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2020.02水牛「訃報続き」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年2月」(水牛のように)コーナーに、
訃報続き」を寄稿しました。

※ ちなみに私の過去記事は以下から読めます。
『水牛』冨岡三智アーカイブ 
『水牛』冨岡三智アーカイブ 未収録記事一覧 



訃報続き

ここのところ、お世話になった方々が連続して亡くなった。追悼の意を込めて少し思い出について書いてみる。

昨年末の12月29日にはスプラプト・スルヨダルモ氏(74歳)が亡くなった。在野で国内外の舞踊家に大きな影響を与えた舞踊家で、私も尊敬する舞踊家の口からプラプト氏のことについて聞く機会が何度もあり、氏の影響力をつくづく感じたものだ。氏は聖なる場や自然と一体化し、内的なものから生まれる動きに従って踊る人だった。実はサルドノ・クスモ氏と同年(1945年)、同地域(スラカルタ市クムラヤン地域、宮廷芸術家が多く住んだ地域)の生まれである。この2人がジャワの現代舞踊の2大潮流をつくり出したと言って良い。氏は海外で指導することも多く、1986年にスラカルタに開いたスタジオ「ルマ・プティ」では国内外から学びに来る舞踊家を受け入れ、舞踊イベントなども開いていた。私も何度かそこでのイベントに参加したこともある。それ以外に、毎年大晦日から新年にかけてはヒンズー教のスクー遺跡でスラウン・スニ・チャンディ」(遺跡での芸術の集い、の意)というイベントを開催されていた。私も2011年大晦日に声をかけていただき出演したが、観光文化省の信仰局長やスラカルタ王家のムルティア王女を来賓に迎えるほどの規模の大きなイベントだった。

今年に入り、1月18日には留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のサルユニ・パドミニンセ女史(61歳)が亡くなった。私が芸大に留学した時に1年生の基礎の授業を受け持っていたのがサルユニ女史だった。私にとっては芸大授業で初めて習った女性の先生である。2度目に留学した2000年、ちょうど芸大に開設された大学院に入学したサルユニ女史は、私がジョコ・スハルジョ女史から受けていた宮廷舞踊のレッスンに、もう1人の教員と一緒に参加してくれた。そして2000~2003年の3年間はずっと一緒にジョコ女史の元で宮廷舞踊を練習し、2002年にはジョコ女史も入れて4人で芸大大学院の催しで『スリンピ・ラグドゥンプル」完全版を踊った。その翌年にはジョコ女史の息子が振り付けた公演でも一緒に踊り、2006年と2007年に私がスリンピとブドヨのプロジェクトをして3公演を制作した時にもすべて出演してもらった。芸大の授業では先生は見本を見せてくれるとは言え、最初から最後までついて踊ることはしない。しかし、長い宮廷舞踊をずっと一緒に踊る時間を共にできたことは、今から思えば非常に贅沢な時間で、言葉にならない影響をいろいろ受けたように思う。

1月22日にはバンバン・スルヨノ氏(芸名:バンバン・ブスール氏、60歳)が、翌1月23日には岩見神楽岡崎社中の元代表の三賀森康男氏が亡くなった。2人は、私は友人たちが2008年に企画したジャワ舞踊と岩見神楽の共同制作に参加して島根で『オロチ・ナーガ』を一緒に作り上げてくださった方々である。バンバン氏はマンクヌガラン王家の舞踊家として活躍するだけでなく、2000年に大学院が開設されて以降はサルドノ氏の助手として指導にあたり、呼吸や声についての独自のメソッドを持っていた。島根で公演した時には舞踊のワークショップもしてもらったのだが、バンバン氏の呼吸法や声にものすごく私の身体が感化されて、あくびが止まらなかったことを覚えている。三賀森氏は社中の中で最も年長ながら、最も柔軟な姿勢で受け入れてくれた。伝統を極めた人はこんなにも自在なのだと感じた。お互いに長い歴史を持つ岩見神楽とジャワ舞踊の間をつなぐすという経験をして、私は、遠く離れた場所でそれぞれ井戸を深く深く掘り下げていけば、いつかは同じ地下水脈に行き当たるのだな…と感じたことだった。
2020.01水牛「ネズミのいる生活」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年1月」(水牛のように)コーナーに、
ねずみのいる生活」を寄稿しました。

