2014年06月27日 (金)
7/7UP! 下記奉納舞踊のビデオをyoutubeにアップしました。
3分に編集しています。
https://www.youtube.com/watch?v=NGAapdmofmg


氏子さんの可愛い小学1年生の子が、香炉を運ぶ役目を果たしてくれました。
可愛い!
出演のお知らせ
2014年7月5日(土) 17:00~夏越大祓式
18:30~七夕燈籠祭
丹生川上神社・上社(奈良県吉野郡川上村)
※ 5時から軽食(地元の味)・飲み物販売もあります。
七夕燈籠祭でジャワ舞踊奉納を行うことになりました。よろしければお越し下さい。
神社TEL 0746-52-0733
神社サイト http://web1.kcn.jp/niukawakamijinja-kamisha/index.html
⇒「宮司の日記」にこの日の案内があります。
3分に編集しています。
https://www.youtube.com/watch?v=NGAapdmofmg


氏子さんの可愛い小学1年生の子が、香炉を運ぶ役目を果たしてくれました。
可愛い!
出演のお知らせ
2014年7月5日(土) 17:00~夏越大祓式
18:30~七夕燈籠祭
丹生川上神社・上社(奈良県吉野郡川上村)
※ 5時から軽食(地元の味)・飲み物販売もあります。
七夕燈籠祭でジャワ舞踊奉納を行うことになりました。よろしければお越し下さい。
神社TEL 0746-52-0733
神社サイト http://web1.kcn.jp/niukawakamijinja-kamisha/index.html
⇒「宮司の日記」にこの日の案内があります。
2014年06月08日 (日)
インドネシアの華人紙(インドネシア語版)に、私と、今度日本に招聘するポテヒ団体の長,Bp Toni氏の記事が同じ面の上下に並べて掲載されました。
2014年5月30日
千島日報(Qian Dao Ri Bao) J-2版
・"Michi, Orang Jepang Berkarakter Jawa"
(三智、ジャワの性格を持った日本人)
・"Sejarah Singkat Paguyuban Wayang Potehi Fu He An (Mandarin) atau Hok Ho An(Hokkian)"
(ワヤン・ポテヒ団体Fu He AN<中国語>またはHok Ho An<福建語>)

記事の内容は続きに…
2014年5月30日
千島日報(Qian Dao Ri Bao) J-2版
・"Michi, Orang Jepang Berkarakter Jawa"
(三智、ジャワの性格を持った日本人)
・"Sejarah Singkat Paguyuban Wayang Potehi Fu He An (Mandarin) atau Hok Ho An(Hokkian)"
(ワヤン・ポテヒ団体Fu He AN<中国語>またはHok Ho An<福建語>)

記事の内容は続きに…
2014年06月08日 (日)
インドネシアのメディアで紹介されました。9月に実施するポテヒ人形劇のシンポジウム(私も実行委員なのです)と私の紹介です。
2014年5月25日 Indonesia Media紙
"Wayang Potehi Khas Tionghoa Jatim Diteliti untuk Simposium di Jepang"
(東ジャワの華人文化特有のポテヒ人形劇、日本でのシンポジウムで研究)
文責 Liu She / IM
http://www.indonesiamedia.com/2014/05/25/wayang-potehi-khas-tionghoa-jatim-diteliti-untuk-simposium-di-jepang/
新聞に掲載された写真は以下です。(Arif Budiarto撮影)

本文は続きに…
2014年5月25日 Indonesia Media紙
"Wayang Potehi Khas Tionghoa Jatim Diteliti untuk Simposium di Jepang"
