2017年08月17日 (木)
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。
『水牛』2005年6月号
昼間の停電に思う
珍しいことに、先日、5分間くらいだったが停電があった。ちょうど停電になった時には駅前商店街の西にあるお店に買い物に来ていた。別に地震も雷もあったわけではなく、五月晴れという言葉がぴったりくる日の、正午頃のことである。お店を出るところで突然電気が消え、奥に引っ込んだ店主がまた表に出てきた。辺りの店を見回しても停電している。正午とはいえ、商店街のウィンドーから照明が消えると少々寂しい。商店街を東へ100mばかり歩いていると、通り沿いの店の人がわらわらと表に出てきて、停電を確認し合っている。停電は自分の家だけかしらん、と皆思うらしい。昔じゃあるまいしねえ、と言っている角の煙草屋のおばあちゃんの声も聞こえる。商店街端の交差点に出る。ここから向こうの垣内(かいと)も停電しているようだ。インドネシア風に言うと、隣のRTも停電している。隣のRTにある銀行からお姉さん達が何人も表に出てきて、こちらのRTをうかがっている。さらに驚いたのは、交差点の信号まで止まっていること。停電では信号機も止まるなんて、今まで考えたこともなかった。
停電の商店街を歩きながら、インドネシアのことを思い出していた。インドネシア(私がいたソロ)ではよく停電したので、私もロウソクを買い置きしていたし、留学生で一足お先に帰国する人の置き土産の中には、たいていろうそくがあった。もっともロウソクが必要になるのはひどい大雨や雷で停電する夕方から夜の間だけだが、じつは普段の昼間などにもしょっちゅう、短時間、あるときは何時間か、よく停電しているのである。冷蔵庫を開けてみて、あれ停電してる、と何度思ったことか。また、芸術大学の授業が停電で中断したことも何度かある。舞踊科の実技の授業ではカセットをかけて練習する。始めのうちは先生が説明したりちょっと見本を見せたりしていても、停電が長引くと困ってしまう。
けれど、モスクのアザーンが停電で聞こえなくなるのは(不謹慎ながら)嬉しい。これはインドネシアの音風景(バリなど非イスラム圏は除く)を特徴づけるものだと言っていい。アザーンは1日5回のお祈りの時刻を知らせるモスクからの呼びかけで、スピーカーで一帯に響くように呼びかける。異教徒にとってはぎょっとするような大音量で、特に慣れないうちは、明け方これで目が覚める。アジアのイスラム圏にスピーカーを売り込んだのは日本の音響会社だという話を聞いたことがあるが、本当だとしたらハタ迷惑なことをしてくれたものだ。スピーカーが普及する前はイスラム導師がモスクの上から大声で呼びかけていたらしいが、町の小さなモスクならそれで十分だという気もするし、その方が宗教的な風情もあるだろうに。
話がそれた。ソロのような地方都市だけではなくて、首都ジャカルタでも停電はあるようだ。昨年、ジャカルタのあるお役所に夕方行ったら、停電していて弱ったことがある。役所に着くと、大勢の人がいっせいに階段から下りてくる。聞くと、30分くらい停電していて仕事にならないので、いつもより早い時間だが退社するという。えっと思ってアポを取った人に携帯電話で連絡する。その人は退社せずに待っていてくれた。が、待ってくれている以上、行かねばならない。降りてくる人とぶつかりながら、狭い階段を9階まで必死で駆け上がったが、ジャカルタのような都市でも停電はあるのかと驚いたことだった。
