2012年07月31日 (火)
本日2012年7月31日、マンクヌガランの王弟で、芸術担当のGPH Herwasto Kusumo (Gusti Heru)が急死されました。心筋梗塞だということです。8月1日お葬式(カトリック)、亡骸はAstana Giri Layuに埋葬されます。
2012年07月18日 (水)
少し前のニュースですが覚書として…
2012年7月8日(たぶん)トヒラン氏没。
トヒラン氏が亡くなったのを聞いたのはジャカルタで、帰国寸前の7月8日夕方だった。私の舞踊の師(故人)の長女(ジャカルタ在住)がトヒラン氏の息子と結婚しているので、さっそくお悔みSMSを送ったら、いま家族でお葬式のためソロに向かうところだと返事があった。
トヒラン氏はソロのスリウェダリにあるワヤン・オラン劇場で長らく支配人を務めた人。つまり商業舞踊劇界で活躍してきた人なのだ。私もインタビューしたことがある。日本軍政下では、台本をあらかじめ提出しないといけなかったため、そのおかげでタイプライターが打てるようになったとか、必ず夜9時には終焉しないといけなかったとか、そんな話をたくさん聞くことができた。
2012年7月8日(たぶん)トヒラン氏没。
トヒラン氏が亡くなったのを聞いたのはジャカルタで、帰国寸前の7月8日夕方だった。私の舞踊の師(故人)の長女(ジャカルタ在住)がトヒラン氏の息子と結婚しているので、さっそくお悔みSMSを送ったら、いま家族でお葬式のためソロに向かうところだと返事があった。
トヒラン氏はソロのスリウェダリにあるワヤン・オラン劇場で長らく支配人を務めた人。つまり商業舞踊劇界で活躍してきた人なのだ。私もインタビューしたことがある。日本軍政下では、台本をあらかじめ提出しないといけなかったため、そのおかげでタイプライターが打てるようになったとか、必ず夜9時には終焉しないといけなかったとか、そんな話をたくさん聞くことができた。
2012年07月14日 (土)
科学研究費補助金研究班「南アジアおよび東南アジアにおけるデーヴァラージャ信仰とその造形に関する基礎的研究」(研究代表者肥塚隆)の研究会に出席。
日 時:2012年7月14日(土)
会 場:大阪人間科学大学正雀学舎
報告者:深見純生(桃山学院大学)
題 目:ジャワの史跡バヤット:初期イスラム聖人の墓廟
報告者:上野邦一(奈良女子大学)
題 目:日本の神社と神と天皇
日 時:2012年7月14日(土)
会 場:大阪人間科学大学正雀学舎
報告者:深見純生(桃山学院大学)
題 目:ジャワの史跡バヤット:初期イスラム聖人の墓廟
報告者:上野邦一(奈良女子大学)
題 目:日本の神社と神と天皇
2012年07月13日 (金)
2012年7月6日(金)20:00-
ジャカルタ芸術劇場(GKJ=Gedung Kesenian Jakarta)にて
「ルトノ・ドゥミラRetno Dumilah」公演
招待制

朝からジャカルタに飛ぶ。
この公演は、ただの舞踊劇ではない。wayang pejabat(役職者の劇)と通称されるように、現役大臣をはじめ、いろんな省庁の役人たちが6-7人くらいは出演する芝居なのである。ただし主役のセノパティ(ジャワのマタラム王家の始祖)とルトノ・ドゥミラという女性役は、どちらもスラカルタの芸大卒で、私の友達。群舞もまともに踊れる人が出演している。そうでなければ、ただの素人芝居になってしまう。ついでに、役人とはいっても、スナン・カリジョゴ役の芸術総局の芸術局長だけは正真正銘本物の(往年の)大舞踊家で、特別に見せ場があって、単独で踊った。
大臣をはじめとする役人やその他の実業家たちもみなジャワ人で、ジャカルタに在住するソロのクラトンやマンクヌガラン関係者である。ジャワ人たるもの、功を立て地位があがると、大規模ワヤン・オランを開催したくなるものらしい。そのあたり、オランダ植民地時代から変わらないメンタリティだな…。しかし、まあ、純粋に芸術的評価はできないとしても(歌の音程だとかがイマイチだったりするから)、全然素養のない人たちがやっているわけでもなくて、子供の頃は趣味で舞踊を習っていただろうなということは分かる。だから非常に楽しそうに演じているし、意外に振付に凝っている部分もあって、それなりに練習したはずだ。
芸術局長の話では、ジャワ人以外の役人たちには、スンダとかスマトラとか芝居が盛んな土地出身でも、自分たちで芝居をやろうという動きがないのだそうだ。こんなことするのは、ジャワ人だけらしい…
ジャカルタ芸術劇場(GKJ=Gedung Kesenian Jakarta)にて
「ルトノ・ドゥミラRetno Dumilah」公演
招待制

