FC2ブログ
 
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
「スリンピ・ゴンドクスモ」の映像をアップしました
右下のリンク集 > 映像(宮廷舞踊) に、2006年にスラカルタ(通称ソロ)で上演したジャワ宮廷舞踊・スラカルタ宮廷様式のスリンピ公演「Srimpi Gondokusumo」の映像をアップしました。

演目:スリンピ・ゴンドクスモ (完全版)
Title: Srimpi Gondokusumo (long version)

日付:2006年11月26日
Date:26 November 2006

場所:インドネシア国立芸術高校スラカルタ校
Venue:SMKN8 (Sekolah Menengah Kejuruan Negara 8) Surakarta,Indonesia

踊り手/Dancers: 冨岡三智 / Michi Tomioka (batak)
            Setyoasih (gulu)
            Saryuni (dada)
            Hadawiyah (buncit)
演奏/Gamelan Music: Maju Mawas & Mijil Laras (Garasi Seni Benowo)
クプラッ/keprak player: Pamardi
インフォーマント/informant: the late Sri Sutjiati Djoko Soehardjo
映像制作/Video: 冨岡三智/Michi Tomioka

※この映像は日本財団API Fellowship助成を受けた冨岡三智の活動「Revaluing Javanese Court Dances (Srimpi and Bedhaya) within the Current Social and Cultural Context 」の一環として作成されました。

This video recording was made as one of Michi Tomioka's activities in the project titled "Revaluing Javanese Court Dances (Srimpi and Bedhaya) within the Current Social and Cultural Context" granted by the Nippon Foundation API Fellowhsip.

この公演についてのブログ記事➡ スリンピ公演

この公演についての水牛寄稿記事
➡ 2007年4月号『水牛』_11月のスリンピ公演〜公演の周辺  
➡ 2007年5月号『水牛』_11月のスリンピ公演〜舞踊について
スポンサーサイト
7/29 「インドネシア伝統舞踊の会」公演写真・映像
下記公演が無事に終わりました。ご来場くださいました皆様、ありがとうございました。

「インドネシア伝統舞踊の会」
2017年7月29日(土)
奈良市中部公民館、イベントホール
共催: 在大阪インドネシア共和国総領事館
     日本インドネシア友好協会奈良
後援: 奈良市教育委員会、奈良市国際交流協会

20170729奈良市インドネシア伝統舞踊の会FC2blog

萩原1 -blog
写真: 萩原フミワティ様より

私はKutut Manggung, pl. barangの曲に合わせ、ガンビョン(ジャワ舞踊スラカルタ様式)を踊りました。ちなみに上半身に巻いているクムベンと呼ばれる布は、ジャワでは木綿の絞りを使うのですが、今回は着物の友禅絞りを使っています。

抜水20 抜水23
抜水25 抜水28
写真: 抜水みどり様より

萩原3 -blog
写真: 萩原フミワティ様より

●当日の映像

インドネシア伝統舞踊の会2017年7月29日ジャワ舞踊ガンビョン•冨岡三智


撮影:抜水みどり様
2004.12水牛アーカイブ「『大野一雄の宇宙と花』によせて」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2004年12月号
「大野一雄の宇宙と花」によせて


11月26~28日まで「大野一雄の宇宙と花」という公演が大阪のArt Theater dBであった。26、27日は見れなかったのだが、28日には「~大野一雄氏へのオマージュ~」ということで公募で選ばれた関西アーティスト達22組から大野さんに贈るダンス短編集の公演になっていて、私も出させていただいた。というわけで今月の原稿は「~大野一雄氏へのオマージュ~言葉編」である。そう言いつつ感激が大き過ぎてまだうまく言葉にまとまっていないので、今回の原稿はとても短い。(公演が28日だったので原稿を書く時間がなかった、というのもある……。)

大野さんは今年98歳になる。来場予定とはいえ高齢だし……と思っていたら、本当に来られた。車椅子に乗っていてほとんど体も利かないというのに、静かに迫ってくる存在感は何なのだろう。舞台の後ろから、車椅子を押してもらって登場する大野さんの後ろ姿を見ているだけなのに、我ながら不思議なくらい涙が止まらなかった。

そしてオマージュのために集まってきた出演者たちの、テンデバラバラなこと。白塗り舞踏系が多いのはやはりという感じだが、ざっと見たところでもバレエなど洋舞系、パントマイム、演劇、?、それにジャワ舞踊の私と、いろいろなベースの人がいる。それが大野さんという1点で集まってきたのは不思議だ。

かく言う私が大野さんのことを知ったのはインドネシア留学中のことになる。大野さんはアート・サミット・インドネシア'95に招聘されて踊っている。「90歳を超えて現役のカリスマ舞踏家がいる」と、そのサミットを見た先生から聞かされた。その先生に私はジャワ古典舞踊を習っていたのだが、その人は古典舞踊も現代舞踊も踊る。私ももちろん大野さんの名前は知っていたけれど、その時点ではまだ実際に舞踊を見たことがなかった。

