2012年05月31日 (木)
2012年5月19日 Theatre Academy Helsinkiにて

2日間の"Shifting Dialogues"シンポジウムが終わり、ご飯を食べに行くまでの間に。ノーム(gnome、小人・妖精のことらしい)をイメージしたというパフォーマンスがあり、その後、スピーカー1人1人がノームの被っていた新聞帽子をかぶって記念撮影。一応ジャワ舞踊のポーズをしてみるが、肘が引き過ぎですね。でも、なんで笑ってるんだろう?


即興パフォーマンス。野中久美子さんの能管(写真右)、Chan E.Parkさんの樽を叩きながらパンソリ(写真左)と。

2日間の"Shifting Dialogues"シンポジウムが終わり、ご飯を食べに行くまでの間に。ノーム(gnome、小人・妖精のことらしい)をイメージしたというパフォーマンスがあり、その後、スピーカー1人1人がノームの被っていた新聞帽子をかぶって記念撮影。一応ジャワ舞踊のポーズをしてみるが、肘が引き過ぎですね。でも、なんで笑ってるんだろう?


即興パフォーマンス。野中久美子さんの能管(写真右)、Chan E.Parkさんの樽を叩きながらパンソリ(写真左)と。
2012年05月25日 (金)
2012年5月20日(日)朝からヘルシンキ市内を観光

ヘルシンキ大聖堂(ルーテル派の本山)
よく見るとかもめが1羽写っている。港が近いので、かもめがやたらと飛んでいる。

ウスペンスキー大聖堂(西欧最大の正教教会らしい、ロシア・ビザンチン建築様式)

港
ヘルシンキでは海水の塩水の香りが全然しない。なぜだろう…?
今回行って初めて気づいたのだが、フィンランド湾を挟んでヘルシンキの向かいにロシアのサンクト・ペテルブルグがある。昨日のシンポジウムの総括討論で、「フィンランドにとって、アジアとはまずロシアのことであり、そしてロシア以東のことだ」と言った人がいて驚愕したのだが、ロシアから独立したフィンランドにとっては、アジアという概念はロシアの脅威とセットなのかもしれない。
大聖堂の方に着いたのは9時25分頃で、まだミサは始まっておらず、ウスペンスキーの方を見に行ったときには、ミサが始まっていた。連れがいたのでちらっと見ただけだが、金色のお堂の中、お香の匂いが満ちて、透明な讃美歌の声に包まれて、異次元に迷い込んだ気がする。いつまでもそこにいたかったが仕方がない…。

アテネウム美術館を見に行く。

ヘルシンキ大聖堂(ルーテル派の本山)
よく見るとかもめが1羽写っている。港が近いので、かもめがやたらと飛んでいる。

ウスペンスキー大聖堂(西欧最大の正教教会らしい、ロシア・ビザンチン建築様式)

港
ヘルシンキでは海水の塩水の香りが全然しない。なぜだろう…?
今回行って初めて気づいたのだが、フィンランド湾を挟んでヘルシンキの向かいにロシアのサンクト・ペテルブルグがある。昨日のシンポジウムの総括討論で、「フィンランドにとって、アジアとはまずロシアのことであり、そしてロシア以東のことだ」と言った人がいて驚愕したのだが、ロシアから独立したフィンランドにとっては、アジアという概念はロシアの脅威とセットなのかもしれない。
大聖堂の方に着いたのは9時25分頃で、まだミサは始まっておらず、ウスペンスキーの方を見に行ったときには、ミサが始まっていた。連れがいたのでちらっと見ただけだが、金色のお堂の中、お香の匂いが満ちて、透明な讃美歌の声に包まれて、異次元に迷い込んだ気がする。いつまでもそこにいたかったが仕方がない…。

アテネウム美術館を見に行く。
2012年05月20日 (日)
5/17(木)
10:30 関空発→15:25 アムステルダム着、トランジット
20:35 アムステルダム発→23:55ヘルシンキ着
バス(615系統)でホテル・クムルス・ハカニエミCumlus Hakaniemiへ。
ここはシンポジウムの事務局が推薦してくれたホテル。
会場まで徒歩で行けるからとのこと。
空港からホテルまでは30分程度。すぐにバスが来て乗り継ぎ良好。
5/18(金) 9:00~18:50
19:00-20:30 日本のTaichi-Kikakuの公演を見る。
5/19(土)10:00~18:30
ヘルシンキ・演劇アカデミーTheatre Academy Helsinkiにて
Shifting Dialogues
The Politics of Site, Locality & Kontext in Asian Performance and Visual Arts
First International Symposium of the Asian Art and Performance Consortium

