳)がマエストロとして舞台に登場する。もう1人健康上の理由で来れなかったAnna Kumari女史(78歳)の名前もプログラムにはある。Delima女史は車椅子に乗っているが、それでも創作当時を知る生き証人としての重みがある。この登壇した2人の女史たちの誇らかな表情が、州政府の式典で上演される舞踊という性格を雄弁に語っていた気がする。
●ラパイ・パセ、セウダティ(アチェ)
ラパイ・パセは楽器の名前である。ジャワではルバナやトゥルバンと呼ばれている楽器(タンバリン状の片面太鼓)と同種だが、より大型だ。それを吊るし、大勢の男性(今回は約8人)が一斉に素手で叩く。音楽の後半では太鼓に加えてチャルメラのような笛と歌が入ってくる。
セウダティは男性(おっさん)たちが集団で踊る舞踊。当初はmeuratebと呼ばれていたが、この語はスーフィズムの一形態を指すもので、ズィクル(イスラムの唱念)を教えるものだったというが、次第に庶民の間に浸透してこのような形(共同体ダンス的な、という意味だろう)になったとプログラムにある。男性の歌い手3人が舞台に立ち、交互に歌うのに合わせ、男性たち(今回は8人)が独特のステップを踏みながら舞台をぐるぐると歩き回り、スキップし、時に胸や腹をバチッと手で叩き、歌と掛け合うように声を発する。テンポがゆっくりからだんだん速くなっていったかと思うと急に止まったり、また開始したりする。
アチェの舞踊といえばユネスコの無形文化遺産に認定されたサマンが有名だ。サマンは座って踊るのに対し、セウダティは立ったままという点が異なるが、胸や太ももなどを叩きながら踊る点や、空(くう)を裂くように鋭く切迫した感じで歌う点はサマンに似ている。おそらく歌が主導で、それに息を合わせるように踊り手が動いていると思うのだが、歌の緩急や動きが変わるきっかけが私にはよく分からない。互いにどうやって合わせているのだろう。以前、サマンの踊り手から「一糸乱れず踊ることが神との合一に近づくこと」と聞いたことがあるが、スーフィズムにルーツのあるセウダティも同様だろう。
セウダティの踊りでは、指導だけでなく今も現役で踊っている名人のSyekh Azhari氏(73歳)が舞台に上がった。痩身で、速いテンポもひょいひょいと踊る。公演では、おっさんたちがゴザを広げ、スラマタン(食事を共にして安寧を祈る共同体儀礼)を行うシーンから始まる。実際に現地でこの舞踊を行う時はスラマタンを行うのだそうだ。このシーンはさっと切り上げ舞踊に入るのだが、だらだらとせず、見せ方が上手かったなあと感じた。
アチェの音楽や舞踊は、太鼓や笛の音楽の雰囲気、掛声、おっさんが花形になるところなど、日本の祭りを彷彿させる。ラパイ・パセの演奏は和太鼓の集団演奏を聴くようだし、踊るおっさんたちの掛声は、だんじりや山鉾巡行で聞こえてくる声のようだ。音階だとか発声だとかは日本と全然違うのだが、どこか懐かしさを覚える演目だった。
だが、ラパイ・パセも1970年代までは盛んだったものの、スハルト時代はアチェと中央政府の紛争もあってこの芸術活動もかなり廃れていたとプログラムにある。そのことがわざわざプログラムに書かれているのは、それだけ当事者たちにとってその間の抑圧がきつかったのだろうと想像される。盛り返したのはアチェ特別自治法が施行(2006)されて後だという。ちなみにサマンがユネスコの無形文化遺産に認定されたのは2011年である。
●影絵、仮面舞踊(チレボン)
チレボンでは、影絵や仮面舞踊は娯楽以外に各種儀礼のために上演される。伝統的に昼には仮面舞踊が、夜には影絵(ワヤン)が上演され、両者は切っても切れない関係にある。というわけで、この組み合わせでの上演となった。影絵のダラン(語り+人形操者)を務めたSukarta氏(82歳)は父方がダランの家系、母方がチレボンの仮面舞踊家の家系で、本公演でも仮面舞踊の部では演奏もし、最後には自身も踊るなど、オールマイティぶりを発揮していた。
インドネシアの仮面舞踊のルーツはチレボンにあるとされるが、チレボンの中でも地域ごとに様式が異なっていて、本公演ではクレヨ村スタイルのTumus女史(70歳過ぎ)が登場する。ちなみに、プログラムにはMimi Tumusと書かれているが、Mimiというのはインドネシア語のibu(女史)に当たる語。なお、彼女だけ正確な年齢がプログラムに書かれていない。Tumus女史は幼少期より母親から仮面舞踊を学んで活躍し著名だったものの、なかなか支援が得られない状況の中、1990年代には舞踊をやめて物売りやマッサージ師などをして生計を立てるようになっていた。2015年に各方面からの支援の手が伸び、ガムラン楽器や練習指導できる場所が提供され、クレヨ村のスタイルを次の世代に指導できるようになったという。70歳を過ぎて健康を損ね、起き上がれないようになっていたが、この公演のために奮起、車椅子で舞台に登場した。
衣装を着け、車椅子に乗ったまま、上半身だけTumus女史は踊るのだが、甲高い笑い声のような掛け声に合わせて小刻みに動く仮面の表情が雄弁でぞくっとした。その後仮面を取り、横に控えていたひ孫(11歳)がその仮面を受け取って踊りを続ける。その後、2人の9歳の子供たちが一緒に別の仮面舞踊を踊る。この小さな子供たちがクレヨ村の仮面舞踊の新しき後継者たちなのだ。この間、面をつけないTumus女史がずっと後ろで踊っているのだが、まるで彼女がダランとなってこの子供たちを、そして舞台全体を動かしているかのように見えた。実際に舞台を見に行った知人が、この仮面舞踊は鳥肌ものだったと感想を送ってくれたから、彼女の存在感は圧倒的だったのだろう。
●
ジャワ舞踊やバリ舞踊のように定評のある優美な舞台でなく、地方の地味な芸術と苦労してきた名人たちを取り上げるという点で、主催者達はチケットの売れ行きを大変心配していたが、盛況に終わったようだ。インスタグラムやフェイスブックでも公演前から公演後もずっと積極的なPRが続いている。今後もこの企画が続いてくれたらと期待している。


★2023.8.23 この公演映像が公開されたと知らせがありましたので公開します。
https://indonesiana.tv/video?hashid=vpir1850
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年08月」(水牛のように)コーナーに、
「 公演『名人の舞台』 」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/08#post-9221
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
公演「名人の舞台」
冨岡三智
先月の7月5~6日に”Panggung Maestro”という公演がジャカルタの芸術劇場(Gedung Kesenian Jakarta)であった。私の知人が関わっていたため、公演プログラムをもらい、また7月22日には教育文化省文化総局のインターネットチャンネルIndonesiana TVで配信された時に私も視聴したので(リアルタイム視聴のみ可)、今回はその公演を紹介したい。
この公演はインドネシアの地方の伝統芸能を担ってきた名人(マエストロ)たちに焦点を当て、それらの芸術の保存継承と鑑賞につなげるべく企画されたもので、インドネシアの教育文化調査省、文化総局、映像・音楽・メディア局とスポンサーの企業や財団の協力のもと制作された。来年度以降もシリーズで続けていきたいとのことだが、今回第1回の企画として選ばれたのは3地域:パレンバン(スマトラ島南部)、アチェ(スマトラ島北部)、チレボン(ジャワ島西部)の芸能である。
公演タイトルにある「マエストロ」という語は言うまでもなく外来語で、伝統芸術の名人という意味で使われる。ジャワには名人を示す「ウンプempu」という語があるのだが、ジャワ芸術分野というイメージが強いのだろうか、「マエストロ」の方が広く芸術一般に使われているように感じる。私の記憶では2005~2006年頃からよく耳にするようになったように思う。今回の公演では、伝統芸術を上演するというだけでなく、その上演や指導で長年
功のあった名人に舞台に登場してもらうことが重視されていた。
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プログラム
(1)舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)
(2)音楽「ラパイ・パセ」(アチェ)
(3)舞踊「セウダティ」(アチェ)
(4)影絵(チレボン)
(5)仮面舞踊(チレボン)
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●舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)
この舞踊作品は1943~1944年頃、当時統治していた日本がパレンバン理事州(現・南スマトラ州)への来賓を歓迎する舞踊と歌を作るようにと要請して創られたもので、1945年8月2日にパレンバンの大モスクで初めて公に上演された。インドネシアの独立宣言(この2週間後の8月17日)以前に創られているので、案外古い作品である。2014年には南スマトラ州の舞踊としてインドネシアの無形文化遺産(日本のように「重要無形文化財」と言った方が分かりやすいかもしれない)に指定されている。余談だが、パレンバンといえば2018年にジャカルタと並んでアジア競技大会の開催地になった。
この舞踊作品は9人の女性によって踊られ、最前列の踊り手はキンマの葉などを入れた箱を持って登場し、舞踊の途中で来賓に勧める。この日の公演でも箱を持った踊り手が客席に降りて、映像・音楽・メディア局長にキンマの葉を勧めた。このキンマの葉一式は噛み煙草のような嗜好品で、このセットを準備しておいて客人に勧めるのがこの地域のもてなし文化で~日本の煙草盆のようなものと言える~、それがそのまま舞踊に取り込まれている。
この舞踊は通常はアコーデオン、ビオラ、太鼓、歌の伴奏で上演される。だから、西洋音階である。が、元々はガムラン楽器も使われていたとのことで、本公演では前述のスマトラの音楽とジャワのガムランを混ぜた伴奏になった。
9人の女性が豪華な伝統織物の衣装に金の冠を身に着け、手には付け爪をつけてゆったりと舞うのがいかにももてなしの舞踊だが、振付自体はかなりシンプルである。題名の「スリウィジャヤ」はこの地で7世紀に栄えた王国の名前であり、9人という人数はパレンバンの9つの河川を象徴するという。ジャワであれば9つの穴/チャクラと意味付けられるところだが、河川になぞらえるところが海洋交易で栄えたスリウィジャヤならではである。
この公演で踊るのは現役世代の踊り手だが、この舞踊の第一世代のDelima Tatung女史(93歳)と、その次の世代でなお現役で教えているElly Rudy女史(75歳)がマエストロとして舞台に登場する。もう1人健康上の理由で来れなかったAnna Kumari女史(78歳)の名前もプログラムにはある。Delima女史は車椅子に乗っているが、それでも創作当時を知る生き証人としての重みがある。この登壇した2人の女史たちの誇らかな表情が、州政府の式典で上演される舞踊という性格を雄弁に語っていた気がする。
●ラパイ・パセ、セウダティ(アチェ)
ラパイ・パセは楽器の名前である。ジャワではルバナやトゥルバンと呼ばれている楽器(タンバリン状の片面太鼓)と同種だが、より大型だ。それを吊るし、大勢の男性(今回は約8人)が一斉に素手で叩く。音楽の後半では太鼓に加えてチャルメラのような笛と歌が入ってくる。
セウダティは男性(おっさん)たちが集団で踊る舞踊。当初はmeuratebと呼ばれていたが、この語はスーフィズムの一形態を指すもので、ズィクル(イスラムの唱念)を教えるものだったというが、次第に庶民の間に浸透してこのような形(共同体ダンス的な、という意味だろう)になったとプログラムにある。男性の歌い手3人が舞台に立ち、交互に歌うのに合わせ、男性たち(今回は8人)が独特のステップを踏みながら舞台をぐるぐると歩き回り、スキップし、時に胸や腹をバチッと手で叩き、歌と掛け合うように声を発する。テンポがゆっくりからだんだん速くなっていったかと思うと急に止まったり、また開始したりする。
アチェの舞踊といえばユネスコの無形文化遺産に認定されたサマンが有名だ。サマンは座って踊るのに対し、セウダティは立ったままという点が異なるが、胸や太ももなどを叩きながら踊る点や、空(くう)を裂くように鋭く切迫した感じで歌う点はサマンに似ている。おそらく歌が主導で、それに息を合わせるように踊り手が動いていると思うのだが、歌の緩急や動きが変わるきっかけが私にはよく分からない。互いにどうやって合わせているのだろう。以前、サマンの踊り手から「一糸乱れず踊ることが神との合一に近づくこと」と聞いたことがあるが、スーフィズムにルーツのあるセウダティも同様だろう。
セウダティの踊りでは、指導だけでなく今も現役で踊っている名人のSyekh Azhari氏(73歳)が舞台に上がった。痩身で、速いテンポもひょいひょいと踊る。公演では、おっさんたちがゴザを広げ、スラマタン(食事を共にして安寧を祈る共同体儀礼)を行うシーンから始まる。実際に現地でこの舞踊を行う時はスラマタンを行うのだそうだ。このシーンはさっと切り上げ舞踊に入るのだが、だらだらとせず、見せ方が上手かったなあと感じた。
アチェの音楽や舞踊は、太鼓や笛の音楽の雰囲気、掛声、おっさんが花形になるところなど、日本の祭りを彷彿させる。ラパイ・パセの演奏は和太鼓の集団演奏を聴くようだし、踊るおっさんたちの掛声は、だんじりや山鉾巡行で聞こえてくる声のようだ。音階だとか発声だとかは日本と全然違うのだが、どこか懐かしさを覚える演目だった。
だが、ラパイ・パセも1970年代までは盛んだったものの、スハルト時代はアチェと中央政府の紛争もあってこの芸術活動もかなり廃れていたとプログラムにある。そのことがわざわざプログラムに書かれているのは、それだけ当事者たちにとってその間の抑圧がきつかったのだろうと想像される。盛り返したのはアチェ特別自治法が施行(2006)されて後だという。ちなみにサマンがユネスコの無形文化遺産に認定されたのは2011年である。
●影絵、仮面舞踊(チレボン)
チレボンでは、影絵や仮面舞踊は娯楽以外に各種儀礼のために上演される。伝統的に昼には仮面舞踊が、夜には影絵(ワヤン)が上演され、両者は切っても切れない関係にある。というわけで、この組み合わせでの上演となった。影絵のダラン(語り+人形操者)を務めたSukarta氏(82歳)は父方がダランの家系、母方がチレボンの仮面舞踊家の家系で、本公演でも仮面舞踊の部では演奏もし、最後には自身も踊るなど、オールマイティぶりを発揮していた。
インドネシアの仮面舞踊のルーツはチレボンにあるとされるが、チレボンの中でも地域ごとに様式が異なっていて、本公演ではクレヨ村スタイルのTumus女史(70歳過ぎ)が登場する。ちなみに、プログラムにはMimi Tumusと書かれているが、Mimiというのはインドネシア語のibu(女史)に当たる語。なお、彼女だけ正確な年齢がプログラムに書かれていない。Tumus女史は幼少期より母親から仮面舞踊を学んで活躍し著名だったものの、なかなか支援が得られない状況の中、1990年代には舞踊をやめて物売りやマッサージ師などをして生計を立てるようになっていた。2015年に各方面からの支援の手が伸び、ガムラン楽器や練習指導できる場所が提供され、クレヨ村のスタイルを次の世代に指導できるようになったという。70歳を過ぎて健康を損ね、起き上がれないようになっていたが、この公演のために奮起、車椅子で舞台に登場した。
衣装を着け、車椅子に乗ったまま、上半身だけTumus女史は踊るのだが、甲高い笑い声のような掛け声に合わせて小刻みに動く仮面の表情が雄弁でぞくっとした。その後仮面を取り、横に控えていたひ孫(11歳)がその仮面を受け取って踊りを続ける。その後、2人の9歳の子供たちが一緒に別の仮面舞踊を踊る。この小さな子供たちがクレヨ村の仮面舞踊の新しき後継者たちなのだ。この間、面をつけないTumus女史がずっと後ろで踊っているのだが、まるで彼女がダランとなってこの子供たちを、そして舞台全体を動かしているかのように見えた。実際に舞台を見に行った知人が、この仮面舞踊は鳥肌ものだったと感想を送ってくれたから、彼女の存在感は圧倒的だったのだろう。
●
ジャワ舞踊やバリ舞踊のように定評のある優美な舞台でなく、地方の地味な芸術と苦労してきた名人たちを取り上げるという点で、主催者達はチケットの売れ行きを大変心配していたが、盛況に終わったようだ。インスタグラムやフェイスブックでも公演前から公演後もずっと積極的なPRが続いている。今後もこの企画が続いてくれたらと期待している。