そして昨年帰国して間もなく、テレビでたまたま大野さんの特集番組を目にする。私と大野さんの関わりは本当にそれだけしかなかったのだが、今年この公演の公募のお知らせを見て、なんだか不思議にアレンジされているような気になった。たぶん今の私は大野さんから何かを吸収しないといけない、あるいは吸収できる時期がきたのだろう、という予感がしている。実際に習うわけでなくても、一緒に同じ空間にいるというだけでも得るものは大きいなあと感じたことだった。
2004.11水牛アーカイブ「日本の獅子舞、インドネシアの獅子舞」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2004年11月号
日本の獅子舞、インドネシアの獅子舞


この原稿を書いているのはちょうど秋祭りの頃で、ふと獅子舞のことを思い出した。本当は私の地域では秋祭りに獅子舞はないのだが。ともかく今回は私の見たことのある獅子舞を紹介する。

  ●池田の神楽

のっけから話はお彼岸に逆戻りする。私の地域では、獅子舞は春と秋のお彼岸に門付けに来るものと決まっていた。池田の神楽といい、伊勢神楽の系統だったという。ただそのおじさんたちも昔は北陸から山陰まであちこち廻っていたらしいから、神楽の来る時期というのは地域により異なっていたかも知れない。そのおじさん達は私の両親が子供の頃から獅子舞をやっていて、私が高校に上がる頃まで来ていたような気がする。皆鬼籍に入って久しく、いまは担い手がいなくて途絶えてしまったみたいだ。

私が覚えている神楽は3人組で廻って来ていた。1人が獅子の頭役、1人が獅子の胴から尻尾?(辞書によるとホロというらしい)を肩にかけながら横笛を吹く役、1人が小さいシンバルを打ち鳴らす役だった。だが辞書によるとホロには通常2人の人が入るとある。両親が子供の頃(戦前から戦後始めにかけて)には、男衆さんも含めて総勢7、8人が大八車を引っ張りながら来たものらしい。田舎ではご祝儀は米などでもらうことが多かったから、それを載せる車とその車を引っ張る人が必要だったという。当時はこういう神楽グループがたくさんあったそうだ。

獅子は舞いの最後になると真剣を抜いて振り回し、邪気を祓う。獅子に頭を咬んでもらうと息災だというので、親が赤ちゃんを抱っこして獅子の口元に差し出すことがよくあった。どの子も獅子の顔を見るとひしって泣く。ジャワではスカテン[注・王宮モスクで巨大なガムランが演奏される行事]のときに赤ちゃんの頭をイスラムの大太鼓(ブドゥッグ)に当ててもらうことがある。これも息災を願う行為で、この光景を見ると私は獅子舞のことを思い出してしまう。どちらも頭を祓ってもらうのは、頭に人間の霊性が宿っていると考えるからかな、と思う。

一通り舞いが終わるとご祝儀を渡し、一服となる。こういう時はきまってお酒である。それもお猪口でなく、湯呑酒やコップ酒といくのが気風がいい。うちの父は酒飲みなので必ず一緒に飲む。母の実家ではお酒だけでなく、夏ならそうめん、冬ならお味噌汁を作ってもてなしたという。ただそういう家もある一方で、裕福であっても神楽が来ると戸口をピシャンと閉めてしまうような家もあったらしい。

こんなことを秋祭りになって思い出したのは、このおじさん達も亡くなって後のこと、秋祭りの頃に乞食神楽といおうか俄か神楽といおうか、が出現するようになったからだ。今年は見なかったが、あれはどうも、お祭りに便乗するアルバイトという感じがしていただけない。

神楽は門付けだけでなくて、神社の遷宮やお寺のお堂を建て直した時などにも上演される。この時には神社やお寺が特別に神楽を呼ぶのである。私も小学生の頃に近くの神社の遷宮で見たことを思い出す。その時は獅子舞の他に皿回し、それも単に手に持った棒の先で皿を回すだけでなくて、境内に綱を張ってその上に棒を立たせ、皿を回していたことを覚えている。こういうのも神楽の人たちの芸だとかで、とにかくたくさんの神楽芸が出てそれはそれは華やかだった。そして最後には餅撒きがあった。こんな盛大な神楽を見たのは私にはこれが最初で最後だった。たぶんこれより後になると、神楽芸ができる人もどんどん減っていったのだろう。

この神楽が私の原風景にあると言って間違いない。インドネシアでも道端でやっている芸につい惹かれてしまうのは、昔の日本の門付け芸を見るような気がするからだ。でも私が知っているのは神楽くらいである。両親は傀儡(くぐつ)師や法螺貝のおっちゃんなど他にも多くの門付け芸を見ている。法螺貝のおっちゃんというのは、まさに山伏の格好をして各戸を廻り法螺貝を吹く人らしい。単なる山伏とどう違うのか分からないが、よく来たらしい。これらの芸はみな昭和20~30年代で廃れてしまったという。

  ●レオッグ

所変わってインドネシアの獅子舞を紹介しよう。バリ島のバロン・ダンスが有名だが、ジャワ島にもレオッグという獅子舞がある。東ジャワ州の一番西にある町、ポノロゴが有名で、私のいたソロから車で3時間くらいで行ける。

レオッグの頭部は巨大である。獅子頭自体は人間の頭にすっぽり被るくらいだが、その面の背後に孔雀の羽を放射状に張り合わせて団扇状にしたものがくっついている。遠くから見ると人間の肩から上に巨大な団扇が乗っかっているように見える。これは1.5m近くの高さがあり、重さは約60kgくらいあるという。レオッグは上半身を折るように前後に揺らせ、団扇で煽るような動きをすることがある。1つのクライマックスで、見ている人が必ずどよめく。