※ ちなみに私の過去記事は以下から読めます。
『水牛』冨岡三智アーカイブ 
『水牛』冨岡三智アーカイブ 未収録記事一覧 



ネズミのいる生活

今年は子年というわけで、今月はネズミとの思い出をあれこれ語ってみよう。

●留学前の日本での話~
ある夜、風呂上がりのあと台所で本を読んでいたら、オーブンの下からすぐ近くの棚の下に何かが走った気配がする。直接姿を見ていないが、これはネズミだなと直感。しばらくすると、もう少し距離が離れたコーナーの物陰に走る影。またしばらくすると、今度は素早く移動せず、様子を伺いながら出てくる。果たしてネズミだ。物陰でない所にまで出て来たから、私の存在にはまだ気づいてなさそうである。このまま悟られなかったら私の勝ち…と勝負を挑む気になり、私は息をひそめ、視線は床に落とさず、気配を消した。…ネズミは物陰のない所を横断して、私のいる食卓の方に近づいて来た。が、まだ私に気づかない。…私は木になりきろうとする。…私の足元の近くまで来た。…私は緊張感を出さないように気をつける。…が、ここでネズミがいきなり私の足の甲に上ってきた!しばらく我慢したものの、ついに足が浮いてしまった。当然、ネズミの方も驚いてオーブンの下に一直線に逃げ込んでしまった!(実は食卓はオーブンの近く)ネズミにとっては、私の足は小山にしか見えなかったのかもしれないが、いくら何でも足に上った時点で気づきそうなものだ。私の気配の消し方がうまかったというより、あのネズミの方が鈍感だったように思えてならない。

●ジャワの話
最初の留学時に住んだ家には、二階の物干し場に上がる階段の中にネズミが住んでいた。何匹かいたかもしれないが、私が目にする時はいつも1匹だけだった。この家ではその階段がある家事部屋が一番奥で、次に水浴場と水屋があり、次に寝室があり、一番手前が客間になっていた。入居当初はネズミも警戒心が強くて家事部屋でもなかなか目にすることもなかったのに、いつの間にか水浴場に、さらに寝室に進出してくるようになった。とはいえ、私が気づくと猛ダッシュで階段の方に駆け戻る。私は家にいるときは客間で舞踊の練習をしていることが多かったが、そのうち寝室との境(ドアはついてない)の所にまで来る気配がするようになった。その頃には、私がネズミを目撃しても昔ほど速攻でダッシュせずに一呼吸おいて逃げ出したり、ダッシュしても途中で一瞬立ち止まってこちらを振り返ったりするようになっていた。

そんなある日、私は男踊りの練習に疲れて床に腰を下ろしていた。腰の両脇に垂らしたサンプールという布はつけたまま、無造作に後ろに払っていた。壁にもたれてお茶を飲みながらぼーっとすることしばし…、さて練習を再開しようとサンプールを見ると、なんとサンプールの上にネズミが後ろ座りに座っている!目と目が合い、お互いにフリーズしてしまった。とは言え、ネズミの方が一瞬早く我に戻り、ダッシュで逃げ出す。普段はネズミの気配が分かるのに、しかも私が身に着けている布の上に座られているのに、全然気づかなかったのが不思議だ。それにしても、なぜサンプールの上に座ろうと思ったのだろう…。

このネズミは一度水浴び場の水溜めに落ちたことがある。夜中に私が机に向かっていると、水浴び場から急にパーンと物が飛ぶ音が聞こえた。さてはポルスターガイストか!?と気味が悪くなりつつ水浴び場に行くと、水溜めからパシャパシャ水音がする。見ればネズミが足掻いていて、私の顔を見るやキーキーと声を出して必死に鳴く。横に水浴び用のプラスチックの手桶が転がっている。さては、ネズミがこの手桶に飛び乗ったところ、手桶がひっくり返ってネズミが水溜にはまり、その反動で手桶は宙に舞って床に音を立てて落ちたのだろう…。トム&ジェリーみたいな状況だが、それしか考えられない。それはともかく、手桶を横にして水面に平行にネズミの方に近づけて掬い上げ、床に放してやると、いつもほどに機敏でないが階段の方に戻っていった。

この家のネズミには他にもいろいろと思い出があるのだが、どうも私を警戒しつつも存在には気づいてほしくて距離を縮めてきたような気配があった。家ネズミは2年以上生きることもあるそうだから、同一のネズミだったのではないかなと思っている。日本の我が家にいたネズミもそうだが、はしこい割には間抜けなところがあって、そこが愛嬌のあるところかもしれない。
2019.12水牛「8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年12月」(水牛のように)コーナーに、
8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録」を寄稿しました。



8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録

今回紹介しようとする「飯炊きの儀」は、ジャワのスラカルタ王家においてスカテン儀礼の時に行われるものである。スカテンは今年は11月2日から9日まで行われた…ので、実は先月に終わっている。しかも、この儀礼は8年に1回しか行われない。最近だと2017年に行われた…ので、全く以てタイミングを外しているのだが、先日唐突に昔のことを思い出したので、書き留めておきたい。

スカテンとはジャワ島中部の王家(スラカルタとジョグジャカルタ)で催される儀礼で、イスラム預言者ムハンマドの生誕を祝うため、王宮モスクの中庭で生誕祭までの1週間、巨大なガムラン楽器「スカティ」を昼夜演奏し続けるというものである。ちなみに、ジャワ島西部のチレボンという王宮でも同趣旨の儀礼・ムルダンがある。ムハンマドの生誕祭はイスラム暦(1年約354日)で執り行われるので、毎年約11日ずつ日がずれていく。

