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2019.03水牛「インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年3月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」を寄稿しました。

実はタイトル詐欺の文章で(笑)、下見だけして住まなかった家の持ち主にまつわる思い出。


インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域

前回はインドネシアに最初に留学した時に住んだ家のことについて書いたが、その時に下見したものの結局入居しなかった家(の持ち主)の思い出について今回は書いてみよう。

住む家の契約を終え、引っ越し目前という時になって、宿の従業員が新たな情報を聞き込んできた。宿の斜め向かいの家で借り手を探しているというのだ。実は、そこに家があることを私は全然知らなかった。表通りから一本入った宿の辺りの家々には高い塀が巡らされていて、塀の奥にどんな建物が立っているのか全然見えなかったのだ。今さら仕切り直しをする気はなかったが、後学のために家だけ見ておきたいという気になり、物件を見せてもらった。持ち主はアラブ系の顔だちと服装をしていた。塀の中には広い庭があり、一人で住むには手入れが大変そうだった。私が礼を言って断ると、持ち主は「お構いなく、すべてはアラーの思し召しのままに…」という意味の言葉を返した。まだイスラムのこともほとんど知らなかったこの頃、イスラムの人はそういう風に発想するのか…と新鮮に感じたことを覚えている。

この持ち主自身はパサール・クリウォン地区に住んでいるとのことだった。実は、その地区には織物を商うアラブ系インドネシア人が歴史的に多く住んでいる。伝統文化のセンターである王宮の塀のすぐ外側(東側)の所だが、金曜礼拝の前後にこの辺りを通りかかると、全身を黒づくめの衣装で覆った女性が集まってくることに驚く。ゆるやかなイスラム教徒が多いジャワ人芸術家たちとだけ付き合っていると、こういうイスラム世界は見えてこない。ちなみに、2016年にジャカルタのスターバックス前でテロを起こした首謀者もこの地区の出身だ。この後私が住むカンプンバル地区(王宮の北側)の目と鼻の先である。実は、そのテロ事件が起こる前は、wikipediaのパサール・クリウォンの項目にはアラブ系の人がそこに集住した経緯が詳しく書かれていた。テロ関係のことを調べている友人にもそのことを教えてあげたのだが、事件後数日で記事のほとんどが削除されてしまった。何かまずいことでも書かれていたのかもしれない。というわけで、王宮の東側というとこの家の持ち主のことが思い出される。
2019.02水牛 「インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年2月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」を寄稿しました。

まだ携帯電話も普及していない、不動産屋もないインドネシアの古都ソロ(正式にはスラカルタ)での家探しについて。今にしてとても残念なのは、この当時のご近所さんと撮った写真が1枚もないこと。



インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し

昨年の11月号、12月号で留学していた芸大のキャンパスについて書いたので、今回は私が住んでいた地域の話。

留学してどこに住むのかは大きな問題だ。留学先の芸大(スラカルタ市/通称ソロ市にある)には寄宿舎はないので、遠方出身のインドネシア人学生はだいたい大学周辺にある下宿に住む。しかし、インドネシアではプライバシーがあまりないので、私には下宿で住むのは到底無理そうに思え、一軒家を探すことにした。大学での授業以外に、スラカルタ王宮やマンクヌガラン王宮にも通うから、これらの場所に近くて、大学にはバスや自転車で通える範囲がいい。また、日本では駅や銀行や中央郵便局が近くにある所に住んでいて便利だから、インドネシアでも似たような環境がいい…ということで、クプラボンかカンプンバル辺りで家探しをすることにした。クプラボンはマンクヌガラン王宮とその東側の地域だ。カンプンバルはその東側の地域で、市役所、中央郵便局にバンク・ヌガラ・インドネシア銀行があり、スラマット・リヤディ通りを挟んで南側にはスラカルタ王宮がある。また、幾つかの系統のバスは中央郵便局を経由していて、交通の便も良い。

