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2006.03水牛「ここ10年のインドネシアと日本(2)電話」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年3月号『水牛』寄稿
「ここ10年のインドネシアと日本(2)電話」
冨岡三智

1度目の留学から1年半をおいて同じ町に留学してみたら、電話事情も大幅に変わってしまっていた。携帯電話やインターネットが普及し始めていただけでなく、従来のワルテル(ミニ電話局)より小規模の公衆電話があちこちに出来ていたのだ。電話回線の整備が遅れており、電話がない家もまだある割には、通信事情は格段に良くなった。というわけで今回は、私の生活圏での電話事情がどう変わったのかについて書いてみよう。

  ・家庭の電話

私は2度の留学とも市役所の裏に、電話のある1軒家を借りた。電話付というのが私の譲れない条件だったのだが、しかしこれは結構大変だった。町の中心部でも電話がない物件がいっぱいあるのである。全部で合計20軒くらいの貸し家(どれも街中)を見て廻ったけれど、電話のある家は私が借りた家以外になかったように思う。

電話回線の整備が追いついていないとは言っても、電話が確実に増えているのは確かだ。1度目の留学の間――1996年から1997年頃――に電話番号の桁数が1つ増えて6桁になった。スラカルタ市内の電話番号は冒頭に6が、郊外では8がついた。当時電話局に貼ってあったポスターによると、この電話回線の普及にも各国の援助が入っていて、ブロック毎にそれぞれの国の管轄があった。確かジャワ島ブロックは日本(NTT)の管轄だったように思う。

  ・ワルテル

ワルテルというのはミニ電話局のことで、1980年代後半からインドネシア全土に広まったという。中央電話局同様に、そこにある電話ブース(3台くらいある)から電話をかけたり、ファックスを送受信したりしてもらえる。しかし電話料金の支払いはできない。電話機に料金が表示され、その代金を窓口で支払うというシステムだから、おつりももらえてコイン式やカード式の公衆電話よりずっと便利だ。

私が初めてインドネシアのソロに行った1989年3月、日本に電話をかけたいと言うと中央電話局に連れて行かれた。この時点では、1992年以降よく利用することになるワルテルはまだなかったように記憶する。で、中央電話局ではと言うと、まずオペレーターに電話をかけてもらい、「○○さん、△番のブースへどうぞ~」と呼ばれて初めて電話口に出ることができる、というシステムだった。国際電話だけがこうだったのではなく、国内電話でも同様である。それが1992年2月にはすでに、パサール・ポンにワルテルが登場し、自分でダイアルして電話をかけられるようになっていた。インドネシア全土にワルテルが広まったのは、きっと「自分でダイアル式」になってからのことに違いない。

現在ではそういう老舗ワルテルだけでなく、店や下宿などの一角にブースを作って電話機1台を置いているだけ、というタイプがそこここにある。これらが広まったのは、1998年の暴動の時にコイン/カード式公衆電話が多く焼かれたからだ、と聞いた。こういうワルテルの料金は老舗ワルテルに比べて高く、かつ値段にばらつきがある。(端数は決まって切り上げられる。)また職員についても、老舗ワルテルの場合はたぶん電話局の職員だ(まだ聞いてないけれど、ワルテル間で異動があるという話は聞いたことがある)。しかし新しいワルテルの職員(お金を取る人)は、明らかにその店や下宿のオーナーである。

ちなみに、こういう新しいワルテルの電話機はモジュール・ジャック仕様になっているから、嫌がられること請け合いだが、インターネットにつなぐことができる。老舗ワルテルの電話機はしっかりした箱型で、回線も太くて抜けない。

  ・携帯電話

これも暴動後に急速に普及した。最初の留学(~1998年5月)では、私の知る芸大の先生たちはまだ携帯電話を持っていなかった。それが2000年2月に戻ってきたらぼつぼつ携帯電話を持つ先生がおり、その後の3年の内に、ほぼ皆が持っているくらいに普及してしまった。この頃は、「○○先生はあの研究プロジェクト予算(教育省からおりる)で携帯電話を買った」というような話を、学生達から時々耳にした。研究経費を浮かせてその分を携帯電話にまわしていたらしい。

そして今では芸大学生や留学生の多くも携帯電話を持っている。暇があるとSMS(メール通信のようなもの、ただしインターネット経由ではない)を打っている光景も日本と変わらない。このジャム・カレット(ゴムのように伸び縮みする時間の意)のお国では、相手が約束を忘れているのか、遅刻しているだけなのかわからないまま悶々・イライラと人を待つことが昔はよくあったけれど、そんな文化ももうなくなるだろうという気がする。
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2006.02水牛「ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年2月号『水牛』寄稿
ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり  
冨岡三智

日本の年末年始には、越し方行く末を考えさせてしまう何かがある。久しぶりにしみじみと年末年始を満喫していて、ふと、ここ10年くらいのインドネシアや日本の暮らしの変わり様を振り返ってみようと思いついた。この間2~3年おきに日本とインドネシアを行き来していると、その度にそれぞれの国が大きく変化したなあと意識せざるをえなかった。ずっと日本にいれば、あるいはずっとインドネシアにいれば、おそらくそういう気づきも日常生活の中で風化してしまったかも知れない。というわけで、まず今回はスハルト時代とその後の変化について気づいた点あたりから始めよう。

念のため書いておくと、私は1996年~1998年5月と、2000年~2003年にインドネシアのソロ(正称はスラカルタ)に留学している。1回目の留学はスハルト大統領時代の末期で、1998年5月に帰国した直後に全国的な暴動になってスハルト退陣につながった。そして2回目の留学はワヒド大統領からメガワティ大統領―スカルノ元大統領の娘―の時代にあたる。

     ●

2回目に留学したとき、スハルト時代は終わったんだなあと感じたことがいくつかあった。その1つが警察での質問事項である。留学すると警察にも出向き、外人登録をする。その時に細かくいろんなことを聞かれるのだが、2回目の留学では外れていた項目が1つだけあった。それは「1965年9月30日に、あなたはどこにいて何をしていましたか?」という質問である。

この日の出来事は後に9月30日事件と呼ばれる。これをきっかけにスハルトが台頭し、スカルノに取って代わって大統領になった。そして事件に関与しているとされた共産党シンパが数10万人粛清され、1998年の暴動の時のように多くのチナ(華人)が襲われた。スハルト政権下では、この事件に関与していた疑いがあれば(本人だけでなく身内でも)インドネシア人なら絶対公務員になれなかったし、外人なら入国拒否された。

だからこの質問は踏み絵の儀式なのだ。その証拠に、生年月日を見れば私がその時にまだ生まれていなかったことは明らかなのに、わざわざ質問して私に答えさせる。私が「まだ生まれてませんでした」と答えると、やおら書類にその返事を書き込む。他の項目だと、こっちが答えるより先に一人合点して書類に書き込んでいくことも多いくせに(人の話をちゃんと最後まで聞かないインドネシア人は多い)。

2回目に留学した時にはその質問がなくなっていたので、「あの『9月30日に~』の質問はしないのですか」と、わざと聞いてみた。そうしたら「もう、なくなりました」で終わりである。「へー、いつから?」と突っ込んでも良かったのだが、警察でそこまで悪ノリするのはやめた。

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またスハルト時代には、役所や公立の機関では毎週月曜と毎月17日(インドネシアの独立記念日が8月17日なので)の始業前に集会があった。そういう所にはメインの庁舎の前に芝生を植えた円形広場があり、広場の中央には国旗掲揚台があって、そこで集会をするのである。そしてこの日は職員全員グレーの公務員服を着てこないといけない。

私は2回の留学とも市役所の裏に住んでいた。朝7時半に始まる1時間目の授業に出ようと思うと、市役所の前を7時前に通る。月曜のその時間帯には、公務員服を着た市役所職員がこの広場いっぱいに出ていたことを思い出す。

事情は芸大(国立大学だから職員や教員はみな公務員)でも同じである。ただ、いかんせん芸術系の学校ゆえ、まじめでない先生も多かった。それも音楽科よりも舞踊科に。音楽科では月曜や17日の公務員服の着用率はまあまあ高くて、今日は月曜日とかいうことが視覚的に分かったが、舞踊科ではそれはあまり分からなかった。

ある月曜日、私はちょっと早めに芸大に行って、集会の様子を見てみようと思った。大学に着くと集会はもう始まっていて、広場に入る正門も閉められている。ふと横を見ると、舞踊科の先生達がいる。「いや~遅刻してね~。まだ中に入れないね~」と私に弁解していたが、それ以前に公務員服を着ていない。はじめから集会に入るつもりはなかったんだろう。けれど、こんな不まじめさの方が健全だなという気もしていた。