「飯炊きの儀」とは「アダン・セゴ Adang Sego」のことで、ジャワ語で文字通り「ご飯を炊く」という意味である。王自ら巨大な4つの甑(こしき)を使って米を炊き、家臣がそれをいただいて食べる儀礼で、パク・ブウォノII世(1726-1749)の時代、つまりスラカルタとジョグジャカルタが分裂する前のマタラム王国時代、まだ都がカルトスロにあった時から行われ、現在までスラカルタ王家で継承されている。日本の羽衣伝説に似た『ジョコ・タルブ』という伝説がジャワにあるのだが、甑はその人間の男性と結婚した天女(稲の女神でもある)と関係があるとされる。

この儀礼が行われるのは8年に1度巡ってくるダル年のみである。ジャワにはウィンドゥwinduという8年周期の暦――ちょうど十二支のようなもの――があり、ダル年はその5番目だ。ちなみに、ジャワの人々はウィンドゥが8周した時(64歳)や10周した時(80歳)に、還暦や傘寿のようなお祝いをする。それはともかく、ダル年が特別であるのはムハンマドがダル年生まれであるからのようだ。スカテン最終日(つまりムハンマド生誕祭)には、食物で作られた神輿が出るのだが、その数もダル年だけ倍になる。

私も留学中の2002年にダル年に巡り合っている。当時、私はスラカルタ王家の様々な儀礼を参与観察させてもらっていたので、「飯炊きの儀」も見たいと思っていた。8年に1回の儀礼というだけでなく、この年にはぜひ見たいという特別の理由もあった。実は、この「飯炊きの儀」にはその場に華人がいるとご飯が炊きあがらないという伝承があり、華人お断りの儀礼だったのである。2000年、インドネシアでは1965年以来行われていた華人の文化・慣習に対する制限が撤廃されたが、そのような状況下において、この儀礼はどうなるのだろうか?と興味を持っていたのだ。

「飯炊きの儀」で上記のような伝承が生まれたのは、実は1740年の華僑騒乱に関連する。バタヴィアでオランダ東インド会社による華僑虐殺事件が起こると、中部ジャワでも各地で華僑が反乱を起こしてオランダ人を殺した。パク・ブウォノII世は当初は華僑を支援し、東インド会社に反旗を翻したものの、後に敗れて謝罪。その変節ぶりに家臣や華僑が怒って王に敵対した。王は東インド会社の助けを得てこの反乱を収束させたために、会社に大きく譲歩する羽目になった。華僑騒乱の時、華僑は王宮の台所を突破したとも言われており、それが「ご飯が炊きあがらない」という伝承に転化したようだ。

結局、この「飯炊きの儀」は見れなかった。王家の事務に見学申請を出していたが、ぎりぎりになって「実は、外国人は入れなくなりました…」と申し訳なさそうに言ってきた。予想外の返事だった。伝統行事としてどうしても華人禁止にしたいが、2000年以降の社会的状況下でそれを明言することはできない、だったら外国人全般を禁止してしまおうという政治判断が働いたのだろう。それほど、王家は華人/華僑に裏切られたという記憶をこの儀礼に刻印しておきたいのか。それとも、そうしなければならぬという神のお告げでも出たのか。その後の2009年、2017年のダル年にはどうしたのだろうか…と思う。
2019.10水牛「インドネシアで浦和レッズの試合を見に行った理由」
先々月アップし忘れていました…。ちなみに2019年11月号には寄稿できず。

高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年10月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで浦和レッズの試合を見に行った理由」を寄稿しました。



クディリ・サポーターのスタンド


インドネシアで浦和レッズの試合を見に行った理由

いま日本でラグビーワールドカップが開催されている。私はスポーツには全然関心がないのだが、熱気ある報道を見ていたら、昔インドネシアで観戦した浦和レッズの試合のことが思い出されてきた。というわけで、今回はその思い出話。

その試合はAFCチャンピオンリーグの浦和レッズ×ペルシク・ケディリ戦(インドネシア語の発音としてはプルシッ・クディリの方が近い)で、2007年5月9日(水)午後3時半からインドネシアのソロ市にあるマナハン競技場で行われた。当時、私は調査のためにソロ市に住んでいた(3度目の長期滞在)が、普段はテレビも新聞も見ていないこともあって、浦和レッズがインドネシアに来ることは全然知らなかった。

その試合前日の朝6時頃、突然の訪問者がある。ちなみに、朝6時というのはインドネシアでは他人に電話しても失礼ではない時間帯である。が…訪問者は見知らない青年で、近所の人が私の家まで案内してきた。その青年が言うことには、ある方の使いで、ここに日本人が住んでいると聞いて来ました、そのある方が日本のサッカーチームがソロに来るのを知って、垂れ幕を作って歓迎したいと言っています、垂れ幕を日本語で作りたいので、次の言葉を日本語に翻訳して紙に書いてもらえませんか?…そう言って、彼はインドネシア語のメッセージを差し出した。彼は本当にただの使いのようで、ある方というのは一体誰なのか、日本のチームがなぜ来るのか、どこで私のことを知ったのか、という私の疑問はちっとも晴れない。時代劇で、悪役が呼び出しの手紙を通りすがりの子供に預けたりするシーンがあるが、まさしくああいう使いである。それでも、見も知らぬインドネシア人の日本に対する好意には応えたいと思い、彼のメモを「サッカー天国 インドネシアに ようこそ」と訳して、パソコンでできるだけ大きなフォントで打って印刷してあげた。

