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2006.11水牛「動きを揃えること」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年11月号『水牛』寄稿
動きを揃えること

複数の人が一緒に踊るとき、たぶん私たちのほとんどは全員の動きが揃っている点をとても評価する。バレエやミュージカル、ラインダンスなどで、大勢の踊り手が一糸乱れずに踊っているさまを見るのは壮観だし、そこに美しさを感じる。けれど、揃っているのが美しいというのはある1つの価値観であって、絶対的なものではない。

バレエやミュージカルやラインダンスなどには、振付家という全体を統括する人がいる。画家が一点透視法を用いて画面に絵を描いていくように、振付家は、自分の目という一点を基準にして、大勢の踊り手を額縁舞台の中にデザインしてゆく。踊り手の動きは1つに揃えられ、個々の面貌が消されて、最後には1つの線として配置される。そうしたときに初めて別の美しさが見えてくる。それが全員が揃っている美しさ、なのだ。

そういう視線が1970年代にジャワ・スラカルタの伝統舞踊界にも持ち込まれた。アカデミー(ASKI、現在の国立芸大)の学長で、かつ中部ジャワ芸術発展プロジェクト(PKJT、1969~1981)の長も兼任していたゲンドン・フマルダニという人が、西洋芸術の概念を持ち込んで伝統舞踊改革を推し進めた。それは一言で言えば伝統舞踊の舞台芸術化で、その中でもPKJTの一番の特徴が、複数の人で踊る演目(特に女性舞踊)で全員の動きを一糸乱れぬように揃えたことなのだ。当時それは驚異的で新鮮で、一般の人たち、特に若い層の心をとらえたのだが、その一方で、舞踊関係者からはロボットみたいだという批判も受けていた。

この「揃っている動き」の発見は、当然ながら「群舞」という概念の発見と表裏一体の関係にある。フマルダニは1960~62年に欧米に留学してモダン・ダンスやバレエも学んでいる。そしてイギリスではバレエを見た感想を書き残しているのだが、そこには、空間におけるバレエの線のすばらしさと、ジャワ舞踊ではたとえ複数の人が一緒に踊っていても、それは単独で踊っている人が集まっているだけなのだ、という気づきが書かれている。この舞踊の線というのは明らかにコール・ド・バレエの人たちの軌跡を指していて、フマルダニ自身も群舞という概念を言い表すのにコール・ド・バレエという語をよく使っている。

しかし、フマルダニがコール・ド・バレエの概念をジャワ宮廷舞踊の演目(特に儀礼性の高い女性舞踊)にまで当てはめたのは間違いだった、と私は思う。確かに元来のジャワ宮廷舞踊には単独舞踊の演目はなく、複数(4人とか9人)で踊るものばかりだ。それに皆同じ衣装を着て、同じ振付を踊る。しかし、だからと言って、彼女らは群舞(コール・ド・バレエ)だと言えるのだろうか?たとえば、やはり宮廷の式学である舞楽も皆同じ衣装を着て同じ振付を踊るけれど(4人で踊るものなんかは、宮廷舞踊のスリンピととても似ている)、あれを私たちは誰も、コール・ド・バレエみたいなものだとは思わないだろう。ジャワ宮廷舞踊や舞楽の踊り手は、コール・ド・バレエのように、他の何か(主役)を引き立てるために背景化された存在ではない。舞台には彼らしかおらず、彼ら自身が「世界」、あるいは「宇宙」を代表している。舞楽の方は知らないけれど、ジャワの女性宮廷舞踊の踊り手には、各ポジションに「頭」、「首」、「胸」などという名前がついていて、つまりはそれぞれに意味がある存在なのだ。

一糸乱れぬ動きを、フマルダニは踊り手たちに毎日長時間の練習を課すことで、可能にした。全員の動きを経過点ごとに揃えて、手で布を払ったり、引きずっている裾を足で蹴り払うタイミングまで揃えていった。だから当時の踊り手=今の芸大の先生たち、とくに女性の先生たちは、全員の動きをいかに揃えられるかという点に練習の意義や達成度を見出す。女性舞踊にそれが顕著なのは女性舞踊の方が一緒に踊る人数が多いのと、それからやはり公演機会が多かったからだと思う。

私はかつて芸大の先生たちと一緒に公演したことがあって、来月もそのメンバーと一緒に公演することになっているのだが、この全員で揃えようという志向の強さには参ってしまう。今度の公演は私がスポンサーなので、とにかく、全員の動きは揃える必要がない、昔の宮廷舞踊のように個々の舞踊を踊ってください、と強く要望している。それでも先生たちは、「1人だけ動きが違ったら、間違えたと思われて嫌だ」と言う。他の人と揃わないということを、なんだかとても恐れるのだ。私としても、「むしろ古い上演の仕方として、あえて全員の動きを揃えてしまわないようにした」ということを、司会の方から言ってもらわないといけないなと思っている。

ジャワの音楽や舞踊にはウィレタンwiletanという語があって、個々の演奏家や踊り手の間で微妙に異なる個人様式のことを言う。過去の有名な踊り手は皆それぞれ独自のウィレタンを持っている。そういう単語があるということからも分かるように、各人でウィレタンが違うのはむしろ当たり前なのだが、先生たちのウィレタンに対する態度はこうだ。Aという公演ではaというウィレタンでいきましょう、とか、振付のこの部分はaというウィレタンだけど、あの部分ではbにしましょう、とかいう具合に、いろんなウィレタンをメニュー化しておいて、その中から1つ選んで揃えるのである。確かに芸大という所にはいろんな調査レポートがあるので、先生たちはいろんなウィレタンを知っている。私はウィレタンというのは踊り手の人格と一致した時におのずとにじみ出てくるもの、あるいは個々の踊り手がアイデンティティをかけて追求するものだと思うのだが、先生たちは、いろんなウィレタンをとっかえひっかえ使い分られることにプライドがあるみたいで、自分の個性にあったウィレタンを追求しようという姿勢があんまり見られない。(本当は、そういう意識がない、とまで言ってしまいたいぐらいだ。)そしてそれはたぶん、全体で揃えましょうという志向の高さと裏表の関係にある。

こういう具合だから、4人で踊るスリンピで、私と3人の芸大の先生が踊ると、当然私だけが揃っていないということになる。このことは以前の公演でも観客から指摘されてきたのだが、しかし上手下手は別として、私の舞踊の方がよりクラシックに見えるとも、何人もの人に評された。皆で揃えようという意識が私にはないのだが、それはつまり観客に見せようという意識が乏しいのだ。そういう観客へのサービス精神がないという点が、とてもクラシックな舞踊と映るらしい。来月(26日)の公演がどうなるか分からないが、また来月か再来月にその結果を書いてみたいと思う。
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2006.10水牛「ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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今回掲載するのは2006年10月号の記事(9月号には寄稿せず):「ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て」です。実は、この記事に関してはサイト『水牛』のアーカイブにも掲載されています。
➡ ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て
それはともかく、私は2006年9月にインドネシアでこの映画を見て感想を書いたわけですが、タイミングよく、来年2月に東京で上演されるようです。

『オペラジャワ』上演
日時: 2月2日(土)14:00~120分
会場: アテネ・フランセ文化センター

     千代田区神田駿河台2-11 アテネ・フランセ4階
東京国際映画祭CROSSCUT ASIA提携企画映画上映会 ラララ♫東南アジア

exblogガドガド12月24日記事でも関連記事がいろいろ紹介されています。
インドネシアの映画:『オペラジャワ』Opera Jawa(監督:ガリン・ヌグロホ)@ CROSSCUT ASIA」:「ラララ♩ 東南アジア」後編 来年1月末





2006年10月号『水牛』寄稿
ガリン・ヌグロホの映画「オペラ・ジャワ」を見て

突然だが、この8月5日から1年の予定でインドネシアのソロ(正称スラカルタ)市にジャワ舞踊の調査で来ている。9月はじめに電話付の家を見つけて入居し、やっと自分のパソコンから直接原稿が送れるようになった。先々月に「舞踊の謝礼~1」という文を書いて、その続きはインドネシアに来てから書こうと思っていたら、すっかり気分が変わってしまった。それでその続きはいつかまたということにして(このフレーズ、しばしば使っている気がする)、今月はガリン・ヌグロホ監督の新作映画「オペラ・ジャワ」評を書いてみたい。



ガリン・ヌグロホは1961年ジョグジャカルタ生まれ。インドネシアを代表する若手映画監督で、日本でもその作品はよく上映されている。私が同監督の映画を見るのは「そして月も踊る」(1991)、「枕の上の葉」(1998)とその元になったドキュメンタリー「カンチルと呼ばれた少年」に続いて4作目になる。「オペラ・ジャワ」はベネチア、トロント、ウィーンの各映画祭に出品されている。