ヘルシンキ・演劇アカデミーにて。
入口をはいると、このオープン・スペースに出る。温室みたいなものなので、この中にいると日中は暖かい。床も角材を集めたようになっていて、冷たくなく、素足にやさしい。この両脇にスタジオがずらりと並んでいて、そこで練習や公演がある。1日目の夜の公演も、このスタジオの1つで行われた。シンポジウム会場の部屋もスタジオの並びにある。

スタジオの隅にディスプレイされたコスチューム
10:30 関空発→15:25 アムステルダム着、トランジット
20:35 アムステルダム発→23:55ヘルシンキ着
バス(615系統)でホテル・クムルス・ハカニエミCumlus Hakaniemiへ。
ここはシンポジウムの事務局が推薦してくれたホテル。
会場まで徒歩で行けるからとのこと。
空港からホテルまでは30分程度。すぐにバスが来て乗り継ぎ良好。
5/18(金) 9:00~18:50
19:00-20:30 日本のTaichi-Kikakuの公演を見る。
5/19(土)10:00~18:30
ヘルシンキ・演劇アカデミーTheatre Academy Helsinkiにて
Shifting Dialogues
The Politics of Site, Locality & Kontext in Asian Performance and Visual Arts
First International Symposium of the Asian Art and Performance Consortium

ヘルシンキ・演劇アカデミーにて。
入口をはいると、このオープン・スペースに出る。温室みたいなものなので、この中にいると日中は暖かい。床も角材を集めたようになっていて、冷たくなく、素足にやさしい。この両脇にスタジオがずらりと並んでいて、そこで練習や公演がある。1日目の夜の公演も、このスタジオの1つで行われた。シンポジウム会場の部屋もスタジオの並びにある。