その日の夕方、私はたまたま日本人駐在員の人から、その人が住んでいるホテル(ソロで一番グレードの高いホテルの1つ)に浦和レッズの一行がチェックインするらしいという情報を得た。その歓迎のガムラン演奏の練習がロビーであったと言う。朝の件はそのことだったかと合点してそのホテルに行ってみると、選手には会えなかったが、一行に同行する日本の旅行代理店と航空会社の担当者の人と話をすることができた。ここでやっと試合の詳細が分かったので、次の日、私は日本人留学生2人を誘って観戦することにする。

海外にいると多少は愛国的にもなる。日本にいればあえて見に行こうとは思わなくても、海外で住んでいる町にあの浦和レッズが来るなら見てみたい。しかもチケット代は2万ルピアである。新聞によると、これがVIPチケットの値段だった。当時のレートは1円=約70ルピア、日本円にして約285円で、日本で浦和レッズの試合を見ることを思えば安い…という計算も働いた。(普段は現地の金銭感覚で生活しているのだが)。

試合当日、私と友人は日本人サポーター専用だというA12ゲートから入った。この日本人席にはザッと数えて200人以上の日本人がいたので、びっくりである。ソロ在住の日本人は駐在員と留学生を合わせても20人くらいしかいないのだから。日本から駆け付けたサポーターの他、ジャカルタの日本人会(ジャカルタに駐在している日本人とその家族)の人たちも多かったらしい。ちなみに、地元ソロの日本人会に正式に連絡が来なかったのが腹立たしい。

それはさておき、向かいのペルシク・ケディリ側のスタンドに目をやると、インドネシア国旗やカラフルなインドネシア人サポーターの旗?が並ぶ中に、あの日本語垂れ幕も掲げられている!白地に黒字のシンプルな幕だが、1日で垂れ幕を準備してくれたのだ!選手や他の日本人サポーターはあの垂れ幕に気づいてくれただろうか…?結局、注文者が誰だったのか分からずじまいだが、こんな小さな、人知れない好意が寄せられていたのだということを知ってもらえたら嬉しい。

この当時の記事がないかネット検索してみたところ、試合に出場していた鈴木啓太選手が「印象的だったのが、ペルシク・ケディリとのアウェー戦。そんなに大きな都市ではなかったし、スタジアムも小さかったんですけれど、スタンドはけっこうお客さんで埋まっていて、すごい熱気でしたね。インドネシアではサッカーが根付いていることを実感しました」と語っている記事があって(注)、我がことのように嬉しくなる。

余談:鈴木氏が小さかったと言うマナハン・スタジアムだが、当時はインドネシア3大競技場の1つ(他はジャカルタとプカンバル)と言われていた。スハルト大統領を迎えて、1998年2月―退陣の約3か月前―にオープンしたという代物だ。この試合は当初、ペルシク・ケディリの本拠地である東ジャワ州クディリ市のスタジアムで開催される予定だったが、グラウンドの状態が国際大会には良くないとされ、中部ジャワ州ソロ市のスタジアムに変更されたといういきさつがある。

注)https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201801230007-spnavi

2019.09水牛「ここ30年のインドネシアと日本 ~映像記録メディア~」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年9月」(水牛のように)コーナーに、
ここ30年のインドネシアと日本 ~映像記録メディア~」を寄稿しました。



ここ30年のインドネシアと日本 ~映像記録メディア~

実は、『水牛のように』2006年3月号~5月号に「ここ10年のインドネシアと日本」と題して、スハルト時代の役所の習慣やら、電話やインターネットの事情やらについて書いた(バックナンバーには未収録)。ところが、それから10年あまりが過ぎて、もはや2006年に書いたことすら古くなってしまった。いつか、この駄文が風俗資料になるかもしれないと思いつつ、ここに30年間の変化を書き留めておこう。

1996年3月にインドネシアに留学するに当たり、私は初めてハンディカムのビデオカメラを記録用に買った。確か当時は20万円近くしたが、留学だからと奮発した。それはHi8という8ミリの上位機種で、アナログ式。SPモードで120分のテープに録画する。現在のデジタル画像に慣れた目で見ると、画質の差はいかんともしがたい。が、問題は記録があるかないかなのだ。70年代と80年代の調査記録を基に書かれた海外の舞踊研究書の序文に、80年代半ばに一般用8ミリビデオが発売されて研究が大いに進展したと書いてあったことが強く記憶に残っている。それまで舞踊研究に使われてきた資料といえば、伴奏音楽の録音、舞台写真、舞踊譜(動きを専門用語で書き留めたもの)、フォーメーション図(移動方向や向きを図で表したもの)しかなかった。これらの方法を併用しても動きを言葉で説明するには限界があり、しかも、その記録を基に動きを想像し再現することができるのはその舞踊の経験者だけだ。未経験者には無理なのである。しかし、映像なら未経験者でもどんな動きの舞踊かを知ることができる。そんなわけで、80年代の一般用ビデオの発売は舞踊研究において画期的な出来事だったと思う。