1996年当時のスラカルタに不動産屋はなかったので(今はあるだろうか?)、聞き込みをして探すしかない。知り合いに聞く以外に、何軒かの個人経営規模のホテルに飛び込んで、オーナーに一軒家を持ってませんか?と尋ねてみた。そういう人なら、他にも不動産を持っているのではないかと思ったのだ。実際に家を紹介してくれた所もあったが、立地条件が合わなかった。そうこうしているうちに、あるホテルの人から人を紹介された。いくつも不動産物件を知っていて、紹介してくれるという。その人を信用しても良いものかどうか不安だったが、とにかく用心して物件を紹介してもらうことにした。一応エリアは決めていたが、せっかくの機会でもあるので、もう少しエリアを広げ、提案してくれた20軒余りを見て回った。

紹介してくれる家はどれも寝室が3~4室もあるような大きな家で、その後の状況を見ると会社が借りているケースが多かった。しかし、ついにカンプンバルの街中で小さくて手頃な家に行き当たる。その家の管理を任されている人はその隣のRT(町内会)の会長も務めており、信頼できる人だった。この人に当たったことが幸いで、抜け目のない仲介者にも高すぎない礼金を支払って別れることができた。もっとも、今から思えばあの仲介者の持っていた情報はどれも良質で、だからこそあの管理人とも巡り合えたのだなと思う。

私が契約した家は市役所の裏門を出てすぐの所にあった。現在は裏門から出入りできるのでその辺りは賑やかになっているが、当時は門は締め切られていた。私の家探しの条件は、電気も水道もあり、固定電話もついていること。電気はともかく、町中でも水道のない家はあった。そして、固定電話のある貸家は町中でも少なかった。さらにこの家の台所には流し台があり(伝統的な作りで流し台がない家もわりとある)、家の外にも洗濯用の蛇口があり、いずれも水が勢いよく出た(水がちろちろとしか出ない家もある)。電気は蛍光灯で明るい。おまけに屋上には物干し場があり、家の内側から出られるようになっている…など、私には理想的な家だった。さらに契約後に判明した良い点は、街中の家なので水道水の質が良く、ゴミ回収も毎日あり(毎月、ゴミ回収代を町内会に支払っていた)、カマル・マンディ(水浴場)の排水溝が大きく、水が良く流れたこと。

この家に入居するに当たり、私の方から依頼して入居契約書を作成した。管理人が用意した文面には、家に誰かを泊める場合は町内会長に報告すべしとあって驚いたのだが、これはインドネシア人が入居する場合でも同じだったようだ。当時はまだスハルト独裁政権時代で、現実には友達を泊めても問題はなかったが、建前上はこの文言が必要だったということだろう。近所づきあいに関しては、留学しに来ているのだから町内会の諸々の付き合いはしなくても良いと、管理人とRT会長が言ってくれた。これは具体的には冠婚葬祭の時に人手を出したり、近所の男性たちが交代でやっている夜警の当番をしたりしなくてもよいという意味だったと思う。実際、町内でお葬式があった時、私は参列して香典を出したけれど、手伝いは要請されなかった。そうそう、この近所づきあいをあまりしなくてよい、他人に過干渉しないというのも町中に住むメリットだ。ちょっとしたものをお裾分けして立ち話する程度の付き合いは私もなるべくするようにしていたけれど、程よい距離感があった。

さて、この家のオーナーは当時50くらいの女性だった。彼女はビジネスオーナーで仕事人間でやってきたが、その年になって結婚したい人が現れ、結婚してメダン(スマトラ島)に移るので、その自宅を貸そうとしていたのだった。この家の使い勝手の良さは、オーナーも女性で1人暮らしをしていたからかもしれない。この家の右隣りにはおばあさんが住んでいた。品の良いカトリック教徒で、家にはオルガンがあり、復活祭が近づくと人々が集まってよく讃美歌を歌っていた。また、私の家の前には中華系のおばさんとスンダ人の旦那の年配夫婦が住んでいた。私が2000年になって再留学した時にはこの右隣の家のおばあさんも中華系のおばさんも亡くなっており、また私が住んでいた時にお葬式を出した家は大手企業に買われ改築されて、すっかり様変わりしてしまった。
2019.01水牛 「平成の最後、昭和の最後」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年1月」(水牛のように)コーナーに、
平成の最後、昭和の最後」を寄稿しました。