この巨大なレオッグには子獅子?がつきものである。その面は赤黒く、額の生え際に毛がついていて、日本の天狗の面をもっと素朴にしたような顔である。この子獅子はレオッグの周囲でバック転とかの曲芸をする。レオッグはトランス系の芸能だと言われており、異様な雰囲気がある。

ソロでは昔はスカテンの祭りになると、王宮広場にポノロゴのレオッグが来たものらしいが、現在は見られない。私が留学した当初には、スリクラン[注・イスラム断食月21日目夜の行事。王宮モスクからスリウェダリ公園まで行進がある]という行事でレオッグを見た。王族や王宮関係者、伝統兵、チョロバレン音楽、イスラム歌唱(サンティ・スワラン)などの行進があるのだが、その一番最後尾からレオッグがついて行く。ただし留学末期にはスリクランでレオッグを見なかった。それ以外にも、何かのフェスティバルやら独立記念日やらの折に目にすることがある。

  ●バロンサイ

最近インドネシアに登場した獅子舞として中国のバロンサイがある。共産党を非合法化したスハルト政権下では中国系の芸能も禁止されていたが、スハルトが倒れたのでバロンサイや竜舞(リヨン)が解禁された。私がいたソロでも、独立記念日や旧暦正月、その他のイベントがあるたび中国系の人達の獅子や竜が通りを練り歩くようになった。

バロンサイは白地にピンクか白地に水色という体色で、遊園地にいる着ぐるみ人形が巨大化した感じである。それに漫画のようなぐりぐりの目つきで、長いまつげ付きまぶたがパチパチとまばたきするというファンシーな顔つきである。あの獅子は中国の歴史の中で一体いつ頃出現したのだろう。日本の獅子舞は中国の唐から伝わったはずだが、一体いつの間に中国人の美意識は変わっていたのであろうかと、ショックを感じてしまった。

この獅子は曲芸をよくする。ソロ一番の大通り、スラマット・リヤディで大きな脚立を使って2匹のバロンサイが芸をした時には、獅子というよりは巨大な猫が遊んでいるみたいで壮観だった。邪気払いという意味合いはあの巨大猫にもあるのかどうか、あるにしても私にはあんまり感じられないのだが、これはこれで芸として楽しい。
7/29インドネシア伝統舞踊の会@奈良 公演告知
演目を加筆!(6/30) 公演終了までトップに固定
7/29(土)奈良市にて踊ります。入場は無料.ですが御予約制です。詳細は追記を参照。

20170729奈良市インドネシア伝統舞踊の会blog
画像クリックすると拡大

2004 .10水牛アーカイブ「お彼岸雑感」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2004年10月号
お彼岸雑感


お彼岸におっさん(「お」にアクセントがある、お坊さん)がお参りに来てくれる。お彼岸にもお参りに来てもらうようになったのは最近のことだ。今年もお盆は日本にいなかったから、神妙におっさんの後ろで手を合わせる。このおっさんに交代してからどのくらいになるだろう。私が小学校の頃はまだ先代の―今のおっさんのお父さんが来ていた。

この先代は本当におっさんらしいおっさんで、読経の声も良く(今のおっさんも声は似ている)、自然とおっさんの後ろでちんまり座るようになったものだ。さらにご存知だろうか、袂が汗で腕にまとわりつかないように衣の下に籠筒状のものを腕にはめているのを。着物を着ている人であれをはめているのはおっさんしかいなかった。あれが珍しくてよく触らせてもらったものだ。さらに紫の袂にはもう1つ魅力があった。このおっさんはいつもお盆に我が家に来ると、私と妹を呼んで袂からお土産を出してくれるのである。年により飴だったりチョコレートだったりいろいろだったが、なぜかきまってペコちゃんのお菓子だった。子供心にも、檀家で毎年不二家のお菓子を寄進する人がいるのかしらん、とあやしく思っていたものだ。ところが母は全然このことに気づいていなかったということが、このお彼岸に初めて判明した。そういえば、おっさんは母のいる前でお菓子をくれることはなかったような気がする。ペコちゃんのお菓子をもらっていたのは私達姉妹だけだったのか、あるいは子供のいる檀家にはいつもそうしていたのか知らないが、もしかしたらあれはおっさんの長期的な布教戦略だったのかもしれない。牛にひかれて・・・ではないけれど、ペコちゃんに魅かれて私はお経を読むのが好きになった。だから特に何をするわけでもないけれど、「私は仏教徒です」と言うにやぶさかでない。

インドネシアに留学してイミグレーションや警察や学校で手続きをすると、必ず宗教を聞かれる。インドネシア人だと政府の認める5大宗教(イスラム教、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンズー教)のどれかを信仰しなければならず、身分証にも記載される。で、そういうときに(もちろんクリスチャンでない人で)仏教徒だと答えることに抵抗を感じる日本人もいるみたいだ。宗教の話をするのは面倒なのか、「日本人は無宗教だ」と言ってしまう人もいる。もちろん本当に無宗教である人も存在するだろうけれど、そんなに簡単に、日本人をひっくるめて無宗教だと言ってほしくないなと思ってしまう。私には日本人の皆が皆、無宗教で生きているとは思えないのだ。死者を弔うこと――お葬式や年忌を出したり参列したり、毎年盆のお祭りをしたりすること――は、宗教行為ではないのだろうか。毎日仏前に花を供えたりご飯を供えたりする行為と、バリのヒンズー教徒が毎日あちこちの祠にお供えをあげるのと、一体どこが違うのだろう?