(東ジャワの華人文化特有のポテヒ人形劇、日本でのシンポジウムで研究)
文責 Liu She / IM
http://www.indonesiamedia.com/2014/05/25/wayang-potehi-khas-tionghoa-jatim-diteliti-untuk-simposium-di-jepang/
新聞に掲載された写真は以下です。(Arif Budiarto撮影)

本文は続きに…
2014年06月06日 (金)
インドネシアのオンライン新聞に私の記事が掲載されました。2年前の島根公演のレポートと最近の活動についてです。
記事: Michi, Orang Jepang Berkarakter Jawa
執筆: liu she (Jakarta)
掲載紙: KOKI (=Kolom Kita)
※クレジットが入っていませんが、記事トップとラストの写真はArif Budiartoによるものです。島根公演、ワークショップの写真は私自身の撮影です。
http://kolomkita.viva.co.id/baca/artikel/26/4402/michi_orang_jepang_berkarakter_jawa
※本文を続きに掲載しています。
記事: Michi, Orang Jepang Berkarakter Jawa
執筆: liu she (Jakarta)
掲載紙: KOKI (=Kolom Kita)
※クレジットが入っていませんが、記事トップとラストの写真はArif Budiartoによるものです。島根公演、ワークショップの写真は私自身の撮影です。
http://kolomkita.viva.co.id/baca/artikel/26/4402/michi_orang_jepang_berkarakter_jawa
※本文を続きに掲載しています。
2014年06月06日 (金)
2014年6月号の高橋悠治氏のサイト「水牛」(毎月1日更新)には、先月の続きで映画『アクト・オブ・キリング』の感想の続きを書きました。
サイト「水牛」 http://www.suigyu.com/
↓
「水牛のように」コーナーをクリック
※記事は1ヶ月有効。数か月後にバックナンバーのコーナーに移され、ずっと保存されます。
映画『アクト・オブ・キリング』(2)
「アクト・オブ・キリング」(原題The Act of Killing)は、アメリカ人の監督がスマトラのメダン市で1965年9月30日事件の虐殺に加担した実行者たちを取材し、彼らのやり方で虐殺を再現させた過程の記録である。私はyoutubeで無料公開されている159分版(インドネシア人に向けて公開されているので、日本語字幕なし)と映画館で121分版を見た。
先月号で書いたように、私はこの映画のインドネシアの関係者(フェイスブックのインドネシア語版ページのメッセージ箱)に質問を送った。それが5月初めに届いたので、私の感想として私が先方に質問した内容と相手からの回答の一部をここに紹介したい。ただし、私の感想は、私がyoutubeで見たが映画館での公開はまだという時期のものなので、先月号に書いたように、インドネシア人モードで見ている。
(1) 私が最初に感じたのが、アンワルに密着しているけれど、イスラム教徒であるアンワルの習慣的な宗教実践(礼拝など)を、監督はあえて取り上げていないみたいだということ。
回答では、アンワルは悪夢を消すため、スマトラのある村に何年もセラピーを受けに行っていたと監督らに語ったという。これはインドネシアでよくある、霊的な治療だろうと思われる。彼はメッカ巡礼もしたが、これらのおかげで悪夢が消えたという話は彼の口から出なかったという。セラピーや宗教は、虐殺という彼が背負っている積年の重みのごく表面にしか届いていないようであり、自分たちはアンワルが過去の暴力行為を正当化しようとしたり、毎晩の悪夢を鎮めようとしたりする心理的な葛藤に目を向けたと回答にあった。インドネシア人と長く接していると、彼らの宗教的日常行為がよく目に入ってくるので、そういうシーンが映画の中に入ってこないことがかえって不自然なように感じて質問をしたのだが、監督たちはそんな表面的なことにはとらわれていなかった。宗教などで彼は救われていないという監督の観察は、とても冷静で鋭い。アンワルの心理を追っていた監督は、アンワルがカメラの前で直接は語らなかったメッセージを追っていたのだった。