朝からジャカルタに飛ぶ。
この公演は、ただの舞踊劇ではない。wayang pejabat(役職者の劇)と通称されるように、現役大臣をはじめ、いろんな省庁の役人たちが6-7人くらいは出演する芝居なのである。ただし主役のセノパティ(ジャワのマタラム王家の始祖)とルトノ・ドゥミラという女性役は、どちらもスラカルタの芸大卒で、私の友達。群舞もまともに踊れる人が出演している。そうでなければ、ただの素人芝居になってしまう。ついでに、役人とはいっても、スナン・カリジョゴ役の芸術総局の芸術局長だけは正真正銘本物の(往年の)大舞踊家で、特別に見せ場があって、単独で踊った。
大臣をはじめとする役人やその他の実業家たちもみなジャワ人で、ジャカルタに在住するソロのクラトンやマンクヌガラン関係者である。ジャワ人たるもの、功を立て地位があがると、大規模ワヤン・オランを開催したくなるものらしい。そのあたり、オランダ植民地時代から変わらないメンタリティだな…。しかし、まあ、純粋に芸術的評価はできないとしても(歌の音程だとかがイマイチだったりするから)、全然素養のない人たちがやっているわけでもなくて、子供の頃は趣味で舞踊を習っていただろうなということは分かる。だから非常に楽しそうに演じているし、意外に振付に凝っている部分もあって、それなりに練習したはずだ。
芸術局長の話では、ジャワ人以外の役人たちには、スンダとかスマトラとか芝居が盛んな土地出身でも、自分たちで芝居をやろうという動きがないのだそうだ。こんなことするのは、ジャワ人だけらしい…
2012年07月13日 (金)
2012年7月5日
18:00- プランバナン寺院にてIAHA閉会式、ディナー
19:30- オープンステージにて「ラーマーヤナ・バレエ」鑑賞
さすが観光の国。観光創造経済省やスラカルタ市等々がバックについているだけあって、ともかくジャワの観光名物は見逃させないという力の入りよう。学会の手続きは国際学会の割に非常にドメスティック対応(海外からの会費送金にあまり対応できていないとか)なくせに、ディナーやお土産などには抜かりなく力を入れているので、学会に来たというよりは観光に来た気がする(といっても、3日間、朝8時半からずっと会議はあったけど)。

プランバナン寺院をバックにした野外舞台

左:ラーマ、中:ジュタユ=怪鳥、右:ラーマの弟のラクスマナ
ちなみにラーマ役とラクスマナ役は父子で、私はラーマ役の奥さんに、私のブドヨ公演(このブログのヘッダーの写真)に出演してもらっている、ということで、知り合い。奥さんは女性舞踊の指導をしている。
このラーマーヤナ・バレエは、いろんな団体が順に演じているので、力量にばらつきがあるが、ここが看板の団体で一番うまい(はず)
18:00- プランバナン寺院にてIAHA閉会式、ディナー
19:30- オープンステージにて「ラーマーヤナ・バレエ」鑑賞
さすが観光の国。観光創造経済省やスラカルタ市等々がバックについているだけあって、ともかくジャワの観光名物は見逃させないという力の入りよう。学会の手続きは国際学会の割に非常にドメスティック対応(海外からの会費送金にあまり対応できていないとか)なくせに、ディナーやお土産などには抜かりなく力を入れているので、学会に来たというよりは観光に来た気がする(といっても、3日間、朝8時半からずっと会議はあったけど)。

プランバナン寺院をバックにした野外舞台

左:ラーマ、中:ジュタユ=怪鳥、右:ラーマの弟のラクスマナ
ちなみにラーマ役とラクスマナ役は父子で、私はラーマ役の奥さんに、私のブドヨ公演(このブログのヘッダーの写真)に出演してもらっている、ということで、知り合い。奥さんは女性舞踊の指導をしている。
このラーマーヤナ・バレエは、いろんな団体が順に演じているので、力量にばらつきがあるが、ここが看板の団体で一番うまい(はず)
2012年07月13日 (金)
2012年7月4日
スラカルタ市長の公邸ロジ・ガンドロンLoji Gandrungにて、市長ジョコウィJokowi(通称)氏がIAHA(国際アジア歴史家会議)参加者を招待してのディナー。
といってもジョコウィ自身は現在ジャカルタ知事選に出馬中。当選したら、ジャカルタ知事…。それはスラカルタの人々にとっては誇らしいことなのだが、優秀な市長がいなくなるのは残念と惜しむ声が多い。
ここではマンクヌガラン王家による舞踊「Retna Kusumo」他にソロ名物「バンバンガン・チャキル」の舞踊が出るが、カセット伴奏なのがちょっとさみしい。