こういう儀礼に気づいたのは1回目の留学早々である。入管に行った日がたまたま17日で、朝8時から入口は開いているのに、9時半頃まで職員が誰も出てこなかったのだ。頭にきて警備員に問いただすと、今日は17日の集会だからね、という答え。その言葉は黄門さまの印篭に似て、有無を言わせない。

それが2回目の留学では、17日にも入管に行かざるを得なくなったけれど、集会はやっていなかった。市役所での月曜の集会も全然見ないし、芸大でも月曜に制服を着ている先生もいない。それで念のため芸大の先生達に確認してみたら、やっぱり集会はスハルト退陣後になくなったということだった。

そしてそれがなくなってみると、日々の雰囲気も少し変わったなとあらためて感じる。特定の日に公務員服があふれるという風景は、今にして思えば妙に儀礼的で、硬直した雰囲気がつきまとっていた。あれはやっぱりスハルトへの忠誠を誓う儀式以外の何物でもなかった。だからこそ、スハルトが退陣してしまうと簡単に止めてしまえるのだ。「もう伝統になっているから今後も続けましょう」なんて誰も言い出さなかったのだろう。

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スハルト時代と言えば、ゴルカル党の黄色を思い出す。この時代の政府系イベントでは、何かというとしつこく黄色を使った。

上で公務員服のことを書いたが、あれも正式の行事の場合は中に黄色いシャツを着なくてはいけないようだ。これは芸大の公務員達だけの式典(趣旨は忘れた。生徒は入れない)の通達で知った。そこには、公務員服ならびにその下にゴルカルの黄シャツを着用すべしという条件が書いてあって、着用していなければ中に入れないことや、黄シャツがない人は新たに購入すべしということも付記されていた。

そしてテレビ中継される国家行事などでは、前の方の席にずらりと陣取る人達――議員か閣僚か――が皆黄色い背広を着て映っていたことを思い出す。日本で黄色い背広を着るのは漫才師くらいだから、このインドネシアの偉いさんの光景はとても奇妙な感じがしたものだ。そしてその一方、偉いさん達の前で繰り広げられる舞台の衣装にも黄色の割合が高い。

たとえば、確か1997年のハリ・イブ(母の日)の行事もそうだった。故・スハルト夫人の故郷・カランアニャル(ソロ郊外)でスハルト臨席のもと行われた時、ソロの芸大に女性舞踊を出すよう指示がきた。その時は60何人かの踊り手がいて(60何回目かのハリ・イブだったから)ガンビョンを提供したのだが、衣装の上着は全員黄色だった。

またソロでは、スハルト時代は毎年の独立記念日や正月に市役所でワヤン(影絵)があったのだが、その時も、伝統衣装に身を包むダラン(影絵操者)も演奏家も決まって黄色い上着を着ていた。

こんな風に、色でアピールするというのは素朴だけれど効果的だ。ゴルカルが行事を主催しているということが、何のナレーションがなくても、遠くからでも、そして子供にも一目瞭然に分かる。

時は流れて2002年の12月、暴動時ではなかったが焼失したソロの市役所が再建され、そのオープニングがメガワティ大統領を迎えて行われることになった。近所のことゆえ私はのこのこと市役所の門の前に行って、塀の外から中の様子を見ていた。そうしたら接待係の人達のクバヤ(伝統衣装の上着)がみんな真っ赤(メガワティの政党の色)だったのだ。それを見たとたん、ああメガワティの時代に変わったんだなと強く実感したことだった。スハルト時代なら、あの人達はみな黄色いクバヤに身を包んでいたはずだから。スハルト色を払拭するのなんてこんなに簡単だったんだと、以前を知る者は拍子抜けしてしまう。

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そしてスハルト後を強く印象づけるのがチナ(華人)文化の解禁だ。2000年2月に再留学してすぐ、ソロでも中国雑伎ショーがあって、芸大の舞踊科でも結構話題になった。また各種イベントにバロンサイ(獅子)やリヨン(竜舞)が決まって登場するようにもなった。こういうものは9月30日事件以降禁止されていたから、1回目の留学では全く目にすることがなかった。いったい、この巨大なバロンサイや竜はいつインドネシアに運びこまれたのだろう。そしてチナの子弟達は、どこで、どうやって練習していたのだろう、指導者はどこから呼んだのだろうか、などと考えてしまう。

チナの人達が祝う旧正月も、2002年は暫定的に、そして2003年からは正式に祝日になった。この日、バロンサイがスラマット・リヤディ大通り沿いの店々(オーナーはたいていチナ)を獅子舞して廻ったという。そしてデパートやスーパーでは旧正月用品の売り出しが華やかに行われた。食品のパッケージやグリーティングカードはどれも赤色で、そこに金色でめでたい文句の漢字が書いてある。

1998年末から経済危機がひどくなり、暴動が発生するようになると、多くのチナ系の人達が略奪・暴行の目に遭った。本当はソロはかなり荒れた所だ。もっともその一番荒れた時期に私は日本にいた。それでも一触即発の雰囲気になるまでの様子は知っている。1998年の旧正月は、表立って祝うのが危ないとチナ系の人達は自粛していた。
私達日本人の方にも、チナに間違われて襲われるかもしれない、インドネシア人には日本人とチナの顔の区別はつかないだろうし……、という恐れがあった。そんな空気を体感していただけに、こんなに派手に旧正月用品の売り出したり、チナでない一般のインドネシア人も「旧正月おめでとう」と挨拶したりする日がくるなんて、当時は想像できなかった。

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最後にスハルト時代の終わりにとどめを刺すのが、スハルトの肖像が描かれた5万ルピア札(当時の最高額紙幣)が消えたことだ。それは2000年8月のことで、それだけではなく全紙幣のデザインが刷新された。偽札が増えてきたからというのが表向きの理由だったが、スハルト紙幣の登場は他の紙幣デザインに比べてそんなに古いことではない。歴史的には独裁者が自分の肖像紙幣を発行するようになるとその政権も末期らしいが、それはまさにスハルトにも当てはまっている。
2006.01水牛アーカイブ「年末年始の時間~赤穂浪士からとんどまで」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

昨年9月に2005年12月号をアップして以来、取り紛れてしばらくアップできていませんでしたが、再開します。水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。




年末年始の時間~赤穂浪士からとんどまで

年の瀬の追われるようにあわただしい雰囲気の中を駆け抜け、新年に突入してぼーっとする、という日本の年末年始の雰囲気が私は好きだ。

インドネシアでは西洋暦の正月だけでなく、ジャワ・イスラム暦正月、ヒンズー暦正月(ニュピ)に太陰暦正月(スハルト政権が倒れてから祝日に加えられた。中華系の人たちが祝う)が祝日になっている。ジャワで一般の人たちが一番盛大に祝うのはイスラム暦正月だ。宮廷行事や年忌法要、80歳のお祝いなんかはこの暦に従う。また兄弟姉妹が同じ年には結婚式を挙げないという時の暦もジャワ暦で、生活には西洋暦よりもジャワ暦の方が重要だ。

それでもジャワ暦も西洋暦も、大晦日を寝ずに過ごして翌朝の元旦を迎える点は日本の(かつての)正月と同じだ。ジャワだと通りのあちこちで紙製のラッパが売られ、ラッパを鳴らしたり爆竹を鳴らしたりしてにぎやかに大晦日を過ごす。市役所や劇場なんかではワヤン(影絵)や特別豪華版の舞踊劇が催されて人々でいっぱいになる。

ただどちらにしろ、ジャワには大晦日から正月への移行はあっても年の瀬がないという気がしてならない。1年がもうすぐ終わるという追い立てられるような気持ちにならないのだ。旧い年の残りの日々をカウントダウンして、大掃除をして、旧いことは忘れて(忘年)ご破算にして、まっさらの1年に更新しようという気持ちが、ジャワでは沸いてこなかった。暦がたくさんあるのもその一因かも知れない。各正月が巡るごとに追い立てられてはたまらない。あるいは、雨季と乾季のサイクルで巡る国では、時は循環しても前進しないのかも知れない。逆に四季がある日本では、時は循環するにしろ、春から夏を経て秋、冬へとゴールに向かって直線的に進む部分もあるのかも知れない。

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唐突ながら、年の瀬の感を強くするのが赤穂浪士ものの番組だ。日本人は(もちろん私自身も)なんで赤穂浪士の話が好きなのだろう。それはきっと、年末に達成感やこれでおしまい!という気持ちを刺激してくれるからなのだ。12月14日という日も良い。これが暖かく眠気を催す春先だとか、蚊の多い夏だとかだと、討ち入りの悲壮さに欠けてしまって共感できないかも知れない。それに1年の先はまだ長いから、これですべて終わったという心持ちにもなりにくい。やはり寒くなってからがいい。かといって、大晦日近くの本当に忙しい時に討ち入られてもはた迷惑な気がする。正月準備に取り掛かる事始めの日(12月13日)を迎え、なんだか気ぜわしくなってきたところに討ち入りだと、良かった良かった、浪士も本懐を遂げたし、私もこれであとは大掃除と年賀状を出せばおしまい…という気持ちにはずみがつくのだ。