(2) 次の私の疑問は、アンワルが寝室で寝ているシーンが何度も出てくるが、あれは監督がつけた演技なのか、アンワルが自発的に行った演技なのか、それとも何の作為もなく彼はカメラの前で寝ていたのかということ。あの寝室は、どう見てもインドネシア人の日常的な寝室で、映画用のセットではない。居間などの洒落た部屋に比べて、質素でいかにもプライベートな空間だ。役者でない人が、寝るというプライベートなシーンまでカメラに晒すものだろうか、と素朴に感じたのでこういう質問をした。実は、ここだけは監督がアンワルに寝ている演技を指示したのかもしれない、と私は予想していた。
それに対する回答は、この映画では、「演じる」ことと「行っていること」、「本当のこと」と「フィクション」を区別していないということだった。人は日常生活の中でも、多かれ少なかれ、何らかの役割を「演じて」いたりして、その境目は明白ではない。この映画は、これこそが現実なのだとということを見せるものではない、自分たちも撮影していることを観客の目から隠してはいないし、一方、撮影される側もそこにカメラがあることを意識している。そして、出演者の無意識に出た行為から何かのふりをしている行為まで、そのまま観客に見せている。監督はアンワルに彼の私的な日常生活も撮りたいと相談し、寝室での撮影もアンワルは了承したとのことだ。だからカメラには彼がテレビを見たり、着替えたり、鏡を見たり、歯を磨いたり、寝たりするシーンが出てくる。寝室にカメラを三脚に据えつけてアンワルとカメラだけという状況で撮っていると、彼が寝られない様子が映っているので、監督がそれはカメラがあるせいかと尋ねたところ、いや、よく眠れないことが多いのだとアンワルは答えたのだという。そういう時、歯の痛みで眠れないから、ペンチで歯を矯正しようとしたりするらしい。そういえば、彼が入れ歯を入れるシーンというのはよく映像に出てきた。何か彼の咀嚼できない感情が、歯への過剰意識としても出ていたのかも知れない。
(3)映画の最後で、彼が虐殺の現場に戻って吐くシーンについて、これも前の疑問同様、監督がつけた演技なのか、アンワルの自発的演技なのか、実際に吐き気をもよおしてしまったのか、と質問した。映画を見る前にあらかじめネットでさまざまな意見を探したところ、このシーンは彼が演じたものでないかという感想がいくつかあった。確かに、日本人の目には嘘くさく見えそうなシーンだと感じたが、私は、アンワルがkemasukan(霊など悪いものに入られた状態)したのではないかと感じた。というのも、腹に入って悪い気を吐き出しているインドネシア人の症状を見たことが二三度あるのだが、それがあのアンワルの吐き気の症状に似ていたからなのだ。というか、そのときはもっと頻繁に喉の奥からグワッ、グワッと瘴気がこみあげてきて、アンワル以上に信じられないような光景だったので、アンワルの吐き気もあながち演技とばかりは言えない、という気がした。
これについても、製作者からの回答は上に同じで、アンワルの演技なのか、実際に起こったことなのかを問わず、カメラの前で生じたことを撮影し、観客に提示しているということだった。監督はアンワルに演技をつけたことは一度もないと言う。実は、映画の冒頭で彼がこの虐殺現場に監督たちを連れてきて嬉々としてその様子を語ったのは2005年、映画の最後のシーンは2010年の撮影とのことだ。しかし、私にはこの間に5年の歳月が流れていると実感することができなかった。もっとも映画中には選挙があってヘルマンが落選するエピソードがあって、時間は確実に流れている。しかし、冒頭と最後の虐殺現場に来るシーンには字幕で年を入れるなどして、時間が経過したことをはっきり示した方が、アンワルの吐く行為がもう少し違和感のない形で観客に受け止められたようにも思う。2010年に再度虐殺現場を訪問することを監督が提案したとき、アンワルは2005年とは違って、明らかに気が進まない様子だったという。この時アンワルは実際には吐しゃ物を吐き出してはいないので、単にそういう演技をしてみせた可能性もある。しかし、夜ここに来て撮影したくなかったのかも知れないし、実際に精神的に異常になっていたのかもしれないとのことだ。単なる演技という可能性から、そう演技せざるを得ないという心理の可能性までをも含めて、監督はカメラで追っていたということなのだろう。