マンクヌガラン王家の舞踊
スラカルタ市長の公邸ロジ・ガンドロンLoji Gandrungにて、市長ジョコウィJokowi(通称)氏がIAHA(国際アジア歴史家会議)参加者を招待してのディナー。
といってもジョコウィ自身は現在ジャカルタ知事選に出馬中。当選したら、ジャカルタ知事…。それはスラカルタの人々にとっては誇らしいことなのだが、優秀な市長がいなくなるのは残念と惜しむ声が多い。
ここではマンクヌガラン王家による舞踊「Retna Kusumo」他にソロ名物「バンバンガン・チャキル」の舞踊が出るが、カセット伴奏なのがちょっとさみしい。

マンクヌガラン王家の舞踊
2012年07月12日 (木)
6/30(土)夜 ジャカルタ着。
7/ 1(日)ジャカルタのジャワ舞踊団パドネスワラpadnecwaraの練習に参加。
2003年以来、日曜にジャカルタにいるときは、いつもここの練習に参加しています。
7/ 2(月)朝のフライトでソロへ。
IAHA(International Association of Historians of Asia 国際アジア歴史家会議)会場のHotel Sahid Jayaにチェックイン。
夜、スラカルタ宮廷のサソノ・ホンドロウィノ(レセプションルーム)でIAHAのオープニング。

"Bedhaya Duradasih"(上写真)、"Bondo Yudo"(男性舞踊)の上演がある。
7/ 1(日)ジャカルタのジャワ舞踊団パドネスワラpadnecwaraの練習に参加。
2003年以来、日曜にジャカルタにいるときは、いつもここの練習に参加しています。
7/ 2(月)朝のフライトでソロへ。
IAHA(International Association of Historians of Asia 国際アジア歴史家会議)会場のHotel Sahid Jayaにチェックイン。
夜、スラカルタ宮廷のサソノ・ホンドロウィノ(レセプションルーム)でIAHAのオープニング。