平成の最後、昭和の最後

平成天皇が万感を込めた誕生日の会見のお言葉を述べて1週間後、平成最後の正月が穏やかに明けた。昭和最後のお正月はこんなものではなかったな…と不意に思い出す。

ご病気の昭和天皇を憚って様々な行事が取りやめとなり、私的イベントまでが不謹慎だと自粛された。その年、私は大学4年生だった。卒論を仕上げるため、帰省せずに1人で下宿に残っていた。1月7日、大家さん(1人暮らしのおばあさん)のわざわざの知らせで私は崩御を知り、卒論締切(10日)間近という緊張感がぷつんと切れてしまった。戦後生まれで格別天皇びいきでもない自分がそのような感情に襲われるということは、経験するまで分からないことだった。あれは、戦後という1つの時代が終わったという虚脱感のようなものだったのだろう。

卒論を提出した翌日、友人と大学の門前のファミリーレストランで卒業旅行の打ち合わせをすることにしていた。しかし、そこも他の店も軒並み臨時休業していて、結局、大学で打ち合わせした。崩御の日から多くの飲食店が休業していたのは本当だった。あの同調圧力の強さは、戦時中はかくやあらんという雰囲気だった。

平成天皇の退位によって、やっと昭和的なものが良くも悪くも終わるのだろう。私は明治~大正~昭和と生きた祖父母のように三代を生きることになり、「昭和は遠くなりにけり」なんて感慨をそのうち漏らすのだろう。
2018.12水牛「芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年12月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間」を寄稿しました。


芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間

私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出話の第二弾は、舞踊の授業やレッスンをしていた場所について。

舞踊学科の実技の授業で使うのはE棟の1,2階とI棟の2,3階の教室だった。ワンフロア1教室で、40〜50人くらいの集団レッスンができるくらいの広さがあり、壁面に鏡がある部屋もあった。それ以外に、少し離れた所にあるF棟がコンテンポラリ舞踊や舞台装置の授業に使われていた。体育館のように天井が高く、小劇場や大劇場ができる以前はここで規模の大きい作品(野外大劇場でセットを組んで上演されるような作品)のゲネプロが行われていた。

教室は授業以外にも各種練習で使われ、届けを出せば個人レッスンにも使用できた。しかし、私はこの広い教室で個人レッスンをしてもらったことがほとんどない。

私は男性優形舞踊を芸大教員のP氏に師事し、個人レッスンを受けていた。留学するまで男性舞踊をやったことがなく、呑み込みも遅い私は、芸大の集団授業に全然ついて行けず、P氏に師事することにしたのだった。

最初の1セメスターは、I棟1階にある化粧室(今は別の部屋になっている)でレッスンを受けた。幅が一間半くらいの細長い部屋の両サイドに鏡と椅子がずらりと並んでいて、手狭である。音響設備もない。友人が広い教室でレッスンを受けていたので、私もそうしたいと言ったのだが、ダメだと言われた。理由は後になって判明するのだが、師は、当時の私はまだ広い環境では舞踊に集中できないだろう、狭くて静かで他人の目がない空間の方が良いと判断していた。

化粧室で音楽なしできっちりと動きを指導してもらい、1曲目の舞踊作品の振付を最後まで覚えると、師は初めて広い教室でレッスンをやろうと言って空いている教室に入り、カバンやノートを床に置いて四角い舞台空間を区切った。その中で初めて向きだとか理想的な空間の取り方を指導してもらい、音楽に合わせて踊った。しかし、1回だけである。

その次のセメスターでは、F棟入口前のロビーでレッスンが行われることになった。屋根と床があるだけの空間である。レッスンに使えるのは四畳半くらいのスペースだ。教室の中ではなく、音響機材がないから、私はカセットデッキを抱えてレッスンに行った。このレッスンは夕方にやっていたのだが、師はいつも最低半時間くらい遅れて来る。ポツンと待っていると、F棟の中からは課外活動の少林寺拳法の声が響いてくるし、周囲では別の練習の音も聞こえてくる。F棟の前にはワルン(屋台)があって、この周辺で下宿している学生がいつもたむろしている。その時間帯にポンキーという愛猿を肩に乗せた学生がいつも散歩する(彼の名前は忘れた)。キャンパスのモスクからアザーン(イスラム礼拝の時刻を告げる詠唱)が聞こえてきて、山羊の集団がこのF棟のロビーを横切って疾走する。たぶん、彼らはF棟裏にあるテニスコートで草刈の仕事をし、人には聞こえない合図を聞いて一斉に帰路につくのだろう…。さらに雨季の走りとてスコールが降ってくると、一気に周辺は雨の音に包まれる…。と、一転して開放的過ぎる環境に私はイライラしたが、師はあえてここを選んでいた。2曲目に習ったのは『パムンカス』という宮廷舞踊の系統の内面的な曲だったのだが、舞踊が始まる前の正座して待つ部分(パテタンと呼ばれる音楽がつく)で、集中力が足りない!もう一度パテタンを聞いてろ!と何度もパテタンを聞かされたことがある。こんな環境の中でも自分に集中しなければならない、と言う。その当時の私はあの環境にイライラを募らせていたというのに、今となってはあの混沌さが一番懐かしい…。
2018.11水牛「芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年11月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場」を寄稿しました。


芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場

今年の4月からいくつかの大学に教えに行っている(インドネシアの言語とか文化とか)。大学によって立地やレイアウトはまちまちだが、ある大学のキャンパスを歩きながら、そういえば留学先の大学もこんな感じで高低差があったなあ…と思い出した。というわけで、今回は私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出の話。

芸大のキャンパス構内は、私が留学・調査していた頃(1996-2007)より建造物が増えたり教室が改装されたりして、今ではかなり感じが変わっている。芸大キャンパスは、プンドポ(ジャワの伝統的なオープンホール)や大小の劇場、野外劇場などが集まっている辺りが道路から近く、土地が平らである。船をかたどった門が設けられて、これが現在の正門だ。そこから南へ坂を下るにしたがって、本部棟や国旗掲揚広場(その前にある門がかつての正門)、事務棟や図書館、影絵科、舞踊科、音楽科、造形科と順々に配置されている。

実は芸大キャンパスがこの地に移転完了したのは1985年で、その前はスラカルタ王宮の一画:サソノムルヨにあった。サソノムルヨには国の芸術プロジェクト=PKJTの拠点や3月11日大学(UNS)のキャンパスも同居していて、これら3つの機関が揃って今の地域に移転した。というわけで、道路から芸大の船形正門を越えてさらに東に行くとUNSのキャンパスがあり、芸大から南下するとPKJTが発展解消してできた中部ジャワ州芸術センター(TBS)がある。

現在でこそ、芸大に各種劇場が揃っているが、私が留学した当初にあったのはプンドポのみ。ここで入学式や卒業式、すべての試験公演が行われていた。余談だが、このプンドポはキブラット(方角)が間違っていたことが完成後に分かったそうで、そのためルワタン(魔除けの影絵)をして、その影絵人形をキャンパスからほど近いブンガワン・ソロ川に流しに行ったそうだ。

閑話休題。ソロはコンテンポラリ芸術も盛んな地域だが、それらも伝統的なプンドポで全部上演してしまうところに、私はジャワの伝統の懐の大きさを感じて感動した。しかし、同じジャワでもジョグジャカルタにある芸大には当時からクローズドの額縁劇場があった。私はむしろそのことに驚いたのだが、それは恐らく、ジョグジャカルタ校には西洋音楽のコースがあったためではないかと思う。実は、首都ジャカルタの交響楽団で活躍する人の多くがジョグジャカルタの芸大出身者なのである。一方、スラカルタの芸大のカリキュラムには西洋音楽の実践は全然なかった。ピアノを使うのも国歌、校歌を歌う時だけ…という状況だった。

そんな芸大にクローズドの額縁舞台の劇場が建ったのは1997年末か1998年早々で、こけら落とし公演がサルドノ・クスモ作『オペラ・ディポネゴロ』だった。だが実は、この公演時に劇場の電気系統はまだ完成しておらず、発電機を持ち込んでの上演だったと後で聞いた。当時、アジア通貨危機に見舞われて工事は中断し、2000年に私が再留学してきた後に工事が再開した。小劇場が完成した後、舞踊の試験公演はすべて小劇場で上演されるようになり、同時に多くの有料公演もそこで上演されるようになった。スハルトが退陣しオトノミ・ダエラー(地方自治)体制となったことで、それまで入場無料だった試験公演が有料化された。折しも、インドネシアではアートマネジメントの必要性が叫ばれるようになった。国際交流基金がその専門家をインドネシアに招聘したり、現地の財団が公演制作者の育成プログラムを始めたりしていた。というわけで、スラカルタの芸大では2000年前後がプンドポ芸術から劇場芸術への転換点(少なくとも舞踊にとって)だったと言える。