「演技と演技ではないこと、ドキュメンタリとフィクションの境目はどこにあるのか」という言葉が回答では何度も繰り返され、「我々は現実の世界をどのように認識しているのか」がこの映画のテーマの1つでもあるという。確かにこの映画では、現実と虚構は二項対立的に存在するのではなく、「スペクトラム」としてある範囲の中に連続して分布するものとしてとらえられている。
●
質問はまだまだ続くのだが、今月はここまで。
サイト「水牛」 http://www.suigyu.com/
↓
「水牛のように」コーナーをクリック
※記事は1ヶ月有効。数か月後にバックナンバーのコーナーに移され、ずっと保存されます。
映画『アクト・オブ・キリング』(2)
「アクト・オブ・キリング」(原題The Act of Killing)は、アメリカ人の監督がスマトラのメダン市で1965年9月30日事件の虐殺に加担した実行者たちを取材し、彼らのやり方で虐殺を再現させた過程の記録である。私はyoutubeで無料公開されている159分版(インドネシア人に向けて公開されているので、日本語字幕なし)と映画館で121分版を見た。
先月号で書いたように、私はこの映画のインドネシアの関係者(フェイスブックのインドネシア語版ページのメッセージ箱)に質問を送った。それが5月初めに届いたので、私の感想として私が先方に質問した内容と相手からの回答の一部をここに紹介したい。ただし、私の感想は、私がyoutubeで見たが映画館での公開はまだという時期のものなので、先月号に書いたように、インドネシア人モードで見ている。
(1) 私が最初に感じたのが、アンワルに密着しているけれど、イスラム教徒であるアンワルの習慣的な宗教実践(礼拝など)を、監督はあえて取り上げていないみたいだということ。
回答では、アンワルは悪夢を消すため、スマトラのある村に何年もセラピーを受けに行っていたと監督らに語ったという。これはインドネシアでよくある、霊的な治療だろうと思われる。彼はメッカ巡礼もしたが、これらのおかげで悪夢が消えたという話は彼の口から出なかったという。セラピーや宗教は、虐殺という彼が背負っている積年の重みのごく表面にしか届いていないようであり、自分たちはアンワルが過去の暴力行為を正当化しようとしたり、毎晩の悪夢を鎮めようとしたりする心理的な葛藤に目を向けたと回答にあった。インドネシア人と長く接していると、彼らの宗教的日常行為がよく目に入ってくるので、そういうシーンが映画の中に入ってこないことがかえって不自然なように感じて質問をしたのだが、監督たちはそんな表面的なことにはとらわれていなかった。宗教などで彼は救われていないという監督の観察は、とても冷静で鋭い。アンワルの心理を追っていた監督は、アンワルがカメラの前で直接は語らなかったメッセージを追っていたのだった。
(2) 次の私の疑問は、アンワルが寝室で寝ているシーンが何度も出てくるが、あれは監督がつけた演技なのか、アンワルが自発的に行った演技なのか、それとも何の作為もなく彼はカメラの前で寝ていたのかということ。あの寝室は、どう見てもインドネシア人の日常的な寝室で、映画用のセットではない。居間などの洒落た部屋に比べて、質素でいかにもプライベートな空間だ。役者でない人が、寝るというプライベートなシーンまでカメラに晒すものだろうか、と素朴に感じたのでこういう質問をした。実は、ここだけは監督がアンワルに寝ている演技を指示したのかもしれない、と私は予想していた。