ところで、早や昨年となった12月の始め頃に、赤穂浪士の講談を聞く機会があった。それも別注ネタである。注文主は討ち入り後の赤穂浪士のお預け先となったお家の1つの末裔の方である。そのお家は赤穂浪士へのもてなしがあまり良くなかったと言われているのを口惜しく思い、「大変結構にもてなした」というお話にしてほしいと注文されたのだ。会場はそのお家敷で、八畳座敷を二間続きで使い、床の間を背にした講釈師の前に、その末裔の一家(子や孫も含め)と友人たちの20人足らずが座っている。こんなアットホームな会場に呼ばれたのは初めてですと講釈師も言っていたけれど、こんな風に自宅に芸人を呼んで楽しむのは、現在の日本ではほとんど見られないだろう。今ではなんでも劇場芸術になってしまい、個人がチケットを買って入場するというのが普通だ。このお宅で講談を聞いていると、ジャワの個人宅で催される音楽会だとか影絵だとかを思い出す。ジャワではまだこんな楽しみ方が廃れていない。

それはともかく、昔はある講談を本にするとなると、ネタに関係する大名家などに本をまとめて買い上げてもらいに行ったという。そこで値切られたりすると、講釈師は講談の中でその大名家のことを散々悪く言って恨みを晴らしたらしいのだ。そのために、たとえば蜂須賀家は泥棒呼ばわりされる破目になったという。だから今回別注ネタを注文したお家も、もしかしたらご先祖が協賛金をケチったのかも知れない。そんなことを講談終了後に講釈師が話してくれた。

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こうしてめでたく正月を迎えるのだが、年の瀬がないのと同様、ジャワには正月の時間の長さもない気がする。翌朝は確かに前日よりも静かで、道路には一晩寝ずに騒いだ人たちのラッパやらゴミやらが静かに散乱している。けれど、正月はそれで終わりなのだ。特別にごちそうを食べることもないし、その日の昼からはもう普通の生活に戻ってしまう。

けれど日本でのお正月は松の内の間中続いている。その間に学校や会社は始まっているにしろ、正月気分というのは何となく残っている。松の内の最後の1月15日の夜に青竹を高さ3mくらいに組んで燃やし、正月飾りをその火で燃やす。それがとんどだ。私の地域(奈良県)ではとんどと呼ぶが、他にどんど焼きとか左義長とも呼ばれる。この時、書き初めも一緒に燃やし、それが空高く上がると書道の腕が上達すると言われている。県下には大勢の観光客が見に来るような有名な由緒あるとんどもあるけれど、どの地域でも田圃や広場で普通にやっている(と思う)。

子供の頃はとんどを心待ちにしていた。誰が始めたのか、とんどの夜にかくれんぼして遊ぶという習慣があったのだ。大体中学に上がる頃までそうやって遊んでいた。親も公認で、この日は夜遅くまで遊んでいても叱られなかった。とんどに点火される夜8時頃、子供たちは懐中電灯持参で集まる。しばらくは火に当たりながら書き初めの上がる高さを競い合ったりしているけれど、そのうちかくれんぼになる。思いがけない所、たとえば葉が落ちて裸になった柿の木の上なんかが、夜には立派な隠れ場所になるのが楽しかったものだ。今になって思えば、これでお正月も終わりという気分が子供の側にも強くあったような気がする。夜のかくれんぼは1年に1度、とんどの夜だけの楽しみであった。過ぎ行く正月の最後の夜だからこそ、あんなに時間を惜しんで遊んだのだろう。

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今では松の内の語も7日までを指し、百貨店は2日から営業している。年末の大掃除やお節料理づくりも大層なことはしなくなっている。それでもお正月をはさんで年の瀬、松の内という時間の移り変わりがあることが、私には嬉しい。正月は時間軸上のデジタルな点として存在するのでなくて、旧い年から徐々に新しい年に脱皮して生まれ変わるその時間の幅に存在していてほしい。
2005.12水牛アーカイブ「男性群像の魅力」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年12月号
男性群像の魅力


先日能の「安宅」を見ていて、男性ばかりがぞろぞろと出てくる能なんだなあとあらためて気がついた。たぶん平均的な観客として私は、能といえば、死者の亡霊や化身が出てきて昔を今に語る、いわゆる夢幻能が好きである。さらに面をつけた優美な女性が登場して舞うような能の方が、やはり見ていて美しい。というわけで、今まで安宅のような現在能(現実の世界を描く能)でかつ面をつけない壮年の男性が出てくる演目には食指が動かなかった。それに、勧進帳の話ならば歌舞伎の演出の方がきっと面白い、という先入観もあった。文楽やテレビの時代劇の勧進帳のシーンも、能ではなく歌舞伎を基にしているようである。これらでは弁慶を中心にして、弁慶と富樫、弁慶と義経というヒーロー同士の対決・葛藤にスポットが当てられ、3者の個性の違いがクローズアップされる。ヒーローに感情移入して舞台を見る観客としては、こんな風に物語が集約されるのはまことに都合が良い。その代わり、他にいるはずの山伏の存在は省略されるかほとんど描かれない。

それが「安宅」では一行として弁慶と義経(子役が務める)以外に9人の男性(同山)が登場する。一行が最初舞台に登場し、2列に立って全員正面を向いたり互いに向き合ったりして謡う場面では、その嵩高さと密度、全員の声の厚みに圧倒される。そういえばこれだけの人数が能舞台に載るような演目は見たことがなかった。またその後弁慶が舞台中央に位置し、同山達が舞台に一重に弧を描くように座る時に、一端観客に背を向けたあと端から順に1人ずつ正面に向き直るシーン、また山伏一行が通行を許され弁慶を先頭に急ぎ足で舞台から橋掛かりまで移動するシーン、それが義経が止められたために弁慶以下が舞台に引き返し富樫に迫るシーンなどは、まさに息を呑む勢いとスピードと迫力で展開される。ここでは主役・弁慶とその背景を成すその他大勢という構図ではなくて、巨大なエネルギーの総体が弁慶という人格に具現化されたような感がある。弁慶はそのうごめくエネルギーに突き動かされている。私には弁慶も同山も現実の人間とは見えないのだ。台本が書かれた時点での意図はともかく、能における弁慶は、歌舞伎なんかで描かれるような人間ばなれした人間のヒーローではなくて、人間を超えた存在になっていると思う。もっともそれはシテに表現力があるからこそ可能なのだが。

ここでふと、ジャワで男性によるブドヨを見た時のことを思い出す。ブドヨとは女性9人が同じ衣装を着て同じ振付を舞う宮廷舞踊のことだが、ジョグジャカルタ宮廷ではかつて男性がブドヨを舞っていたことがあるといい、それを再現してみる公演があったのである。この時は踊り手の男性は皆女装していたのだが、その時につくづく、同じ衣装で9人並ぶのでも、女性9人と男性9人とでは印象がかなり異なると痛感した。私はブドヨを見ながらも実は、昔見た「八甲田山」という映画の雪中行軍のシーンを思い出していた。女性なら舞台を滑るように移動すると見えるところが、男性だと行軍に見えてしまう。女性群舞が展開されている時は空間は水平にも垂直にも広がりが感じられるのに、男性群舞だと空間が詰まって息苦しく感じられる。

またボリショイ・バレエ(ソ連時代)の作品で「スパルタクス」というのがあった。細かい点は忘れたが、男性群舞が中心になった作品だったと覚えている。見た当時は子供心に男ばっかりで息が詰まりそうだと思ったが、今になるともう一度見てみたい気がする。

こういう嵩高さ、圧迫感は成人男性ならではの魅力だ。それが群舞になると増幅される。量は質に転化する。見目麗しい女性や美少年らによる群舞では、こういう重たい充満した運動エネルギーを表現することは無理だ。ただ舞踊では華やかさの方が受けるのも事実で、観客の方にもある程度の鑑賞歴がないと、男性群舞はむさ苦しくて暑苦しいだけと思ってしまうように思う。私も男性の群舞が面白いと思えるようになったのは最近のことである。
2005.11水牛アーカイブ「プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その2」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年11月号
プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その2


さて、スマトラ島のリアウ州にあるプカンバル市では私の舞踊がどんな風にとらえられたのだろう。参加者の中で外人らしい外人だったのは私だけだったので、それで注目してもらえたというのは幸運であった。それにインドネシア語でインタビューを受けることができる、というのも良かったのだろう。(英語が話せそうな記者はいなかったから。)私にしても、丁寧なインタビューをしてもらえ、自分の考えをまとまって話せたことは幸いであった。