スタジオの隅にディスプレイされたコスチューム
2012年05月02日 (水)
今月のサイト「水牛」の「水牛のように」コーナーに寄稿した文章を掲載します。
http://www.suigyu.com/
ジャワ舞踊家(ソロ様式)列伝 (2)
今回は、ガリマン氏とマリディ氏という2人の舞踊家を紹介したい。ロカナンタ社から出ているスラカルタ様式のジャワ舞踊のカセットを見ると、たいていの舞踊作品の作者はガリマンか、マリディか、またはPKJT/ASKI(ペーカージェーテー・アスキーと読む)、すなわち現在の芸大になっている。ロカナンタ社から舞踊カセットが発売されるようになるのは1972年からで、それ以前に活躍した人の作品はほとんど残ってないのだが(前回紹介したクスモケソウォの作品はマリディ監修のカセットに収録されている)、ジャワ舞踊が本当に発展したのは1970年から始まる宮廷舞踊の解禁後なのである。ガリマンとマリディが解禁された古典舞踊に学んで、さまざまな新しい古典を生み出し、それが芸術高校や芸大の教育にも大きな影響を与え、現在のジャワ舞踊のレパートリーが形成されたと言っていい。
この2人の特徴は、男性荒型、男性優形、女性舞踊のすべての型で作品を作っている上に、その作風も幅広いこと。さらに新しい舞踊ジャンルも切り開いていることだ。こういうタイプの巨匠は今後もう出ないだろうなと思われる。
1. ガリマン (S.Ngaliman Condropangrawit,1919~1999)
ガリマンは一般的には舞踊家として有名だが、スラカルタ宮廷では太鼓とクプラ(舞踊の合図を出す楽器)を担当する音楽家で、宮廷から下賜された名前、チョンドロパングラウィットのパングラウィットが音楽家であることを表している。また、宮廷音楽家が住むクムラヤンという地域に住んでいた。
1950年に設立されたインドネシア初の音楽コンセルバトリ(後のSMKI)の第1期生として卒業、その後スタッフになっている。音楽と舞踊の両方に通じた舞踊教育者として、ソロはもとよりジョグジャやジャカルタでも大きな影響を与える。
ガリマンは、宮廷舞踊スリンピ、ブドヨ、ウィレンといった舞踊の掘り起こしに参加し、古い舞踊の復曲にも取り組んでいる。それらの演目の伴奏曲のカセットは市販されていないが、芸大には自主録音が残されていて、授業で習うことができる。それらの古い宮廷舞踊のエッセンスを継承した「レトノ・ティナンディン(女性2人の戦いの舞踊)」、「モンゴロ・ルトノ(女性4人の戦いの舞踊)」、「パムンカス(男性1人の舞踊)」などが、ガリマン作品の真骨頂だと言える。
その一方で、1970年代当時としては大胆に太鼓の手組をアレンジした「ガンビョン・パレアノム」が有名。この演目はもともとマンクヌガラン王宮で作られたものだが、ガリマンのアレンジで一躍有名になり、結婚式の定番舞踊となった。ガリマンの後、何人もの舞踊家がアレンジしている。ソロでは芸術高校がガリマン版、芸大が芸大版で教えるが、今やソロでは芸大版の方が有名。しかし、ジョグジャやジャカルタでは、「パレアノム」といえばガリマン版である。
2. マリディ (S.Maridi Tondokusumo,1932~2005)
マリディはスラカルタ宮廷舞踊家で、宮廷から下賜された名前がトンドクスモである。彼は教育者でなく純粋な舞踊家として生きた人で、1961年に初めてスカルノ大統領の前で踊って(本人の記憶による)以来、大統領のお気に入りの舞踊家となった。2007年、スカルノお気に入りの芸術家5人がソロ市庁舎でメガワティ元大統領(スカルノの長女)から顕彰されたときも、その5人のうちの1人に入っている。
小柄なので、若い頃(1950年代頃まで)はチャキル(羅刹)やブギスなどを主に踊っていたが、晩年のマリディの踊りと言えば何と言っても男性荒型の伝統舞踊「クロノ・トペン」が代表だろう。煩悩を捨てきれず、スカルタジ姫に執着するクロノの心情の複雑な表現は、マリディが白眉と言える。とはいえ、数少ない男性優形舞踊家としても、マリディは定評があった。
マリディ氏の作品は、ガリマン作品の禁欲的な作風に比べると、ロマンチックでドラマチックである。ありふれた設定の舞踊が、マリディ氏が作品化すると、やけに感動的なドラマになる。たとえば「メナッ・コンチャル」というマンクヌガラン王宮で作られた舞踊。元々はラングン・ドリアン(女性だけによる舞踊歌劇、踊り手が歌いながら踊る)のスタイルで作られた舞踊だったのだが、マリディはこの作者の許可を得て再振付している。この作品は、出陣する男性武将の、恋する女性に対する心情を切々と描いたものだが、曲中にある女性舞踊家の独唱部分が男性歌手の歌に代えられ、最後にサンパ(ワヤンで場面転換や入退場などに使われる曲)を新たにつけて、男性が出陣していく様を暗示している(物語ではこの後戦死する)。その結果、ともすれば「王が男装した女性を鑑賞して楽しむ」舞踊になりがちな作品が、男性の心情を描いたドラマになった。
また、今や結婚式の定番となった男女による舞踊「カロンセ」もマリディの作。科白なしで、男女のドゥエットの振付だけで愛の物語を踊るというのは、それまでのジャワ舞踊にはなかったジャンルだ。たおやかな女性の表現はスリンピ風、最後の2人の愛の交歓といったシーンではゴレック風と、ソロ様式の舞踊のいろんな要素が折り込まれている。芸大では同様の作品が多く作られて一つのジャンルとなり、舞踊科学生の重要なアルバイト演目となった。