閑話休題。

20061111makam 021ブログ用
(私の舞踊の師のお墓、亡くなって埋葬された日に…)

お彼岸にはお墓参りをする。というので、ここではジャワのお墓参りの仕方を紹介しよう。と言っても私の舞踊の先生(イスラム)の家の事例しか知らないので、同じジャワでも地域、宗教、各家庭によって違ったやり方があるかも知れない。

お墓参りの機会は、まずは法事のときである。夜、だいたい8時頃から法事をし、翌朝墓参りするというのがパターンである。法事をしてイスラム導師に来てもらうのはお葬式、7日忌、40日忌、100日忌、1年忌、2年忌、そして1000日忌で、このときに墓石を建てて一応区切りとなり、その後の法事は遺族の自由である。この段取りはカトリックでも同じだと聞いたのだが、カトリック式の法事に出たことはないので未確認である。またジャワの仏教やヒンズー教がどうするのかも私は知らない。

それから毎年の断食明けにも墓参りする。これは一族揃うからだろう。昔はこの時に結婚相手探しが行われたという話も聞いたことがある。私の先生が言うには、ジャワではイスラムの断食月の間、そうでなくても土曜日には墓参りをしないものらしい。行っても魂は墓にいないらしい。どこに行っているのだろう? あるとき先生の家で40日目の法要が断食月の終わり頃にあたったことがあった。このときは墓参りをしたが、花は撒かなかった。魂がいないので別に花を撒かなくてもいいらしい。そういうもんだろうか? その後断食月が明けて、あらためて花を持ってお参りしていた。

日本だとお墓に花を立てるが、ジャワでは花を撒く。お墓に行く前にいつもパサール・クンバン(花市場)に寄り、大量の紅白のバラの花(茎はついてない)を買う。お墓に着くとバラの芯をぬいてほぐして花びらだけにしてしまい、それを参列者がお墓に撒く。そうそうジャワの墓石は横長で、その石の上にずーっと花びらを撒くのである。石をまだ建てていない内は墓標(頭の位置と足の位置に標が差し込まれている)の間にずーっと花びらを撒く。それから前日の法事の時から用意していた紅白のバラの花びらを浮かべた水(クンバン・スタマン)を持っていき、それも交代で撒く。クンバン・スタマンというのは飲み水なのだそうだ。精霊にはただの水より良い香りのする水の方がおいしいらしい。お墓にはクンディ(水差し)がよく置いてある。これは埋葬の時に置くものだ。だが先生がクンディに水を満たしたり、あるいはそれで墓に水を撒くというシーンは見たことがない。普通はこれに水を入れるのかもしれないが、私は知らない。それから食べ物は供えない。

お祈りは皆それぞれにしている。先生の一族はイスラムの人が多いが、カトリックもいる。私はお経を心の中で唱えて合掌する。最初は多数派に合わせてイスラム式ポーズをとったこともあるけれど、どうも祈った気になれないのでやめた。やはり自分の思いが伝わるやり方で祈れば良いのだ。あとジャワの人は墓石に両手を置いたり添えたりして祈ったりすることがある。日本では見ない光景だが、私も合掌したあとやってみる。墓石はあったかくて故人と対話しているような気がする。

お祈りが終わるとスナックがある。家から水とおやつを車に積んで運んできているのである。お墓でものを食べるということに最初は非常にびっくりしてしまった。沖縄では一族が墓参りしてそこで食事をするという風習があるらしいが、亡くなった人にはお供えせず、なんで墓参りした人だけが食べるんだろう?と思ったものだ。小さい子達ははしゃいで、墓の周囲に植わっているバナナやブリンビンなどを採って食べている。これも驚きである。墓にあるものを採ったり食べたりしてはいけないと私は言われてきた。でないと死人に引きずられてしまうからである。ジャワではそういうことはないのだろうか。

遺族だとあらかじめ墓守に連絡して行くからそういうことはないが、突然墓参りに行くとサイン帳が差し出される。芸大の創立記念日の行事で芸大関係の音楽家、舞踊家の墓巡りに参加したことがある。この時は行く先々で記帳した。こういう人がお参りしてますよというのを遺族に見せるのだろう。

ということで、別にジャワでお彼岸に墓参りするなんてことはないのだが(たぶん)、なんだか墓参りのことを思い出したので書いてみた。9月になるとだんだん日も短くなり、朝夕が涼しくなり、虫の声もかすかになって、寂しさやもののあわれが身に沁みてきたり、亡くなった人のことをしみじみ思い出したりする。こういう感じはジャワにはないなあといつも思う。9月は日本にいるのがいい。(10月号でこういうことを書くのは間が抜けている気もするが)
2004.09水牛アーカイブ「独立記念日と芸術あれこれ」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

※ 8月号には寄稿していません。

なお、以下の「●紅白はちまき」の項目で挙げた舞踊「プジュアンPejuang」ですが、作者ガリマン氏をしのぶ舞踊公演(2007年1月26日、インドネシア国立芸術高校スラカルタ校)で上演された時の映像がyoutubeにあります。
➡ https://youtu.be/2ENMIg633Xk