ちなみに私が「オペラ・ジャワ」を見たのは2006年9月1日、「ソロ・グランド・モール」内にある「グランド21」という映画館においてだった。ソロでは9月1日~7日までワヤンをテーマにした「ブンガワン・ソロ・フェスティバル2006」が開催されていて、ワヤン(影絵)、ワヤン・オラン(舞踊劇)からワヤンに題材をとる現代作品までいろんなものが上演されていた。このフェスティバルのオープニングを飾るのが「オペラ・ジャワ」で、上映に先立ってガリン・ヌグロホの挨拶もあった。

それではまず映画の内容について、少し長くなるが、招待状に書いてあったシノプシスを翻訳して引用する。

「これはガムラン・ミュージカル映画で、ガムラン音楽や舞踊の名手、インスタレーション作家に支えられている。このコラボレーション作品は真実を求めての争いについて語っているが、真実とは、多くの血を流した果てに打ち立てられるものなのだ。この物語は、小さい村に住むシティとスティヨという夫婦の物語である。彼らは壷を焼いて売っている。ところがその村では、ビジネスはルディロという金持ちの男が握っていて、いつもひどいことをする。シティとスティヨとルディロはかつてワヤン・オラン(舞踊劇)ラーマーヤナの踊り手で、スティヨはラーマ、シティはシンタ、そしてルディロはラウォノを演じていた。スティヨとシティの生活は倒産で先行き不透明となり、そこにかねてよりシティを愛していたルディロが彼女に取り入ろうとする。一方スティヨは、シティの内面の変化に気づいて、自分の経済力のなさや無気力さを感じている。3人の元踊り手は、三角関係に陥っているとは感じていない。ちょうど、ワヤン・オラン・ラーマーヤナの中の「シンタ焼身」の葛藤の場面のように。ルディロはあの手この手で、時には暴力的にシティを奪おうとし、無力なスティヨは、シティを閉じ込めようと極端な行動に出る。シティは動揺の中で自分の本心を見出そうとする。この3人の葛藤で残されたものがまさに今日の我々の光景であり、ラジオやテレビで見聞きすることだ。つまり多くの対立は暴力に満ち、困難を打開する方法は残虐性に満ちていて、最後は悲劇に終わる。スティヨはついに妻を追いかけて殺し、その心臓を取り出して、妻の心の声が本物かどうか確かめる。この映画はガムラン音楽、歌、舞踊、衣装、演技、ビジュアルとインスタレーションによるレクイエムであり、ジャワ文化というマルチカルチャーな表現の中で生まれた。虐殺への悲しみのレクイエム。その虐殺は、大地の果てでの極端な対立、不安に満ちた社会の対立から生まれた。これは、さまざまの悲しみ、災害の、対立の、恐怖の、そして血塗られた大地への悲しみのためのレクイエム。」

次に配役について。シティ役のアルティカ・サリ・デウィは2004年のミス・インドネシアで、彼女だけは舞踊と全然関係がない。スティヨ役がミロト、ルディロ役がエコ・スプリヤントで、この3人のセリフ=歌の部分はみな吹替である。他にイ・ニョマン・スロ(彼はバリ人)やレトノ・マルティ、そしてそれ以外にも多くの有名なソロの舞踊家やグループが出演している。音楽はラハユ・スパンガ。セリフ=歌は全部ジャワ語でインドネシア語の字幕がついていた。



私自身はこの映画に出演する舞踊家・音楽家の多くを知っていて、その作品も見ている。その目で見ると、この映画には彼らの個性や存在感、舞踊振付が十分盛り込まれていて魅力的だ。しかし、映画としてみると、登場人物、特に主演の3人の人物の掘り下げ方が弱い。そしてそれは出演者の演技力に問題があるというよりは、人物を行動に駆り立てる「必然的な物語」を監督が構築していないからだと私には思える。

まず、ラーマーヤナ物語をベースにする必然性が私には感じられない。①ラーマーヤナと、②シティとスティヨとルディロという3人の男女の物語では、人物の置かれている状況がかなり違っていて、相似していない。私たちがある古典の物語を下敷きにドラマを描こうとすれば、古典の中でドラマを生み出していた根本的な原因=外的状況を現代に再現しようとするだろう。なぜなら、人間の内面心理は(もちろん個人差があるにしろ)その外的状況から必然的に生みだされてくる部分があり、そこにドラマが成立するからだ。「元ラーマーヤナの踊り手だった」という設定だけでラーマーヤナの世界を借りてくるのは、少し皮相的な気がする。

3人の心理描写も中途半端なのは、これも外的な状況がきちんと描けていないからだろう。3人の心がそれぞれに揺れていることは感じられるが、その心の揺れの直接の原因がはっきりしない。だからドラマも進展してゆかないのである。いつの間にスティヨは妻を殺害しようとまで思いつめていたのか、シティはルディロやスティヨに対してどういう感情を抱いていたのか…。そういう点を監督自身が煮詰めていないように見える。したがってこれが悲劇だという主張ができていないのだ。

さらに、この②の物語を③現在の社会に満ちている悲劇・暴力というテーマにつなげるには無理がある。映画の最後に、ラブハン(ジャワ王家が毎年、南海に棲む王国の守護神に供物を捧げる儀式)をアレンジしたシーンがある。全人類の悲劇というテーマは、そのシーンの存在によって暗示されているだけで、②の物語から帰納的に導き出されたものではない。それだけではない。彼はシノプシスの中で悲しみの中に災害の悲しみにも言及しているが、これは人間関係の葛藤の中で起きた虐殺とは同レベルで扱うべきことではないはずだ。おそらく彼は自分の出身地であるジョグジャカルタ近郊で起きた地震の惨状が念頭にあり、レクイエムということで一緒くたにしてしまったのだろう。

このように、この映画では、①の物語、②の物語、③のテーマというのはオーバーラップもせず、深化もしない。ただ①の人物設定を借りて別の物語=②が展開し、そこに③のテーマが新たにくっつけられていった…だけなのだ。物語の力によって普遍的なテーマが迫り出されてくるわけではなく、イメージによって話が飛躍していくのである。もちろん①の物語の枠を借りて別の物語を展開しても良いし、論理的な展開よりもイメージ表現を重視しても良いが、もし彼がこの映画を通して普遍的な③のテーマを語りたいなら、それが①や②のドラマの展開を経て必然的に生まれてくるように構成するべきだろうと思う。

こんな批判的なことを書くと、ヌグロホ監督のファンには怨まれるかもしれない。ただ彼を少し弁護しておくと、このような話の展開の仕方はジャワ人にはありがちだ。ジャワでは個別の事例から論理的に普遍的な真理が導き出されるのではなく、その論理のプロセスがすっ飛んで、なんでも象徴・シンボルの話になってしまうことが多い。だから上のような私の意見は、私が話したジャワ人数人にはほとんど分かってもらえなかった。ヨーロッパでの映画祭ではどのように評価されるのだろうか。



それからもう1つ。「オペラ・ジャワ」に限らずガリン・ヌグロホの映画でいつも気になるのは、物語にとって必然性のない「ジャワ」の強調が多いことだ。「オペラ・ジャワ」の最初に、スティヨがスラカルタ宮廷の行事「スカテン」にアブディ・ダレム(家臣)の姿をして王宮に入るシーンがある。しかし、その後の物語におけるスティヨの境遇を見ていると、彼は別にアブディ・ダレムとして生きているわけでもなく、このシーンは物語とは何の関係もないことが分かる。

またスラカルタ王宮で即位記念日にのみ踊られるという秘舞「ブドヨ・クタワン」の映像が挿入されているが(踊り手から判断すると、これは『そして月も踊る』用に撮影した映像だろう)、これもシティとスティヨの物語とは全然関係がない。2人の愛の象徴としてブドヨの映像を出したのだと言う人もいたが、なぜ「ブドヨ・クタワン」でなければならないのだろうか。確かに「ブドヨ・クタワン」は王と南海に棲む王宮の守護女神との愛を描いているが、シティとスティヨの愛の引き合いに出すには格が違いすぎて、私には違和感がある。ガリン・ヌグロホは「カンチルと呼ばれた少年」でも舞踊・ブドヨ(この時は確かジョグジャカルタ様式のブドヨ)のシーンを挿入している。その時はナレーションから男女の愛の象徴として使っていることが明白だったが、この時も前後のストーリーとブドヨとは全然関係がなかった。

このような「ジャワ」の強調、しかもジャワ王宮文化の強調は、彼が海外の映画祭を対象に映画制作をしているからではないだろうか。つまりジャワ人である彼が海外で自分の文化的アイデンティティを強調するために必要以上にやっていると思うのだ。そのために彼が表現する「ジャワ」は「ブドヨ=愛」、「ジャワ=王宮文化」のようにステレオタイプ化し、外人の眼から見たエキゾチックなジャワを再生産している。日本でも、「こういうところ(愛の表現)でブドヨを出すあたりがジャワ人ですね~」と感心する声を聞くから、おそらく映画祭というような場では評価を得やすいのだろうが、私には鼻についてしまう。彼自身はこの点をどのように自覚しているのか、機会があれば聞いてみたい気がする。