http://www.suigyu.com/
ジャワ舞踊家(ソロ様式)列伝 (2)
今回は、ガリマン氏とマリディ氏という2人の舞踊家を紹介したい。ロカナンタ社から出ているスラカルタ様式のジャワ舞踊のカセットを見ると、たいていの舞踊作品の作者はガリマンか、マリディか、またはPKJT/ASKI(ペーカージェーテー・アスキーと読む)、すなわち現在の芸大になっている。ロカナンタ社から舞踊カセットが発売されるようになるのは1972年からで、それ以前に活躍した人の作品はほとんど残ってないのだが(前回紹介したクスモケソウォの作品はマリディ監修のカセットに収録されている)、ジャワ舞踊が本当に発展したのは1970年から始まる宮廷舞踊の解禁後なのである。ガリマンとマリディが解禁された古典舞踊に学んで、さまざまな新しい古典を生み出し、それが芸術高校や芸大の教育にも大きな影響を与え、現在のジャワ舞踊のレパートリーが形成されたと言っていい。
この2人の特徴は、男性荒型、男性優形、女性舞踊のすべての型で作品を作っている上に、その作風も幅広いこと。さらに新しい舞踊ジャンルも切り開いていることだ。こういうタイプの巨匠は今後もう出ないだろうなと思われる。
1. ガリマン (S.Ngaliman Condropangrawit,1919~1999)
ガリマンは一般的には舞踊家として有名だが、スラカルタ宮廷では太鼓とクプラ(舞踊の合図を出す楽器)を担当する音楽家で、宮廷から下賜された名前、チョンドロパングラウィットのパングラウィットが音楽家であることを表している。また、宮廷音楽家が住むクムラヤンという地域に住んでいた。
1950年に設立されたインドネシア初の音楽コンセルバトリ(後のSMKI)の第1期生として卒業、その後スタッフになっている。音楽と舞踊の両方に通じた舞踊教育者として、ソロはもとよりジョグジャやジャカルタでも大きな影響を与える。
ガリマンは、宮廷舞踊スリンピ、ブドヨ、ウィレンといった舞踊の掘り起こしに参加し、古い舞踊の復曲にも取り組んでいる。それらの演目の伴奏曲のカセットは市販されていないが、芸大には自主録音が残されていて、授業で習うことができる。それらの古い宮廷舞踊のエッセンスを継承した「レトノ・ティナンディン(女性2人の戦いの舞踊)」、「モンゴロ・ルトノ(女性4人の戦いの舞踊)」、「パムンカス(男性1人の舞踊)」などが、ガリマン作品の真骨頂だと言える。
その一方で、1970年代当時としては大胆に太鼓の手組をアレンジした「ガンビョン・パレアノム」が有名。この演目はもともとマンクヌガラン王宮で作られたものだが、ガリマンのアレンジで一躍有名になり、結婚式の定番舞踊となった。ガリマンの後、何人もの舞踊家がアレンジしている。ソロでは芸術高校がガリマン版、芸大が芸大版で教えるが、今やソロでは芸大版の方が有名。しかし、ジョグジャやジャカルタでは、「パレアノム」といえばガリマン版である。
2. マリディ (S.Maridi Tondokusumo,1932~2005)
マリディはスラカルタ宮廷舞踊家で、宮廷から下賜された名前がトンドクスモである。彼は教育者でなく純粋な舞踊家として生きた人で、1961年に初めてスカルノ大統領の前で踊って(本人の記憶による)以来、大統領のお気に入りの舞踊家となった。2007年、スカルノお気に入りの芸術家5人がソロ市庁舎でメガワティ元大統領(スカルノの長女)から顕彰されたときも、その5人のうちの1人に入っている。
小柄なので、若い頃(1950年代頃まで)はチャキル(羅刹)やブギスなどを主に踊っていたが、晩年のマリディの踊りと言えば何と言っても男性荒型の伝統舞踊「クロノ・トペン」が代表だろう。煩悩を捨てきれず、スカルタジ姫に執着するクロノの心情の複雑な表現は、マリディが白眉と言える。とはいえ、数少ない男性優形舞踊家としても、マリディは定評があった。
マリディ氏の作品は、ガリマン作品の禁欲的な作風に比べると、ロマンチックでドラマチックである。ありふれた設定の舞踊が、マリディ氏が作品化すると、やけに感動的なドラマになる。たとえば「メナッ・コンチャル」というマンクヌガラン王宮で作られた舞踊。元々はラングン・ドリアン(女性だけによる舞踊歌劇、踊り手が歌いながら踊る)のスタイルで作られた舞踊だったのだが、マリディはこの作者の許可を得て再振付している。この作品は、出陣する男性武将の、恋する女性に対する心情を切々と描いたものだが、曲中にある女性舞踊家の独唱部分が男性歌手の歌に代えられ、最後にサンパ(ワヤンで場面転換や入退場などに使われる曲)を新たにつけて、男性が出陣していく様を暗示している(物語ではこの後戦死する)。その結果、ともすれば「王が男装した女性を鑑賞して楽しむ」舞踊になりがちな作品が、男性の心情を描いたドラマになった。
また、今や結婚式の定番となった男女による舞踊「カロンセ」もマリディの作。科白なしで、男女のドゥエットの振付だけで愛の物語を踊るというのは、それまでのジャワ舞踊にはなかったジャンルだ。たおやかな女性の表現はスリンピ風、最後の2人の愛の交歓といったシーンではゴレック風と、ソロ様式の舞踊のいろんな要素が折り込まれている。芸大では同様の作品が多く作られて一つのジャンルとなり、舞踊科学生の重要なアルバイト演目となった。
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