『水牛』2004年9月号
独立記念日と芸術あれこれ


この7月、8月もインドネシアのソロ(スラカルタ)とジャカルタに行ってきた。8月になるとインドネシアは17日の独立記念日に向けて多くのイベントが各町内、地域、国レベルで催される。芸能好きにとっては楽しい時期だ。でも日本人の私は、独立という語の裏にある連帯感を本当には共有できていない気がして、いつもこのお祭り騒ぎに落ちつかなさを感じている。とは言いつつ、独立記念日が廻ってくると思い出すことをいくつか挙げてみよう。

 ●アメリカとインドネシア

1996年7月にアメリカのガムラングループ「サン・オブ・ライオン」がインドネシア芸大ソロ校で公演した。若い人も中にはいたが、かなり年配の人が多かった。それは、アメリカでは日本よりもずっと早くからガムラン音楽が民族音楽として教えられてきた歴史を物語っていた。そのわりに演奏はあまり上手くなかった気もするが、感心したのは彼らがインドネシア人に受けるツボを心得ていたことだ。公演の前半でオリジナル曲を演奏したあと、休憩をはさんで後半ではコラボレーションをするので視聴者にも参加してほしいと彼らは呼びかけた。曲のバルンガン(骨格旋律)はある程度彼らがすでに用意し、芸大側からメロディーパートの演奏者を出すというやり方で、休憩時間に簡単に曲の進行を打ち合わせてぶっつけで演奏するのである。そして曲のテーマは「独立」だった。アメリカの独立記念日は7月4日で、ちょうど時期的にもふさわしい。演奏に参加しなかった人々も高らかに謳いあげられる独立のテーマに大いに盛り上がった。

アメリカ人やインドネシア人にとって「独立」とは絶対的に善であり、かつ互いに共有し合えることのできるテーマなのだ。表現されたものがそのテーマに合っていたのかどうか私は覚えていないが、芸術的にあまり成功してなくてもこの場合はきっと大して重要ではなかっただろう。重要なのは「観客参加型パフォーマンスが成功した」ということだろうだから。

テーマ選択の成功はもちろんだが、もともとインドネシア人(少なくともジャワ人)観客はパフォーマンスに対して大いに乗り、盛り上がってくれるという性質がある。演者からの刺激にとても敏感に反応する。これはコラボレーションするにはとてもよい資質だと思うのだが、悪く言えば付和雷同的で乗せられ易いということでもある。1998年の暴動やその後の各種デモなどを見ていると、そういうところが裏目に出ているのではないかと思えてしまう。

 ●紅白はちまき

現在ではたぶんほとんど上演されないだろうと思われるものに「プジュアン」という舞踊作品がある。これはジャワ舞踊の大家・ガリマン氏が1964年に作ったものである。インドネシア国旗のように紅白に染め分けたはちまきを頭に締め、弓矢を持って戦争するという内容で、プジュアンとは闘士という意味である。1960~70年代頃にどんな舞踊作品が踊られていたかについてインタビューすると、男性だとこの作品を踊ったと言う人が多い。それも独立記念関係のイベントでよくリクエストがあったという。

この作品が最初誰の注文で作られたのか、また振付がどうだったのかまだ調べていないので確かなことは言えないが、共産主義の風潮の影響を受けていたのだろうか、などと想像していた。1950年代後半から60年代にかけてはインドネシア各地で闘争や農作業、漁労、バティック、機織りなどの労働を描いた、共産的なニュアンスを感じさせる舞踊が多く作られたと言われているからである。

とはいえ、当時の振付家や踊り手にとってこの舞踊は政治思想の反映である、とは私は考えていない。作品の注文主の意向はともかく、振付家にとっては政治思想の説明よりも、テーマをいかに舞踊表現に昇華するかということの方が重大関心事のはずだからである。70年代始めに少年だったある踊り手は、プジュアンはとにかく格好よくて好きな作品だったと言う。彼も紅白のはちまきについては「インドネシア独立」のメッセージを感じているが、それ以上のものではないと考えているようだ。

今年の夏の独立記念日の前後はジャカルタで迎えた。プラザ・スナヤンではインドネシアの各地方舞踊の上演が行われていたが、やはり紅白の色を衣装の一部に使うグループも無くはなかった。民族衣装に似合わぬ紅白のねじりはちまきを頭にしているグループもあったし、赤いサテン生地の上着を着ているグループもあった。たぶん紅白の色は「独立を祝っていますよ」という気分の表明や観客へのアピールに過ぎず、当人達にとっては作品の本質に影響しないのだろう。 

●舞踊「ハンドコ・ブギス」

これはジャワ人のハンドコとブギス=マカッサル人の戦いを描いた舞踊で、古くからある宮廷舞踊の演目である。結果は当然ジャワ人の勝ちで、ブギス人は負けて死ぬ。ジャワ文化のコンテキストにおいてはブギス人は常に粗野な民族とされ、そのためにジャワ舞踊の中に「ブギス人の型」というものがある。しかし、ジャワ舞踊の大家・マリディ氏があるときブン・カルノ(スカルノ大統領)の御前でハンドコ・ブギスを上演したところ、見終わったあとブン・カルノからこう言われたという。「最後はブギスを殺さず、円満な終わり方にしなさい。彼らも同じインドネシア民族なのだから。」このエピソードには多くの民族をまとめて独立を果たしたスカルノの高揚した気分がうかがえる。とは言え、私が今までに見たハンドコ・ブギスは最後にブギスが負けて終わりであった。ジャワで上演している限りそれで良いのだろうし、たぶんこれからもそうだろう。
ジャワ舞踊×石見神楽作品(2008)映像アップ
2008年、石見神楽とジャワ舞踊の共同制作作品『オロチ・ナーガ』公演記録に関する一連の映像(下記3つ)を、右下のリンク集にある映像(その他) にアップしました。