★2023.8.23 この公演映像が公開されたと知らせがありましたので公開します。
https://indonesiana.tv/video?hashid=vpir1850
2023年07月17日 (月)
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年07月」(水牛のように)コーナーに、
「ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/07#post-9160
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要
冨岡三智
実は仕事をやりくりして、6月半ばから少しインドネシアのスラカルタに行っていた。今回の主目的は、ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要への出席である。2020年10月号の『水牛』に「ジョコ・トゥトゥコ氏の訃報」を書いたのだけれど、早いもので、もう1000日法要の日が巡ってきた。ジャワでは亡くなって40日目、100日目、1年目、2年目、1000日目に法要を行い、この1000日目に墓石を建てて一区切りとする。ジョコ・トゥトゥコ氏は私が宮廷舞踊で師事していた師匠の故ジョコ女史の息子で、2回目の留学時期(2000~2003年)には大変お世話になった。2000年にインドネシアでは3つの国立芸大で大学院が開講し、スラバヤの教育大で舞踊を教えている彼もスラカルタの芸大大学院で学ぶために実家に戻ってきていた。彼のおかげで私の視野も人脈も広がり、彼の大学院修了試験公演に起用してもらって、その経験は大きな財産になった。私の大恩人だし、師匠の一族とは今まで法要で何度も顔を合わせているので会いたかったのだった。というわけで、渡航の主目的は土曜夜の法要のお祈り、日曜朝の墓参りである。
月曜にジャカルタからスラカルタに飛び、着陸した時に機内でサルドノ・クスモ氏とばったり出くわす。サルドノ氏はスラカルタの芸大大学院で教鞭をとっていた現代舞踊家で、ジョコ・トゥトゥコ氏の指導教員でもあった。なんだかジョコ氏が縁をつないでくれたような感じだ。私が定宿にしている所はサルドノ氏の実家のレストランからすぐ近くなので、一緒に空港からタクシーでレストランまで行き、昼食をとる。サルドノ氏は1週間前に私の3月公演の様子を映像作家のウィラネガラ氏(この3月公演で来日)から聞いていたらしい。というわけで、私の2021年、2023年の堺公演の映像やら、過去の私のコラボレーション作品やらを見てもらったり、ジョコ氏の話をしたりであっという間に時間は経ち、話し足りないということでまた水曜にも会うことになった。
水曜昼前、サルドノ氏が大学院の授業を行いジョコ氏が終了公演を行った場所に向かう。以前あったプンドポ(ジャワの伝統建築)やダレム(奥の間)は、床や壁の一部が残るばかりだ。実は2008年にここに来た時にはすでに廃墟のようになっていたが、いまはその廃墟の空間を覆うように頭上には鉄骨製の高い屋根ができ、2階にテラスができて、不思議な空間になっている。ここを再び町中の芸術拠点にしようとこの屋根をつけて改装オープンしてすぐにコロナ禍になってしまったので、活動ができないままになってしまっていたという。けれど、そろそろ大学生やらがここで制作したり公演したりできるようにしたい…というわけで、職人が何人か作業をしていた。今後の芸術の方向だとかの話をしたのだけれど、サルドノ氏は今年で78歳。見かけは白い髪と顎髭を長く伸ばした仙人だが、20年前から頭の中は全然老けていなくてエネルギーに満ちているなあと実感。今の60~70代の、サルドノ氏より年下世代の舞踊家たちと比べても若々しく、ずっとトップランナーであり続けている気がする。その後、実家のレストランの3階(月曜に食事したレストランの近くに、もう1軒、3階建てのレストランがある)も見せたいということで、そちらへ向かう。以前、スタジオに置いていた古いガムラン楽器のセットや自身の抽象的な絵画作品が置いてある。この空間を見ると、宮廷舞踊家(ジョコ・トゥトゥコ氏の祖父)の弟子で、にも関わらず1970年にコンテンポラリ舞踊作品を発表してセンセーションを起こし師匠と衝突してしまうことになったサルドノ氏のあり方~根っこの伝統と最先端を両方つかんでいる~がくっきり出ているなあと思う。
他の日には芸大(ISI Surakarta)にほぼ毎日行って、振付の師、学長、第一副学長、ガムラン音楽科の教員らに会い、今年3月と2021年10月に堺で行った公演の映像を見てもらって、いろいろアドバイスをもらったり、これからのヒントをもらったり、意見交換したりした。実は、それが今回の渡航の第二の目的だった。振付の師には創作を指導してもらっただけでなく、私の宮廷舞踊の公演や録音に歌やクプラ(舞踊に合図を出すパート)で参加してもらってきた。ちょうど大学院の入試面接で忙しくしていたが、会って食事し、話をすることができた。学長や第一副学長はウィラヌガラ氏(3月の公演のために映像を制作してくれた映像作家、公演のため来日)から公演の話をすでに聞いていたと言う。サルドノ氏もウィラネガラ氏から話を聞いていたと言っていたし、知らないところで情報をつないでくれることが本当にありがたい。これらの人々には、1時間近い宮廷舞踊の上演や重い曲である「ガドゥン・ムラティ」を演奏したりして、観客からの反応が好評だったこと、有料公演で提示したこと、関西ガムランのレベルの高さなどに大変驚かれた。だいだいジャワ人は、こういう演目は退屈で飽きられると思っている。けれど本当の宮廷儀礼に触れたい、本当の瞑想的な雰囲気に浸りたいという観客は、少ないかもしれないけれど確実にいる、と私は強調した。そうそう、木曜夜に見に行った公演で、元TBS(スラカルタにある中部ジャワ州立芸術センター)で照明をしていた人(すでに定年)が見に来ていて、「あー!君はブドヨ・パンクル公演のミチだね!」と出会うやいなや言ってくれたことが非常に嬉しかった。私の『ブドヨ・パンクル』公演もこの人に担当してもらったのだが、それは2007年のことなのだ。それで、この人にも私の堺公演の映像をみてもらい(私はどこにでもパソコンを持参していたのだった)、照明家ならではのアドバイスをもらった。
ちなみに、ウィラヌガラ氏は毎月スラカルタの芸大大学院に教えに来ていて、今回私の来イネに予定を合わせて授業の日を調整してくれたので、一緒に食事する。その時に、3月の堺公演のためにお祈りしてくれたスラカルタ王家のラトゥ・アリッ王女(故パク・ブウォノXII世の長女)も誘ってくれて、3人で食事となり、やはり公演映像を見ていただいた。公演で使ったウィラヌガラ氏の映像には故パク・ブウォノXII世を始め亡くなった王家関係者が多く映っており、供物を作って王宮の各所に備えている宮廷儀礼の様子も映っていてとても貴重だ。ウィラヌガラ氏は2004年にパク・ブウォノXII世が亡くなるまでずっと王と王家のドキュメント映像を撮り続けてきた人なのである。王女からも様々なコメントや励ましの言葉を戴き、記念にとバティックまで頂戴する。
というような感じで、わたしの滞在はあっという間に過ぎてしまった。いま、これを書きながら、なんだか過去にも似たようなことをしていたような気がしていたのだが…思い出した!ジョコ・トゥトゥコ氏の公演に出た後2週間足らずで留学を終えて帰国し、その半年後に大学院生となってインドネシア調査に行った時に、いろんな人に自分の舞踊に対する批評やアドバイスを求めて廻っていたのだった…。しかも、その時の様子を2004年2月号の『水牛』に「心をとらえるもの」として書いていた。そして、この時もサルドノ氏にいろいろアドバイスをもらっていた(!)。あれから約20年、私はちょっとは成長できているのだろうか…。今は亡きジョコ・トゥトゥコ氏その母や私の師匠の故ジョコ女史に問うてみたら、何と答えてくれるだろうか…。
「2023年07月」(水牛のように)コーナーに、
「ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/07#post-9160
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要
冨岡三智
実は仕事をやりくりして、6月半ばから少しインドネシアのスラカルタに行っていた。今回の主目的は、ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要への出席である。2020年10月号の『水牛』に「ジョコ・トゥトゥコ氏の訃報」を書いたのだけれど、早いもので、もう1000日法要の日が巡ってきた。ジャワでは亡くなって40日目、100日目、1年目、2年目、1000日目に法要を行い、この1000日目に墓石を建てて一区切りとする。ジョコ・トゥトゥコ氏は私が宮廷舞踊で師事していた師匠の故ジョコ女史の息子で、2回目の留学時期(2000~2003年)には大変お世話になった。2000年にインドネシアでは3つの国立芸大で大学院が開講し、スラバヤの教育大で舞踊を教えている彼もスラカルタの芸大大学院で学ぶために実家に戻ってきていた。彼のおかげで私の視野も人脈も広がり、彼の大学院修了試験公演に起用してもらって、その経験は大きな財産になった。私の大恩人だし、師匠の一族とは今まで法要で何度も顔を合わせているので会いたかったのだった。というわけで、渡航の主目的は土曜夜の法要のお祈り、日曜朝の墓参りである。
月曜にジャカルタからスラカルタに飛び、着陸した時に機内でサルドノ・クスモ氏とばったり出くわす。サルドノ氏はスラカルタの芸大大学院で教鞭をとっていた現代舞踊家で、ジョコ・トゥトゥコ氏の指導教員でもあった。なんだかジョコ氏が縁をつないでくれたような感じだ。私が定宿にしている所はサルドノ氏の実家のレストランからすぐ近くなので、一緒に空港からタクシーでレストランまで行き、昼食をとる。サルドノ氏は1週間前に私の3月公演の様子を映像作家のウィラネガラ氏(この3月公演で来日)から聞いていたらしい。というわけで、私の2021年、2023年の堺公演の映像やら、過去の私のコラボレーション作品やらを見てもらったり、ジョコ氏の話をしたりであっという間に時間は経ち、話し足りないということでまた水曜にも会うことになった。
水曜昼前、サルドノ氏が大学院の授業を行いジョコ氏が終了公演を行った場所に向かう。以前あったプンドポ(ジャワの伝統建築)やダレム(奥の間)は、床や壁の一部が残るばかりだ。実は2008年にここに来た時にはすでに廃墟のようになっていたが、いまはその廃墟の空間を覆うように頭上には鉄骨製の高い屋根ができ、2階にテラスができて、不思議な空間になっている。ここを再び町中の芸術拠点にしようとこの屋根をつけて改装オープンしてすぐにコロナ禍になってしまったので、活動ができないままになってしまっていたという。けれど、そろそろ大学生やらがここで制作したり公演したりできるようにしたい…というわけで、職人が何人か作業をしていた。今後の芸術の方向だとかの話をしたのだけれど、サルドノ氏は今年で78歳。見かけは白い髪と顎髭を長く伸ばした仙人だが、20年前から頭の中は全然老けていなくてエネルギーに満ちているなあと実感。今の60~70代の、サルドノ氏より年下世代の舞踊家たちと比べても若々しく、ずっとトップランナーであり続けている気がする。その後、実家のレストランの3階(月曜に食事したレストランの近くに、もう1軒、3階建てのレストランがある)も見せたいということで、そちらへ向かう。以前、スタジオに置いていた古いガムラン楽器のセットや自身の抽象的な絵画作品が置いてある。この空間を見ると、宮廷舞踊家(ジョコ・トゥトゥコ氏の祖父)の弟子で、にも関わらず1970年にコンテンポラリ舞踊作品を発表してセンセーションを起こし師匠と衝突してしまうことになったサルドノ氏のあり方~根っこの伝統と最先端を両方つかんでいる~がくっきり出ているなあと思う。
他の日には芸大(ISI Surakarta)にほぼ毎日行って、振付の師、学長、第一副学長、ガムラン音楽科の教員らに会い、今年3月と2021年10月に堺で行った公演の映像を見てもらって、いろいろアドバイスをもらったり、これからのヒントをもらったり、意見交換したりした。実は、それが今回の渡航の第二の目的だった。振付の師には創作を指導してもらっただけでなく、私の宮廷舞踊の公演や録音に歌やクプラ(舞踊に合図を出すパート)で参加してもらってきた。ちょうど大学院の入試面接で忙しくしていたが、会って食事し、話をすることができた。学長や第一副学長はウィラヌガラ氏(3月の公演のために映像を制作してくれた映像作家、公演のため来日)から公演の話をすでに聞いていたと言う。サルドノ氏もウィラネガラ氏から話を聞いていたと言っていたし、知らないところで情報をつないでくれることが本当にありがたい。これらの人々には、1時間近い宮廷舞踊の上演や重い曲である「ガドゥン・ムラティ」を演奏したりして、観客からの反応が好評だったこと、有料公演で提示したこと、関西ガムランのレベルの高さなどに大変驚かれた。だいだいジャワ人は、こういう演目は退屈で飽きられると思っている。けれど本当の宮廷儀礼に触れたい、本当の瞑想的な雰囲気に浸りたいという観客は、少ないかもしれないけれど確実にいる、と私は強調した。そうそう、木曜夜に見に行った公演で、元TBS(スラカルタにある中部ジャワ州立芸術センター)で照明をしていた人(すでに定年)が見に来ていて、「あー!君はブドヨ・パンクル公演のミチだね!」と出会うやいなや言ってくれたことが非常に嬉しかった。私の『ブドヨ・パンクル』公演もこの人に担当してもらったのだが、それは2007年のことなのだ。それで、この人にも私の堺公演の映像をみてもらい(私はどこにでもパソコンを持参していたのだった)、照明家ならではのアドバイスをもらった。
ちなみに、ウィラヌガラ氏は毎月スラカルタの芸大大学院に教えに来ていて、今回私の来イネに予定を合わせて授業の日を調整してくれたので、一緒に食事する。その時に、3月の堺公演のためにお祈りしてくれたスラカルタ王家のラトゥ・アリッ王女(故パク・ブウォノXII世の長女)も誘ってくれて、3人で食事となり、やはり公演映像を見ていただいた。公演で使ったウィラヌガラ氏の映像には故パク・ブウォノXII世を始め亡くなった王家関係者が多く映っており、供物を作って王宮の各所に備えている宮廷儀礼の様子も映っていてとても貴重だ。ウィラヌガラ氏は2004年にパク・ブウォノXII世が亡くなるまでずっと王と王家のドキュメント映像を撮り続けてきた人なのである。王女からも様々なコメントや励ましの言葉を戴き、記念にとバティックまで頂戴する。
というような感じで、わたしの滞在はあっという間に過ぎてしまった。いま、これを書きながら、なんだか過去にも似たようなことをしていたような気がしていたのだが…思い出した!ジョコ・トゥトゥコ氏の公演に出た後2週間足らずで留学を終えて帰国し、その半年後に大学院生となってインドネシア調査に行った時に、いろんな人に自分の舞踊に対する批評やアドバイスを求めて廻っていたのだった…。しかも、その時の様子を2004年2月号の『水牛』に「心をとらえるもの」として書いていた。そして、この時もサルドノ氏にいろいろアドバイスをもらっていた(!)。あれから約20年、私はちょっとは成長できているのだろうか…。今は亡きジョコ・トゥトゥコ氏その母や私の師匠の故ジョコ女史に問うてみたら、何と答えてくれるだろうか…。
2023年07月05日 (水)
『水牛』6月号の記事のこと、こちらにアップするのをすっかり忘れておりました。
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年06月」(水牛のように)コーナーに、
「パンチャシラの日によせて」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/06#post-9112
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
パンチャシラの日によせて
冨岡三智
6月1日はパンチャシラの日(インドネシアの国民の祝日)。というわけで今月はパンチャシラ関連の思い出について。
●パンチャシラの日とは
この日の正式名称はHari Lahir Pancasila(パンチャシラ誕生の日)と言う。パンチャシラはインドネシアの国家五原則のこと。1945年6月1日(日本軍政期)の独立準備調査会の席上で、スカルノ(のちに初代大統領となる)によってその概念が提唱され、独立後に制定された1945年憲法の前文に掲げられた。1970年代末以降国民統合の象徴として称揚され、道徳教育として学校や公務員に浸透している。これが国の祝日に指定されたのは2016年、ジョコ政権下(2014~現在)になってからである。大統領はこの国際競争社会の中、パンチャシラ精神があれば逆境を克服することができると呼びかけたのだが、その背景には初の華人系キリスト教徒のジャカルタ知事・アホック氏に対するイスラム強硬派の抗議や、海外におけるISなどイスラム過激派の動きの活発化と国内の過激派団体の同調などがあり、多様性の中の統一の維持を強く打ち出したかったのだと思える。パンチャシラの5原則の第1項は唯一神への信仰である。インドネシアでは現在6宗教(イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンドゥー、儒教)が公認されており、このうちどれかを信教しなければならない。パンチャシラは宗教の別を問わず統合の象徴として存在している。
●2007年12月3日 タマンミニでのアンゴロ・カセ
この行事については、実は2008年1月号の『水牛』に寄稿した「外から見たジャワ王家~ジャカルタでのアンゴロ・カセ」で書いているので、そちらも読んでいただければ幸いである。ジャカルタのタマン・ミニ公園で開催されたアンゴロ・カセというイベントは、2007年1月から観光文化省の唯一神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニと協力して始めたもので、意見の異なるさまざまな信仰団体の人たちが直接意見を戦わせる場として設けられ、毎回ゲストスピーカーを招いて話を聞き、質疑応答が行われていた。実は2006年8月から就任した信仰局長(スリスティヨ・ティルトクスモ氏)が始めたイベントで、それ以前にも同様の機会がなかったわけではないが、長くは続かなかったらしい。私が出席したのは第9回目の開催だった。最初、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」を斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。インドネシアでは信仰と宗教は区別され、管轄も違う。このアンゴロ・カセに集うクジャウィン(ジャワ神秘主義)の団体は観光文化省唯一神への信仰局の管轄で、上でのべた公認6宗教は宗教省の管轄である。そのことはすでに知っていたが、信仰を持つ団体の拠り所もまたパンチャシラであるということに、私はこの場で初めて気づいた。
●2011年5月31日~6月1日 トゥガルで踊る
中部ジャワ州トゥガルにある信仰団体Padepokan Wulan Tumanggalのパンチャシラの日の記念式典で踊ってほしいと依頼がきた。この時でパンチャシラの式典は5回目くらいだったと私はブログに書き残している。ということは、上のタマンミニでのアンゴロ・カセ開始を機に始まったのかもしれない。段取りはまず前夜の5月31日夜に開会式。後援する観光文化省信仰局長(代理)やら警察やら市の関係者やら多くの来賓を迎えてホールで式典ののち食事、その後舞踊上演。私は自作の『妙寂アスモロドノ・エリンエリン』を披露した。翌6月1日朝9時から屋外の広場で国旗掲揚ののち、各種芸能の上演があった。この日は太鼓上演や東ジャワのレオッグなど大人数で大音量で上演するものが多かったが、私は1人でガンビョンを踊った。その後昼食があり、午後1時から4時まで「Pembinaan “Hari Pancasila”(「パンチャシラ」の育成)」をやったあと閉会式。この午後からのイベントがどういう内容だったのか思い出せないのだが、講演かディスカッションだったような気がする。
この信仰団体のパデポカン(施設)は、この種の施設としてはかなり規模が大きい方らしかった。確かに広大な敷地の中に開会式を行ったホールや国旗掲揚広場、信者たちが修行のため寝泊まりする建物が点在していた。修行のため信者はアスファルトの上に直に寝るということで、寝泊まりする部屋の床はアスファルトのままだったことを覚えている。さすがに私の部屋には敷物を敷いてくれたが…。またパンチャシラの日だけでなく、ジャワ暦正月、カルティニの日など、国の記念日に際してさまざまな式典を行っているのも、この種の施設としては他にないようだとのことだった。
実は2011年~2012年はジョグジャカルタで調査していた。今度、パンチャシラの日の記念式典で踊るんだよと知り合いの先生に知らせたら、インドネシアのために有難うという返事がきて、パンチャシラというイデオロギーの重みを少し実感したことを思い出す…。