最初に私の作品について説明しておくと、私のベースはジャワのソロ様式の舞踊で、曲はソロの音楽家に委嘱した。伝統曲と新しく作曲したものが混じっているが、新しい部分も伝統音楽の語法で作曲されている。作品のタイトルは「ON-YO」(陰陽)で、冒頭の歌では古事記のイザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みのシーンのテキストを使っている。宇宙が混沌から分離生成し死んでいくまでの過程、人の生から死への過程、人と神との合一に至るまでの過程などのイメージを重ね合わせている。

2005 on-yo by zainuddin Boy
写真:Zainuddin Boy

日本語のテキストを混ぜて使っていることは意外だったのか、そのことに言及した評が多かった。実はこれは作曲家のアイデアで、私が意図したことではない。彼はジャワ語と違う日本語の音(オン)の響きを使ってみたく、一部に日本語の詩を入れたいと言ってきたので、それなら冒頭に古事記のそのシーンを使おうと、ひらめいたのだ。私としてはその国生みのイメージを宇宙の始まりのイメージに重ねただけで、あとの歌詞は全部ジャワ語である。ところが、プカンバルの人ならジャワ語のテキストの意味も分からないだろうと思うのだが、それについては全然質問されなかった。日本語の方により意味があると思われたのかもしれない。

ジャワの伝統曲やジャワ語の歌詞を使っていることに対しては、1人(+α)だけ否定的な意見を言った人がいた。スマトラから出演しているグループの音楽家(+その友達)だ。彼は私に、なぜ日本の曲を使わないのか、音楽は自分のアイデンティティと切れないものだから、自分は絶対に出身の地域の楽器と言語にこだわる、と言う。この人は実は全然知らない人ではない。スマトラにある国立芸大の先生だが、私の留学中にソロの芸大・大学院で修士を取っていた。私がソロの芸大・大学院でジャワの伝統舞踊を踊っているのも見ているのだし、それに彼自身も出身地でない地域で勉強するという経験をしているのだから、ジャワの舞踊も私のアイデンティティの一部だと思ってほしかったな、と正直思う。

記者の人や一般の人(ジャワ人以外)からは、「なぜジャワ舞踊をベースにしたのか?」という質問がよくあった。これは今回に限らずよく受ける質問なのだが、質問者が日本人とインドネシア人では少しニュアンスが異なる。日本人の場合は「日本人なのに、なぜ外国の舞踊を選ぶのか?」という意味で質問をしてくる(でも、バレエをやっている人に同じ質問はしないみたいだ)が、インドネシア人だと「インドネシア舞踊の中でもいろいろあるのに、なぜジャワの舞踊を選んだのか?」という意味になることが多い。芸術系の学校や舞踊団体で舞踊を勉強している人は特にそうである。というのは、そういう所ではその地域の舞踊を中心に他地域の舞踊もいろいろと学ぶからだ。いろんな地域の舞踊ができるとインドネシアでは舞踊家としてのチャンスも広がり、また創作にも役に立つ。だから、インドネシアの芸大に留学していろいろ習っただろうに、なぜその中でジャワ舞踊だけを選んだのかと彼らは思うらしい。

さてジャワ人の反応だが、スタッフも参加者も大体知っている人が多かったので、「なぜジャワ舞踊をベースにしたのか?」ということは誰も聞かなかった。しかし作品のジャワ語の歌詞や伝統曲の用い方に敏感に反応する。その1つの感想が、振付が音楽に付き過ぎているというものだ。確かに私は音楽の様式やメロディーを振付では重視する。

ジャワの伝統舞踊では音楽の構成と振付と歌詞が一体化しているのが特徴だ。けれど1970年代にソロで行われていた伝統舞踊改革(PKJTプロジェクト)では、音楽の構造と振付の連関はあまり重視されなかった。(敢えて壊したという側面もある。)またコンテンポラリ舞踊の音楽ということになると、伝統楽器をフル編成の形で使わないという方向に進んでいるようだ。それで楽器なしで踊り手自身が伝統的な詩を歌いながら、あるいは音楽家が詩を歌うのを背景に、踊るということをよくやる。これはインドネシア初のコンテンポラリ舞踊とされるサルドノ・クスモの「サムギタ」(1969年)で既に見られるやり方だ。

私としてはフリーリズムの詩にのせて踊るにも限界があると思っているから、いろんなガムラン音楽の形式を使用したし、伝統的な音楽形式で作曲してもらったけれど、音楽に付き過ぎるのは古いという先入観がジャワ人の間にはあったと思う。そのくせ、振付が歌詞の意味に対応していないと言う人はジャワ人に多かった。

確かに私は振付を歌詞に付け過ぎるのは嫌な性質だ。だから歌詞全体の大体の意味と雰囲気は考慮するけれど、個々の単語の意味に対応するような振付をしようとは初めから思ったことがなかった。おそらく私がジャワ語に精通していても、そういう振付の仕方はしないだろう。それが、ジャワ人から見ると、日本人でジャワ文化への理解が足りないために振付と歌詞の対応まで思い至らない、と見えるらしい。

これらの2点は音楽や歌詞をどの程度まで振付に反映させるのかという問題だ。本当はジャワ人の間でも振付に対する考え方や個人の嗜好によってその程度はいろいろなのだが、こういう見本市のような場になると、どうしても私個人の解釈とは思ってもらえずに、「ジャワ人と違う日本人としての解釈」だと思われてしまう。
2005.10水牛アーカイブ「プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その1」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

※2005年9月号には寄稿していません。




『水牛』2005年10月号
プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その1


8月24日~26日に、インドネシアはスマトラ島にあるリアウ州・プカンバル市で行われた第4回コンテンポラリ舞踊見本市(Pasar Tari Kontemporer)が開催された。私も招待されて作品を上演してきたので、今月はこの見本市を紹介しよう。本当は先月号用にとこの原稿を書いていたのに、インターネット・カフェのコンピュータはなぜか原稿の入ったフロッピーを受け付けてくれず、挙句にはコンピュータの方が壊れてしまった。断じて私のせいじゃない!と思いつつ、送れなくて残念であった。

プカンバルというのはリアウ州の州都で、人口100万人くらいの石油商業都市であり、カルテックス石油の本社がある。地理的にはスマトラ島の中部東側にあって、シンガポールから近い。最近インドネシア政府はバンカ島に次いでリアウ州への経済投資を熱心に呼びかけているらしい。6車線のまっすぐに延びる幹線道路沿いに、市役所や銀行、州の各種機関、今回の会場なんかが並んでいる。

会場のBandar Seni Raja Ali Haji(アリハジ王芸術センター)は州立のタマン・ブダヤ(アート・センター)※とは別の組織で、州の芸術文化の中心になっているみたいだ。広大な敷地に、リアウ州の各カブパテン(県)の伝統的な家屋が再現されていたり、リアウ州芸術家会議の事務所やリアウ・ムラユ芸術アカデミーがあったり、ギャラリーや各種スタジオなどが点在していたりする。今回の見本市を主催するYayasan Laksmana(ラクスマナ財団)もここに拠点を構える。ただ劇場だけはまだ建設中(2006年完成予定)で、見本市は仮設の野外舞台で行われた。この劇場は、完成すると、ジャカルタ芸術劇場(GKJ)をしのぐインドネシア最大の劇場になるらしい。

(※インドネシアでは1980年代から1990年代にかけて全州にタマン・ブダヤが設置され、州の文化活動の中心となっている。)

この野外仮設舞台というのは舞踊にはあまりふさわしくなかった。人の背丈ほどの高さの舞台で、観客は数十メートル離れた所から見上げるように舞台を見るようにしている。2日前にここでロックコンサートがあったらしく、予算の都合でその設備をそのまま使ったらしい。客席からは舞台の奥行きが全然感じられず、床面も全く見えない。それだけでなく、本番直前になって舞台の両脇にスクリーンが現れた。主催者は動きの細部が見えるように設置したと説明していたけれど、そうであれば観客席と舞台を近づけるべきだ。舞踊というのは踊り手が観客の反応を受け、観客が踊り手の息遣いを直に感じ取るところに成立するもののはずなのに。ただでさえ舞台は遠く、これでは野外でテレビを見ているようなものだ。と言ってみても、このスクリーンはスポンサーのTELKOMSELが提供していたから、主催者は嫌でも断れなかったに違いない。

出演者は全部で18組である。地元のプカンバルからも3組出るのは、この地域の現代舞踊のレベル向上のためだということだ。残りの15組のうち外人はシンガポールから2組、日本から私の合計3組。ただ外人と言ってもシンガポールの2組はどちらもマレー系、私もインドネシア語を話すから、共通語はインドネシア語(マレー語)である。なんだかマレー系民族の祭典に見えないこともない。私は一応外人であるものの、STSI(インドネシア国立芸術大学)ソロ校で合計5年間学んでいてジャワ宮廷舞踊をベースにしているから、気分的にはソロ出身である。だから私の関心や不安は、自分の舞踊がジャワのコンテキストを離れたところでどのように評価されるのか、という点にあった。この点については後で触れる。そして国内組の出演者の内訳は、同じスマトラ島内ではアチェ、メダン、パダンパンジャン(2組)から計4組、カリマンタン島(ボルネオ島)から1組、ジャワ島はジャカルタ、ソロ(2組、2組ともSTSIソロ校の卒業生)、ジョグジャカルタ、スラバヤ、マランの6組、バリ島から1組、となっている。