(1/3) OROCHI NAGA - introduction - 公演前の背景・作品紹介
(2/3) OROCHI NAGA performance   公演
(3/3) OROCHI NAGA - gratitude -   公演後の出演者挨拶

なお、この事業に関するブログ記事・写真は、記事分類 > ジャワ舞踊公演 > '08 岩見神楽+ジャワ舞踊 にあります。
2004.07水牛アーカイブ「マンクヌガランの観光舞踊」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。



『水牛』2004年7月号
マンクヌガランの観光舞踊


スラカルタ(別名ソロ)のマンクヌガラン宮殿ではマンクヌガラン・ロイヤル・ディナーと呼ばれる観光パッケージを用意しており、旅行社などを通して団体で舞踊上演をチャーターするシステムになっている。インドネシア人にとってはかなりの高額だが、日本で舞台公演を見るくらいの料金でディナーと舞踊が堪能でき、しかもジャワの伝統的な舞踊・儀礼の空間=プンドポで、生演奏による上演を見ることができるのは貴重である。私は決してマンクヌガランの手先ではないが、おすすめである。

●パッケージの内容

まずは夜6時過ぎから宮殿内の食堂で王族の人とともにジャワ式ディナーをいただく。スラマタン(安寧を祈願する共食儀礼)の時のお供えであるナシ・トゥンパンも用意される。これはターメリックで黄色く色づけされたご飯を三角錐状に盛り、その周囲を野菜や卵などで飾ったものである。スラマタンでのように、その三角錐の先を切り取る儀式をしてから食事になる。これはジャワらしさの演出なのだろう。ナシ・トゥンパンも他の料理も食事は大変おいしい。インドネシア料理は辛いものと思われているが、少なくともジャワでは、王宮や高級店での料理はあまり辛くもなく上品な味である。食事のあとは博物館になっているプンドポの奥の間を見学して、8時頃からプンドポでお茶とデザートをいただきながらの舞踊鑑賞となる。ちなみに博物館の見学はいつでも午前中に有料で可能である。その方がガイド付きでゆっくりと見ることができる。

プンドポでは奥の間を背に椅子とコーヒー・テーブルがセッティングされて、客はそこからプンドポの中央空間(ソコと呼ばれる4本の柱で囲まれている)で上演される舞踊を見る。つまりこれは、王様の見る位置から舞踊を見させてもらえるということなのだ。本当の王宮儀礼であれば、普通の人がこんな位置から舞踊を見ることはできない。(もっともそれ以前に招待されないだろうが。)

舞踊は普通は20~25分くらいの男性舞踊、女性舞踊が1つずつ上演される。男性舞踊はたいていウィレンと呼ばれる戦いの舞踊であり、女性舞踊もウィレンか、あるいはガンビョンやゴレックと呼ばれる単独舞踊をたいてい2人で踊る。もしスリンピやブドヨ、舞踊劇(ワヤン・トペンやラングン・ドリアンなど)のような大きな演目が上演されたとしたら、それは特別な客だと考えてよい。レパートリーが何であれ、基本的にマンクヌガランのオリジナル作品が上演される。ソロではクラトン・カスナナン宮殿(本家にあたる)のスタイルがスタンダードになっており、マンクヌガラン・スタイルはここでしか見ることができない。この舞踊鑑賞の時には司会の人がいて作品説明をしてくれる。最後は記念に踊り子の手からマンクヌガランの紋章のバッジがもらえ、それぞれ写真撮影したりしておひらきとなる。

以上が全体の流れである。私も正式の客として堂々と上演を見たことが2000年と2001、2年頃に2回ある。それ以外はいつもプンドポの脇やガムラン奏者の後ろから舞踊上演を見せてもらっていた。ソロで舞踊や音楽を勉強している外人留学生はそうやって勉強させてもらう。

●客層

基本的にロイヤル・ディナーの客は外人で、日本人の団体も時々来る。1997年末からの経済危機以降ソロの観光客は激減、ほとんどいなくなった。2002、3年頃でも経済危機以前の状態までには戻っていない。観光の一環であれ、宮廷が舞踊や音楽で満たされ華やいでいるのを見るのは嬉しいものである。往時のことを思い出すとなんだかとても寂しい。

観光パッケージとは言えないが、インドネシア政府関係者とか偉い賓客の接待というのもある。だいたい食事は別の所でとり、デザートを食べながら舞踊鑑賞するだけのようだ。たぶんソロの視察というような名目なのだろうが、実態は観光と似たようなものだろう。この場合、お客さんは必ず本家のクラトンに先に行き、次にマンクヌガラン宮殿に来る。クラトンではどんな接待があるのか知らないが、そこで長引けば当然マンクヌガランに来るのは遅れる。いつだったか、どこかの国の大使が予定から2時間くらい経ってもマンクヌガランに現れないことがあった。けっきょくそれはクラトンを出たあとダナル・ハディ(有名なバティック=ジャワ更紗服の店)に買い物に寄っていたからだと判明。どこの国でも偉いさんというのは人を待たせるもんである。