※ この時の写真
●2011年9月16日バンドンで踊る
西ジャワ州バンドンにある信仰団体Budidayaの式典で踊ってほしいと依頼が来た。この団体はスカルノがパンチャシラの概念を打ち出すのに影響を与えたメイ・カルタウィナタ(Mei Kartawinata)が立ち上げた団体で、1927年の9月16日にメイに啓示となる出来事があって発足したようだ。RRI(国営ラジオ放送局)バンドン支局でその式典は行われた。これも信仰局が後援。私は自作「Nut Karsaning Widhi」を初演したが、実はこの式典のために作った曲である。音楽はスラカルタの芸大教員であるワルヨ氏に委嘱し、イベントの趣旨を伝えたところ、olah batin=心の鍛練をテーマに歌詞と音楽を作ってくれた。タイトルもワルヨ氏がつけ、「魂を研鑽し、梵我一如となる」という感じの言葉らしい。Budidayaの人たちに聞いた話だが、この団体を始め信仰団体が開催するイベントはしばしば過激なイスラム団体によって妨害されるらしい。西ジャワは中部ジャワよりもイスラムがきついからかもしれない。私がRRIにいた間は大丈夫だった気がするが、開催にこぎつけるまでにいろいろあったようだ。

※この時の写真
●2011年大晦日 チャンディ・スクーで踊る
この時のことについては2012年1月号の『水牛』に「チャンディより謹賀新年」として書いている。これは、スプラプト氏が毎年注ジャワのチャンディ・スクー(ヒンドゥー遺跡)で開催している「スラウン・スニ・チャンディ」という催しで、これもやはり信仰局が後援するイベント。スプラプト氏はスピリチュアルな舞踊の第一人者とも言うべき人だ。実はこの時に私が上演した「Angin dari Candi(寺院からの風)」はバンドンで上演した「Nut Karsaning Widhi」と同じで、場に合わせてタイトルだけ変えたもの。私は衣装を借りに行った先で信仰局の人たちと鉢合わせしたのだが、彼らは芸術イベントが終わった後に開催される夜のお祈りで着る伝統衣装一式を借りに来ていた。ジャワの芸術家界隈には多いクジャウィン(ジャワ神秘主義)もインドネシア全土では少数派で、多数派のイスラム教徒からは受け入れられにくい存在らしく、信仰局としてはクジャウィンの活動をバックアップしたいということだった。
※この時の映像
●
というわけで、6月1日が来ると、この2011年の一連のイベントを思い出す。
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年06月」(水牛のように)コーナーに、
「パンチャシラの日によせて」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/06#post-9112
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
パンチャシラの日によせて
冨岡三智
6月1日はパンチャシラの日(インドネシアの国民の祝日)。というわけで今月はパンチャシラ関連の思い出について。
●パンチャシラの日とは
この日の正式名称はHari Lahir Pancasila(パンチャシラ誕生の日)と言う。パンチャシラはインドネシアの国家五原則のこと。1945年6月1日(日本軍政期)の独立準備調査会の席上で、スカルノ(のちに初代大統領となる)によってその概念が提唱され、独立後に制定された1945年憲法の前文に掲げられた。1970年代末以降国民統合の象徴として称揚され、道徳教育として学校や公務員に浸透している。これが国の祝日に指定されたのは2016年、ジョコ政権下(2014~現在)になってからである。大統領はこの国際競争社会の中、パンチャシラ精神があれば逆境を克服することができると呼びかけたのだが、その背景には初の華人系キリスト教徒のジャカルタ知事・アホック氏に対するイスラム強硬派の抗議や、海外におけるISなどイスラム過激派の動きの活発化と国内の過激派団体の同調などがあり、多様性の中の統一の維持を強く打ち出したかったのだと思える。パンチャシラの5原則の第1項は唯一神への信仰である。インドネシアでは現在6宗教(イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンドゥー、儒教)が公認されており、このうちどれかを信教しなければならない。パンチャシラは宗教の別を問わず統合の象徴として存在している。
●2007年12月3日 タマンミニでのアンゴロ・カセ
この行事については、実は2008年1月号の『水牛』に寄稿した「外から見たジャワ王家~ジャカルタでのアンゴロ・カセ」で書いているので、そちらも読んでいただければ幸いである。ジャカルタのタマン・ミニ公園で開催されたアンゴロ・カセというイベントは、2007年1月から観光文化省の唯一神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニと協力して始めたもので、意見の異なるさまざまな信仰団体の人たちが直接意見を戦わせる場として設けられ、毎回ゲストスピーカーを招いて話を聞き、質疑応答が行われていた。実は2006年8月から就任した信仰局長(スリスティヨ・ティルトクスモ氏)が始めたイベントで、それ以前にも同様の機会がなかったわけではないが、長くは続かなかったらしい。私が出席したのは第9回目の開催だった。最初、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」を斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。インドネシアでは信仰と宗教は区別され、管轄も違う。このアンゴロ・カセに集うクジャウィン(ジャワ神秘主義)の団体は観光文化省唯一神への信仰局の管轄で、上でのべた公認6宗教は宗教省の管轄である。そのことはすでに知っていたが、信仰を持つ団体の拠り所もまたパンチャシラであるということに、私はこの場で初めて気づいた。
●2011年5月31日~6月1日 トゥガルで踊る
中部ジャワ州トゥガルにある信仰団体Padepokan Wulan Tumanggalのパンチャシラの日の記念式典で踊ってほしいと依頼がきた。この時でパンチャシラの式典は5回目くらいだったと私はブログに書き残している。ということは、上のタマンミニでのアンゴロ・カセ開始を機に始まったのかもしれない。段取りはまず前夜の5月31日夜に開会式。後援する観光文化省信仰局長(代理)やら警察やら市の関係者やら多くの来賓を迎えてホールで式典ののち食事、その後舞踊上演。私は自作の『妙寂アスモロドノ・エリンエリン』を披露した。翌6月1日朝9時から屋外の広場で国旗掲揚ののち、各種芸能の上演があった。この日は太鼓上演や東ジャワのレオッグなど大人数で大音量で上演するものが多かったが、私は1人でガンビョンを踊った。その後昼食があり、午後1時から4時まで「Pembinaan “Hari Pancasila”(「パンチャシラ」の育成)」をやったあと閉会式。この午後からのイベントがどういう内容だったのか思い出せないのだが、講演かディスカッションだったような気がする。
この信仰団体のパデポカン(施設)は、この種の施設としてはかなり規模が大きい方らしかった。確かに広大な敷地の中に開会式を行ったホールや国旗掲揚広場、信者たちが修行のため寝泊まりする建物が点在していた。修行のため信者はアスファルトの上に直に寝るということで、寝泊まりする部屋の床はアスファルトのままだったことを覚えている。さすがに私の部屋には敷物を敷いてくれたが…。またパンチャシラの日だけでなく、ジャワ暦正月、カルティニの日など、国の記念日に際してさまざまな式典を行っているのも、この種の施設としては他にないようだとのことだった。
実は2011年~2012年はジョグジャカルタで調査していた。今度、パンチャシラの日の記念式典で踊るんだよと知り合いの先生に知らせたら、インドネシアのために有難うという返事がきて、パンチャシラというイデオロギーの重みを少し実感したことを思い出す…。

※ この時の写真
●2011年9月16日バンドンで踊る
西ジャワ州バンドンにある信仰団体Budidayaの式典で踊ってほしいと依頼が来た。この団体はスカルノがパンチャシラの概念を打ち出すのに影響を与えたメイ・カルタウィナタ(Mei Kartawinata)が立ち上げた団体で、1927年の9月16日にメイに啓示となる出来事があって発足したようだ。RRI(国営ラジオ放送局)バンドン支局でその式典は行われた。これも信仰局が後援。私は自作「Nut Karsaning Widhi」を初演したが、実はこの式典のために作った曲である。音楽はスラカルタの芸大教員であるワルヨ氏に委嘱し、イベントの趣旨を伝えたところ、olah batin=心の鍛練をテーマに歌詞と音楽を作ってくれた。タイトルもワルヨ氏がつけ、「魂を研鑽し、梵我一如となる」という感じの言葉らしい。Budidayaの人たちに聞いた話だが、この団体を始め信仰団体が開催するイベントはしばしば過激なイスラム団体によって妨害されるらしい。西ジャワは中部ジャワよりもイスラムがきついからかもしれない。私がRRIにいた間は大丈夫だった気がするが、開催にこぎつけるまでにいろいろあったようだ。