18組のうち、I Nyoman Sura(バリ)、Sianne(スラバヤ)、私の3人がソロ(単独)で踊った。I Nyomanは先月号、先々月号で書いたIPAM(インドネシア舞台芸術見本市)に出演していて、なんとなく私と関心のあり方や趣味が似ているなあと思っていたら、今回の公演ではお互いのテーマはほぼ同じだった。簡単に言えば、人が生まれてから死ぬまでのプロセスをテーマにしている。でも彼と私とでは表現の仕方は大きく違う。私が初日、彼が2日目の公演で、初日の私の上演が終わったときに彼から「テーマが同じなんで違う日で良かった。けれど同じ日に公演しても、お互いに表現が違うから面白かったかも知れない」と言われた。彼の舞踊にはバリ舞踊の、あの骨や筋肉の緊張感、時間の緩急が感じられる。どちらも私にはないものだ。

Sianneは中国系で、バレエの他(スラバヤではバレエのグループはたくさんあるらしい)、中国とインドネシアの伝統舞踊もベースにしている。彼女は尺八の曲を使って上演した。彼女の舞踊は、ジャワ舞踊ほど大地にひっついていなくて、でもロマンチックバレエよりも低い所を滑らかに浮遊していくような感じだ。赤い扇子を使っていたけれど、単に中国風に見えなかったところがいい。どうも彼女は赤い色が好きらしく、毎日赤いTシャツを着ていた。ちなみに彼女は最終日のSukarji SrimanI(ジャカルタ)の作品にも出演している。 NyomanもSianneも、静かでとても強い存在感を持っている。私自身は、舞踊には何よりも個人の存在感を重視する性質なので、やっぱりこの2人に魅かれた。

この2人は2日目の公演だったのだが、惜しかったのは2日目に大雨になったこと。観客が皆屋根のあるところに避難したから、観客席はさらに遠くなり、激しい雨音に観客の集中力は遮られがちになった。それでも2人の上演には魅きつけられるものがあった。また舞台の後ろは幕がなくて(開始前の話では黒幕があるということだったが)、背後に大きな木が見えている。Sianneの時には木にライトが当てられ、その向こうに何度も稲光が光るのが見えたのが、私には思いがけず効果があったように思う。神秘的な映像を見ている気がした。

カリマンタンのHariyansaの作品の中に、彼が単独で伝統的な男性シャーマンの舞踊をベースにした旋回舞踊を踊るシーンがある。そのシーンでの彼はとても存在感があった。本来は強いアルコールを飲み、半トランスになって病気治癒のために踊るというこの舞踊には、森の精が踊っているような雰囲気が感じられた。けれど作品全体の出来はいま一つだった。彼以外の4人の群舞の踊り手は高校生から大学1年生とまだ若くてあまり表現力がなく、カリマンタンの森林が伐られてゆく悲しみを描いているという群舞の振付も説明的だったからだ。彼はこの群舞のシーンでコンテンポラリらしさを出そうとしたに違いない。けれど、従来の伝統のコンテキストを超えた舞踊になっているという意味で、旋回舞踊のシーンの方がコンテンポラリになっている気がする。

シンガポールの2団体はマレー系の舞踊なので、シラット(伝統武術)をベースにした動きにしても衣装にしても、スマトラ島の舞踊と印象が似ている。しかし動きや構成はより凝っており、テンポも速くて洒落ている。ただ今回出演した団体に限らないのだが、シンガポールの舞踊というのは総じて、どうも伝統の型を見事にアレンジするだけにとどまっているような気がしてならない。だから見終わった途端に印象が薄れてしまうし、1人1人のダンサーの個性も見えてこない。

Fitri Setyaningsih(ソロ)とBesar Widodo(ジョグジャカルタ)はあの大仮設舞台を使用しなかった。前者はコンクリートの上にネオン・サインのような明かりを置いての、後者は木の植え込みのある所でロウソクの明かりを置いての上演だった。全員が同じ舞台を使用するものだと思っていたから、正直なところ、そんなの有り?という気がする。両者ともあの仮設舞台で上演していたら効果は半減しただろうから。

これらの公演はすべて夜に実施され、25日と26日の午前中はセミナー、午後からはワークショップという予定が組まれた。ギャラリーといってもドームのような空間で、入口を入るとその中央にある池が目に入る。池には水草が茂り、魚が泳いでいる。池の真ん中に浮島みたいなスペースがあって、橋がかかっている。島の背後は黒い幕で閉じられ、三方に開けている。私達が島でワークショップをしているのを、展覧会を見に来た小学生や中学生の団体が橋の向こうから遠巻きに眺めている。この半ば孤立し半ばオープンな空間は私には面白く、また居心地が良かった。ここでソロとかデュエットの小品を踊れたら良いなと思う。

さて、自分の舞踊については……来月に書くことにしよう。
2005.8水牛アーカイブ「IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その2」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年8月号
IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その2


6月6日~9日まで、バリ島のヌサドゥアでIPAM=インドネシア舞台芸術見本市が開催されていた。今月はその出品(全27公演)の中から、私の独断と偏見により、印象に残ったものを紹介する。私が日本に招聘するとしたら(お金はないけど)……という観点で見ていたり、サポーターの心情で見ていたり、いろいろである。

6月7日1作目。スマトラ島ランプンの演劇グループTeatre Satuによる" Nostalgia Sebuah Kota(ある町のノスタルジー)"はとてもシンプルで洗練されていた。演劇に分類されているけれど、ジャワでなら舞踊作品に入るかもしれない。身体の動きが美しい。その地域の伝統的な舞踊の動きらしきものも使われているけれど、既存の動きを安易に借用せずにきちんと消化している。台詞は平易なインドネシア語、一部英語で、分量は多くなく、リフレーンが多い。言葉や、鈴や、手桶に入れた米(豆?)の音が重なり響くことによって、イメージがさざなみのように広がっていくという気がする。また照明の色調や変化、衣装の配色が美しい。テーマやメッセージ性を求める人にはよく分からない舞台だろうが、そういう見方をしなくても良いという気がする。視覚的、聴覚的にとても記憶に残る舞台。雨の日に傘を差しているシーンから始まるけれど、日本の秋の長雨のような情緒や湿度を感じさせる。

4作目はソロからKomunitas Wayang Suket。Ki Slamet Gundonoという小錦のような巨体のダラン(影絵操者))が率いるこのグループの面々は、ワヤンを翻案した新しいワヤン的作品を次々に発表している。プログラムでは演劇に分類されているけれど、やっぱりこれはワヤンとしか呼びようがない。私もこのグループとは親しく、そのせいもあって私の名前が登場してしまったので、関係者には大受けだった。ジャワ語主体だけれど、今回はところどころでインドネシア語や英語を混ぜていて、その混ぜ方とタイミングがまたおかしかった。場面の展開だとか、Gundonoの抑揚とか間合いとか、ジャワ人にはこの劇は文句なく面白い。IPAMアドバイザーであるソロの芸大元学長やジャワ人のお役人など、いい年をしたおじさん達が、本当に箸が転んでもおかしいというくらいの笑い方をしていた。でもこういう感受性のよいジャワ人たちが全然いなくて、公演はまじめくさって見るものと思っている人達(特に日本人)の中で見たらどうだろうか。どこまでこの面白さは伝わるのだろうか、私にはまだよく分からない。

最後の10作目はアチェのWalet Dance Companyによる“Rampai Aceh”。ただしメンバーは皆ジャカルタに住む。このおじさんはIPAMに来る前に愛知万博に出演していたらしい。リーダーのおじさんの歌に合わせて20人くらいの女性が密着して横一列に座り、あるいは立ち、体を叩いたり全員が同じ動きを繰り返す。テンポは次第にエスカレートしてゆくにも関わらず、全員の動きは全く乱れずシンクロし続ける。アチェの舞踊も地域によって人数や動きや場所移動のパターンに違いがあるらしく、ここではいろんな地域のものを混ぜているということだった。その技術水準には圧倒されたし、やはりジャカルタでやっているだけあって、アチェ舞踊としても、一段舞台芸術として垢抜けている気がした。にも関わらず、これを単独で上演するのは難しいように思う。どうしても機械的で単調になりがちな気がするのだ。他にいろんな演目があれば、それもジャワ舞踊のようにテンポが遅くて全員の動きを過剰に揃えようとしない舞踊などと一緒に上演されたら、とても引き立つだろうと思うのだけど。実際インドネシア各地の芸能で、これだけ動きを揃えようとする舞踊も珍しい。シンクロするのは共同体の結束、イスラムにおける人と神との合一を求める気持ちの表れだとリーダーのおじさんは言っていた。蛇足になるが、これをワークショップでやるのは面白いかもしれない。1つ1つの動きをゆっくりやれば、あまり複雑ではないし、全員が同じことをするのも安心だ。慣れてきたら徐々にスピードを上げていけば、参加者のレベルによってはかなりの達成感が味わえるかもしれない。