ここでは「オペラ・ジャワ」の映像の美しさや、全編に流れる音楽については触れていない。ただ映画を見たときから、ジャワ人にとって物語とは何なのかということを一番考えずにはいられなかった。そしてその一方で、私の頭にある「物語」、「人物の心理」、「必然」などという概念はどこから来たのだろう、という思いにもとらわれてしまった。だから威勢良くヌグロホを批判しているように見えるだろうが、私自身にもその批判の矢が向いているのである。



その後…

以上の原稿を送った後でこの映画の歌の担当者の1人に出会い、この映画についていろいろと彼の感想を聞くことができた。私が上のように「物語」の枠組みが弱いと思うと話したところ、インドネシアでもそれを指摘する声があるが、それはガリン・ヌグロホが敢えて狙ったことではないか、と言う。彼によると、この映画で歌の構成を担当したのがスティヨ、シティ、ルディロ役に計3人いて(みな芸大スラカルタ校の先生)、それぞれラーマーヤナの「シンタ焼身」のエピソードの展開に沿って歌詞を書いたのに、編集されたのを見ると、どれも歌詞の順序がかなり入れ替わっていて、驚いたらしい。ちなみに、舞踊のあるシーンで演出した人が、編集されたのを見て「なんでこうなるの?」と思ったらしいから、監督は人々が「物語を欲する」のを裏切りたかったのかも知れない、とも思う。

また、先ほどの歌の担当者は、ラーマーヤナ物語の枠から外れているということについてはヒンズー教の側から反対の声が上がり、それについての論争が新聞に盛んに取り上げられていたとも教えてくれた。そこでインドネシアの新聞を検索してちらっと目を通してみた限りでは、どうやら、インドネシア・ヒンズー教の最高組織(パリサダ)が、ヒンズー教を冒涜しているという風に批判したらしい。

実は私には、この宗教界からの批判というのは全く意外だった。もし「オペラ・ジャワ」がもっとうまくラーマーヤナ物語の枠を生かしてスティヨとシティとルディロの話を作り上げるのに成功したとしても、それがラーマーヤナ物語を冒涜するとは思えない。ラーマーヤナは物語であり、経典ではないはずだ。なぜこの映画にそんなに敏感に反応したのか、調べてみたら面白いかもしれない。
2006.08水牛「踊りの謝礼 ~1」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年8月号『水牛』寄稿
踊りの謝礼 ~1

中ジャワ・スラカルタの音楽家・舞踊家の間には、PY(ペイェー)という隠語がある。お金をもらって上演するという意味で、プランバナン寺院での観光舞踊劇「ラーマーヤナ・バレエ」が始まった1961年頃から使われ始めたという。PYとはpayu(パユ)=お金になる、の子音を取ったもので、それはつまり芸術行為によってお金を頂戴することを賤しむ気風があったからこそ生まれた言葉なのだ。この語を使い始めたのは、「ラーマーヤナ・バレエ」の総合振付家クスモケソウォの長男だと言われている。

「ラーマーヤナ・バレエ」はインドネシア初の観光用・大型野外舞台劇で、その中心的な担い手はクスモケソウォが教鞭を執るスラカルタの芸術高校関係者(教員、学生、教員の子の子)を中心に、あちこちにいる弟子たちなどだ。この人は宮廷舞踊家で、その中でも最も保守的な人だったから、芸術を学んでいる者がお金を手にするのはよくないと考えていた。宮廷舞踊家にとっては、舞踊は人格の陶冶のためにあるべきだったのだ。だから1960年代頃のギャラは「ミー・アヤム一杯分」だったという。当時大人だった人から子供だった人まで、世代の異なる3人が3人ともそう表現した。ミー・アヤムとは鶏肉入りラーメンだが、屋台で食べられる最も安い食事である。スラカルタからプランバナン寺院までバスで行って(団体バスで行くのだが、今の道路事情でも片道1時間余りかかる)舞台をつとめるのだから、子供ならともかく、大人にとっては全く割のあわないギャラである。出演自体を嬉しい、有難いと思えないと続かない。

だから、ラーマーヤナバレエの初期を担った、当時まだ中高生だった踊り手たちは、大学に進学するとラーマーヤナ・バレエから離れてしまうことが多い。例外だったのは初代ラーマ王子役で、ジョグジャカルタにある大学の医学部に通いながら、1968年に留学するまでずっとラーマをつとめた。これは親(医者)が裕福で、息子をクスモケソウォに習わせており、かつ「ラーマーヤナ・バレエ」の仕掛け人の1人だったから可能だったのだ。

それはさておき、大学生になったラーマーヤナ・バレエの踊り手は、ホテルなどで舞踊のアルバイトをする。ジョグジャカルタでは、スラカルタと違って、毎日のようにどこかのホテルで公演がある。実際、クスモケソウォの孫娘もそうで、ジョグジャカルタの芸術大学に進学して下宿しながら、ホテルでの公演やパク・アラム王家主催の公演に出て授業料や生活費を稼いだという。

またジョグジャカルタの大学に進学したが、スラカルタに戻ってスリウェダリ劇場に出演していた元・出演者もいる。彼は最初、スリウェダリ劇場のギャラがラーマーヤナ・バレエよりはるかに高額なことに驚いたという。そのギャラで学費を全部賄えただけでなく、当時は高価なものであった自転車まで買えたという。スリウェダリ劇場は商業施設で、歌舞伎興行みたいに毎日公演を打ち、そのチケット収入で採算をとる。ここではしかるべき対価をもらって上演するのが当たり前であり、恥ずべきことではなかった。

(続く)



※ 上に「続く」とありますが、実は続きがないです(笑)。
2006.07水牛「風景が変わること」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年7月号『水牛』寄稿
風景が変わること  

ジャワ中部地震が起きてから1ヶ月が経った。私はまだ大きな地震に遭ったことがないから、被災について語る資格はないかも知れない。けれど、私自身の経験した小さな不幸について書いてみる。

最初の留学から帰国して間もなく、私は妹を亡くした。そのときになって初めて私は、今まで家族を亡くした人の気持ちを全然分かっていなかったのだと思わずにはいられなかった。私が留学している間に、私が舞踊を師事していたJ先生は夫を亡くし、P先生は父親を亡くしていた。私はお葬式に参列し、特に親しく師事していたJ先生の夫の年忌にはずっと参列していた。当時の私は私なりに先生達の悲しみに同情しながらも、ジャワ人は死を神の思し召しとしてあっけらかんと受け止めているように見える、などと感じたりしていた。私自身の身にそんなことが降りかかるまでは。

いかに第三者には気丈に見えていても、人の気持ちはそんなに簡単に割り切れるものではなく、いくら信仰心厚くとも(P先生はカトリック、J先生はイスラムを信仰している)、感じる悲しみの絶対量に違いはない、と今は思う。死をあっけらかんと受け止めているように見えていたのは、人生の不条理さをジャワの人々が心得ていて、それを受け止める心構えができていたからだと思う。そして逆に、当時の私には、そのことに気づくだけの感性がまだ備わっていなかった。

妹を亡くした後、私は舞踊の練習を1人で続けた。漠然と、ジャワ舞踊を手放してしまったら自分が崩壊してしまうような気がしていた。ガムランの曲を聴くだけでも胸が締めつけられて息苦しかったのに。なぜそんなにまでしてジャワ舞踊にしがみついていたかったのだろう。

「メナック・コンチャル」という舞踊曲がある。出陣する王子の雄雄しい姿の描写の後に、想いを寄せる姫の面影を追う王子の姿が描写される。曲の形式がそれまでのラドランからクタワンというゆったりとしたテンポに変わり、ボーカルが切々とした思いを歌い上げる。王子は今度の戦いで死ぬことを予期しているのだ。この作品のクタワンに移行する部分で、急に涙があふれてきた。死ぬことを予期した王子の激しいやるせなさが、急に私の胸にも突きあげてきたのだ。こんなことは、ジャワで練習していた時には一度としてなかったことだった。いくら作品のテーマや歌詞の意味を理解してはいても。また一度そんな風に聞こえてしまうと、もうそれ以外のようには聞こえてこなくなる。

妹が亡くなって1年半後、私は再びジャワに留学し、「カルノ・タンディン」という舞踊作品を習っていた。これは「マハーバーラタ」の中の物語の1つで、アルジュノとカルノという異父兄弟が敵味方に分かれて戦い、最後にはカルノが敗れる様を描いている。この曲には2人が離れていったかと思うと、向きを変えて近づいてくる、という振付が何度か出てくる。その向きを変えた時に歌が入ってくるのだが、そこで、カルノとアルジュノが自分と妹にダブって「もう2度と会えない」という気持ちがよぎったり、もう時間を元には戻せないと感じて、そのたびにいつも涙が止まらなかった。けれど、その箇所でそんな思いがこみ上げてくるということは、いくら作品を分析しても出てこないに違いない。この演目は重い演目で、上演される時にはお供えが必ず用意される、ということをいくら知っていても、それはやはり頭の先の理解にとどまっていて、お供えを用意せずにはいられない心の内をわかったことにはならない。