※この時の写真
●2011年大晦日 チャンディ・スクーで踊る
この時のことについては2012年1月号の『水牛』に「チャンディより謹賀新年」として書いている。これは、スプラプト氏が毎年注ジャワのチャンディ・スクー(ヒンドゥー遺跡)で開催している「スラウン・スニ・チャンディ」という催しで、これもやはり信仰局が後援するイベント。スプラプト氏はスピリチュアルな舞踊の第一人者とも言うべき人だ。実はこの時に私が上演した「Angin dari Candi(寺院からの風)」はバンドンで上演した「Nut Karsaning Widhi」と同じで、場に合わせてタイトルだけ変えたもの。私は衣装を借りに行った先で信仰局の人たちと鉢合わせしたのだが、彼らは芸術イベントが終わった後に開催される夜のお祈りで着る伝統衣装一式を借りに来ていた。ジャワの芸術家界隈には多いクジャウィン(ジャワ神秘主義)もインドネシア全土では少数派で、多数派のイスラム教徒からは受け入れられにくい存在らしく、信仰局としてはクジャウィンの活動をバックアップしたいということだった。
※この時の映像
●
というわけで、6月1日が来ると、この2011年の一連のイベントを思い出す。
2023年05月02日 (火)
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年05月」(水牛のように)コーナーに、
「公演『幻視 IN 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(2)」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/05#post-9000
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
公演『幻視 IN 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(2)
冨岡三智
第2部のスリンピ公演では、舞踊の展開に沿って照明をつけた。私が宮廷舞踊に照明をつけたのは、①2007年に中部ジャワ州立芸術センターで宮廷舞踊「ブドヨ・パンクル」完全版の公演をした時が初めてで、その次が②2012年に豪華客船ぱしふぃっく・びいなす号の「西オーストラリア・アジア楽園クルーズ」で「スリンピ・スカルセ」を上演した時(録音使用)、さらに③2017年に能舞台で宮廷舞踊「スリンピ・アングリルムンドゥン」の前半を単独舞踊にアレンジして踊った時(日本アートマネジメント学会第19回全国大会<奈良>関連企画)、そして、④2021年の公演『幻視 in 堺 ~能舞台に舞うジャワの夢~』で「スリンピ・ロボン」を上演した時である。また、⑤宮廷舞踊ではないけれど、自作の「陰陽」を2019年に能舞台で上演した時も、宮廷舞踊と同じコンセプトで照明をつけた。これらの照明プランは全部自分で考えている。
ジャワ宮廷舞踊で一番重要なのは、振付(動きとフォーメーション)が音楽形式と連関し、音楽の展開に沿って振付が変化していく点だと私は考えている。ジャワのガムラン音楽では曲の変わり目にテンポが速くなって、新しい局面(曲)に突入するのだが、一般の観客にとってはテンポが変化したかどうかすら分かりづらい。あるいは、舞踊の後半では2組の踊り手の間でそれぞれ戦い(ピストルを撃つ)が起こり、負けた方が座る。そのピストルを撃つまでの緊張感の高まりも分かりづらい(実はこの曲は似たような動きが多いので、演奏者にも分かりづらい)。このような変化を視覚的に分かりやすくするために照明をつけるというのが私の基本的な考えである。だから、生演奏で公演する時にはガムラン音楽が分かる人が照明を担当するか、あるいは照明担当者に指図する必要が出てくる。というわけで、③④⑤では元ガムラン演奏家でもある人に舞台監督兼照明指示係をお願いしている。②のクルーズ船での公演では録音を使用したので、秒単位で進行表を作成して指示出しをすることができたが、やはり生演奏ではそれは難しい。
ジャワで2007年に初めて照明をつけた時、実は賛否両論だった。日本では能や日舞といった伝統舞踊では地明かりにするのが普通なように、ジャワでも伝統舞踊にはフラットな地明かりというのが一般的で、照明をつけるなんて古典を冒涜していると批判した人もいたくらいだった。とはいえ照明は無色のみで、赤だの青だのは使っていないのだが…。日本でも同じことを言われるかもしれないという危惧はあったが、アンケート結果ではその批判は皆無だった。しかし、これが能の公演であれば言われる可能性はあるように思う。その差が興味深いが、日本人にとってジャワ舞踊は自分たちの伝統舞踊ではないということなのかもしれない。
上で、ピストルを撃つと書いたけれど、実際にピストルを手にするわけではなく(実際に持つ場合もある)、サンプール(ウェストに巻いて前に垂らした長いショールのような布)を手にすることでそのことを象徴的に表す。そして、戦いののち負けた方が座ると、立っている人だけを照らすようにする。もっとも、立っている人は座っている人の方に近づいていって周囲を廻るので、その時は座っている人も照らされることになる。たぶん、舞台照明なんてものがなかった時代、踊り手の一部が座るということは、その人たちは映像の画面から外れるようなものだったと思うのだ。舞踊が作られた当時に照明器具があったら、きっと、宮廷舞踊家は振付と音楽の展開だけでなく、照明の展開も一致するような作品を作り上げたに違いないと私は思っている。そして、それはきっとこんなものだったろうというものを、私は創造的に再現している。
①2007年、宮廷舞踊「ブドヨ・パンクル」公演
②2012年、ぱしふぃっく・びいなす号、「スリンピ・スカルセ」公演
③2017年、能舞台、日本アートマネジメント学会第19回全国大会<奈良>関連企画公演
④2021年、『幻視 in 堺 ~能舞台に舞うジャワの夢~』における「スリンピ・ロボン」公演
「2023年05月」(水牛のように)コーナーに、
「公演『幻視 IN 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(2)」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/05#post-9000
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
公演『幻視 IN 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(2)
冨岡三智
第2部のスリンピ公演では、舞踊の展開に沿って照明をつけた。私が宮廷舞踊に照明をつけたのは、①2007年に中部ジャワ州立芸術センターで宮廷舞踊「ブドヨ・パンクル」完全版の公演をした時が初めてで、その次が②2012年に豪華客船ぱしふぃっく・びいなす号の「西オーストラリア・アジア楽園クルーズ」で「スリンピ・スカルセ」を上演した時(録音使用)、さらに③2017年に能舞台で宮廷舞踊「スリンピ・アングリルムンドゥン」の前半を単独舞踊にアレンジして踊った時(日本アートマネジメント学会第19回全国大会<奈良>関連企画)、そして、④2021年の公演『幻視 in 堺 ~能舞台に舞うジャワの夢~』で「スリンピ・ロボン」を上演した時である。また、⑤宮廷舞踊ではないけれど、自作の「陰陽」を2019年に能舞台で上演した時も、宮廷舞踊と同じコンセプトで照明をつけた。これらの照明プランは全部自分で考えている。
ジャワ宮廷舞踊で一番重要なのは、振付(動きとフォーメーション)が音楽形式と連関し、音楽の展開に沿って振付が変化していく点だと私は考えている。ジャワのガムラン音楽では曲の変わり目にテンポが速くなって、新しい局面(曲)に突入するのだが、一般の観客にとってはテンポが変化したかどうかすら分かりづらい。あるいは、舞踊の後半では2組の踊り手の間でそれぞれ戦い(ピストルを撃つ)が起こり、負けた方が座る。そのピストルを撃つまでの緊張感の高まりも分かりづらい(実はこの曲は似たような動きが多いので、演奏者にも分かりづらい)。このような変化を視覚的に分かりやすくするために照明をつけるというのが私の基本的な考えである。だから、生演奏で公演する時にはガムラン音楽が分かる人が照明を担当するか、あるいは照明担当者に指図する必要が出てくる。というわけで、③④⑤では元ガムラン演奏家でもある人に舞台監督兼照明指示係をお願いしている。②のクルーズ船での公演では録音を使用したので、秒単位で進行表を作成して指示出しをすることができたが、やはり生演奏ではそれは難しい。
ジャワで2007年に初めて照明をつけた時、実は賛否両論だった。日本では能や日舞といった伝統舞踊では地明かりにするのが普通なように、ジャワでも伝統舞踊にはフラットな地明かりというのが一般的で、照明をつけるなんて古典を冒涜していると批判した人もいたくらいだった。とはいえ照明は無色のみで、赤だの青だのは使っていないのだが…。日本でも同じことを言われるかもしれないという危惧はあったが、アンケート結果ではその批判は皆無だった。しかし、これが能の公演であれば言われる可能性はあるように思う。その差が興味深いが、日本人にとってジャワ舞踊は自分たちの伝統舞踊ではないということなのかもしれない。
上で、ピストルを撃つと書いたけれど、実際にピストルを手にするわけではなく(実際に持つ場合もある)、サンプール(ウェストに巻いて前に垂らした長いショールのような布)を手にすることでそのことを象徴的に表す。そして、戦いののち負けた方が座ると、立っている人だけを照らすようにする。もっとも、立っている人は座っている人の方に近づいていって周囲を廻るので、その時は座っている人も照らされることになる。たぶん、舞台照明なんてものがなかった時代、踊り手の一部が座るということは、その人たちは映像の画面から外れるようなものだったと思うのだ。舞踊が作られた当時に照明器具があったら、きっと、宮廷舞踊家は振付と音楽の展開だけでなく、照明の展開も一致するような作品を作り上げたに違いないと私は思っている。そして、それはきっとこんなものだったろうというものを、私は創造的に再現している。
①2007年、宮廷舞踊「ブドヨ・パンクル」公演
②2012年、ぱしふぃっく・びいなす号、「スリンピ・スカルセ」公演
③2017年、能舞台、日本アートマネジメント学会第19回全国大会<奈良>関連企画公演
④2021年、『幻視 in 堺 ~能舞台に舞うジャワの夢~』における「スリンピ・ロボン」公演
2023年04月01日 (土)
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年04月」(水牛のように)コーナーに、
「公演『幻視 IN 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(1)」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/04#post-8939
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
公演『幻視 IN 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(1)
冨岡三智
今回は3月11日にフェニーチェ堺・小ホールで行った公演の演出について書き残しておきたい。いつものごとく、自分の公演について主観と言い訳交じりで語るのだけれど、何十年か後にはきっと当事者が語る貴重な証言になっているに違いない…と思うことにする。まず、プログラムは以下の通り。
第1幕:ガムラン音楽とスラカルタ王家の儀礼映像
・「夜霧の私」(山崎晃男作曲)
・グンディン・ボナン「ババル・ラヤル」
・「ガドゥン・ムラティ」
第2幕:宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版
●ウィンギット(wingit)なるもの
ジャワの宮廷芸術で目指す境地を表す語は?と問われたら、私は「ウィンギット」だと答える。この語については『水牛』2009年8月号「ジャワ舞踊の美・境地を表す語」でも書いたけれど、「超自然的な存在(それは神でもあり災厄でもあるだろう)に対する恐れ、畏れ」のこと。その災厄から王国を護るため、畏怖心から行うものが宮廷儀礼であり、今回の公演では宮廷儀礼の奥にあるそのウィンギットなるものを表現したいと思っていた。
今回の公演会場は一般的な音楽向けのホール(300席)である。第1幕の背景は白のホリゾント幕とし、そこに宮廷儀礼の映像を投影したが、第2幕の背景は黒幕にした。演奏者の衣装も上半身は黒とし、女性はお揃いの生地・デザインでクバヤ(ジャワの伝統的なブラウス)を仕立て、男性も全員、黒のビスカップ(スラカルタ様式の男性上着)にした。前回の堺公演でも女性のクバヤは黒にしたが、各自手持ちの物を着てもらったので、デザインや質感には多少ばらつきがある。背景が黒一色になるとそのばらつきが気になると思えたので、新たに仕立てたのだった。男性の場合、前回はジョグジャ様式の正装(スルジャン)とスラカルタ様式の正装(ビスカップ)が混在していたが、柔らかい織り素材で色も真っ黒ではないスルジャンだと、やはり他の人や背景幕からも浮くように感じたので、黒のビスカップで統一した。演奏者からは、衣装の色が背景と同化して生首が並んでいるように見えないかな?という不安の声もあったのだけれど、実は敢えてそうしていた。通常のコンサートでは黒をバックに演奏家を際立たせるが、逆に黒のバックに溶け込ませたかったのである。

どの曲も前奏は暗い中で始まり、音が出てから舞台がだんだん明るくなるように、さらに映像は音楽のテンポが安定してから投影されるようにして、まずは音に集中してもらえるようにした。そして、歌声だけが際立たないように気をつけた。もともと、ガムランでは歌も楽器の1つとされているのだけれど、ジャワでも宮廷外では歌い手を目立たせすぎることが多い。この公演ではそれを避けた。人の声とも楽器の音とも区別のつかない響きが暗闇から聞こえてくる…、それは狼の鳴き声のようにも、風が空を切る音のようにも聞こえる…、遠くから大いなる存在が発現するような気配がする…。そんな風に、公演の音全体が聞こえてほしいと思っていた。舞台に載っている人の存在感を消すことで、そんな世界が存在することが見えてくるのではないか…と考えたのだった
●1曲目
通常、ジャワ・ガムランで開始の曲と言えば「ウィルジュン」だが、今回はそうしなかった。というのはグンディン・ボナンという種類の曲「ババル・ラヤル」を演奏すると先に決めていたからである。この種の曲は宮廷では即位記念日や結婚儀礼の前夜に演奏され、そのとき精霊たちが祝福を与えに降りてくると言われている。「ウィルジュン」は儀礼当日の最初に演奏される曲だから、それをグンディン・ボナンの前に演奏すると時系列が前後してしまう。さらに、その精霊が降りてくる曲の後には、供物を準備してお祈りしないといけない「ガドゥン・ムラティ」という曲が控えている。供物やお祈りを欠くと災いがもたらされるという。「ウィルジュン」(つつがなくの意味)は文字通り儀礼がつつがなく終わるようにと演奏するものだが、今回のプログラムのような重い曲の演奏が続くことは想定されていないと私には感じられる。というわけで、1曲目の役割は観客を未知の世界にいざなってくれるようなものが良い、むしろガムランの現代曲から選んだほうが良いと考え、ダルマブダヤ代表の山崎晃男氏が作曲した曲の中から選んだのが「夜霧の私」である。他の2曲が少々長いので、「夜霧の私」は1曲全部ではなく途中までしか使っていないが、なんだかジャワから懐かし気に呼ばれているような心持ちになる曲だ。それで、この曲には王宮にだんだん近づいていく映像をつけようと思いついたのだった。
●音楽と映像とα
第1幕ではガムラン音楽の演奏にあわせ、舞台奥のホリゾント幕に映像を映した。上映した映像はウィラネガラ氏が制作し、来日してオペレーションも行った。氏は2004年に亡くなったスラカルタ王家当主:パク・ブウォノXII世のドキュメンタリー映画を制作した人で、その作品によりインドネシア・フィルム・フェスティバルで最優秀映像賞を受賞している。私は2000年かそれ以前からスラカルタ王家の儀礼で知り合いになっていた。
映像を入れようと思ったのは、音楽だけではジャワ王家の儀礼の雰囲気はよくわからないだろうなと思ったからだった。楽曲そのものだけでなく、それを取り巻く環境も感じてほしかった。王宮の建物はどんなものか、人々はどんな衣装を着ているのか、王宮儀礼ってどんなものなのか…。人が真剣にやっている儀礼というのは、意味がわからなくとも何か伝わるものがある。それが美しい響きの音と一体となって観客の記憶の中にしみこんでいってくれたらいいなと思う。