2000年2月、私は古いHi8カメラを携えてインドネシアに再留学した。が、4月以降に新しく留学してきた人たちが持ってきたのはデジタルのビデオカメラ。ちなみに、その人たちは写真カメラもデジタルだった。2000年頃を境に世はアナログからデジタルに移行しようとしていた。アナログ・データをダビングするには元データと同じだけ時間がかかるが、デジタルならすぐに複製でき、編集もできてしまう。画質以上に、この複製編集の手軽さこそがデジタル化の本質だ。

youtubeの設立は2005年らしい。私の周囲では2007~08年前後からyoutubeやfacebookなどに映像をまめにアップする人たちが増えたように感じる。たぶん、編集用コンピュータの容量増加やスマホの登場(2007年)も影響しているだろう。一方、Hi8時代―つまり1980~90年代―の記録は、デジタル変換されなければ存在しないも同然になってしまう。再生機もすでに製造中止になっているのだから。私は2005年頃に自分が記録したHi8映像の多くをDVD化したが、まだの分も少なくない。私より少し古い世代の人たちの記録なら世代ごと忘れられてしまう可能性もあるように感じる。デジタル時代の人たちがHi8時代の人たちより活躍しているというわけではないのだ。デジタル格差とは、インターネット等の技術を利用できる者と利用できない者との間にもたらされる格差のことを言うが、このように世代による記録情報の残り方の格差は含まないのだろうか。
2019.08水牛「犠牲祭(イドゥル・アドハ)」
※ 9/4写真追加しました。

久しぶりの更新です。4大学(兵庫、大阪、京都、奈良)での非常勤講師の仕事がなかなかに大変で、自転車操業のような毎日でした。7月末にあわただしく成績採点を終え、8月はここ数年恒例のインドネシア語集中研修講師の仕事に入っています。さて…

高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年8月」(水牛のように)コーナーに、
犠牲祭(イドゥル・アドハ)」を寄稿しました。

いったん書いてから添削している間に、肝心なことが抜け落ちてしまっていました。以下に1996年4月28日に経験した犠牲祭のことを書いていますが、実はこの日の早朝にスハルト大統領夫人Ibu Tienが亡くなりました。Ibu Tienは私が留学していた町スラカルタの出身で、亡くなってすぐに遺体はスラカルタに送られました。「Ibu Tienのように偉い人は、犠牲祭のような良い日に亡くなるんだね…」と人々が言っていたことを思い出します。



犠牲祭(イドゥル・アドハ)

犠牲祭(イドゥル・アドハ)は世界中の人々がメッカを巡礼する大巡礼の最終日を祝う行事で、イスラム教徒にとっては断食明けの大祭(イドゥル・フィトリ)と同じく重要な祭日だ。インドネシアでは祝日で、各町内会ごとに集まって供出されたヤギやウシなどの生贄を自分たちで殺し、皆で肉を分け合い、調理して食べる。今年の犠牲祭は8月11日で、その後には独立記念日(8月17日)も控えているから、今年のインドネシアの8月はとても賑やかになりそうだ。

さて、私が初めて留学した1996年の犠牲祭は4月28日だった。イスラムの祭日はイスラム暦(1年354日)に従うので、西暦で言えば毎年約11日ずつ早くなる。つまり、この23年の間に4月、3月、2月…12月、11月…とどんどん前倒しになって、今年は8月になったというわけなのだ。留学当時の日記が見つかったので、今回は1996年4月28日の犠牲祭の思い出について書いてみる。

私は4月13日には一軒家に引っ越していたが、犠牲祭の日はそれまで住んでいた宿のあるRT(町内)に見に行った。宿の従業員が、このRTは全戸がイスラム教徒だから犠牲祭はにぎやかだよ~、おいでよ~と誘ってくれたのだ。一方、新しく入居した家のRTの住人はほとんどキリスト教徒だったようで、特に町内では何もやらなかった。

朝9時から始めるというので行く。この町内は1つのガン(小路)を挟んだエリアである。このガンから大通りに出る手前にある排水溝の大きな蓋(コンクリート製)が開けられ、ホースが引かれていた。ここで屠殺するようだ。そして、小路にはヤギが10頭近く、牛も1頭つながれている。これらは住人らが供出したもの。持てる者は分に応じて持たざる者に施しをするのがイスラムの教えなのだ。だから、犠牲祭の数日前になると、急に街にヤギを売る人・買う人が現れる。ヤギ相場も値上がりするようで、お金に余裕がある人は少し前からヤギを仕入れておいて、犠牲祭直前に高値で売るようだ。私の日記には生後4~5年の小さ目のヤギが11万ルピアというメモが残っている。ちなみに、当時のレートは1ルピア=約20円。私の宿滞在費半月分の値段なので、庶民にはそれなりに大きな金額である。

さて、ヤギから屠殺が始まるが、肉屋ではなく地域の住民が手がけていることに驚く。ずっとお祈りを唱えている小さい子供たち(小学生低学年までくらい)に囲まれて、大人の男性がヤギの頸動脈を切り、血を排水溝に直接流す。子供たちと違って、私は怖くてその瞬間をどうしても正視することができなかった。その現場が見えない所につながれているヤギも自分の命運を察知し、順番が回ってきても抵抗してなかなか動こうとしない。屠殺されたヤギは木の枠にぶら下げられて解体が始まり、皮が剥がされ、肉や内臓が取られて骨だけがきれいに残る。皆とても手慣れていて、作業がてきぱきと進む。