昨日の続きの今日があって、そして明日に続いていくという世界が破綻したとき、それまで見ていた風景は一瞬にして変わる。いくら被災地の映像を見、同情の念をもよおしても、この風景が変わらなければ被災者の気持ちには達し得ない、と思う(私は救援活動に携わる人々を批判しているのではない)。そしてまた芸術というのは、たぶん、それまでの安定した世界が破綻しようとするときにこそ見えてくるもののような気がする。
2006.06水牛「ジャワ島中部地震の報道について」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年6月号『水牛』寄稿
ジャワ島中部地震の報道について 

5月25日早朝6時頃、ジャワ島中部のジョグジャカルタ(以後ジョグジャと略)州を中心に地震が起きた。

日本でのメディア報道では、被害の一番甚大なバントゥル県のニュースがやっぱり一番多い。バントゥル県はちょうどジョグジャ市街と、ジャワ島南海岸との間にある。被害が一番甚大な地域だということで、いろんな救援団体が入っている。それからプランバナン寺院が崩壊したことも、割と早い時期に報じられた。そのプランバナン寺院の東半分が属しているクラテン県の被害も結構大きいらしいのだが、私の友人が現地の知人らに確認したところでは、ここには支援の手(特に食料供給)がほとんど届いていない。

NIKKEI NETでは、5月30日午前の段階で地震の死者は5,428人、全半壊または損傷した家屋が約95,000軒とあり、クラテン県のホームページでは、同県の被害は同日朝7時半の時点で死者1,039人、全壊または損傷した家屋が77,683軒(公共施設、個人家屋の合計)だとある。バントゥル県では同日午後8時15分の時点で死者3,789人、崩壊・損傷した家屋が26,733軒。それぞれどういう風にデータを取っているのか分からないから(特に家屋のデータについては)比較できないのだが、クラテン県の被害も小さくないことは分かる。

それでもクラテン県の様子があまり報道に乗らないのは、1つにはこの県がジョグジャ州ではなく中ジャワ州に属しているからだろう。今回の地震はジャワ島地震という呼称にほぼなっているが、震源がジョグジャ周辺だと報道されているために、一般の関心はジョグジャと呼ばれる地域の範囲を越えることがない。その反対に、どの報道で使われた地図にも、ジョグジャ市、ムラピ山、プランバナン寺院と並んで、被害のなかったボロブドゥール遺跡の位置が示されていた。いま挙げた地域はすべてジョグジャ観光のメッカである。被害もなく震源地から65kmくらいも離れているボロブドゥールの位置を示すのは、それが観光ガイドではジョグジャの項目に入れられており、ジャワでは一番有名な観光地だからなのだ。観光ガイドではジョグジャ/プランバナン寺院観光のページの次は中ジャワ州/スラカルタ(通称ソロ)のページになっているから、ジョグジャの地域はプランバナン寺院で終わりという風に見えてしまうのだろう。

あるいはまた、こんな風にも考えられる。いったんバントゥル県が最大の被災地と認定され、救援部隊が次々にバントゥル入りするようになると、マスコミはバントゥルにいてその救援活動を報道してさえいれば、新しいニュースはいくらでも伝えられる。つまり、死傷者の数や崩壊した家の数などは必ず刻々更新されてゆくし、新しい支援団体もやってくる。それに支援団体の活動を伝えることは、日本の外交を宣伝する上でも、納税者(政府援助の負担者)や義援金を送る人たちを安心させるためにも重要な仕事だ。そうなると、クラテンみたいに支援団体に注目されていない地域については、手間ひまかけて報道するメディアが少なくなるんじゃなかろうか、と思えたりもする。

それから、もしかしたら地方自治体の首長の被災アピール度にも理由があるかも知れない。29日に見つけたのだが、バントゥル県のホームページのトップには、義援金募集の記事が出ているのである。2つの銀行口座が書いてあって「バントゥル県知事―天災」宛てに送る。どちらもドメスティックな銀行だから、国内に向けて支援要請を発信しているわけだ。(この文章を送る直前になって気づいたのだが、県の英語版のホームページには、この支援要請のお願いや銀行口座は書いていなかった。)それに続いて、被災データや救援物資の配給データへのリンクがあり、また県知事のSMS(携帯電話のショート・メール・サービス)センターの番号が出ていて、村民が知事に要求を伝えることもできることになっている。(今もあるのか知らないけれど、同様のサービスはユドヨノ大統領が以前やっていた。)地方自治体が直接、義援金募集のページを出したことに私は驚いた。いったいこの口座に寄付する人がいるのか、このお金が着服されずに、きちんと支援に廻される保証はあるのか、私には分からない。しかし、少なくとも、バントゥル県の知事は被害の大きさを外部に向かって強くアピールしている。そのために、クラテン県が割りを食っている面もないとは言えまい。

  ●

こんな風にクラテン県のことが気になるのは、この県がジョグジャカルタとスラカルタの2つの王宮都市の間にあって、両方の宮廷に多くのダラン(影絵操者)や音楽家や舞踊家を輩出している地域だからなのだ。

ジャワの宮廷では、ムラピ山には王族の祖先霊が住み、南の海には、女神ラトゥ・キドゥルが棲んでいると信じられている。代々の王はこの女神と結婚することで、その王権の正統性を得ている。ジョグジャの王宮は、ちょうどこのムラピ山と南のジャワ海を結ぶ一直線上に位置している。この1ヶ月の間に、その北のムラピ山で噴火活動が活発化して火砕流が発生し(15日、地震後の29日)、南海岸側で地震が起きたということは、何か神々の怒りでもあるのではないか……と、ジャワ人でなくとも(あるいはジャワ人でないからこそ?)考えてしまう。
2006.05水牛「ジャワ舞踊の衣装」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年5月号『水牛』寄稿
「ジャワ舞踊の衣装」

最近はジャワ舞踊の話からそれてしまっていたので、久しぶりにジャワ舞踊の話に戻ろう。ジャワ舞踊の魅力は、その優雅な動きにあるのはもちろんなのだが、その動きを作っている衣装の魅力に負うところも大きい。というわけで、今回は特に衣装に注目してみよう。

ジャワ舞踊というのは、中部ジャワ地域で王宮を中心に発展した舞踊のことで、スラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)が主な中心地である。ちなみに文化的に単にジャワと呼ぶ場合は中部ジャワだけを指し、東ジャワや西ジャワを含めない。

●カイン・バティック

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上半身:バティック製のドドッ・アグン/下半身の着付:サンバラン

ジャワの伝統衣装の着付では、バティックを施したカイン(上下約1m×長さ約2mの布)を1枚、腰に巻く。バティックは一般にジャワ更紗と呼ばれている が、多くの人が想像するような多彩な色使いの花鳥模様のジャワ更紗は、スラカルタやジョグジャカルタのものではない。王宮都市のバティックは、白地や茶色 地に抽象化された模様が整然と描かれた地味なものだ。その中でも舞踊に用いられるのがパラン模様である。これは王族だけが着用できる禁制模様で、現在でも それは守られている。つまり踊り手がこの柄を着用できるというのは、逆に言えば、踊っているときだけ踊り手は王族の身分になれるということなのだ。

このカインの着付け方にはいろいろあるのだが、スラカルタには、カイン・バティック1.5枚分を横に縫い合わせたものを巻きつけ、裾を60cmくらい引き ずる着付け方(女性用)がある。スラカルタ宮廷舞踊の着付け方で、ジョグジャにはない。この着付け方を一般的にサンバランと呼ぶ。この布を腰にぴったり沿 うように二巻きし、余りが体の前面に来るようにして襞を取り、その襞を両足でまたぐように着て、尻尾のように後ろに伸ばす。その尻尾が、標準体型の人だ と、だいたい60cmくらいの長さになるというわけだ。そして踊る時は、裾が足にからまないように、その尻尾の部分を左や右に蹴りさばく。実はサンバラン とは「サンバル=蹴る」の名詞形なのである。しかしサンバランというのは通称で、宮廷では違う名称がついているが、失念してしまった。実は裾を引きずるよ うな服を着てみたいというのが私の小さい頃からの夢だった。ローブデコルテや十二単、打ち掛けなど、お姫様の衣装はどれもみな裾を引きずるものと決まって いる。サンバランの裾はこれらの衣装のように張りがなく、その蹴られた裾がさざ波のように揺れるから、いかにも優雅だ。

さらに宮廷舞踊のスリンピやブドヨでは、その尻尾の部分にピンクと白のバラの花びら、それに刻んだ良い香りの葉(これらをあわせてクンバン・スタマン=庭 の花という)を巻き込む。おまけに香水まで振り注ぐ。それ以外の舞踊作品でもサンバランの着付けをすることはあるけれど、花びらまでは巻き込まない。座っ て合掌していた踊り手が立ち上がり、裾を蹴るたびに、ねじっていたカインの端がほどけ、巻き込まれた花びらが少しずつこぼれて、宙に舞い散る。その様子は 散華のようだ。それに視覚的に美しいだけでなく、花びらの香りが辺り一面に拡がって嗅覚をも刺激する。これは踊り手の気分をも恍惚とさせてしまうくらい だ。