それで、ウィラネガラ氏に、今まで王宮儀礼に入って撮りためていた映像から、王家の守護神である女神ラトゥ・キドゥルに関連する儀礼、女神の棲む南海岸、王宮での精霊に対する様々な祈りの場面などを取り出し、曲の進行に合わせて映像を編集してもらった。公演であって研究会ではないから、説明的な映像の見せ方ではない。王家の人々の間で信じられている女神の存在が映像から感じ取られ、そのイメージの断片が心の中に残って、今後ふと思い出してくれることがあったら嬉しい。
音楽と映像に加えて、1曲目は映像の情景にあわせて語りをかぶせ、3曲目はお祈りのパフォーマンスとワヤン(影絵)も上演した。1曲目で語りを入れたのは、王と女神が南海岸で出会ったとか、八角形の塔で王と女神が交信していたとか…少し手掛かりになる情報があると映像世界に入りやすいようにと思ったから。
3曲目のお祈りパフォーマンスは舞台用としてアレンジしたものだが、王家の儀礼で多くの人々が準備に関わっていて供物を運んでいく様子を描こうと思い、衣装をつけた踊り手4人と演奏していない演者がぞろぞろと蛇行しながら舞台を練り歩くように演出した。背後の映像では実際の儀礼における行列シーンは映し出されているが、第2幕の舞踊用に舞台手前は空けてあるから、その空間を埋めたかったのである。舞踊曲もある公演だと、演奏者はどうしても舞台奥でじっとしている感じになり、舞踊がないときは観客の前にぽっかり空いた空間ができる。普通、舞踊公演では踊り手は自分の出番がくるまでは観客の前に衣装を着て出てくることはないので、何か批判なり反応なりがあるかも…と思っていたが、全然なかった。こういうもんだと思ってくれたみたいだ。

このお祈りのシーンでは京都にあるバリバリインドネシアというレストランに供物を作ってもらい、ジャワでやっているように大きなザルに盛ってもらった。3種類のうち1つはクタンビル(スラカルタ王家で女神のために作られるお供え)を見様見真似で、1つはアプム(パンケーキ、一般的だが儀礼用に作られる)、1つはお任せである。クタンビルは当然レストランの人は食べたことがないので宮廷での味とは違うけれど、たぶんその努力に免じてラトゥ・キドゥルは赦してくれるだろう。やはりお供えがあると出演者のテンションが上がる。舞台では先頭にお香を持った私、お供えの菓子が続くのは元スラカルタ王家の踊り手だった2人の指南による。本当は踊り子がお香を持つのは変なのだが、私が持つということで消防に届けてしまった。全員が座ると、私は四方に向かって合掌し、最初の1回は他の人も一緒に合掌する。このように四方に向かってするお祈りは王家で行われていて、特に「ブドヨ・クタワン」で踊り子がやっているのがとても印象に残っている。

3曲目の「ガドゥン・ムラティ」は複数の曲がつながっていて、テンポが速くなったところで、最後のアヤアヤアンという部分に移行する。影絵人形操作をするナナンさんはこのアヤアヤアンの前奏部分を歌って出てきて、お祈りの人たちがはけていくのと入れ違いに影絵の世界が始まる。影絵の場面を作ったのは、ルワタンという魔除けの影絵は南海の女神から授けられたという伝承があるから。この「ガドゥン・ムラティ」の曲は南海の女神の許を訪れた王家のグンデル(この曲の前奏を弾いていた楽器)奏者の女性が女神から授けられたという伝承があり、どちらも女神ゆかりの―それゆえに霊力がある―ものとして共通点がある。影絵奏者が出てくるところから照明を落として影絵が始まるまでのしばらくの間、王家の影絵奏者の映像が少し挟まれる。そして、ナナンさんが観客に背を向けると、彼のビスカップの背中にある絵羽模様が目に入る。これはナナン氏が黒留め袖の着物をビスカップに仕立てたもので、前から見ると普通の黒いビスカップなのである。背中を見せると、それまでの演奏者がダランに変貌するのが面白いかなと思ったのだが、どうだろう。

…ということで、今回の話は時間切れになってしまった。舞踊演出については来月書きます。
「2023年04月」(水牛のように)コーナーに、
「公演『幻視 IN 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(1)」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/04#post-8939
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
公演『幻視 IN 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(1)
冨岡三智
今回は3月11日にフェニーチェ堺・小ホールで行った公演の演出について書き残しておきたい。いつものごとく、自分の公演について主観と言い訳交じりで語るのだけれど、何十年か後にはきっと当事者が語る貴重な証言になっているに違いない…と思うことにする。まず、プログラムは以下の通り。
第1幕:ガムラン音楽とスラカルタ王家の儀礼映像
・「夜霧の私」(山崎晃男作曲)
・グンディン・ボナン「ババル・ラヤル」
・「ガドゥン・ムラティ」
第2幕:宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版
●ウィンギット(wingit)なるもの
ジャワの宮廷芸術で目指す境地を表す語は?と問われたら、私は「ウィンギット」だと答える。この語については『水牛』2009年8月号「ジャワ舞踊の美・境地を表す語」でも書いたけれど、「超自然的な存在(それは神でもあり災厄でもあるだろう)に対する恐れ、畏れ」のこと。その災厄から王国を護るため、畏怖心から行うものが宮廷儀礼であり、今回の公演では宮廷儀礼の奥にあるそのウィンギットなるものを表現したいと思っていた。
今回の公演会場は一般的な音楽向けのホール(300席)である。第1幕の背景は白のホリゾント幕とし、そこに宮廷儀礼の映像を投影したが、第2幕の背景は黒幕にした。演奏者の衣装も上半身は黒とし、女性はお揃いの生地・デザインでクバヤ(ジャワの伝統的なブラウス)を仕立て、男性も全員、黒のビスカップ(スラカルタ様式の男性上着)にした。前回の堺公演でも女性のクバヤは黒にしたが、各自手持ちの物を着てもらったので、デザインや質感には多少ばらつきがある。背景が黒一色になるとそのばらつきが気になると思えたので、新たに仕立てたのだった。男性の場合、前回はジョグジャ様式の正装(スルジャン)とスラカルタ様式の正装(ビスカップ)が混在していたが、柔らかい織り素材で色も真っ黒ではないスルジャンだと、やはり他の人や背景幕からも浮くように感じたので、黒のビスカップで統一した。演奏者からは、衣装の色が背景と同化して生首が並んでいるように見えないかな?という不安の声もあったのだけれど、実は敢えてそうしていた。通常のコンサートでは黒をバックに演奏家を際立たせるが、逆に黒のバックに溶け込ませたかったのである。

どの曲も前奏は暗い中で始まり、音が出てから舞台がだんだん明るくなるように、さらに映像は音楽のテンポが安定してから投影されるようにして、まずは音に集中してもらえるようにした。そして、歌声だけが際立たないように気をつけた。もともと、ガムランでは歌も楽器の1つとされているのだけれど、ジャワでも宮廷外では歌い手を目立たせすぎることが多い。この公演ではそれを避けた。人の声とも楽器の音とも区別のつかない響きが暗闇から聞こえてくる…、それは狼の鳴き声のようにも、風が空を切る音のようにも聞こえる…、遠くから大いなる存在が発現するような気配がする…。そんな風に、公演の音全体が聞こえてほしいと思っていた。舞台に載っている人の存在感を消すことで、そんな世界が存在することが見えてくるのではないか…と考えたのだった
●1曲目
通常、ジャワ・ガムランで開始の曲と言えば「ウィルジュン」だが、今回はそうしなかった。というのはグンディン・ボナンという種類の曲「ババル・ラヤル」を演奏すると先に決めていたからである。この種の曲は宮廷では即位記念日や結婚儀礼の前夜に演奏され、そのとき精霊たちが祝福を与えに降りてくると言われている。「ウィルジュン」は儀礼当日の最初に演奏される曲だから、それをグンディン・ボナンの前に演奏すると時系列が前後してしまう。さらに、その精霊が降りてくる曲の後には、供物を準備してお祈りしないといけない「ガドゥン・ムラティ」という曲が控えている。供物やお祈りを欠くと災いがもたらされるという。「ウィルジュン」(つつがなくの意味)は文字通り儀礼がつつがなく終わるようにと演奏するものだが、今回のプログラムのような重い曲の演奏が続くことは想定されていないと私には感じられる。というわけで、1曲目の役割は観客を未知の世界にいざなってくれるようなものが良い、むしろガムランの現代曲から選んだほうが良いと考え、ダルマブダヤ代表の山崎晃男氏が作曲した曲の中から選んだのが「夜霧の私」である。他の2曲が少々長いので、「夜霧の私」は1曲全部ではなく途中までしか使っていないが、なんだかジャワから懐かし気に呼ばれているような心持ちになる曲だ。それで、この曲には王宮にだんだん近づいていく映像をつけようと思いついたのだった。
●音楽と映像とα
第1幕ではガムラン音楽の演奏にあわせ、舞台奥のホリゾント幕に映像を映した。上映した映像はウィラネガラ氏が制作し、来日してオペレーションも行った。氏は2004年に亡くなったスラカルタ王家当主:パク・ブウォノXII世のドキュメンタリー映画を制作した人で、その作品によりインドネシア・フィルム・フェスティバルで最優秀映像賞を受賞している。私は2000年かそれ以前からスラカルタ王家の儀礼で知り合いになっていた。
映像を入れようと思ったのは、音楽だけではジャワ王家の儀礼の雰囲気はよくわからないだろうなと思ったからだった。楽曲そのものだけでなく、それを取り巻く環境も感じてほしかった。王宮の建物はどんなものか、人々はどんな衣装を着ているのか、王宮儀礼ってどんなものなのか…。人が真剣にやっている儀礼というのは、意味がわからなくとも何か伝わるものがある。それが美しい響きの音と一体となって観客の記憶の中にしみこんでいってくれたらいいなと思う。