それに対する回答は、この映画では、「演じる」ことと「行っていること」、「本当のこと」と「フィクション」を区別していないということだった。人は日常生活の中でも、多かれ少なかれ、何らかの役割を「演じて」いたりして、その境目は明白ではない。この映画は、これこそが現実なのだとということを見せるものではない、自分たちも撮影していることを観客の目から隠してはいないし、一方、撮影される側もそこにカメラがあることを意識している。そして、出演者の無意識に出た行為から何かのふりをしている行為まで、そのまま観客に見せている。監督はアンワルに彼の私的な日常生活も撮りたいと相談し、寝室での撮影もアンワルは了承したとのことだ。だからカメラには彼がテレビを見たり、着替えたり、鏡を見たり、歯を磨いたり、寝たりするシーンが出てくる。寝室にカメラを三脚に据えつけてアンワルとカメラだけという状況で撮っていると、彼が寝られない様子が映っているので、監督がそれはカメラがあるせいかと尋ねたところ、いや、よく眠れないことが多いのだとアンワルは答えたのだという。そういう時、歯の痛みで眠れないから、ペンチで歯を矯正しようとしたりするらしい。そういえば、彼が入れ歯を入れるシーンというのはよく映像に出てきた。何か彼の咀嚼できない感情が、歯への過剰意識としても出ていたのかも知れない。
(3)映画の最後で、彼が虐殺の現場に戻って吐くシーンについて、これも前の疑問同様、監督がつけた演技なのか、アンワルの自発的演技なのか、実際に吐き気をもよおしてしまったのか、と質問した。映画を見る前にあらかじめネットでさまざまな意見を探したところ、このシーンは彼が演じたものでないかという感想がいくつかあった。確かに、日本人の目には嘘くさく見えそうなシーンだと感じたが、私は、アンワルがkemasukan(霊など悪いものに入られた状態)したのではないかと感じた。というのも、腹に入って悪い気を吐き出しているインドネシア人の症状を見たことが二三度あるのだが、それがあのアンワルの吐き気の症状に似ていたからなのだ。というか、そのときはもっと頻繁に喉の奥からグワッ、グワッと瘴気がこみあげてきて、アンワル以上に信じられないような光景だったので、アンワルの吐き気もあながち演技とばかりは言えない、という気がした。
これについても、製作者からの回答は上に同じで、アンワルの演技なのか、実際に起こったことなのかを問わず、カメラの前で生じたことを撮影し、観客に提示しているということだった。監督はアンワルに演技をつけたことは一度もないと言う。実は、映画の冒頭で彼がこの虐殺現場に監督たちを連れてきて嬉々としてその様子を語ったのは2005年、映画の最後のシーンは2010年の撮影とのことだ。しかし、私にはこの間に5年の歳月が流れていると実感することができなかった。もっとも映画中には選挙があってヘルマンが落選するエピソードがあって、時間は確実に流れている。しかし、冒頭と最後の虐殺現場に来るシーンには字幕で年を入れるなどして、時間が経過したことをはっきり示した方が、アンワルの吐く行為がもう少し違和感のない形で観客に受け止められたようにも思う。2010年に再度虐殺現場を訪問することを監督が提案したとき、アンワルは2005年とは違って、明らかに気が進まない様子だったという。この時アンワルは実際には吐しゃ物を吐き出してはいないので、単にそういう演技をしてみせた可能性もある。しかし、夜ここに来て撮影したくなかったのかも知れないし、実際に精神的に異常になっていたのかもしれないとのことだ。単なる演技という可能性から、そう演技せざるを得ないという心理の可能性までをも含めて、監督はカメラで追っていたということなのだろう。
「演技と演技ではないこと、ドキュメンタリとフィクションの境目はどこにあるのか」という言葉が回答では何度も繰り返され、「我々は現実の世界をどのように認識しているのか」がこの映画のテーマの1つでもあるという。確かにこの映画では、現実と虚構は二項対立的に存在するのではなく、「スペクトラム」としてある範囲の中に連続して分布するものとしてとらえられている。
●
質問はまだまだ続くのだが、今月はここまで。
| ホーム |