また国内観光旅行の団体や学校研修の一環としての鑑賞会などもある。私が見た限りではいつも昼間にやっていた。学校団体などかなりの人数が来るので、客は椅子に座らず床に敷いたマットの上に座っている。ディナーもお茶もつかない。

●上演

具体的にどんな演目があるのかについてはまた別の機会に説明するとして、今回は印象的だったケースをいくつか紹介しよう。ふつうは上演内容はお任せでマンクヌガランが決めているが、団体によってはリクエストしてくるところもある。

国内の婦人団体がチャーターした時に、ラングン・ドリアン(舞踊歌劇)の上演があった。これは宝塚歌劇みたいに女性だけが出演するもので、マンクヌガランのオリジナルである。女性ばかりの演目をリクエストされてそうなったらしい。

子供の舞踊がリクエストされることもある。決まって子供の団体(もちろん引率は大人)がチャーターする時である。同じ年頃の子供達が踊るのを見るほうが、観客の子供達の興味をそそるのだろう。そういう時はスルヨ・スミラット(マンクヌガラン子供舞踊教室)の子供達が出演する。宮廷舞踊は大人の舞踊で子供の演目はないからである。

マンクヌガランで一度「ボンダン」を見て驚いたことがある。これはソロの伝統舞踊としてとてもポピュラーだが、マンクヌガランのオリジナルではない。マンクヌガランで上演されるのはオリジナルの作品か、またそうではなくともマンクヌガラン風にアレンジを加えてレパートリー化した特定の演目である。だがボンダンは後者でもない。これは客からのリクエストだということだった。ソロの舞踊について知識はあるが、マンクヌガラン舞踊についてはあまり知らない客だったのではなかろうか。そういう依頼があった場合、その曲は自分達のレパートリーではないことを説明してオリジナル作品の上演を提案するという手もあると思うのだが、マンクヌガランはそうはしなかった。踊り子はいつもの宮廷の踊り子だった。

さらにマンクヌガランでカセットテープを使った上演も見たことがある。それは断食月のことだった。ジャワの王宮では断食月の1ヶ月間はガムランの音を出してはいけないことになっていて、その間に楽器を手入れするようである。このときは断食中で音が出せない理由を客に説明してから上演していたが、私にはどうも腑に落ちなかった。イスラムの断食について詳しく知らないが、ガムランの音を出してはいけないというなら、たぶんカセットでもだめなのではなかろうか? 事前に客はカセット伴奏を了承していたのだろうか。あるいはチャーター料金は生演奏の場合とで違ったのだろうか。断食月だからチャーターに応じられないという選択肢はなかったのだろうか、などといろんなことを考えさせられてしまった。

話があらぬ方向へ飛んでしまった。ボンダンやカセット伴奏の件のように、どこまで客の要求に合わせ、どこから妥協できないのかというポイントを決めることは難しい。これは観光がかかえる問題というよりも、興行・サービス産業における根本的な問題のように思える。日本の老舗旅館や料理屋ならもてなす側がある程度客を選別し(一見お断りとはそういうことだろう)、自分達が最高だと考えるサービスを提供する。場違いな客の要望は婉曲に断るだろう。それは文化的背景が比較的単一な日本でだからこそ可能なのだろうか。外国人観光客をターゲットにしていては、王宮といえどもそれは難しいのだろうか。そういうことをつい考えてしまう。
2004.06水牛アーカイブ「バンバンガン・チャキル」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。



『水牛』2004年6月号
バンバンガン・チャキル


今回はジャワ舞踊の戦いの演目を紹介しよう。バンバンガン・チャキルは見目麗しい武将(バンバンガン)とチャキル(森に住む鬼)の戦いを描いたもので、どんなストーリーのワヤン(影絵芝居)にも挿入されるシーンである。ワヤンに準じているワヤンオラン(舞踊劇)の中で上演される他、独立した舞踊作品として上演されることも多い。武将が森にやってきて瞑想しているところにチャキルが登場し、武将の邪魔をしようとする。そのうち戦いになり、チャキルが負けるという筋である。チャキル以外にもさらに3体の大きな怪物が現れて武将との戦いになるというのが完全な演出で、その場合はプラン・クンバン(花の戦い)と呼ばれて区別される。

バンバンガンチャキル
故パク・ブウォノXII世のスドソ・ウィンドゥ(ジャワ暦80歳)のお祝いの席で、バンバンガン・チャキルを上演するXII世の孫たち(冨岡三智撮影、転載禁止)

バンバンガンはある1人の人物名ではなく、人物設定には多少の幅がある。とはいえ、ほとんどはアルジュノかその息子のアビマニュである。踊り手としてはその人物のキャラクターを表現することが重要である。たとえばアルジュノはハルス(優美)の理想とされるので、その動きは基本的に相手の攻撃をかわしたり、サンプール(舞踊に使う布)を手にして払うだけである。間違っても相手を蹴飛ばしたり、殴り飛ばしたりはしない。そのシャクティゆえに、相手の体に触れずしてダメージを与えることができるというのがアルジュノのキャラクターである。これがアビマニュになるとややカッサール(荒い性格)になり、チャキルを足で蹴ったりする表現も可能になる。だが最近はそこまで知って厳密にキャラクター表現をする踊り手も少なく、またその表現力を楽しむ観客も少なくなってきたようだ。