それで、ウィラネガラ氏に、今まで王宮儀礼に入って撮りためていた映像から、王家の守護神である女神ラトゥ・キドゥルに関連する儀礼、女神の棲む南海岸、王宮での精霊に対する様々な祈りの場面などを取り出し、曲の進行に合わせて映像を編集してもらった。公演であって研究会ではないから、説明的な映像の見せ方ではない。王家の人々の間で信じられている女神の存在が映像から感じ取られ、そのイメージの断片が心の中に残って、今後ふと思い出してくれることがあったら嬉しい。
音楽と映像に加えて、1曲目は映像の情景にあわせて語りをかぶせ、3曲目はお祈りのパフォーマンスとワヤン(影絵)も上演した。1曲目で語りを入れたのは、王と女神が南海岸で出会ったとか、八角形の塔で王と女神が交信していたとか…少し手掛かりになる情報があると映像世界に入りやすいようにと思ったから。
3曲目のお祈りパフォーマンスは舞台用としてアレンジしたものだが、王家の儀礼で多くの人々が準備に関わっていて供物を運んでいく様子を描こうと思い、衣装をつけた踊り手4人と演奏していない演者がぞろぞろと蛇行しながら舞台を練り歩くように演出した。背後の映像では実際の儀礼における行列シーンは映し出されているが、第2幕の舞踊用に舞台手前は空けてあるから、その空間を埋めたかったのである。舞踊曲もある公演だと、演奏者はどうしても舞台奥でじっとしている感じになり、舞踊がないときは観客の前にぽっかり空いた空間ができる。普通、舞踊公演では踊り手は自分の出番がくるまでは観客の前に衣装を着て出てくることはないので、何か批判なり反応なりがあるかも…と思っていたが、全然なかった。こういうもんだと思ってくれたみたいだ。

このお祈りのシーンでは京都にあるバリバリインドネシアというレストランに供物を作ってもらい、ジャワでやっているように大きなザルに盛ってもらった。3種類のうち1つはクタンビル(スラカルタ王家で女神のために作られるお供え)を見様見真似で、1つはアプム(パンケーキ、一般的だが儀礼用に作られる)、1つはお任せである。クタンビルは当然レストランの人は食べたことがないので宮廷での味とは違うけれど、たぶんその努力に免じてラトゥ・キドゥルは赦してくれるだろう。やはりお供えがあると出演者のテンションが上がる。舞台では先頭にお香を持った私、お供えの菓子が続くのは元スラカルタ王家の踊り手だった2人の指南による。本当は踊り子がお香を持つのは変なのだが、私が持つということで消防に届けてしまった。全員が座ると、私は四方に向かって合掌し、最初の1回は他の人も一緒に合掌する。このように四方に向かってするお祈りは王家で行われていて、特に「ブドヨ・クタワン」で踊り子がやっているのがとても印象に残っている。

3曲目の「ガドゥン・ムラティ」は複数の曲がつながっていて、テンポが速くなったところで、最後のアヤアヤアンという部分に移行する。影絵人形操作をするナナンさんはこのアヤアヤアンの前奏部分を歌って出てきて、お祈りの人たちがはけていくのと入れ違いに影絵の世界が始まる。影絵の場面を作ったのは、ルワタンという魔除けの影絵は南海の女神から授けられたという伝承があるから。この「ガドゥン・ムラティ」の曲は南海の女神の許を訪れた王家のグンデル(この曲の前奏を弾いていた楽器)奏者の女性が女神から授けられたという伝承があり、どちらも女神ゆかりの―それゆえに霊力がある―ものとして共通点がある。影絵奏者が出てくるところから照明を落として影絵が始まるまでのしばらくの間、王家の影絵奏者の映像が少し挟まれる。そして、ナナンさんが観客に背を向けると、彼のビスカップの背中にある絵羽模様が目に入る。これはナナン氏が黒留め袖の着物をビスカップに仕立てたもので、前から見ると普通の黒いビスカップなのである。背中を見せると、それまでの演奏者がダランに変貌するのが面白いかなと思ったのだが、どうだろう。