とはいえ、欧米の劇場と全然違うのがクローズドの度合いである。壁は薄く、劇場外の音もよく聞こえる。さらに外からいろんなものが入ってくる。小劇場のこけら落とし『オペラ・ディポネゴロ』公演では、よりにもよってクライマックスのシーンとした場面で、トッケイ・ヤモリの「トッケイ…トッケイ…」という連続する鳴き声が響き渡った。また、小劇場ではないが、プンドポの裏にある録音室で私が舞踊曲の録音をしたとき、一度バッタが入ってきて中断したことがある。トッケイやバッタをシャットアウトしてこそのクローズド劇場だと思うのだが、これでは音環境についてはプンドポと変わらない…(笑)。(つづく)
2018.10水牛「動きを生み出すもの」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年10月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「動きを生み出すもの」を寄稿しました。


動きを生み出すもの

舞踊の動きを生み出す要素は、結局はメロディーかリズムかのどちらかしかない。メロディもリズムも楽曲の形を取ると種々の規則によって制約されてしまうけれど、ここではもう少し広い意味で使っている。流れるような音や声のまとまりがメロディであり、何かがぶつかって生まれる衝動や脈打つものがリズム。一般的な舞踊作品ではメロディとリズムの両方を備え、ある部分では主にリズムによって動きがドライブされ、ある部分では主にメロディに運ばれるように動きが作り出されている。

ジャワ舞踊で言えば、ガンビョン(やキプラハン、ゴレッなど)がリズムによって作り出される舞踊で、これらは民間起源のチブロンという太鼓を使って演奏される。スリンピやブドヨといった宮廷舞踊はブダヤン歌唱のメロディに乗る舞踊だ。ブダヤンでは―特にグンディン・クマナという伴奏楽器がほとんどない古式の編成では―、歌が曲の中心であることが分かりやすいけれど、一般的なガムラン曲では分かりにくい。それは、歌がゲロンという男性斉唱パートと、シンデンという女性歌手のフリーリズムの歌の2種類に分かれ、大編成のアンサンブルのパートに組み込まれ、楽曲形式に当てはめられてしまっているからである。

実は、ジャワの伝統的なガムラン楽曲の旋律の多くはモチョパットが元になって作られている。モチョパットはパンクル、アスモロドノ、ミジル…といった韻律の異なる11種類の詩型を総称したもので、ジャワにはモチョパットを朗詠する伝統がある。伝統的なガムラン演奏会のように、特定の日に人々が集まる会(モチョパタン)やコンテストも行われている。

1970年代になってインドネシアで現代舞踊が模索された時(その先駆者がサルドノ・クスモ氏)、その1つの方向がガムラン音楽の演奏に合わせて踊るのではなく、モチョパットの歌で踊ることだった。そこには、動きを楽曲に当てはめるのが舞踊なのではないという理解があった。楽器という身体の外にある理知的な道具を使うのではなくて、歌という身体の声を聴いて踊ることに目を向け始めたのだった。

私がジャワで伝統的な男性優形舞踊を師事した師匠は、伝統舞踊の名手でもあると同時に現代舞踊家でもあった。師匠が、留学を終えて帰国する私のために授けてくれた最後のレッスンは、私には忘れられない。「これから私が詠うから、それに合わせて好きなように動きなさい。」と言って、師匠はいろんなモチョパットを詠い始めた。それまでの期間、私は師匠の現代舞踊の舞台を見たり、また他の人とのコラボレーションするのを見てきたりしていたから、言わんとすることは理解できた。私なりに流れを感じながら、自分が学んだ伝統的な動きの中からしっくりきそうなものを模索しながら、動きを紡ぎ出した。その時の動きはそれなりに拙いものだったろう。それでも、そのセッションが終わると、師匠は静かに「今の感覚を覚えておきなさい。それがジャワ舞踊の根底にあるもの、スメレ―semelehなものだよ。」と言った。スメレ―は穏やかで落ち着いたという意味で、瞑想修行にもたとえられるジャワ舞踊で到達すべき静寂な境地を指す。わが内なる旋律を見出すこと、そしてその旋律に身を委ねることで生み出される動きを、師匠はジャワ舞踊の本質として示してくれたのだった。
2018.09水牛「アジア大会開幕式」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年9月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「アジア大会開幕式」を寄稿しました。