ブドヨの場合は、クンバン・スタマン以外に薬味のようなものも混ぜる。薬味の内容については失念したが、1つはしょうがみたいなものを使う。ジャワで「ダ ルマニンシウィ」という作品を踊った時に(水牛2003年3月、2003年4月に書いています)、実際にその薬味を巻き込んで踊ったことがある。花びらだ けだと官能的な雰囲気に酔ってしまいそうになるけれど、この薬味が入ることで一気に鎮静され、瞑想的な気分になる。と言いつつも、「ダルマニンシウィ」の 時は、私はしょうがの匂いに思わず空腹感を覚えてしまったのだが…。

花を巻き込むだけでなく、カインにお香を焚きしめることもある。宮廷にはかつて王様が着用するカインにお香を焚きしめる係がいたという。私は、王女さまが お香を焚きしめたカインを身に着けて踊るのを見たことがある。その時は踊り手との距離が遠かった割りには、動きにつれて仄かに香りが漂ってきたのには驚い た。こんな風に香りや花を贅沢に使うやり方は日本にはないなあと思ったものだ。


●カイン・チンデ

サ ンバランには、カイン・バティック以外にチンデと呼ばれる布を使うものもある。チンデはインド伝来の柄で、スラカルタではブドヨだけに使われる。ブドヨ (9人の女性による舞踊)の方がスリンピ(4人の女性による舞踊)よりも儀礼的な舞踊で、それにチンデを使うのは、おそらく宮廷儀礼とヒンズー仏教との間 に何らかの関係があったからなのだろう。そのチンデの布は、インドでは織物であった。私も日本での展覧会やスラカルタの骨董屋でオリジナルのチンデを見た ことがある。どちらも布の両端に織物の耳が厚く残っていた。現在ジャワで目にするチンデは、染めて作られているから耳はない。しかし布の両端に線が描かれ ていて、耳の名残がある。


●サンプール

サンプールは腰に巻いて、手で払ったり、指でつまんだりして使う布である。大人だと60cm幅×3mくらいの大きさのサンプールを使う。ジョグジャではほ とんどチンデ模様のものを使うのだが、スラカルタでは男性荒型の舞踊やブドヨを除き、ほとんどの場合無地のものを使う。シフォンなどの柔らかく透けた布地 を使い、両端にビーズで房をつけることが多い。

これがまた乙姫や天女や仏様が肩にかけているショールのような感じで、お姫様好きには憧れの小物である。だがサンプールを払うのは簡単そうに見えて結構難 しい。未熟者が払うと手首によけいな力が入ってしまうし、それに薄物はとにかくアクセサリー類にひっかかり易く、未熟者はとかく粗相しがちだ。けれど上手 な人がサンプール払うと、なんだかサンプールの滞空時間が長くて、本当に画に描かれた天女を見ているような気持ちになる。スリンピやブドヨでは皆同じ衣装 を着て踊るけれど、ある人の周囲だけ時間の流れがスローモーションになっていて、あるいは濃密な空気が立ち込めていて、その人のサンプールだけがいつまで もふんわりと宙になびいている、と見えることがある。そんな風に踊れたら良いなといつも思っている。

●ビロードの胴着

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胴着…左:コタン/右:メカッ、いずれも無地のサンプール

下半身を覆うのがジャワの伝統的なカイン・バティックであるのに対して、女性の上半身を覆うのは西洋からもたらされた素材=ビロードの胴着である。こんな 風に上半身と下半身の素材のルーツが異なるのは、ジャワ舞踊だけに限らず東南アジア各地の伝統衣装によく見られるものだ。南国ではかつて上半身に何もまと わなかったのだが、西洋人が服を着るように教化・強制したので、上半身が西洋風の衣服になった、というわけである。それはともかく、ジャワの女性舞踊の一 般的な着方にはメカッ(=ビスチェ・タイプ、両肩を出す)とコタン(=袖なし上着)の2通りのモデルがある。どちらもビロード地に金糸で刺繍をおいたり、 モールやビーズで房をつけたりして、豪華に仕立て上げたものが多い。

スリンピの場合はメカッでもコタンでもよいのだが、たいていはどちらを使うのか決まっている。ゴレッという種類ならコタンだし、スリカンディなどワヤン (影絵)の登場人物はメカッである。また女性の踊り手が男性舞踊の演目を踊る時は、メカッを着ることになっている。男性の踊り手なら本当は上半身何も着な いのだが、女性が踊る場合はそれはまずい…というわけである。

●ドドッ
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アラス・アラサン柄のドドッ・アグン、チンデのサンプール
出典 Karaton Surakarta p.298


ドドッというのはカインを上半身に巻きつけて着る着方の総称で、宮廷には何種類ものドドッがある。舞踊に使われるのは、ブドヨを踊る時のドドッ・アグン (大きなドドッ)という着方で、これは花嫁衣裳にも使われる。ドドッ・アグンでは約2m×5mの大きさの布を巻き込み畳み込んでいって、上半身から膝あた りまでを覆うように着付ける。それには金泥でアラス・アラサン(森の模様)と呼ばれる柄が描かれ、その生地はカインよりもずっと厚くて重い。ちなみに、私 はジャワに住んでいる時、ドドッ・アグンの布を普段はカーテンとして使用していた。ちょうど窓2枚分を塞げる上に、生地が厚くて全然光を通さず都合が良 かった。

ドドッ・アグンでは布を巻く醍醐味が味わえるとはいえ、重量も相当になるので、覚悟がないと着れない。普通は美容師に着せてもらうもので、1人ではまず着 ない(着れない)ものだが、私は日本で何度か1人で着て踊ったことがある。私はこのドドッ・アグンがジャワ舞踊の衣装の中で一番好きなのだ。

この衣装の魅力はやはりその儀礼性の高さにある。ドドッ・アグンの場合はカインとサンプールはチンデのものを使用する。これらを全部身に纏うと、ビロード の胴着にカイン・バティックを着る場合とは全然違う心持になる。ただ大変踊りにくいのは事実である。ジャワ舞踊では必ず座って合掌してから立ち上がるのだ が、ドドッでは相当量の布が上半身に巻き付いるので、手をつかずにすっと立ち上がるのが難しい。現行の宮廷の踊り方では、立ち上がる前に踊り手は必ず手を つき、「どっこいしょ」という感じで両膝を揃えて体勢を整えてからおもむろに立ち上がる。練習の時(カイン・バティックを身につけている)にその立ち方を 見てみっともないなあと思っていたが、上演の時はドドッを着ることを考えると、致し方ないなあという気がしてくる。

こういう古典のドドッではなく、着やすいドドッも発明されている。それはブドヨ用ではなく、結婚式でよく踊られるいわゆる「ラブダンス」ものの演目のため である。スラカルタでは、1970年代から男女がペアで踊る演目が結婚式用に盛んに作られるようになった。その第1号がマリディ作の「カロンセ」で、これ にはパンジ王子とスカルタジ姫という設定があり、その衣装を着る。しかしそれ以後に芸大を中心に作られた作品では、そういうキャラクター設定をせず、衣装 も次第に花嫁衣装に似せたものを使うようになってきた。つまり踊り手が花嫁・花婿を演じるというわけなのだ。この場合は、カインよりも少し長いドドッ・タ ングン(1m×2.5m、タングンは中途半端の意)と呼ばれる布を、ドドッ・アグン風に着付ける。これは薄くて着やすく、動きやすい。芸大の先生が考案し たと聞いている。
2006.04水牛「ここ10年のインドネシアと日本(3)インターネット」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。

※ 今年の6月頃まで、サイト『水牛』未掲載分のエッセイを本ブログにせっせとアップしておりましたが、いつの間にかすっかり忘れておりました。というわけで、またぼちぼち再開します。



2006年4月号『水牛』寄稿
「ここ10年のインドネシアと日本(3)インターネット」

留学から帰国して間もない頃は、最近の日本はどうなっているのだろうと、せっせと本屋を廻って雑誌を立ち読みしていた。ちょうどスハルト退陣(1998年5月)の頃だ。その頃の女性誌には、「仕事のできるキャリアウーマンは、街角で颯爽とモバイルパソコンを開く」といったイメージを強調する特集が載っていたり、今なら始めからパソコンにインストールされている、簡単にプロバイダ接続できるCDが付録についていたりした。おそらくその頃から、一般個人がパソコンを買ってインターネットを利用し始めたのだろう。

逆に帰国前のインドネシアのソロでは、インターネット・カフェがぼつぼつ登場し始めていたところだった。ジャワの有名な音楽家の死亡ニュースを、ジャワに住む自分達よりも日本にいる友人達の方が先に知っていたと分かって驚く、ということが起き始めていた。おそらくジャワに滞在する欧米人がガムランのメーリングリストに情報を発信していたのだろう。