…ということで、今回の話は時間切れになってしまった。舞踊演出については来月書きます。
2023年03月02日 (木)
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年03月」(水牛のように)コーナーに、
「スリンピの動きと時間」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/03#post-8846
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
スリンピの動きと時間
冨岡三智
●2004年4月号『水牛』、「私のスリンピ・ブドヨ観」より
スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。
そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。…(中略)…曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。
●2010年7月号『水牛』、「クロスオーバーラップ」より
他のジャンルの人には、ジャワ舞踊は楽曲構成に当てはめて作られている、という風に思われているようです。ガムラン音楽はさまざまな節目楽器が音楽の周期を刻む楽器なので、そう思われがちなのですが、私に言わせると、ジャワ舞踊のうち宮廷舞踊の系統は、歌が作りだすメロディー、それはひいては歌い手や踊り手の身体の内側から生まれてくるメロディーにのって踊るものです。クタワン形式などのガムラン曲も、朗誦される詩の韻律が元になって歌の旋律が作られています。その証拠に、私の宮廷舞踊の老師匠は、しばしば歌いながら踊っていました。停電でカセットが途切れても、かまわず歌いながら踊ってしまうのです。つまり、流れるメロディー先にありきであって、その後で、それに合わせて棚枠の楽曲構成が作られた感じがします。だから枠の組み立ては少しゆるゆるとしていて、時間を少し前後にひしゃげることができます。
●論文:冨岡三智 2010「伝統批判による伝統の成立―ジャワ舞踊スラカルタ様式の場合―」『都市文化研究』vol.12,pp.50-64 より
ジャワの音楽や舞踊において重視される概念にウィレタンwiletanがある。基本となる旋律や振付は決まっているが, それをどのように解釈し細部に装飾を加えてゆくかは演者個人に任されている。個人ごとに微妙に異なる差異,個人様式とでも呼ぶべきものをウィレタンという。
ジャワのガムラン音楽のメインとなる, ゆったりしたテンポで演奏される部分では,楽曲の節目を示すゴング類はイン・テンポではなく,やや遅らせ気味に叩く。舞踊でサンプールを払うのは決まって曲の節目だが,これもゴング類と同様にやや遅らせ気味に払う。つまり,音楽の節目というのはデジタルで点状のものではなく,わずかに時間的な広がりを持っている。その時間的な広がりの中でいつサンプールを払うのかというタイミングは,本来は複数の踊り手同士の間で微妙に異なるものであり,そこに踊り手のウィレタンが反映される。このようなコンセプトは,1つ,また1つと散る花に例えて「クンバン・ティボ kembang tiba(花が地に落ちる)」と呼ばれることもある。全員が一糸乱れずに揃ってサンプールを払うのは,1本の樹木に咲く花が一時にドサッと落ちるようなものであり,かえって不自然なのである。
●
私はジャワ宮廷舞踊で過剰にタイミングを揃えることに反対なのだが、それは時間の広がりがないからなのだ。皆で1つの場を作り上げているとはいえ、4人はそれぞれに存在していて、それぞれの内なるメロディに従って舞っている。状態音楽を奏でる人もそれぞれの内なるメロディを奏でている。それぞれのメロディが糸のようにより合されて1本の太い音楽の糸になり、その糸が曼荼羅を織り上げてゆく…。一昨年の「スリンピ・ロボン」の映像を見ていても、私たち4人の踊り手はどんぴしゃりで揃ってはいない。けれど、各自の少しずつのタイミングがさざ波のように揺れながら、ある時には誰かの引く力に引き寄せられるように、ある時は誰かから伝わってきた気に押されるように動きが流れていく。そうすると、時間にふくらみがあるように見える。払った布が滞空する時間も長くなっている気がする。
「2023年03月」(水牛のように)コーナーに、
「スリンピの動きと時間」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/03#post-8846
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
スリンピの動きと時間
冨岡三智
●2004年4月号『水牛』、「私のスリンピ・ブドヨ観」より
スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。
そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。…(中略)…曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。
●2010年7月号『水牛』、「クロスオーバーラップ」より
他のジャンルの人には、ジャワ舞踊は楽曲構成に当てはめて作られている、という風に思われているようです。ガムラン音楽はさまざまな節目楽器が音楽の周期を刻む楽器なので、そう思われがちなのですが、私に言わせると、ジャワ舞踊のうち宮廷舞踊の系統は、歌が作りだすメロディー、それはひいては歌い手や踊り手の身体の内側から生まれてくるメロディーにのって踊るものです。クタワン形式などのガムラン曲も、朗誦される詩の韻律が元になって歌の旋律が作られています。その証拠に、私の宮廷舞踊の老師匠は、しばしば歌いながら踊っていました。停電でカセットが途切れても、かまわず歌いながら踊ってしまうのです。つまり、流れるメロディー先にありきであって、その後で、それに合わせて棚枠の楽曲構成が作られた感じがします。だから枠の組み立ては少しゆるゆるとしていて、時間を少し前後にひしゃげることができます。
●論文:冨岡三智 2010「伝統批判による伝統の成立―ジャワ舞踊スラカルタ様式の場合―」『都市文化研究』vol.12,pp.50-64 より
ジャワの音楽や舞踊において重視される概念にウィレタンwiletanがある。基本となる旋律や振付は決まっているが, それをどのように解釈し細部に装飾を加えてゆくかは演者個人に任されている。個人ごとに微妙に異なる差異,個人様式とでも呼ぶべきものをウィレタンという。
ジャワのガムラン音楽のメインとなる, ゆったりしたテンポで演奏される部分では,楽曲の節目を示すゴング類はイン・テンポではなく,やや遅らせ気味に叩く。舞踊でサンプールを払うのは決まって曲の節目だが,これもゴング類と同様にやや遅らせ気味に払う。つまり,音楽の節目というのはデジタルで点状のものではなく,わずかに時間的な広がりを持っている。その時間的な広がりの中でいつサンプールを払うのかというタイミングは,本来は複数の踊り手同士の間で微妙に異なるものであり,そこに踊り手のウィレタンが反映される。このようなコンセプトは,1つ,また1つと散る花に例えて「クンバン・ティボ kembang tiba(花が地に落ちる)」と呼ばれることもある。全員が一糸乱れずに揃ってサンプールを払うのは,1本の樹木に咲く花が一時にドサッと落ちるようなものであり,かえって不自然なのである。
●
私はジャワ宮廷舞踊で過剰にタイミングを揃えることに反対なのだが、それは時間の広がりがないからなのだ。皆で1つの場を作り上げているとはいえ、4人はそれぞれに存在していて、それぞれの内なるメロディに従って舞っている。状態音楽を奏でる人もそれぞれの内なるメロディを奏でている。それぞれのメロディが糸のようにより合されて1本の太い音楽の糸になり、その糸が曼荼羅を織り上げてゆく…。一昨年の「スリンピ・ロボン」の映像を見ていても、私たち4人の踊り手はどんぴしゃりで揃ってはいない。けれど、各自の少しずつのタイミングがさざ波のように揺れながら、ある時には誰かの引く力に引き寄せられるように、ある時は誰かから伝わってきた気に押されるように動きが流れていく。そうすると、時間にふくらみがあるように見える。払った布が滞空する時間も長くなっている気がする。
2023年02月22日 (水)
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年02月」(水牛のように)コーナーに、
「堺公演でのスリンピ完全版上演によせて」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/02#post-8770
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
堺公演でのスリンピ完全版上演によせて
冨岡三智
2021年度に引き続き2022年度(2023年3月)も堺市で公演をすることになり、いま追い込み中である。また、3月の公演にタイミングを合わせて2021年公演の公演映像をyoutubeで無料公開した。というわけで、今回はその両者の宣伝も兼ねての記事。
***
どちらの公演も、第2部の演目はスリンピの完全版1曲のみ。これで大体50分である。前回は「スリンピ・ロボン」、今回は「スリンピ・スカルセ」を上演する。私は実はスラカルタ宮廷舞踊全曲(ブドヨ2曲、スリンピ10曲)を完全版で上演したいという野望を密かに持っている。この3月の公演で、ブドヨ1曲、スリンピ5曲…やっと半分だ。もっとも、スカルセは2011年にジャカルタのGelar社が記録映像を製作した時に私が指導して踊っているし、2012年には豪華客船「ぱしふぃっく・びいなす」号の船上で上演したから、実は3月で3回目。しかし、前の2回は録音を使用したので、生演奏で上演するのは今度が初めてになる。
スラカルタでは1970年に宮廷舞踊が一般に解禁されて以来、短縮版が作られてきた。宮廷舞踊はだいたい約1時間かかるので、それを1/4(約15分)か1/2(約30分)に短縮する。けれど、短縮するとどうしても辻褄が合いにくいところが出てくる。また、他人の手になる短縮版だと、その手法に賛同できない場合がある。というわけで、振付として納得できる完全版をきちんと上演したいと思うのだ。また、1時間かけて踊ることによって得られる没入の感覚というか三昧の境地は15分や30分の上演からは得られるものではない。ほとんど完全版で上演する人がいないからこそ、私は完全版で上演し続けたいなと思っている。
***
3月に上演する「スリンピ・スカルセ」は私がジョコ女史から初めて習った完全版の宮廷舞踊曲で、思い入れが深い。ペロッグ音階ヌム調の音楽は瞑想的で、これを聞くと一気に雨季の夕方にレッスンをしていた頃の自分を思い出す。この曲にはレイエという動きが多い。レイエは辞書によると「(建物が)崩壊する」という意味で、倒壊していくように上体を折り、再び反対側に揺れ戻るような動きだ。大きな波のような動きにも見える。この曲には多く、またレイエではないが似たような動きも多いから、集中していないと動きが分からなくなることがある。私がスリンピに使われる動きで一番好きなのがこのレイエで、こんな動きを昔の宮廷人はなぜ思いついたのだろうか…と不思議に感じる。