余談だが、バンバンガンは優形のキャラクターであるので、商業舞踊劇の世界ではしばしば女性によって演じられる。しかしこれは宮廷舞踊の美意識からすると有り得ないことだった。宮廷では男性は男性舞踊だけ、女性は女性舞踊だけを踊る。スリウェダリ公園にあるワヤン・オラン劇場の舞踊指導を頼まれた宮廷舞踊家が、女性がバンバンガンを演じているのを見てひどく立腹し、二度とスリウェダリに足を向けなかったという逸話が伝えられている。1950年代頃の話である。女性が男性舞踊を踊るということには、単にハルスの理想が女性的な表現形態をとるからというだけでなく、興行上の理由(女性が主役となることで観客を魅了する)も考えなければならないだろう。

さて、この演目では音楽の流れや話の筋は大体決まっているが、振付はかなり踊り手に任されている。私が留学していた芸大でもバンバンガン・チャキルには決まった振付がなかった。4年後期の授業で履修するのだが、曲を与えられて自分で振り付け、それが試験される。その理由を尋ねたところ、昔から踊り手が自分で振り付けるのが伝統であるからということだった。

ここでは一般的、古典的な曲の進行に沿って舞踊の見どころを説明しよう。まずはスボカストウォというゆったりした曲にのってバンバンガンが1人登場する。顔見世程度に踊ったあと、舞台中央で客席を向いてタンジャッの姿勢(舞踊の基本的な立ち姿勢)になる。瞑想に入ったということである。曲がアヤッアヤッアン・アラスアラサン(アラスアラサンは森の意)、そしてスレペッグに変わり、バンバンガンの背後からチャキルが登場する。最初は舞台後方で踊っているが、やがてバンバンガンの存在に気づき、舞台中央にやってきて、後ろからのぞきこんでみたりしてちょっかいを出し始める。バンバンガンの踊り手の立場からすると、ここは結構つまらないシーンである。中腰でじっと立ち続けているので足がだるくなるわ、背後でのチャキルの踊りは全然見えないわ、ちょっかいを出されても真面目な顔をしてないといけないわで、ひたすら忍耐である。

チャキルの邪魔に瞑想から覚めたバンバンガンが動き始め、戦いのシーンになる。バンバンガンの踊り手としては、チャキルの攻撃から素早く身をかわしても、すぐにまた優美な動きに戻るという緩急が見せどころである。反対にチャキルはすばしこく動きまわる。だがチャキルの踊り方は昔と今ではずいぶん変わったようだ。かつてはチャキルの動きはワヤン人形の動きを模していたため腕を回す動きが中心で単純だった。人形のように、セレー(曲の節目)では腕がまっすぐに伸びていなければならなかったという。また飛んだり跳ねたりする動きもなく、バンバンガンとの空間配置もワヤンのように平面的で横並びだった。しかしシラット(武術)の動きを取り入れたり、1970年代頃からは様々な動きが考え出されると同時に空間を立体的に使うようになり、今ではアクロバティックな要素が強くなっている。

その後チャキルは自らのクリス(剣)を抜く。実はチャキルは剣を2本持っている。1本はラドランと呼ばれる一般的な形のクリスで、腰に通常とは上下逆に差す。このように剣を差すのはチャキルだけである。それから膝の前にナイフのような形の剣をもう1本差している。この2本の剣を抜いてお手玉のように操るという芸当を見せることもある。ともあれチャキルはバンバンガンを倒そうと剣を抜いて立ち向かい、しかし誤って自らを刺す。ここで曲はサンパッとなる。ここではチャキルは決してバンバンガンの剣に倒されるのではない。バンバンガンが剣を手に取ることはない。チャキル=悪は、バンバンガン=善に負かされるのではなく、自らの行為によって自滅するのである。それがジャワの哲学なのだという。だが最近はそのことを知る人も少なくなり、バンバンガンがチャキルの剣を奪い取って刺すという振付にする若い人もいる、と年長者は渋い顔である。

実は、以上のような流れはプティラン(舞踊劇中の1幕が独立したもの)としての演出である。これとは別に、宮廷舞踊ウィレンの形式に則った演出もある。その場合は、他のウィレン同様にスレペッグの曲で入場する。そしてブクサン(舞踊の主要部)が始まり、ラドラン形式の曲を使って2人がシンメトリーなフォーメーション、振付で踊る。それから曲はアヤッアヤッアン、スレパガンに進んで戦いのシーンとなり、さらにパラランという歌の形式に進むこともある。最後はサンパッの曲で退場する。このように曲の進行を聞いているが、私はまだこのウィレン形式での上演を見たことがない。宮廷でも、である。たぶんこれは大衆向けプティランの演出の方が断然面白いからだろうなと推測している。優美でおっとりした動きの武将とすばしこい動きのチャキルがそれぞれに踊るからこそ面白いのであって、この両者がまじめに向き合ってシンメトリーに踊っても面白いかなあ? と私は疑問である。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。