アジア大会開幕式

この8月はワヤン・べベルという芸能の活動プロジェクトでジャカルタを拠点にインドネシアに滞在していたのだが、ちょうどアジア(競技)大会開幕と重なった。というわけで、今回はアジア大会のお話。今年のアジア大会はジャカルタとパレンバン(スマトラ島)の2会場で行われたが、開会式は8月18日(インドネシアの独立記念日の翌日)にジャカルタのゲロラ・ブン・カルノ競技場で行われた。実はインドネシアでアジア大会が開催されるのは1962年に次いで2回目で、その初回時にゲロラ・ブン・カルノが建設されている。

この8月には、大会開催に併せてインドネシア国立博物館で『アジア大会の歴史』展が開催された。1962年の大会の新聞記事、記念切手、記念レコード(インドネシア各地の歌)などの展示に加え、開会式の映像も流された。その時の演舞が、大勢の生徒が手をつないで沢山の円を描き、各円がぐるぐる回るという学校ダンスに毛の生えたような素朴なものであることに驚く★1。今年の見事なマスゲームの見せ方を思い起こすと、インドネシアの56年間の発展には目を見張るばかりだ。ちなみに、ジャワ島中部のプランバナン遺跡の前で開催される観光野外舞踊劇『ラーマーヤナ・バレエ』は1961年に開始した。大規模な建設を伴うコンテンツ(スポーツや芸術)を通してナショナル・アイデンティティを本格的に打ち出そうとしたのが1960年代初めのインドネシアなのだ。

さて、今年の開会式では、1500人を動員して人文字を描くように見事な演舞が行われた★2。この舞踊は厳密にはサマン(ユネスコ無形文化遺産に認定されたもの)ではなく、ラト・ジャル(Ratoh Jaroe)である。両者はどちらもスマトラ島アチェの舞踊だが、サマンは男性舞踊、ラト・ジャルは女性舞踊である。舞踊の型は両者ほとんど同じで、座って全員の動きがシンクロするように踊る。なぜアチェの舞踊を選んだのだろう…と思っていたのだが、ジャカルタの学校では大体どこでも教えていて――3回くらいの指導でできるようになるから――踊れる生徒が多いというのもあるらしい。テンポが速く高揚感があり、動きが揃って見栄えがし、大人数で上演できて、しかも踊り手を集めやすいという点で、今回のようなイベントには非常に似つかわしい。皆で一斉に踊るから、参加者は達成感を感じることができただろうな…とも思う。ちなみに、2016年にはタマン・ミニ(ジャカルタにある、インドネシア全州の文化を紹介するテーマパーク)設立記念日に6000人のラト・ジャル上演があり、最多人数記録を建てている★3。この時の上演が今回のヒントになっていたのかもしれない。

★1 インドネシア国立博物館で映写されていた1962年のアジア大会開幕式映像(Arsip Nasional所蔵)を写真に撮ったもの。
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★2 今年のアジア大会開幕式のラト・ジャル上演(i News動画)
MEMUKAU! Ribuan Penari Saman Hipnotis Jutaan Penonton Asian Games - iNews Pagi 19/08
https://www.youtube.com/watch?v=NffM4mJ3Jd0

★3 6000人によるラト・ジャル上演(CNN動画)
Pentas 6000 Penari Pecahkan Rekor
https://www.youtube.com/watch?v=4rGFbLZjZyE
2018.08水牛「バブル時代と宗教」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年8月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「バブル時代と宗教」を寄稿しました。



バブル時代と宗教

オウム真理教の教祖以下の死刑が執行された。執行された人たちの若かりし頃の写真を見ると、バブル期に流行ったデザインのフレームの眼鏡をかけて笑っている。私も学生時代にあんな形の眼鏡をしていた。レンズが大きくて重かった。いつ頃だったか、私は学生時代の眼鏡のレンズを削って、その当時流行していた小さな楕円形のフレームに入れ直してもらった。その眼鏡のつるが昨年折れて、また新しいフレームに入れ直そうと思ったら、当世風のレンズはもう少し大きく横長になっていて、私のレンズは寸足らずになってしまっていた。そんなに時間が経過していたのに、オウムの人たちの時間はあの大きなレンズの時代で止まってしまっていたのだ。