そういうことやなんかでやっぱりこれからの留学生にはパソコンが必要だと痛感して、それから1年半後の再留学ではモバイル・パソコンを持って行った。ソロにもプロバイダができたと聞いていたし、またインターネット・カフェの数もぐんと増えていた。私の住む市役所の裏辺りでは、徒歩10分以内に3軒ネット・カフェがあった。ちなみにその1軒がクスモ・サヒッド・ホテルに入っているALOHAネットだ。欧米からの宿泊客や留学生がよく利用しているが、インドネシア人も多く利用している。芸大でも学長室や各学科の事務室にパソコンが導入されており、さらにそれから半年か1年の間に、図書館の中に学生向けにインターネット室ができた。こんな具合に、日本で個人所有のパソコンが普及していった頃に、インドネシアでは公的機関のパソコンやネット・カフェが増え、おかげで日本との連絡はとても便利になった。

インドネシアでは、私は普段は自宅でダイヤルアップでインターネットにつないでいた。日本から持っていったモジュール・ケーブルがすぐにだめになり、どこで買えばよいかと大家さん(工務店)に相談すると、通りの向かいの文房具屋で売っているという。行ってみたら、そこではケーブルがメーター売りされていた。好きな長さでカットしてくれて、両端にジャック部分を取り付けてくれるのである。日本では長さを選べるといっても限定されているし、1つ1つパックされている。インドネシアの方が合理的で、それに物価から見てもケーブルの値段は安かった。日本ではなんでケーブル類というのはあんなに高く、しかも包装だけ立派なのだろう。

また液晶画面がどんどん暗くなり、ついに画面が見えなくなるということがあった。私の友人でも、ノートパソコンを使っている数人がこういう目に遭っている。これは、インドネシアでは電圧があまりうまくコントロールされていないから液晶に負担がかかるのだと、インドネシアのコンピュータ屋さんは言う。それで高価な家電品――パソコンとか冷蔵庫とか――を使うときには必ず電圧安定装置(スタビライザー、インドネシアではスタビリザーと発音したほうが通じる)を使い、コンセントに直接差し込まないようにとアドバイスされた。そういえば大学のコンピュータは必ず何かにつないで使っている。あれがスタビライザーだったのだ。大学で使っているような、差込口がいくつもあるようなスタビライザーは結構な値段がするので、1つだけのを買うことにする。これは電気器具屋さんで売っている。インドネシアでパソコンを使おうと思っている人は、絶対にこれを買ったほうが良い。

さて画面が見えないと困る。この頃私は芸大の先生を日本に招聘するため、日本と頻繁に連絡を取っていたからだ。けれど画面だけが使えないので、モニターだけを買ってパソコンにつなげば問題ないということになった。そこで中古モニターを買う。しかし私のはパソコンといってもモバイルなので、普通のパソコン用の周辺機器がそのままでは使えないことが判明。結局日本のメーカーから取り寄せることになるが、これが1万円近くもしたので、頭にくる。なんで日本のメーカーは周辺機器にやたら高値をつけるのだ。しかもそれだけでは直接モニターにつなげなかった。端末のオス・メスが逆になっていたのだ。これはいけずだろうか。さらに頭にきながら、オス・メスをつなぎかえる接続部品をインドネシアで買う。

私が2003年2月に帰国したら、私の持っているモバイルのタイプはすでに製造中止になっていた。3年前、2回目の留学に発つ前まではまだモバイル・タイプが多く売れていたのに、世はすでに大型ノートパソコンの時代となっていた。「キャリアウーマンが街角で颯爽と」というイメージではなくて、年賀状を作ったり音楽や映像を取り込めたりできる性能や実用性が強調されるようになっていて、パソコンのサイクルは速いものだと実感する。

話は戻るが、中古のモニターを買うといってもすぐには在庫がなくて、しばらく待つことにする。その間メールを読む手段はないかとプロバイダに聞いてみたら、ウェッブ上で読めるという。という訳で、この頃はよくネット・カフェに通った。私がよく利用したのは上記のALOHAである。ここが一番近くて回線が速かったからだが、大学の先生や芸術系の知人、留学生なんかがよく利用していると分かる。そういえば、私は舞踊のレッスンを自宅でよくしてもらっていたが、その先生はレッスンのあとに決まって友人とALOHAで会う約束をしていた。そんな風に、ネット・カフェはちょっとした社交場になっている。それでパソコンが直っても、私も時々は知人に会うためにネット・カフェに行くようにしていた。

2003年から毎年夏に、私はジャカルタにも行くようになった。住んでいたのは都心部のカンプン(下町)で、その辺りには都心企業に勤める若い人向けの下宿が多い。そんな地域でネットカフェをなんとか1軒見つけて入ったら、そこでメール通信をしている人は誰もいなかった。皆インターネット・ゲームをしていたのである。客筋は中高生の若い男の子ばかり。壁に貼ってある料金表を見れば、基本料金はソロと同じであるものの、3時間とか6時間とかを超えるといくらという風に割引価格も示されている。6時間くらいゲームをする子もいるのかと思って、驚いた。この地域で遊びに来ている男の子達は明らかに華人系の顔で、察するところ、この辺りの裕福な下宿屋の息子達であろうか。下宿の住人達はたぶんオフィスでインターネット・メールを使い(少なくとも私のジャカルタの知人達のメールアドレスは皆オフィスのものになっている)、下宿近くではしないのだろう。ジャカルタにはソロのような社交場的ネット・カフェはないのだろうか、逆にソロにもこんなインターネット・ゲーム専門のようなカフェもあるのだろうか、と少し興味を覚えている。
2006.03水牛「ここ10年のインドネシアと日本(2)電話」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年3月号『水牛』寄稿
「ここ10年のインドネシアと日本(2)電話」
冨岡三智

1度目の留学から1年半をおいて同じ町に留学してみたら、電話事情も大幅に変わってしまっていた。携帯電話やインターネットが普及し始めていただけでなく、従来のワルテル(ミニ電話局)より小規模の公衆電話があちこちに出来ていたのだ。電話回線の整備が遅れており、電話がない家もまだある割には、通信事情は格段に良くなった。というわけで今回は、私の生活圏での電話事情がどう変わったのかについて書いてみよう。

  ・家庭の電話

私は2度の留学とも市役所の裏に、電話のある1軒家を借りた。電話付というのが私の譲れない条件だったのだが、しかしこれは結構大変だった。町の中心部でも電話がない物件がいっぱいあるのである。全部で合計20軒くらいの貸し家(どれも街中)を見て廻ったけれど、電話のある家は私が借りた家以外になかったように思う。

電話回線の整備が追いついていないとは言っても、電話が確実に増えているのは確かだ。1度目の留学の間――1996年から1997年頃――に電話番号の桁数が1つ増えて6桁になった。スラカルタ市内の電話番号は冒頭に6が、郊外では8がついた。当時電話局に貼ってあったポスターによると、この電話回線の普及にも各国の援助が入っていて、ブロック毎にそれぞれの国の管轄があった。確かジャワ島ブロックは日本(NTT)の管轄だったように思う。

  ・ワルテル

ワルテルというのはミニ電話局のことで、1980年代後半からインドネシア全土に広まったという。中央電話局同様に、そこにある電話ブース(3台くらいある)から電話をかけたり、ファックスを送受信したりしてもらえる。しかし電話料金の支払いはできない。電話機に料金が表示され、その代金を窓口で支払うというシステムだから、おつりももらえてコイン式やカード式の公衆電話よりずっと便利だ。

私が初めてインドネシアのソロに行った1989年3月、日本に電話をかけたいと言うと中央電話局に連れて行かれた。この時点では、1992年以降よく利用することになるワルテルはまだなかったように記憶する。で、中央電話局ではと言うと、まずオペレーターに電話をかけてもらい、「○○さん、△番のブースへどうぞ~」と呼ばれて初めて電話口に出ることができる、というシステムだった。国際電話だけがこうだったのではなく、国内電話でも同様である。それが1992年2月にはすでに、パサール・ポンにワルテルが登場し、自分でダイアルして電話をかけられるようになっていた。インドネシア全土にワルテルが広まったのは、きっと「自分でダイアル式」になってからのことに違いない。

現在ではそういう老舗ワルテルだけでなく、店や下宿などの一角にブースを作って電話機1台を置いているだけ、というタイプがそこここにある。これらが広まったのは、1998年の暴動の時にコイン/カード式公衆電話が多く焼かれたからだ、と聞いた。こういうワルテルの料金は老舗ワルテルに比べて高く、かつ値段にばらつきがある。(端数は決まって切り上げられる。)また職員についても、老舗ワルテルの場合はたぶん電話局の職員だ(まだ聞いてないけれど、ワルテル間で異動があるという話は聞いたことがある)。しかし新しいワルテルの職員(お金を取る人)は、明らかにその店や下宿のオーナーである。

ちなみに、こういう新しいワルテルの電話機はモジュール・ジャック仕様になっているから、嫌がられること請け合いだが、インターネットにつなぐことができる。老舗ワルテルの電話機はしっかりした箱型で、回線も太くて抜けない。