6月8日。この日一番期待していたのが、東ヌサトゥンガラ州(バリから東側に延びる諸島)からのササンドゥという伝統楽器の演奏。ササンドゥは昔のインドネシア紙幣の裏側に描かれていて、一度実物を目にしたいと思っていたのだ。弦楽器が同地特産の草で作った共鳴箱?に入っている。この草はまるでプラスチックみたいに頑丈である。余談だが、伝統衣装のおじいさんたちがかぶっている鳥形帽子(成人男子がかぶるものらしい)もその草で織ってある。さて公演はおじいさん3人がそれぞれササンドゥを演奏し、時折1人が手振りで踊るというものだった。この公演を単独で海外公演に持ってゆくのはきついように思う。音楽も単調に聞こえてしまうし、なにしろおじいさんだけでは、やや魅力に欠ける。舞台で見せるためには何らかの見せ方の工夫が必要だろう。むしろ日本の地方なんかで、民俗芸能を継承しているおじいさん達なんかと一緒に、酒を酌み交わしつつ一晩上演する(酒盛りと変わらなかったりして)なんていうのが似合う気もする。また、もしこれがインドネシア各地の民族音楽を紹介するプログラムの中の1つとして上演されるのなら、これでいい。アチェ舞踊のところでも触れたけど、そういう場合にはバラエティの豊富さが問われるからだ。おじいさんの地方性を色濃く漂わせた物腰、帽子や手織りの伝統の布には、ジャワやバリや他の地域の文化とは異なる魅力が十分にある。

6月9日3作目(だっけ?)は南スラウェシのSanggar Kreatifによる“Tongkonan”。生演奏での上演で、演奏家と踊り手合わせて15人くらいいたのではなかろうか。結構大所帯だった。私は彼らと同じ安ホテルに泊まっていた。実は私はIPAMの登録上はプレゼンターになるのだが、宿泊はインドネシア人芸術家用の所を希望していたのだ。それで前日の夜にホテルの中庭でやっていた練習も見ていて、正直なところ、その時点ではあまり期待してなかった。ところが、舞台では皆打って変わって魅力的な舞踊家になったので驚いてしまった。特に魅力的だったのが若い男の子達で、日本でアイドル・デビューしても十分通用するくらいなのだ。作品も舞踊と音楽だけで構成された舞台にはドラマ性があり(後で聞くと、物語はスラウェシの民話を基にしているらしい)、次の場面を予期させるようにうまく場面転換がされていた。最後の終わり方にも、また新たなドラマが続いていきそうな余韻が感じられた。さらに臼と杵を使ってそれで音を出したり、餅つき踊りみたいな踊りがあったりするのも、日本人には親近感がわく。それが地方色コテコテでなかったのが良かった。垢抜けたフォークロアという感じだ。

7作目はソロのマンクヌガラン宮から"Srimpi Muncar"(スリンピ・ムンチャル)である。踊り手は4人だが何しろガムラン演奏家の数が多いから、所帯としては一番規模が大きかった。 スリンピというのは女性4人による宮廷舞踊である。マンクヌガランはソロの宮廷の分家になるのだが、スリンピの演目はジョグジャカルタの宮廷から引用している。この演目はメナク物語から取られていて、中国のお姫様とジャワのお姫様が1人の男性をめぐって戦い、中国のお姫様が負けるというお話である。スリンピの形式にするため中国とジャワのお姫様が2組いるという構成で、また普通のスリンピでは4人とも同一衣装を着るけれど、ジャワのお姫様と中国のお姫様の衣装は異なっている。この時の衣装は5年間の留学中に私の全然見たことのないものだった。聞くと、古いアンティークの衣装だという。またいつもの上演と違って、中国のお姫様の化粧と動きがより中国的(あくまでもジャワ人から見て)である。

舞踊はまあこんなものなのだが、私が以前から気になっているのは中国のお姫様の描き方である。このことは初日のRuly Nostalgiaの作品にも言える。Rulyの作品“sKumolobumi”もメナク物語をたたき台にしている。ジャワ人が描く中国人には、釣り目に京劇のような厚い化粧、衣装と化粧に赤を多様し、中国拳法のような、あるいはわざとぎくしゃくした動きを用いるといったステレオタイプが認められる。これは日本人にすると、あまり気持ちの良いものではない。(そう言うのは私だけでなくて、日本人の留学生の多くはそう感じるようである。)日本人なら、こんなにエキゾチック過剰に中国人を描かないだろう。もしかしたら欧米人には「これが中国の姫」というレッテルがあって分かりやすいかもしれないけど、中国ネタのものを日本に持ってくるのは難しい、というか持ってこないでほしいと正直なところ感じている。

以上、舞踊評だかなんだかよく分からない文章になってしまった。その他にも紹介したい作品は多々あるのだけれど、またそのうち書くこともあるかも知れない。IPAMでは欧米基準でコンテンポラリ舞踊と呼べるものも、伝統舞踊、民族音楽ものも多く紹介された。まだきちんと調査していないけれど、従来のインドネシア政府は「多様な地方芸術」としていろんな地方の芸術をパックにして海外に紹介するということに力を入れていたように思う。それは現在でもあるのだが、それだけでなく単品で海外に出せる=売れるものを後押ししようとしている、という気がする。
2005.7水牛アーカイブ「IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その1」
8月忙しくて更新を怠っていましたが、やっと水牛アーカイブも更新です。

私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年7月号
IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その1


この6月6日から9日まで、バリ島はヌサドゥアで、第3回IPAM(イパムと読む)=Indonesia Performing Arts Martが開催されていた。助成した国際交流基金ジャカルタ支部の人と、基金が招聘した人以外に出席した日本人は私だけだった。私自身はこのIPAMのことを2年前から、つまり第1回目から聞いて知っていた。その年から調査でインドネシアの教育省や観光文化省に出入りしていて、こんな催しを始めたよと教えてもらっていたからだ。それにオーガナイズしている会社のスタッフたちとも親しい。ただ昨年、一昨年は予定が合わせられず、今年になってやっとどんなものか見ることができた。というわけで、今回と次回はそのIPAMについていろいろと見聞きしたことを書き留めておこう。

第1回目はインドネシア政府観光文化省が直接手がけていたのだが、やっぱり役所のオーガナイズではうまくいかないということで、第2回目からは民間会社がオーガナイズし、同省は後援・顧問となっている。出品者は今回まではインドネシア人アーチストばかりだが、来年からは外国人の出品も受けつけるという。それ以降は隔年ごとの開催にして、ゆくゆくは東京国際芸術見本市のように育てたい、というのが主催者の意向だ。3回目とあって知名度はまだそんなにないが、年々各国から集まる出席者も増えて、今年は66組に及んだ。ただ当初の予定ではシンガポールでのアートフェスティバルをにらんで、そちらが終わってからその出席者をインドネシアに引き寄せるという計画だったのが、シンガポールではその会期を延長したとかで、IPAMに流れる参加者がかなり減ってしまったと主催者はぼやいていた。そのためIPAMの会期は6月10日までだったのが、直前になって急遽1日短縮され、9日になった。

ではどういうアーチストが出品していたのだろう。分野は伝統もの、現代ものどちらでも良いが、今年からジャズやポップ系(いずれも民族楽器と併用している)のバンドも認められ、3グループ出演している。一応プログラムの分類でいくと音楽8組、舞踊16組、演劇3組の27組が出演した。一部の有名アーチスト/グループへのオファーはあったものの、今回は昨年までと違い、公募で多くの出品者を決定したという。ただ広く公募したとはいえ、海外へ向けて作品をアピールする力量、具体的には英語力や企画書を書くという能力にはやっぱり地域的な偏りがある。出品者を地域別に見ると、計27組のうち中部ジャワのソロ(正称はスラカルタ、私のかつての留学地)からは8組参加で、ダントツ多い。あとは首都ジャカルタ5組、東ジャワ(スラバヤ)1組、バリ島5組、スマトラ島5組(ランプン、パダン2組、メダン、リアウ)スラウェシ島2組(クンダリ、マカッサル)、そしてヌサ・トゥンガラから1組となっている。