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大学時代の友人Tは春休み中にある宗教団体に入信した。大坂城公園で友人同士集まってお花見をしたときにその話が出た。すでにTと会った数人がそれぞれ脱会するよう説得したらしいけれど、Tは洗脳されて態度がかたくなになっていると言って泣いた。折しも世はバブルのピークに差し掛かろうとしていた。公園ですれ違ったOLがワンレンの髪をソバージュにして、黄色いボディコンのワンピースを着て腰にチェーンベルトを巻いて闊歩していたことを思い出す。

それからしばらくして大学の食堂でTに会った。Tは久しぶりと言い、私に宗教の話をしてくる。ここで説得するより、ひとまずは彼女を受け止めようと黙って話を聞いていたら、Tは逆に「あなたは私を止めないの? みんな私を説得してきたわよ!」と切れてしまった。こんな時は、本当はどうしたらよかったのだろう…。私の反応は冷静すぎたのだろうか。彼女は止めてほしかったのか、認めてほしかったのか。あるいは説得されると思い身構えていたのに肩透かしを食らったので苛立ったのか。

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大学卒業後に就職した企業では勤務5年目の女性が受ける研修があった。私も受けてから辞めることになるのだが、この研修を受けた先輩から「なんだか洗脳されているように感じる」と聞いていた。今にして思えば、あればバブル期頃からはやり始めた自己啓発セミナーの一種だった。X JapanのToshiで話題になったような過激な手法ではないが、やる気を他者に操作されているような感覚があった。悪い意味での宗教に似ていた気がする。

私の肌感覚では、バブル時代は一種の宗教の時代だった。私がその当時の宗教に影響を受けなかったのは、私自身、葬式仏教で良しとする仏教徒であることに誇りを持っているからかもしれない。そう、根っからの土着派なのだ。ジャワのイスラムやカトリックでは死後1週間、40日、100日、1年、2年、1000日目に法要をするのだが、その先祖崇拝という点については分かるという感覚があるし、そういう私の仏教心はわりとジャワの人に理解してもらっている気がする。上に上げたような宗教では先祖崇拝にベクトルが向かわないようだ。私は特に先祖を敬っている自覚もないけれど、その点が落ち着かない。
2018.07水牛「ブドヨ・クタワン」
ずっとアップし忘れていました…

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ブドヨ・クタワン

『ブドヨ・クタワン』はジャワのスラカルタ王家に伝わる舞踊で、王の即位式と毎年の即位記念日に上演されてきた。マタラムの王が王家を守護する南海の女神と結婚するという神話を描いているとされる。現当主パク・ブウォノXIII世は、今年の4月12日に14回目の即位記念日を迎えたのだが、舞踊だけで1時間半、入退場も含めると2時間近くかかるこの舞踊が、今年は15分、入退場を入れても約30分しか上演されなかった。私はジャワに住む知人からこのことを知らされ、新聞で確認してみた。『ブドヨ・クタワン』は3部構成なのだが、今回上演されたのは第3部のみ。XIII世の健康状態が思わしくないため短縮した、あくまでもそれは今年だけの措置であると王宮関係者がインタビューに応えている。しかし、昨年も15分しか上演されなかった、XIII世即位後にはイレギュラーなケースが続いていると報じた新聞もある。舞踊継承を担当してきたムルティア王女と王家の軋轢も報道されている。今年の踊り手の写真を見ると、アクセサリが王家所有のものではなく、一般的なデザインになっている。踊り手を王宮外(芸大や芸術高校)から集めたと報じたものもあり、通常の踊り手や衣装が使えない状況にあったことが分かる。私も通算5年の留学期間を通じて舞踊の練習に参加させてもらい、また様々な儀式を参与観察させてもらった王宮だけに、この状況は悲しい。
2018.06水牛「儀礼と見世物」
ずっとアップし忘れていました…

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2018年6月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「儀礼と見世物」を寄稿しました。