  ・携帯電話

これも暴動後に急速に普及した。最初の留学(~1998年5月)では、私の知る芸大の先生たちはまだ携帯電話を持っていなかった。それが2000年2月に戻ってきたらぼつぼつ携帯電話を持つ先生がおり、その後の3年の内に、ほぼ皆が持っているくらいに普及してしまった。この頃は、「○○先生はあの研究プロジェクト予算(教育省からおりる)で携帯電話を買った」というような話を、学生達から時々耳にした。研究経費を浮かせてその分を携帯電話にまわしていたらしい。

そして今では芸大学生や留学生の多くも携帯電話を持っている。暇があるとSMS(メール通信のようなもの、ただしインターネット経由ではない)を打っている光景も日本と変わらない。このジャム・カレット(ゴムのように伸び縮みする時間の意)のお国では、相手が約束を忘れているのか、遅刻しているだけなのかわからないまま悶々・イライラと人を待つことが昔はよくあったけれど、そんな文化ももうなくなるだろうという気がする。
2006.02水牛「ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年2月号『水牛』寄稿
ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり  
冨岡三智

日本の年末年始には、越し方行く末を考えさせてしまう何かがある。久しぶりにしみじみと年末年始を満喫していて、ふと、ここ10年くらいのインドネシアや日本の暮らしの変わり様を振り返ってみようと思いついた。この間2~3年おきに日本とインドネシアを行き来していると、その度にそれぞれの国が大きく変化したなあと意識せざるをえなかった。ずっと日本にいれば、あるいはずっとインドネシアにいれば、おそらくそういう気づきも日常生活の中で風化してしまったかも知れない。というわけで、まず今回はスハルト時代とその後の変化について気づいた点あたりから始めよう。

念のため書いておくと、私は1996年~1998年5月と、2000年~2003年にインドネシアのソロ(正称はスラカルタ)に留学している。1回目の留学はスハルト大統領時代の末期で、1998年5月に帰国した直後に全国的な暴動になってスハルト退陣につながった。そして2回目の留学はワヒド大統領からメガワティ大統領―スカルノ元大統領の娘―の時代にあたる。

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2回目に留学したとき、スハルト時代は終わったんだなあと感じたことがいくつかあった。その1つが警察での質問事項である。留学すると警察にも出向き、外人登録をする。その時に細かくいろんなことを聞かれるのだが、2回目の留学では外れていた項目が1つだけあった。それは「1965年9月30日に、あなたはどこにいて何をしていましたか?」という質問である。

この日の出来事は後に9月30日事件と呼ばれる。これをきっかけにスハルトが台頭し、スカルノに取って代わって大統領になった。そして事件に関与しているとされた共産党シンパが数10万人粛清され、1998年の暴動の時のように多くのチナ(華人)が襲われた。スハルト政権下では、この事件に関与していた疑いがあれば(本人だけでなく身内でも)インドネシア人なら絶対公務員になれなかったし、外人なら入国拒否された。

だからこの質問は踏み絵の儀式なのだ。その証拠に、生年月日を見れば私がその時にまだ生まれていなかったことは明らかなのに、わざわざ質問して私に答えさせる。私が「まだ生まれてませんでした」と答えると、やおら書類にその返事を書き込む。他の項目だと、こっちが答えるより先に一人合点して書類に書き込んでいくことも多いくせに(人の話をちゃんと最後まで聞かないインドネシア人は多い)。

2回目に留学した時にはその質問がなくなっていたので、「あの『9月30日に~』の質問はしないのですか」と、わざと聞いてみた。そうしたら「もう、なくなりました」で終わりである。「へー、いつから?」と突っ込んでも良かったのだが、警察でそこまで悪ノリするのはやめた。

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またスハルト時代には、役所や公立の機関では毎週月曜と毎月17日(インドネシアの独立記念日が8月17日なので)の始業前に集会があった。そういう所にはメインの庁舎の前に芝生を植えた円形広場があり、広場の中央には国旗掲揚台があって、そこで集会をするのである。そしてこの日は職員全員グレーの公務員服を着てこないといけない。

私は2回の留学とも市役所の裏に住んでいた。朝7時半に始まる1時間目の授業に出ようと思うと、市役所の前を7時前に通る。月曜のその時間帯には、公務員服を着た市役所職員がこの広場いっぱいに出ていたことを思い出す。

事情は芸大(国立大学だから職員や教員はみな公務員)でも同じである。ただ、いかんせん芸術系の学校ゆえ、まじめでない先生も多かった。それも音楽科よりも舞踊科に。音楽科では月曜や17日の公務員服の着用率はまあまあ高くて、今日は月曜日とかいうことが視覚的に分かったが、舞踊科ではそれはあまり分からなかった。

ある月曜日、私はちょっと早めに芸大に行って、集会の様子を見てみようと思った。大学に着くと集会はもう始まっていて、広場に入る正門も閉められている。ふと横を見ると、舞踊科の先生達がいる。「いや~遅刻してね~。まだ中に入れないね~」と私に弁解していたが、それ以前に公務員服を着ていない。はじめから集会に入るつもりはなかったんだろう。けれど、こんな不まじめさの方が健全だなという気もしていた。

こういう儀礼に気づいたのは1回目の留学早々である。入管に行った日がたまたま17日で、朝8時から入口は開いているのに、9時半頃まで職員が誰も出てこなかったのだ。頭にきて警備員に問いただすと、今日は17日の集会だからね、という答え。その言葉は黄門さまの印篭に似て、有無を言わせない。

それが2回目の留学では、17日にも入管に行かざるを得なくなったけれど、集会はやっていなかった。市役所での月曜の集会も全然見ないし、芸大でも月曜に制服を着ている先生もいない。それで念のため芸大の先生達に確認してみたら、やっぱり集会はスハルト退陣後になくなったということだった。

そしてそれがなくなってみると、日々の雰囲気も少し変わったなとあらためて感じる。特定の日に公務員服があふれるという風景は、今にして思えば妙に儀礼的で、硬直した雰囲気がつきまとっていた。あれはやっぱりスハルトへの忠誠を誓う儀式以外の何物でもなかった。だからこそ、スハルトが退陣してしまうと簡単に止めてしまえるのだ。「もう伝統になっているから今後も続けましょう」なんて誰も言い出さなかったのだろう。

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スハルト時代と言えば、ゴルカル党の黄色を思い出す。この時代の政府系イベントでは、何かというとしつこく黄色を使った。

上で公務員服のことを書いたが、あれも正式の行事の場合は中に黄色いシャツを着なくてはいけないようだ。これは芸大の公務員達だけの式典(趣旨は忘れた。生徒は入れない)の通達で知った。そこには、公務員服ならびにその下にゴルカルの黄シャツを着用すべしという条件が書いてあって、着用していなければ中に入れないことや、黄シャツがない人は新たに購入すべしということも付記されていた。

そしてテレビ中継される国家行事などでは、前の方の席にずらりと陣取る人達――議員か閣僚か――が皆黄色い背広を着て映っていたことを思い出す。日本で黄色い背広を着るのは漫才師くらいだから、このインドネシアの偉いさんの光景はとても奇妙な感じがしたものだ。そしてその一方、偉いさん達の前で繰り広げられる舞台の衣装にも黄色の割合が高い。

たとえば、確か1997年のハリ・イブ(母の日)の行事もそうだった。故・スハルト夫人の故郷・カランアニャル(ソロ郊外)でスハルト臨席のもと行われた時、ソロの芸大に女性舞踊を出すよう指示がきた。その時は60何人かの踊り手がいて(60何回目かのハリ・イブだったから)ガンビョンを提供したのだが、衣装の上着は全員黄色だった。

またソロでは、スハルト時代は毎年の独立記念日や正月に市役所でワヤン(影絵)があったのだが、その時も、伝統衣装に身を包むダラン(影絵操者)も演奏家も決まって黄色い上着を着ていた。

こんな風に、色でアピールするというのは素朴だけれど効果的だ。ゴルカルが行事を主催しているということが、何のナレーションがなくても、遠くからでも、そして子供にも一目瞭然に分かる。

時は流れて2002年の12月、暴動時ではなかったが焼失したソロの市役所が再建され、そのオープニングがメガワティ大統領を迎えて行われることになった。近所のことゆえ私はのこのこと市役所の門の前に行って、塀の外から中の様子を見ていた。そうしたら接待係の人達のクバヤ(伝統衣装の上着)がみんな真っ赤(メガワティの政党の色)だったのだ。それを見たとたん、ああメガワティの時代に変わったんだなと強く実感したことだった。スハルト時代なら、あの人達はみな黄色いクバヤに身を包んでいたはずだから。スハルト色を払拭するのなんてこんなに簡単だったんだと、以前を知る者は拍子抜けしてしまう。

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そしてスハルト後を強く印象づけるのがチナ(華人)文化の解禁だ。2000年2月に再留学してすぐ、ソロでも中国雑伎ショーがあって、芸大の舞踊科でも結構話題になった。また各種イベントにバロンサイ(獅子)やリヨン(竜舞)が決まって登場するようにもなった。こういうものは9月30日事件以降禁止されていたから、1回目の留学では全く目にすることがなかった。いったい、この巨大なバロンサイや竜はいつインドネシアに運びこまれたのだろう。そしてチナの子弟達は、どこで、どうやって練習していたのだろう、指導者はどこから呼んだのだろうか、などと考えてしまう。