"Bedhaya Duradasih"(上写真)、"Bondo Yudo"(男性舞踊)の上演がある。
2012年07月06日 (金)
水牛7月号の「水牛のように」コーナーに今月も寄稿しています。
http://www.suigyu.com/sg1207.html#11
ジャワ舞踊家列伝(3)ルスマン
ルスマン(1926~1990)はソロ(スラカルタ)にあるスリウェダリ劇場(ワヤン・オランという舞踊劇を上演する劇場)のスター舞踊家で、ガトコチョを当たり役とする。ちなみに、ルスマン全盛期のスリウェダリ劇場は、毎晩の公演が満員になるという黄金期だった。列伝(1)、(2)で取り上げてきた人達が舞踊も振付も手掛けるのに対して、ルスマンは舞踊だけ、それもガトコチョ一本である。昔の踊り手は、その人のキャラクターと一致した役柄1つを極め、今のようにいろんな舞踊を踊ることはしなかったという。しかし、そういうタイプの舞踊家は、学校での芸術教育全盛の現在では、もう出現しないような気がする。
ルスマンの奥さんもスリウェダリ劇場の踊り手で、ダルシという。彼女はスリカンディが当たり役だが、もちろん、ルスマンと組んで踊る「ガトコチョとプルギウォ」は人気演目だ。これはガトコチョがプルギウォに恋して追いかけまわす舞踊で、結婚式でもよく上演される場面。そのダルシさんとは、実はその昔(1996年末)、スリウェダリ劇場の前座でガンビョンを踊ったときに、楽屋で会ったことがある。その娘(といっても、もう定年前くらいの年齢)がインドネシア国立芸大(ISI)ソロ校で舞踊をおしえていて、ルスマンについて修士論文を書いている。
ルスマンはスカルノ大統領に気に入られ、大統領官邸でも何度も踊り、大統領の芸術使節団にしばしば選ばれている。ルスマンがスカルノの前で最初に踊ったのは、1948年7月、ジョグジャカルタでのことらしい。当時、インドネシアは独立戦争中で、首都がジョグジャカルタに移されていた時だった。1961年、日本に初めてインドネシアから大統領芸術使節団が来て、そのときにルスマンも来日している。この公演にはインドネシア各地から踊り手が集められていて、美女が多いにも関わらず、ルスマンが公演ポスターに採用されているから、やはり別格のスターだったのだろう。この公演に出演したソロの踊り手(私の舞踊の師匠の義妹に当たる)も、スターと一緒に出演したというのが嬉しかったらしい。芸術使節団に参加した他地域からの踊り手たちのインタビューを聞いても(これはリンドセイという研究者に見せてもらった)、ルスマンの舞踊はすごかったという話が多い。
ルスマンの魅力は、まずはその朗々として艶のある声にある。ルスマンの歌声はロカナンタ社のカセット(ACD-011)の「ガトコチョ・ガンドロン」に収録されている。このガトコチョの舞踊には途中で歌うシーンがあって、切々とプルギウォへの恋心を歌いあげるから、ここで下手だとだめなのである。ただし舞踊に関しては、もちろん上手くスターのオーラもあるのだが、宮廷貴族の美意識には合わないところがあったようである。ルスマンはサブタンと言われるポーズなどで、宮廷舞踊の通常では右足を上げたら左手を上げて左右の均衡を取るところを、右足、右手を同時に上げるようなポーズを取るため、「犬が片足を上げて放尿するポーズ」に見えると言って、貴族たちは嫌ったものらしい。
http://www.suigyu.com/sg1207.html#11
ジャワ舞踊家列伝(3)ルスマン
ルスマン(1926~1990)はソロ(スラカルタ)にあるスリウェダリ劇場(ワヤン・オランという舞踊劇を上演する劇場)のスター舞踊家で、ガトコチョを当たり役とする。ちなみに、ルスマン全盛期のスリウェダリ劇場は、毎晩の公演が満員になるという黄金期だった。列伝(1)、(2)で取り上げてきた人達が舞踊も振付も手掛けるのに対して、ルスマンは舞踊だけ、それもガトコチョ一本である。昔の踊り手は、その人のキャラクターと一致した役柄1つを極め、今のようにいろんな舞踊を踊ることはしなかったという。しかし、そういうタイプの舞踊家は、学校での芸術教育全盛の現在では、もう出現しないような気がする。
ルスマンの奥さんもスリウェダリ劇場の踊り手で、ダルシという。彼女はスリカンディが当たり役だが、もちろん、ルスマンと組んで踊る「ガトコチョとプルギウォ」は人気演目だ。これはガトコチョがプルギウォに恋して追いかけまわす舞踊で、結婚式でもよく上演される場面。そのダルシさんとは、実はその昔(1996年末)、スリウェダリ劇場の前座でガンビョンを踊ったときに、楽屋で会ったことがある。その娘(といっても、もう定年前くらいの年齢)がインドネシア国立芸大(ISI)ソロ校で舞踊をおしえていて、ルスマンについて修士論文を書いている。
ルスマンはスカルノ大統領に気に入られ、大統領官邸でも何度も踊り、大統領の芸術使節団にしばしば選ばれている。ルスマンがスカルノの前で最初に踊ったのは、1948年7月、ジョグジャカルタでのことらしい。当時、インドネシアは独立戦争中で、首都がジョグジャカルタに移されていた時だった。1961年、日本に初めてインドネシアから大統領芸術使節団が来て、そのときにルスマンも来日している。この公演にはインドネシア各地から踊り手が集められていて、美女が多いにも関わらず、ルスマンが公演ポスターに採用されているから、やはり別格のスターだったのだろう。この公演に出演したソロの踊り手(私の舞踊の師匠の義妹に当たる)も、スターと一緒に出演したというのが嬉しかったらしい。芸術使節団に参加した他地域からの踊り手たちのインタビューを聞いても(これはリンドセイという研究者に見せてもらった)、ルスマンの舞踊はすごかったという話が多い。
ルスマンの魅力は、まずはその朗々として艶のある声にある。ルスマンの歌声はロカナンタ社のカセット(ACD-011)の「ガトコチョ・ガンドロン」に収録されている。このガトコチョの舞踊には途中で歌うシーンがあって、切々とプルギウォへの恋心を歌いあげるから、ここで下手だとだめなのである。ただし舞踊に関しては、もちろん上手くスターのオーラもあるのだが、宮廷貴族の美意識には合わないところがあったようである。ルスマンはサブタンと言われるポーズなどで、宮廷舞踊の通常では右足を上げたら左手を上げて左右の均衡を取るところを、右足、右手を同時に上げるようなポーズを取るため、「犬が片足を上げて放尿するポーズ」に見えると言って、貴族たちは嫌ったものらしい。
2012年07月01日 (日)
2012.6.30 関空発 インドネシアへ
以下の会議で発表します。
22nd Conference of
IAHA(International Association of Historians of Asia)
2012.7.2-6
Sahid Jaya Hotel Solo (インドネシア)
以下の会議で発表します。
22nd Conference of
IAHA(International Association of Historians of Asia)
2012.7.2-6
Sahid Jaya Hotel Solo (インドネシア)
2012年07月01日 (日)
研究会に出席
日時: 2012年6月25日(月)17:30-
場所: 桃山学院大学 総研研究会議室1
講師: 加藤久典(物療大学教授)
題目: 「インドネシアのイスラム教:原理・自由主義から見る宗教の本質」
日時: 2012年6月25日(月)17:30-
場所: 桃山学院大学 総研研究会議室1
講師: 加藤久典(物療大学教授)
題目: 「インドネシアのイスラム教:原理・自由主義から見る宗教の本質」
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