「スカルセ」特有の部分はシルップにある。シルップは2人ずつ組になって戦う場面の後、負けた方が座る場面のこと。火山が鎮火している状態をシルップと言うように、音楽の音量も静かになる。このシルップの場面で、勝った方が衛星のように回転しながら負けた方の周囲を巡るのが美しい。ジョコ女史は自身が振り付けた「クスモ・アジ」という舞踊の中で、コモジョヨとコモラティという男女の神が廻るシーンでこの動きを使っていたし、スリスティヨ・ティルトクスモ氏の作品「キロノ・ラティ」でも、シルップのシーンで使われている。また、スラカルタ王家のムルティア王女が、父王パク・ブウォノXII世の80歳の記念式典のために振り付け、9人の王女で上演したブドヨ作品にも取り入れられている。実は、古典曲の中で魅力的な動きほど新作で使われることが多く、「スカルセ」のシルップ場面はそれくらい魅力的なので、実際に見ていただけたらなあ…と思っている。というわけで、堺までどうぞご来場ください!
●2023年3月11日、フェニーチェ堺・小ホール
『幻視 in 堺ー南海からの贈り物ー』公演
第1幕:
音楽「夜霧の私」(山崎晃男作曲): 静かな音がジャワへといざなう…
音楽「ババル・ラヤル」: 青銅打楽器の音色が力強く響く宮廷儀礼の曲
音楽「ガドゥン・ムラティ」: 柔らかい音色の楽器と歌から成る霊力のある曲
※ スラカルタ王家の儀礼映像(Dr.IGP Wiranegara,M.Sn)の上映と共に
第2幕:
宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版
詳細➡ http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-1095.html
***
●2021年10月23日、堺能楽会館
『幻視 in 堺 ―能舞台に舞うジャワの夢―』公演
映像記録➡ https://www.youtube.com/watch?v=1Q4kTQbxwVE
「2023年02月」(水牛のように)コーナーに、
「堺公演でのスリンピ完全版上演によせて」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/02#post-8770
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
堺公演でのスリンピ完全版上演によせて
冨岡三智
2021年度に引き続き2022年度(2023年3月)も堺市で公演をすることになり、いま追い込み中である。また、3月の公演にタイミングを合わせて2021年公演の公演映像をyoutubeで無料公開した。というわけで、今回はその両者の宣伝も兼ねての記事。
***
どちらの公演も、第2部の演目はスリンピの完全版1曲のみ。これで大体50分である。前回は「スリンピ・ロボン」、今回は「スリンピ・スカルセ」を上演する。私は実はスラカルタ宮廷舞踊全曲(ブドヨ2曲、スリンピ10曲)を完全版で上演したいという野望を密かに持っている。この3月の公演で、ブドヨ1曲、スリンピ5曲…やっと半分だ。もっとも、スカルセは2011年にジャカルタのGelar社が記録映像を製作した時に私が指導して踊っているし、2012年には豪華客船「ぱしふぃっく・びいなす」号の船上で上演したから、実は3月で3回目。しかし、前の2回は録音を使用したので、生演奏で上演するのは今度が初めてになる。
スラカルタでは1970年に宮廷舞踊が一般に解禁されて以来、短縮版が作られてきた。宮廷舞踊はだいたい約1時間かかるので、それを1/4(約15分)か1/2(約30分)に短縮する。けれど、短縮するとどうしても辻褄が合いにくいところが出てくる。また、他人の手になる短縮版だと、その手法に賛同できない場合がある。というわけで、振付として納得できる完全版をきちんと上演したいと思うのだ。また、1時間かけて踊ることによって得られる没入の感覚というか三昧の境地は15分や30分の上演からは得られるものではない。ほとんど完全版で上演する人がいないからこそ、私は完全版で上演し続けたいなと思っている。
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3月に上演する「スリンピ・スカルセ」は私がジョコ女史から初めて習った完全版の宮廷舞踊曲で、思い入れが深い。ペロッグ音階ヌム調の音楽は瞑想的で、これを聞くと一気に雨季の夕方にレッスンをしていた頃の自分を思い出す。この曲にはレイエという動きが多い。レイエは辞書によると「(建物が)崩壊する」という意味で、倒壊していくように上体を折り、再び反対側に揺れ戻るような動きだ。大きな波のような動きにも見える。この曲には多く、またレイエではないが似たような動きも多いから、集中していないと動きが分からなくなることがある。私がスリンピに使われる動きで一番好きなのがこのレイエで、こんな動きを昔の宮廷人はなぜ思いついたのだろうか…と不思議に感じる。
「スカルセ」特有の部分はシルップにある。シルップは2人ずつ組になって戦う場面の後、負けた方が座る場面のこと。火山が鎮火している状態をシルップと言うように、音楽の音量も静かになる。このシルップの場面で、勝った方が衛星のように回転しながら負けた方の周囲を巡るのが美しい。ジョコ女史は自身が振り付けた「クスモ・アジ」という舞踊の中で、コモジョヨとコモラティという男女の神が廻るシーンでこの動きを使っていたし、スリスティヨ・ティルトクスモ氏の作品「キロノ・ラティ」でも、シルップのシーンで使われている。また、スラカルタ王家のムルティア王女が、父王パク・ブウォノXII世の80歳の記念式典のために振り付け、9人の王女で上演したブドヨ作品にも取り入れられている。実は、古典曲の中で魅力的な動きほど新作で使われることが多く、「スカルセ」のシルップ場面はそれくらい魅力的なので、実際に見ていただけたらなあ…と思っている。というわけで、堺までどうぞご来場ください!
●2023年3月11日、フェニーチェ堺・小ホール
『幻視 in 堺ー南海からの贈り物ー』公演
第1幕:
音楽「夜霧の私」(山崎晃男作曲): 静かな音がジャワへといざなう…
音楽「ババル・ラヤル」: 青銅打楽器の音色が力強く響く宮廷儀礼の曲
音楽「ガドゥン・ムラティ」: 柔らかい音色の楽器と歌から成る霊力のある曲
※ スラカルタ王家の儀礼映像(Dr.IGP Wiranegara,M.Sn)の上映と共に
第2幕:
宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版
詳細➡ http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-1095.html
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●2021年10月23日、堺能楽会館
『幻視 in 堺 ―能舞台に舞うジャワの夢―』公演
映像記録➡ https://www.youtube.com/watch?v=1Q4kTQbxwVE
2023年01月02日 (月)
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
「2023年01月」(水牛のように)コーナーに、
「ジャワ王家の世代交代 その後」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/01#post-8707
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
ジャワ王家の世代交代 その後
冨岡三智
●マンクヌゴロ家
2021年9月号「ジャワ王家の世代交代」でも書いたように、2021年8月13日にマンクヌゴロIX世が亡くなった。IX世には現王妃との間の息子以外に離婚した妻との間にも息子がいて、一時不穏な動きも見せていた。結局、2022年3月12日に現王妃の息子が無事にマンクヌゴロX世として即位した。
X世は昨年中にお披露目記念として舞踊団をマレーシア、オーストラリア、タイに派遣、12月にはジョコ大統領の末の息子の結婚披露宴に王宮の使用を許可し、王宮の北西の元テニスコートの敷地にPracima Tuin庭園を整備(1月から正式公開)…と精力的に行動している。各方面と連携しなければこれだけのことは実現できないだろう。若いながら王家の責任を背負った立派な当主だなあと感じている。
●スラカルタ王家
一方、病気のスラカルタ王家の当主・パクブウォノXIII世(74歳)も、2022年2月27日の即位記念日の式典において、現王妃との間に生まれた息子プルボヨを正式に皇太子とした。21歳とまだ若いが、同世代のマンクヌゴロX世と競い合いつつ頑張ってほしいなあと願っている。
XIII世は3月のマンクヌゴロX世の即位式には出席していたが、現在、健康具合はかなり深刻な状態だという。XIII世は3度結婚しており、実は離婚した2番目の妻との間にもう1人息子:マンクブミがいて、皇太子より年上である。だが、2022年12月24日、王家の慣習評議会の長であるムルティア王女の意見により、彼はハンガベイと改名された。ムルティア王女はXIII世とは同母きょうだいだが、もう何年もXIII世に遠ざけられ、王宮内に入れない状態が続いている(た)。このハンガベイという名は庶子の中で最初の男子に付けられる名前である。父親のXIII世も即位前の名前はハンガベイだった(XII世は側室はいたが王妃を立てなかった)ように、王になれる可能性のある名前だ。というわけで、まだまだ内紛は終わりそうにない。
「2023年01月」(水牛のように)コーナーに、
「ジャワ王家の世代交代 その後」を寄稿しました。
本記事 https://suigyu.com/2023/01#post-8707
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka
ジャワ王家の世代交代 その後
冨岡三智
●マンクヌゴロ家
2021年9月号「ジャワ王家の世代交代」でも書いたように、2021年8月13日にマンクヌゴロIX世が亡くなった。IX世には現王妃との間の息子以外に離婚した妻との間にも息子がいて、一時不穏な動きも見せていた。結局、2022年3月12日に現王妃の息子が無事にマンクヌゴロX世として即位した。
X世は昨年中にお披露目記念として舞踊団をマレーシア、オーストラリア、タイに派遣、12月にはジョコ大統領の末の息子の結婚披露宴に王宮の使用を許可し、王宮の北西の元テニスコートの敷地にPracima Tuin庭園を整備(1月から正式公開)…と精力的に行動している。各方面と連携しなければこれだけのことは実現できないだろう。若いながら王家の責任を背負った立派な当主だなあと感じている。
●スラカルタ王家
一方、病気のスラカルタ王家の当主・パクブウォノXIII世(74歳)も、2022年2月27日の即位記念日の式典において、現王妃との間に生まれた息子プルボヨを正式に皇太子とした。21歳とまだ若いが、同世代のマンクヌゴロX世と競い合いつつ頑張ってほしいなあと願っている。
XIII世は3月のマンクヌゴロX世の即位式には出席していたが、現在、健康具合はかなり深刻な状態だという。XIII世は3度結婚しており、実は離婚した2番目の妻との間にもう1人息子:マンクブミがいて、皇太子より年上である。だが、2022年12月24日、王家の慣習評議会の長であるムルティア王女の意見により、彼はハンガベイと改名された。ムルティア王女はXIII世とは同母きょうだいだが、もう何年もXIII世に遠ざけられ、王宮内に入れない状態が続いている(た)。このハンガベイという名は庶子の中で最初の男子に付けられる名前である。父親のXIII世も即位前の名前はハンガベイだった(XII世は側室はいたが王妃を立てなかった)ように、王になれる可能性のある名前だ。というわけで、まだまだ内紛は終わりそうにない。