解体の力仕事は男性がやる一方、内臓や肉のブロックを小さくしたり調理したりするのは女性。私も1頭分だけヤギの腸を伸ばすのを手伝うことにした。とはいえ3人がかりである。大きなざるに腸の塊が1頭分載せられてくる。塊に手を当ててみるとまだ温かい。さっきまで生きていた証。不思議に怖いとは感じず、命をいただく愛おしさを感じる。1人目がそのくねくね曲がった腸チューブをつまんで塊からはがし、しごく。2人目と3人目はそのしごかれたチューブを受け取ってさらにしごき、腸内の内容物を押し出してきれいにする。肛門に近い辺りでは内容物は全部コロコロした糞に変化してぎっしり詰まっている。1頭だけ…と気楽に考えていたが、腸がものすごく長いことに気づき、嫌気がさしてきた。いま調べたところ、ヤギの腸の長さは体長の25倍あるらしい。ヤギの体長は1~1.5mだから、腸の長さは約25~35mとなる。うろ覚えだが、2時間くらいひたすら腸をのばしていた気がする。

ヤギやウシの赤身や内臓は持ち帰り用に秤で測って分配される。それ以外にその場でヤギ肉の煮込みが調理され、皆で食べた。全部の解体と下ごしらえ、調理が終わって食事にありつけたのは2時過ぎだったと思う。暑さと周囲に充満する肉の匂いと空腹で頭がぼーっとしていたことを思い出す。こういう経験は1度で十分だというのが正直な感想だが、それでも経験できてよかった。命をいただいて食べることの重さを、私は腸の重さとして実感することができた…。

19960428iduladha1.jpg
1996年のIdul Adhaにて


2019.03水牛「インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年3月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」を寄稿しました。

実はタイトル詐欺の文章で(笑)、下見だけして住まなかった家の持ち主にまつわる思い出。


インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域

前回はインドネシアに最初に留学した時に住んだ家のことについて書いたが、その時に下見したものの結局入居しなかった家(の持ち主)の思い出について今回は書いてみよう。

住む家の契約を終え、引っ越し目前という時になって、宿の従業員が新たな情報を聞き込んできた。宿の斜め向かいの家で借り手を探しているというのだ。実は、そこに家があることを私は全然知らなかった。表通りから一本入った宿の辺りの家々には高い塀が巡らされていて、塀の奥にどんな建物が立っているのか全然見えなかったのだ。今さら仕切り直しをする気はなかったが、後学のために家だけ見ておきたいという気になり、物件を見せてもらった。持ち主はアラブ系の顔だちと服装をしていた。塀の中には広い庭があり、一人で住むには手入れが大変そうだった。私が礼を言って断ると、持ち主は「お構いなく、すべてはアラーの思し召しのままに…」という意味の言葉を返した。まだイスラムのこともほとんど知らなかったこの頃、イスラムの人はそういう風に発想するのか…と新鮮に感じたことを覚えている。

この持ち主自身はパサール・クリウォン地区に住んでいるとのことだった。実は、その地区には織物を商うアラブ系インドネシア人が歴史的に多く住んでいる。伝統文化のセンターである王宮の塀のすぐ外側(東側)の所だが、金曜礼拝の前後にこの辺りを通りかかると、全身を黒づくめの衣装で覆った女性が集まってくることに驚く。ゆるやかなイスラム教徒が多いジャワ人芸術家たちとだけ付き合っていると、こういうイスラム世界は見えてこない。ちなみに、2016年にジャカルタのスターバックス前でテロを起こした首謀者もこの地区の出身だ。この後私が住むカンプンバル地区(王宮の北側)の目と鼻の先である。実は、そのテロ事件が起こる前は、wikipediaのパサール・クリウォンの項目にはアラブ系の人がそこに集住した経緯が詳しく書かれていた。テロ関係のことを調べている友人にもそのことを教えてあげたのだが、事件後数日で記事のほとんどが削除されてしまった。何かまずいことでも書かれていたのかもしれない。というわけで、王宮の東側というとこの家の持ち主のことが思い出される。
2019.02水牛 「インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年2月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」を寄稿しました。

まだ携帯電話も普及していない、不動産屋もないインドネシアの古都ソロ(正式にはスラカルタ)での家探しについて。今にしてとても残念なのは、この当時のご近所さんと撮った写真が1枚もないこと。



インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し

昨年の11月号、12月号で留学していた芸大のキャンパスについて書いたので、今回は私が住んでいた地域の話。

留学してどこに住むのかは大きな問題だ。留学先の芸大(スラカルタ市/通称ソロ市にある)には寄宿舎はないので、遠方出身のインドネシア人学生はだいたい大学周辺にある下宿に住む。しかし、インドネシアではプライバシーがあまりないので、私には下宿で住むのは到底無理そうに思え、一軒家を探すことにした。大学での授業以外に、スラカルタ王宮やマンクヌガラン王宮にも通うから、これらの場所に近くて、大学にはバスや自転車で通える範囲がいい。また、日本では駅や銀行や中央郵便局が近くにある所に住んでいて便利だから、インドネシアでも似たような環境がいい…ということで、クプラボンかカンプンバル辺りで家探しをすることにした。クプラボンはマンクヌガラン王宮とその東側の地域だ。カンプンバルはその東側の地域で、市役所、中央郵便局にバンク・ヌガラ・インドネシア銀行があり、スラマット・リヤディ通りを挟んで南側にはスラカルタ王宮がある。また、幾つかの系統のバスは中央郵便局を経由していて、交通の便も良い。

1996年当時のスラカルタに不動産屋はなかったので(今はあるだろうか?)、聞き込みをして探すしかない。知り合いに聞く以外に、何軒かの個人経営規模のホテルに飛び込んで、オーナーに一軒家を持ってませんか?と尋ねてみた。そういう人なら、他にも不動産を持っているのではないかと思ったのだ。実際に家を紹介してくれた所もあったが、立地条件が合わなかった。そうこうしているうちに、あるホテルの人から人を紹介された。いくつも不動産物件を知っていて、紹介してくれるという。その人を信用しても良いものかどうか不安だったが、とにかく用心して物件を紹介してもらうことにした。一応エリアは決めていたが、せっかくの機会でもあるので、もう少しエリアを広げ、提案してくれた20軒余りを見て回った。

紹介してくれる家はどれも寝室が3~4室もあるような大きな家で、その後の状況を見ると会社が借りているケースが多かった。しかし、ついにカンプンバルの街中で小さくて手頃な家に行き当たる。その家の管理を任されている人はその隣のRT(町内会)の会長も務めており、信頼できる人だった。この人に当たったことが幸いで、抜け目のない仲介者にも高すぎない礼金を支払って別れることができた。もっとも、今から思えばあの仲介者の持っていた情報はどれも良質で、だからこそあの管理人とも巡り合えたのだなと思う。

私が契約した家は市役所の裏門を出てすぐの所にあった。現在は裏門から出入りできるのでその辺りは賑やかになっているが、当時は門は締め切られていた。私の家探しの条件は、電気も水道もあり、固定電話もついていること。電気はともかく、町中でも水道のない家はあった。そして、固定電話のある貸家は町中でも少なかった。さらにこの家の台所には流し台があり(伝統的な作りで流し台がない家もわりとある)、家の外にも洗濯用の蛇口があり、いずれも水が勢いよく出た(水がちろちろとしか出ない家もある)。電気は蛍光灯で明るい。おまけに屋上には物干し場があり、家の内側から出られるようになっている…など、私には理想的な家だった。さらに契約後に判明した良い点は、街中の家なので水道水の質が良く、ゴミ回収も毎日あり(毎月、ゴミ回収代を町内会に支払っていた)、カマル・マンディ(水浴場)の排水溝が大きく、水が良く流れたこと。

この家に入居するに当たり、私の方から依頼して入居契約書を作成した。管理人が用意した文面には、家に誰かを泊める場合は町内会長に報告すべしとあって驚いたのだが、これはインドネシア人が入居する場合でも同じだったようだ。当時はまだスハルト独裁政権時代で、現実には友達を泊めても問題はなかったが、建前上はこの文言が必要だったということだろう。近所づきあいに関しては、留学しに来ているのだから町内会の諸々の付き合いはしなくても良いと、管理人とRT会長が言ってくれた。これは具体的には冠婚葬祭の時に人手を出したり、近所の男性たちが交代でやっている夜警の当番をしたりしなくてもよいという意味だったと思う。実際、町内でお葬式があった時、私は参列して香典を出したけれど、手伝いは要請されなかった。そうそう、この近所づきあいをあまりしなくてよい、他人に過干渉しないというのも町中に住むメリットだ。ちょっとしたものをお裾分けして立ち話する程度の付き合いは私もなるべくするようにしていたけれど、程よい距離感があった。

さて、この家のオーナーは当時50くらいの女性だった。彼女はビジネスオーナーで仕事人間でやってきたが、その年になって結婚したい人が現れ、結婚してメダン(スマトラ島)に移るので、その自宅を貸そうとしていたのだった。この家の使い勝手の良さは、オーナーも女性で1人暮らしをしていたからかもしれない。この家の右隣りにはおばあさんが住んでいた。品の良いカトリック教徒で、家にはオルガンがあり、復活祭が近づくと人々が集まってよく讃美歌を歌っていた。また、私の家の前には中華系のおばさんとスンダ人の旦那の年配夫婦が住んでいた。私が2000年になって再留学した時にはこの右隣の家のおばあさんも中華系のおばさんも亡くなっており、また私が住んでいた時にお葬式を出した家は大手企業に買われ改築されて、すっかり様変わりしてしまった。
2019.01水牛 「平成の最後、昭和の最後」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年1月」(水牛のように)コーナーに、
平成の最後、昭和の最後」を寄稿しました。