主催者の弁によると、バリやジャワに比べまだ海外での知名度が低いスマトラやスラウェシの芸術を多く紹介したいという意向はあるけれど、まだ選考を通過できるレベルの企画が少ないということだった。逆にソロがこれほど多いのは、1970年代以降芸大やアートセンターの前身が現代芸術に力を入れてきたことなどによるだろう。宮廷舞踊というイメージがあるため伝統都市の印象が強いが、ソロはその一方で現代芸術がさかんな都市として有名なのである。(現代舞踊の旗手サルドノもソロの出身だ。)

ただソロは小さくて(人口約50万人)大企業がない都市だからスポンサー探しが大変だと、ソロからの参加者のマネージャー達が言っていた。出品者の交通費は主催者から出るとはいえ、規定に沿った分しか出ない。ちょっと規模の大きい作品を出品しようと思うと、自分で助成金を探すことになる。参加者数も多い上、ソロの芸術家なんて皆しょっちゅう海外に出ているような人たちが多いから、そうそう毎回スポンサーになってくれるところも少ない、ということらしい。スマトラやスラウェシだと参加者がまだ少ないから地域を挙げて応援してくれるだろうし、何よりお金のある大企業が多くあるのがうらやましい、とのことだ。

さて出品作品の具体的な内容については、来月紹介することにして、今回はそれ以外のIPAMの日程について紹介しておこう。

まず6月6日は主会場のヌサドゥアビーチホテルにて、出席者の受付(終日)とオープニング・ディナーのみ。ディナーの時には出品作品とは別に、バリのワヤン(影絵)が1時間ほど特別提供された。また最終日のクロージング・ディナーではマハーバーラタ物語のワヤン・オラン(舞踊劇)が、出品作品の1つとして提供された。このオープニング・ディナーと9日のクロージング・ディナーは観光文化省の主催で、同省のお役人B氏(バリ人)が構成を仕切っている。バリの影絵というとグンデル4台だけで伴奏されるグンデル・ワヤンが有名だけれど、ラーマーヤナ物語には大きな編成のガムランを伴うということだった。ラーマーヤナで始めてマハーバーラタで終える、ワヤンで始めてワヤン・オランで終える、という構成にしたかったという。B氏は4日前から現地入りして会場設営などに当たっていたらしい。この人は実はバリのコンセルバトリ(現在の国立芸術高校)創立者の1人を父に持ち、同校を卒業したあと入省している。私も自分の論文のために随分とインタビューさせてもらった。インドネシアでは1970年代くらいから役所の芸術観光部門では芸術高校や大学の出身者を多く採用するという方針を採っているのだ。それはともかく、この全体の構成は私にはとてもバリらしく、そして垢抜けて見えた。

閑話休題。さて翌7日の上演は午後2時からでそれまではフリーのはずだったが、急遽朝食会が設定される。これは出席者同士や主催者らがフランクに話せる場を、ということで設定された。休憩時間もほとんどなく出品作を見続けていては、全然他の出席者と話す時間がない。これはありがたかった。朝食会は9時~11時頃まで、サブ会場のメリアバリホテルで。2時から6時まで66作品公演。7時まで休憩。7時から9時半まで4公演。

翌8日はエクスカーション・ツアーで、ペジェン村のオダラン見学。途中ウブドでギャラリー見学、パッサール(市場)で買い物、レストランにて昼食が組み込まれている。ソロの芸大の元学長Supanggah氏はアドバイザーとしてIPAMに出席していたのだが、パッサールでは親指ピアノと小さな太鼓を買っていた。こういうアカデミックでない楽器もきちんとチェックしているんだなと関心してしまう。さてメインの目的のオダランは寺院の建立記念のお祭りである。寺院に入るため、IPAM主催者による腰布と帯を身につける。当初の予定ではこの日はオダランツアーだけだったのが、日程を1日短縮したために、6時半からIPAMの日程(7公演)が入ってしまった。そのためにお寺を4時半には出ないといけなくなり、寺院であまり舞踊を見れなかったのが残念であった。

最初に寺院の手前の舞台のところで、村のおじいさんからヒンズー寺院のことなどについて説明を受ける。これがまたとても流暢な英語で理路整然と話す。こんな田舎のお年寄りでこれくらい英語がしゃべれるというのは、それだけバリの観光化の歴史は長く、深かったということなのだ。その後おばさんチームのガムラン演奏をしばらく聞いてから、寺院に入り、しばしお祈りする人々を見る。またしばらく待って、舞踊が始まった。正装姿で踊るルジャン?、バリス、花冠をかぶったルジャンまでを見た。その次にはトペンの踊り手が控えており、また夜にはガンブーや影絵もあるとのことだった。

最初のルジャン?はお世辞にもうまいとは言えなかった。おそらくまだ踊り始めたばかりなのだろう。しかしこの空間で踊るのは当たり前だという雰囲気がそこにはあった。彼女達にそういう空間があることをなんだかうらやましく思った。バリスはルジャンを踊る少女のお父さんくらいの年代のおじさんたちが群舞で踊っている。1人の年配の人に目を奪われた。その人が舞踊を職業としているかどうかは知らない。テクニック的にも上手いと思うけれど、自分の中にこみ上げてくる何かに突き動かされて無心で踊っているような、そんな風情だった。このバリスでは突起のついた盾を持っていて、途中で剣を抜く。この盾は初めて見たので、何という名前なのか分からない。バリスには使う武器によってさまざまな種類があるという。

ただこういうオダランを見た後で下手に宗教的演出をほどこした舞台を見ると、白けてしまう。IPAMではなかったけれど、IPAM終了後にジョグジャカルタに戻って見た公演というのがそういう感じだったのだ。そういう意味で、IPAMの出品作品如何によっては、このオダラン見学ツアーは諸刃の剣になるかも知れないという気がした。

最終日9日は、朝10時から12時までアドバイザーのI wayan Dibia教授とSaini KM教授による「インドネシアのパフォーミングアーツ・シーン」。昼食後1時から2時半まで国際交流基金が招聘した曽田修司氏(跡見学園女子大学マネジメント学部教授)の講演"An Overview of Global Performing Arts Market"である。IPAMはインドネシアの芸術マネジメントの向上にもつなげたいということから、専門家である氏の講演となったらしい。そして3時から6時まで公演。6時半から8時までクロージング・ディナーとバリのワヤン・オラン上演。8時から10時過ぎまで公演。

急遽日程変更になったので翌10日まで残ることになった出席者や出品者のために、ミーティングの場が設定されたらしい。しかし私は10日早朝に発ったので知らない。

(つづく)

2005.06水牛アーカイブ「昼間の停電に思う」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年6月号
昼間の停電に思う


珍しいことに、先日、5分間くらいだったが停電があった。ちょうど停電になった時には駅前商店街の西にあるお店に買い物に来ていた。別に地震も雷もあったわけではなく、五月晴れという言葉がぴったりくる日の、正午頃のことである。お店を出るところで突然電気が消え、奥に引っ込んだ店主がまた表に出てきた。辺りの店を見回しても停電している。正午とはいえ、商店街のウィンドーから照明が消えると少々寂しい。商店街を東へ100mばかり歩いていると、通り沿いの店の人がわらわらと表に出てきて、停電を確認し合っている。停電は自分の家だけかしらん、と皆思うらしい。昔じゃあるまいしねえ、と言っている角の煙草屋のおばあちゃんの声も聞こえる。商店街端の交差点に出る。ここから向こうの垣内(かいと)も停電しているようだ。インドネシア風に言うと、隣のRTも停電している。隣のRTにある銀行からお姉さん達が何人も表に出てきて、こちらのRTをうかがっている。さらに驚いたのは、交差点の信号まで止まっていること。停電では信号機も止まるなんて、今まで考えたこともなかった。

停電の商店街を歩きながら、インドネシアのことを思い出していた。インドネシア(私がいたソロ)ではよく停電したので、私もロウソクを買い置きしていたし、留学生で一足お先に帰国する人の置き土産の中には、たいていろうそくがあった。もっともロウソクが必要になるのはひどい大雨や雷で停電する夕方から夜の間だけだが、じつは普段の昼間などにもしょっちゅう、短時間、あるときは何時間か、よく停電しているのである。冷蔵庫を開けてみて、あれ停電してる、と何度思ったことか。また、芸術大学の授業が停電で中断したことも何度かある。舞踊科の実技の授業ではカセットをかけて練習する。始めのうちは先生が説明したりちょっと見本を見せたりしていても、停電が長引くと困ってしまう。

けれど、モスクのアザーンが停電で聞こえなくなるのは(不謹慎ながら)嬉しい。これはインドネシアの音風景(バリなど非イスラム圏は除く)を特徴づけるものだと言っていい。アザーンは1日5回のお祈りの時刻を知らせるモスクからの呼びかけで、スピーカーで一帯に響くように呼びかける。異教徒にとってはぎょっとするような大音量で、特に慣れないうちは、明け方これで目が覚める。アジアのイスラム圏にスピーカーを売り込んだのは日本の音響会社だという話を聞いたことがあるが、本当だとしたらハタ迷惑なことをしてくれたものだ。スピーカーが普及する前はイスラム導師がモスクの上から大声で呼びかけていたらしいが、町の小さなモスクならそれで十分だという気もするし、その方が宗教的な風情もあるだろうに。