チナの人達が祝う旧正月も、2002年は暫定的に、そして2003年からは正式に祝日になった。この日、バロンサイがスラマット・リヤディ大通り沿いの店々(オーナーはたいていチナ)を獅子舞して廻ったという。そしてデパートやスーパーでは旧正月用品の売り出しが華やかに行われた。食品のパッケージやグリーティングカードはどれも赤色で、そこに金色でめでたい文句の漢字が書いてある。

1998年末から経済危機がひどくなり、暴動が発生するようになると、多くのチナ系の人達が略奪・暴行の目に遭った。本当はソロはかなり荒れた所だ。もっともその一番荒れた時期に私は日本にいた。それでも一触即発の雰囲気になるまでの様子は知っている。1998年の旧正月は、表立って祝うのが危ないとチナ系の人達は自粛していた。
私達日本人の方にも、チナに間違われて襲われるかもしれない、インドネシア人には日本人とチナの顔の区別はつかないだろうし……、という恐れがあった。そんな空気を体感していただけに、こんなに派手に旧正月用品の売り出したり、チナでない一般のインドネシア人も「旧正月おめでとう」と挨拶したりする日がくるなんて、当時は想像できなかった。

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最後にスハルト時代の終わりにとどめを刺すのが、スハルトの肖像が描かれた5万ルピア札(当時の最高額紙幣)が消えたことだ。それは2000年8月のことで、それだけではなく全紙幣のデザインが刷新された。偽札が増えてきたからというのが表向きの理由だったが、スハルト紙幣の登場は他の紙幣デザインに比べてそんなに古いことではない。歴史的には独裁者が自分の肖像紙幣を発行するようになるとその政権も末期らしいが、それはまさにスハルトにも当てはまっている。
2006.01水牛アーカイブ「年末年始の時間~赤穂浪士からとんどまで」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

昨年9月に2005年12月号をアップして以来、取り紛れてしばらくアップできていませんでしたが、再開します。水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。




年末年始の時間~赤穂浪士からとんどまで

年の瀬の追われるようにあわただしい雰囲気の中を駆け抜け、新年に突入してぼーっとする、という日本の年末年始の雰囲気が私は好きだ。

インドネシアでは西洋暦の正月だけでなく、ジャワ・イスラム暦正月、ヒンズー暦正月(ニュピ)に太陰暦正月(スハルト政権が倒れてから祝日に加えられた。中華系の人たちが祝う)が祝日になっている。ジャワで一般の人たちが一番盛大に祝うのはイスラム暦正月だ。宮廷行事や年忌法要、80歳のお祝いなんかはこの暦に従う。また兄弟姉妹が同じ年には結婚式を挙げないという時の暦もジャワ暦で、生活には西洋暦よりもジャワ暦の方が重要だ。

それでもジャワ暦も西洋暦も、大晦日を寝ずに過ごして翌朝の元旦を迎える点は日本の(かつての)正月と同じだ。ジャワだと通りのあちこちで紙製のラッパが売られ、ラッパを鳴らしたり爆竹を鳴らしたりしてにぎやかに大晦日を過ごす。市役所や劇場なんかではワヤン(影絵)や特別豪華版の舞踊劇が催されて人々でいっぱいになる。

ただどちらにしろ、ジャワには大晦日から正月への移行はあっても年の瀬がないという気がしてならない。1年がもうすぐ終わるという追い立てられるような気持ちにならないのだ。旧い年の残りの日々をカウントダウンして、大掃除をして、旧いことは忘れて(忘年)ご破算にして、まっさらの1年に更新しようという気持ちが、ジャワでは沸いてこなかった。暦がたくさんあるのもその一因かも知れない。各正月が巡るごとに追い立てられてはたまらない。あるいは、雨季と乾季のサイクルで巡る国では、時は循環しても前進しないのかも知れない。逆に四季がある日本では、時は循環するにしろ、春から夏を経て秋、冬へとゴールに向かって直線的に進む部分もあるのかも知れない。

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唐突ながら、年の瀬の感を強くするのが赤穂浪士ものの番組だ。日本人は(もちろん私自身も)なんで赤穂浪士の話が好きなのだろう。それはきっと、年末に達成感やこれでおしまい!という気持ちを刺激してくれるからなのだ。12月14日という日も良い。これが暖かく眠気を催す春先だとか、蚊の多い夏だとかだと、討ち入りの悲壮さに欠けてしまって共感できないかも知れない。それに1年の先はまだ長いから、これですべて終わったという心持ちにもなりにくい。やはり寒くなってからがいい。かといって、大晦日近くの本当に忙しい時に討ち入られてもはた迷惑な気がする。正月準備に取り掛かる事始めの日(12月13日)を迎え、なんだか気ぜわしくなってきたところに討ち入りだと、良かった良かった、浪士も本懐を遂げたし、私もこれであとは大掃除と年賀状を出せばおしまい…という気持ちにはずみがつくのだ。

ところで、早や昨年となった12月の始め頃に、赤穂浪士の講談を聞く機会があった。それも別注ネタである。注文主は討ち入り後の赤穂浪士のお預け先となったお家の1つの末裔の方である。そのお家は赤穂浪士へのもてなしがあまり良くなかったと言われているのを口惜しく思い、「大変結構にもてなした」というお話にしてほしいと注文されたのだ。会場はそのお家敷で、八畳座敷を二間続きで使い、床の間を背にした講釈師の前に、その末裔の一家(子や孫も含め)と友人たちの20人足らずが座っている。こんなアットホームな会場に呼ばれたのは初めてですと講釈師も言っていたけれど、こんな風に自宅に芸人を呼んで楽しむのは、現在の日本ではほとんど見られないだろう。今ではなんでも劇場芸術になってしまい、個人がチケットを買って入場するというのが普通だ。このお宅で講談を聞いていると、ジャワの個人宅で催される音楽会だとか影絵だとかを思い出す。ジャワではまだこんな楽しみ方が廃れていない。

それはともかく、昔はある講談を本にするとなると、ネタに関係する大名家などに本をまとめて買い上げてもらいに行ったという。そこで値切られたりすると、講釈師は講談の中でその大名家のことを散々悪く言って恨みを晴らしたらしいのだ。そのために、たとえば蜂須賀家は泥棒呼ばわりされる破目になったという。だから今回別注ネタを注文したお家も、もしかしたらご先祖が協賛金をケチったのかも知れない。そんなことを講談終了後に講釈師が話してくれた。

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こうしてめでたく正月を迎えるのだが、年の瀬がないのと同様、ジャワには正月の時間の長さもない気がする。翌朝は確かに前日よりも静かで、道路には一晩寝ずに騒いだ人たちのラッパやらゴミやらが静かに散乱している。けれど、正月はそれで終わりなのだ。特別にごちそうを食べることもないし、その日の昼からはもう普通の生活に戻ってしまう。

けれど日本でのお正月は松の内の間中続いている。その間に学校や会社は始まっているにしろ、正月気分というのは何となく残っている。松の内の最後の1月15日の夜に青竹を高さ3mくらいに組んで燃やし、正月飾りをその火で燃やす。それがとんどだ。私の地域(奈良県)ではとんどと呼ぶが、他にどんど焼きとか左義長とも呼ばれる。この時、書き初めも一緒に燃やし、それが空高く上がると書道の腕が上達すると言われている。県下には大勢の観光客が見に来るような有名な由緒あるとんどもあるけれど、どの地域でも田圃や広場で普通にやっている(と思う)。

子供の頃はとんどを心待ちにしていた。誰が始めたのか、とんどの夜にかくれんぼして遊ぶという習慣があったのだ。大体中学に上がる頃までそうやって遊んでいた。親も公認で、この日は夜遅くまで遊んでいても叱られなかった。とんどに点火される夜8時頃、子供たちは懐中電灯持参で集まる。しばらくは火に当たりながら書き初めの上がる高さを競い合ったりしているけれど、そのうちかくれんぼになる。思いがけない所、たとえば葉が落ちて裸になった柿の木の上なんかが、夜には立派な隠れ場所になるのが楽しかったものだ。今になって思えば、これでお正月も終わりという気分が子供の側にも強くあったような気がする。夜のかくれんぼは1年に1度、とんどの夜だけの楽しみであった。過ぎ行く正月の最後の夜だからこそ、あんなに時間を惜しんで遊んだのだろう。

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今では松の内の語も7日までを指し、百貨店は2日から営業している。年末の大掃除やお節料理づくりも大層なことはしなくなっている。それでもお正月をはさんで年の瀬、松の内という時間の移り変わりがあることが、私には嬉しい。正月は時間軸上のデジタルな点として存在するのでなくて、旧い年から徐々に新しい年に脱皮して生まれ変わるその時間の幅に存在していてほしい。
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