平成の最後、昭和の最後

平成天皇が万感を込めた誕生日の会見のお言葉を述べて1週間後、平成最後の正月が穏やかに明けた。昭和最後のお正月はこんなものではなかったな…と不意に思い出す。

ご病気の昭和天皇を憚って様々な行事が取りやめとなり、私的イベントまでが不謹慎だと自粛された。その年、私は大学4年生だった。卒論を仕上げるため、帰省せずに1人で下宿に残っていた。1月7日、大家さん(1人暮らしのおばあさん)のわざわざの知らせで私は崩御を知り、卒論締切(10日)間近という緊張感がぷつんと切れてしまった。戦後生まれで格別天皇びいきでもない自分がそのような感情に襲われるということは、経験するまで分からないことだった。あれは、戦後という1つの時代が終わったという虚脱感のようなものだったのだろう。

卒論を提出した翌日、友人と大学の門前のファミリーレストランで卒業旅行の打ち合わせをすることにしていた。しかし、そこも他の店も軒並み臨時休業していて、結局、大学で打ち合わせした。崩御の日から多くの飲食店が休業していたのは本当だった。あの同調圧力の強さは、戦時中はかくやあらんという雰囲気だった。

平成天皇の退位によって、やっと昭和的なものが良くも悪くも終わるのだろう。私は明治~大正~昭和と生きた祖父母のように三代を生きることになり、「昭和は遠くなりにけり」なんて感慨をそのうち漏らすのだろう。
2018.12水牛「芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年12月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間」を寄稿しました。


芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間

私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出話の第二弾は、舞踊の授業やレッスンをしていた場所について。

舞踊学科の実技の授業で使うのはE棟の1,2階とI棟の2,3階の教室だった。ワンフロア1教室で、40〜50人くらいの集団レッスンができるくらいの広さがあり、壁面に鏡がある部屋もあった。それ以外に、少し離れた所にあるF棟がコンテンポラリ舞踊や舞台装置の授業に使われていた。体育館のように天井が高く、小劇場や大劇場ができる以前はここで規模の大きい作品(野外大劇場でセットを組んで上演されるような作品)のゲネプロが行われていた。

教室は授業以外にも各種練習で使われ、届けを出せば個人レッスンにも使用できた。しかし、私はこの広い教室で個人レッスンをしてもらったことがほとんどない。

私は男性優形舞踊を芸大教員のP氏に師事し、個人レッスンを受けていた。留学するまで男性舞踊をやったことがなく、呑み込みも遅い私は、芸大の集団授業に全然ついて行けず、P氏に師事することにしたのだった。

最初の1セメスターは、I棟1階にある化粧室(今は別の部屋になっている)でレッスンを受けた。幅が一間半くらいの細長い部屋の両サイドに鏡と椅子がずらりと並んでいて、手狭である。音響設備もない。友人が広い教室でレッスンを受けていたので、私もそうしたいと言ったのだが、ダメだと言われた。理由は後になって判明するのだが、師は、当時の私はまだ広い環境では舞踊に集中できないだろう、狭くて静かで他人の目がない空間の方が良いと判断していた。

化粧室で音楽なしできっちりと動きを指導してもらい、1曲目の舞踊作品の振付を最後まで覚えると、師は初めて広い教室でレッスンをやろうと言って空いている教室に入り、カバンやノートを床に置いて四角い舞台空間を区切った。その中で初めて向きだとか理想的な空間の取り方を指導してもらい、音楽に合わせて踊った。しかし、1回だけである。

その次のセメスターでは、F棟入口前のロビーでレッスンが行われることになった。屋根と床があるだけの空間である。レッスンに使えるのは四畳半くらいのスペースだ。教室の中ではなく、音響機材がないから、私はカセットデッキを抱えてレッスンに行った。このレッスンは夕方にやっていたのだが、師はいつも最低半時間くらい遅れて来る。ポツンと待っていると、F棟の中からは課外活動の少林寺拳法の声が響いてくるし、周囲では別の練習の音も聞こえてくる。F棟の前にはワルン(屋台)があって、この周辺で下宿している学生がいつもたむろしている。その時間帯にポンキーという愛猿を肩に乗せた学生がいつも散歩する(彼の名前は忘れた)。キャンパスのモスクからアザーン(イスラム礼拝の時刻を告げる詠唱)が聞こえてきて、山羊の集団がこのF棟のロビーを横切って疾走する。たぶん、彼らはF棟裏にあるテニスコートで草刈の仕事をし、人には聞こえない合図を聞いて一斉に帰路につくのだろう…。さらに雨季の走りとてスコールが降ってくると、一気に周辺は雨の音に包まれる…。と、一転して開放的過ぎる環境に私はイライラしたが、師はあえてここを選んでいた。2曲目に習ったのは『パムンカス』という宮廷舞踊の系統の内面的な曲だったのだが、舞踊が始まる前の正座して待つ部分(パテタンと呼ばれる音楽がつく)で、集中力が足りない!もう一度パテタンを聞いてろ!と何度もパテタンを聞かされたことがある。こんな環境の中でも自分に集中しなければならない、と言う。その当時の私はあの環境にイライラを募らせていたというのに、今となってはあの混沌さが一番懐かしい…。