話がそれた。ソロのような地方都市だけではなくて、首都ジャカルタでも停電はあるようだ。昨年、ジャカルタのあるお役所に夕方行ったら、停電していて弱ったことがある。役所に着くと、大勢の人がいっせいに階段から下りてくる。聞くと、30分くらい停電していて仕事にならないので、いつもより早い時間だが退社するという。えっと思ってアポを取った人に携帯電話で連絡する。その人は退社せずに待っていてくれた。が、待ってくれている以上、行かねばならない。降りてくる人とぶつかりながら、狭い階段を9階まで必死で駆け上がったが、ジャカルタのような都市でも停電はあるのかと驚いたことだった。

いまや日本では、普段の日に停電するなどと誰も予期しないだろう。駅前商店街で停電して家に戻り着いたとき、(実は私の家もその並びにある)、「電気が消えると、人間て、思わず外に飛び出すもんやねえ。」と言った母の言葉がなんだかおかしかった。停電から1時間ほどたってから電力会社の車が廻ってきて、「さきほどは、突発的な事故停電によりご迷惑をおかけしまして……」とアナウンスしていた。そうか事故か、と原因を知るだけで、なんとなくほっとする。どこかで電気工事をしていて、誤って電線を切ったのだろう。こういうアナウンスはインドネシアでは全くなかった。それだけ停電が常態化しているのか、そこまで(過剰に)親切にする習慣がないのか。逆に言えば、日本では停電はアナウンスしないといけない異常事態ということにもなるのだろう。

珍しい停電に遭遇して、日本の電力は安定して供給されているということも、あらためて思い起こす。インドネシアでは、電圧が日本ほど一定に保たれていないみたいだ。220vとあっても、うまく電力がコントロールできないとそこからはみ出すことがあり、だから電気製品がよく壊れるのだという。冷蔵庫だとかパソコンだとか、高価な電化製品を使うなら必ず電圧安定装置(スタビライザー)を使うこと、直接コンセントにさしては駄目だよ、と、パソコンが壊れてからアドバイスされた。そういえば大学のパソコンでは必ずスタビライザーを使っている。テレビだけはブラウン管を通るからスタビライザーを使わなくても大丈夫、と言う人がいたが、それが正しいのかどうか私は知らぬ。
 

最後に余談だが、インドネシアでパソコンを使っている時に、近くで雷が落ちたことがある。外は雨でゴロゴロと遠くで低く轟く音がしていたが、あまり気にならないくらいだった。私は床に直に座って、ラップトップのモバイルパソコンを、文字通り膝の上にのせて使っていた。そこに急にものすごい落雷音がして家の電気が消え、同時にラップトップからしびれるような衝撃がきて、思わずそれを放り投げてしまった。これが感電か、雷で一気に電圧が高まるんだなあ、と体感したことだった。
2005.05水牛アーカイブ「振付家名のクレジット(4)振付、振付家の呼び方」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年5月号
振付家名のクレジット(4)振付、振付家の呼び方


前回の最後で、「インドネシア若手振付家フェスティバル」が1978年から始まり、初めて振付家が脚光を浴び始めると書いて(続く)としたのだけれど、今回は少し視点を変えて、振付、あるいは振付家をインドネシアでは、特にジャワのソロではどう呼んでいるのか、書いてみよう。

この「インドネシア若手振付家フェスティバル」はインドネシア語ではフェスティバル・プナタ・タリ・ムダといい、プナタ・タリが振付家を表している。タリは舞踊を意味し、プナタはタタする人=秩序正しく構成する人だ。振付だとプナタアンとなる。これだと、さまざまな動きや型といった要素を構成して作品に仕上げることが振付だというニュアンスがある。このフェスティバルはインドネシアで現代舞踊を推進する目的で始まったから、振付家にコレオグラファーという外来語をそのまま使っても良さそうなものだが、使っていない。

それから振付家=プニュスン=ススンする人、振付=ススナン・タリという言い方もある。ススンはつなげるという意味で、これなどは特に(他の舞踊のことは分からないのだけれど)、ジャワ舞踊の伝統的な振付を表すのに向いている言葉だという気がする。ジャワの舞踊や音楽は一まとまりのフレーズ=スカランとつなぎのフレーズの2種類に分かれていて、スカランを何度か繰り返してつなぎのフレーズがくるという構造になっている。ネックレスのようにフレーズをつないでいくイメージが、ススンという語にはあるように感じられる。

外来語のコレオグラフィー、コレオグラファーという語も、インドネシアでは1961年に始まるラーマーヤナ・バレエで使われている。(それ以前からすでに使われていたかも知れない。)この場合は、新しい伝統舞踊劇のジャンルを表すのにバレエという西洋語が用いられているから、その振付家にもコレオグラファーという西洋語を用いたのかなという気がする。

けれど、現在ではコレオグラファーという語を聞くと、伝統的でない/現代ものの舞踊作品の振付家をイメージしてしまう。私が留学している時に、授業で自分の好きなコレオグラファーを選んでその作品の特徴を書いてくるという宿題が出たことがあった。生徒が選んだのはほぼすべてインドネシア国内の現代舞踊家で、芸大や芸術高校の履修科目に入っている、とても有名な伝統舞踊作品の作者の名前――クスモケソウォとかマリディとかガリマンなど――はぜんぜん挙がらなかった。そのことに先生は大きくショックを受けていたけれど、実は私自身もこれらの人々のことに思い至らなくて、それがショックであった。確かにこれらの人々もコレオグラファーと呼ぶべきなのだ。それを失念していたのは、これらの人々の作品がすでに古典化していて新しい作品という感覚が無くなってしまっているからかも知れないし(これらの人々が活躍したのは戦後になってから)、またコレオグラファーという外来語から、どうしても欧米スタンダードの現代的な作品を振り付ける人を想像してしまうのかも知れないと感じている。

インドネシア・ソロの芸大では、このコレオグラフィーという語と、それからコンポジシ(英語のコンポジション)という語が振付を表す語として使われていて、両方併記されることも多い。どちらかというと2000年頃以前はコンポジシの方がよく使われていて、それ以後はコレオグラフィーが代わってよく使われるようになった気がする。コンポジシは、音楽科では作曲の意味で使われている。もっともそれが英語での普通の使い方だろう。英語圏では舞踊作品や舞台芸術作品を作ることにもコンポジションという語を使うのか、私は知らない。(少なくとも私の辞書にはその使い方は載っていない。)

このコンポジシという語は、基本的には伝統的なテクニックから離れた振付を指すのに使う、と芸大の先生は言う。では芸大では伝統的な手法で振り付けたものは何と呼ぶのかと聞くと、それはガラパンだという。ガラパンとは辞書的には「作る」という意味のようであるが、ジャワでは音楽や舞踊をアレンジ・演出することを指している。卒業制作でガラパンするというと、だいたいワヤン(影絵)でおなじみの話を、自分なりに新しくアレンジして舞踊劇に仕立てていることが多い。その場合は伝統的な舞踊や音楽のテクニックを中心に使っている。

その他に、現在のソロでほとんど聞くことがないが、クレアシ・バル=新創造という語がある。クレアシは英語のクリエーション=創造のことだ。この語はソロではバゴン(故)というジョグジャカルタの現代舞踊家の作品に対して使われることが多く、他のジャワの舞踊家の作品に対しては使われないように思う。ジョグジャカルタの音楽家や留学生からは、バゴンに関係なく、新しい表現というニュアンスでこのクレアシ・バルという語を何度も耳にしたことがあるから、ジョグジャカルタではよく使う、あるいは使っていた語なのかも知れない。

ソロの芸大の舞踊科の先生からこんな話を聞いたことがある。あるとき地方(ソロ近郊)でのクレアシ・バル・コンテストの審査員を頼まれ、どんな振付作品が出てくるのかと楽しみにしていたら、ディスコ・ダンスのようなものばかりだったそうだ。いまやクレアシ・バルは地方ではディスコ・ダンス風のものだと理解されているらしい。

このように思いつくままに挙げてみたけれど、インドネシアは地域によって言語も舞踊も音楽も異なる。インドネシア語が共通語だといっても、地域によって音楽や舞踊の概念が違えば、振付家、振付を表す言葉だって異なるだろう。たとえば、振付という行為がススナンという語で表すのが不適切な地域だってあるかも知れない。おそらく芸術大学や芸術高校がある地域間では、学校の人材交流の中で言葉もある程度共通化してくるのだろうけれど、まだまだ他にも振付、振付家を指す語がたくさんあるのではないかと思っている。
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