儀礼と見世物

少し前の出来事だが、大相撲巡業中に土俵上で倒れた市長の救命処置をした女性に対し、行司が土俵を降りるようにアナウンスするという事件があり、大相撲の女人禁制は伝統か? 神事か? と取り沙汰された。この時にツィッタ―で知ったのが2008年の論文「相撲における『女人禁制』の伝統について」(吉崎祥司、稲野一彦)で、女人禁制は相撲界の地位向上のため明治以降に虚構されたと結論づけている。その論文によれば、日本書紀に最古の女相撲の記録があり、室町時代の勧進相撲には女人も参加しており、江戸時代には女相撲の興行があったが、文明開化後も存続するため、相撲は単なる見世物興行ではなく、武士道であり朝廷の相撲節の故実を伝えるものであるという理由付けが必要となったというのだ。

見世物ではないと主張するために儀礼性が強調されるようになったという経緯には私も納得するのだが、逆に、見世物だからこそ相撲協会は儀礼性や伝統を強調したがるのではないだろうか。なぜなら、単に相撲はレスリングの一種だと紹介するより、古代からの伝統や女人禁制の神事だと紹介する方が人々の関心を惹き、集客がアップするだろうからである。

そう私が思うのは、私自身がインドネシアでスラカルタ宮廷様式のスリンピとブドヨの自主公演をそれぞれ実施した経験による。スリンピもブドヨもジャワ宮廷女性舞踊の演目で、私はどちらもほとんど上演されない元の長いバージョンで上演した。スリンピ公演をしたのは2006年11月で、スラカルタの国立芸術高校の定期ヌムリクラン公演(毎月26日に行う公演という意味)に組み入れてもらった。(詳しくは水牛2007年4月号水牛20017年5月号の記事を参照)。一方、ブドヨ公演をしたのは2007年6月で、これはスラカルタにある州立芸術センターでの単独公演として行った(ただし芸術センターと共催)。ブドヨ公演にはチラシやポスターをデザイナーに作ってもらって印刷したが、スリンピ公演の時は自分でパソコンで作ってコピーしたちらしのみ。しかし、この3年あまり続く定期公演では普段はちらしさえ作っていない。それでも伝統舞踊が見られる場として定着し、観客もついている。私はどちらのケースでも事前にスラカルタのマスコミにプレスリリースをしてPRに努めた。世間の反応は同じようなものだろうと思っていた。

その結果だが、ブドヨ公演の時はプレスリリースを見た芸術制作団体が記者会見の場を設けてくれた。コンパス紙は公演練習の取材に来てくれたし、地元のFMにラジオ出演もした。最終的に計19回、新聞や全国誌に公演情報から公演評まで掲載され、公演後に全国放送のテレビ番組にも呼ばれた。ところが、その半年前のスリンピ公演の時には、メディアには全く取り上げてもらえなかった。同じようにプレスリリースしたのに…。しかし、ブドヨ公演の後で知り合った記者たちがブドヨは儀礼舞踊だから…と言うのを聞いて、私も悟ったのだ。

ブドヨとスリンピは並べて言及されることが多く、振付もあまり違わない。ブドヨがスリンピに、スリンピがブドヨに改訂されることも少なからずある。スリンピであれブドヨであれ、私にとっては現在ほとんど上演されない長いバージョンを復興することに意義があるのだが、記者たちにとっては違った。ブドヨは報道すべき価値のある儀礼舞踊だが、スリンピはそうではなかったのである。確かに、歴史的にはブドヨの方が古く、スリンピの方がより新しい形式である。特に、スラカルタ王家には即位記念日にのみ上演されるブドヨの演目があって、ジャワの王家の祖が南海の海で女神とあって結婚し、王権を得たという神話を描いている(ただし同じブドヨでも他の作品にはそのような意味ははない)。だから、ブドヨ=儀礼という観念はジャワ人には――特に文化記者たちには――馴染みのあるものなのだ。スリンピも宮廷儀礼として説明されることが多いはずだが、ブドヨの方がより定着していたということだろう。このスリンピとブドヨの公演のメディア掲載数の差は、「儀礼」という語が持つ集客力を表しているように見える。

こんな経験をしているので、儀礼というレッテルは、人々の見たいという欲望をかきたて、見世物としての価値を高めるものだと思わずにいられない。それは相撲協会だけでなく、他の伝統儀礼にも多かれ少なかれ言えることでもある。


参考映像 
スリンピ公演 https://www.youtube.com/watch?v=5OTPv6ZwzVE&feature=youtu.be
ブドヨ公演 https://vimeo.com/41615605