いまや日本では、普段の日に停電するなどと誰も予期しないだろう。駅前商店街で停電して家に戻り着いたとき、(実は私の家もその並びにある)、「電気が消えると、人間て、思わず外に飛び出すもんやねえ。」と言った母の言葉がなんだかおかしかった。停電から1時間ほどたってから電力会社の車が廻ってきて、「さきほどは、突発的な事故停電によりご迷惑をおかけしまして……」とアナウンスしていた。そうか事故か、と原因を知るだけで、なんとなくほっとする。どこかで電気工事をしていて、誤って電線を切ったのだろう。こういうアナウンスはインドネシアでは全くなかった。それだけ停電が常態化しているのか、そこまで(過剰に)親切にする習慣がないのか。逆に言えば、日本では停電はアナウンスしないといけない異常事態ということにもなるのだろう。
珍しい停電に遭遇して、日本の電力は安定して供給されているということも、あらためて思い起こす。インドネシアでは、電圧が日本ほど一定に保たれていないみたいだ。220vとあっても、うまく電力がコントロールできないとそこからはみ出すことがあり、だから電気製品がよく壊れるのだという。冷蔵庫だとかパソコンだとか、高価な電化製品を使うなら必ず電圧安定装置(スタビライザー)を使うこと、直接コンセントにさしては駄目だよ、と、パソコンが壊れてからアドバイスされた。そういえば大学のパソコンでは必ずスタビライザーを使っている。テレビだけはブラウン管を通るからスタビライザーを使わなくても大丈夫、と言う人がいたが、それが正しいのかどうか私は知らぬ。
最後に余談だが、インドネシアでパソコンを使っている時に、近くで雷が落ちたことがある。外は雨でゴロゴロと遠くで低く轟く音がしていたが、あまり気にならないくらいだった。私は床に直に座って、ラップトップのモバイルパソコンを、文字通り膝の上にのせて使っていた。そこに急にものすごい落雷音がして家の電気が消え、同時にラップトップからしびれるような衝撃がきて、思わずそれを放り投げてしまった。これが感電か、雷で一気に電圧が高まるんだなあ、と体感したことだった。
『水牛』2005年6月号
昼間の停電に思う
珍しいことに、先日、5分間くらいだったが停電があった。ちょうど停電になった時には駅前商店街の西にあるお店に買い物に来ていた。別に地震も雷もあったわけではなく、五月晴れという言葉がぴったりくる日の、正午頃のことである。お店を出るところで突然電気が消え、奥に引っ込んだ店主がまた表に出てきた。辺りの店を見回しても停電している。正午とはいえ、商店街のウィンドーから照明が消えると少々寂しい。商店街を東へ100mばかり歩いていると、通り沿いの店の人がわらわらと表に出てきて、停電を確認し合っている。停電は自分の家だけかしらん、と皆思うらしい。昔じゃあるまいしねえ、と言っている角の煙草屋のおばあちゃんの声も聞こえる。商店街端の交差点に出る。ここから向こうの垣内(かいと)も停電しているようだ。インドネシア風に言うと、隣のRTも停電している。隣のRTにある銀行からお姉さん達が何人も表に出てきて、こちらのRTをうかがっている。さらに驚いたのは、交差点の信号まで止まっていること。停電では信号機も止まるなんて、今まで考えたこともなかった。
停電の商店街を歩きながら、インドネシアのことを思い出していた。インドネシア(私がいたソロ)ではよく停電したので、私もロウソクを買い置きしていたし、留学生で一足お先に帰国する人の置き土産の中には、たいていろうそくがあった。もっともロウソクが必要になるのはひどい大雨や雷で停電する夕方から夜の間だけだが、じつは普段の昼間などにもしょっちゅう、短時間、あるときは何時間か、よく停電しているのである。冷蔵庫を開けてみて、あれ停電してる、と何度思ったことか。また、芸術大学の授業が停電で中断したことも何度かある。舞踊科の実技の授業ではカセットをかけて練習する。始めのうちは先生が説明したりちょっと見本を見せたりしていても、停電が長引くと困ってしまう。
けれど、モスクのアザーンが停電で聞こえなくなるのは(不謹慎ながら)嬉しい。これはインドネシアの音風景(バリなど非イスラム圏は除く)を特徴づけるものだと言っていい。アザーンは1日5回のお祈りの時刻を知らせるモスクからの呼びかけで、スピーカーで一帯に響くように呼びかける。異教徒にとってはぎょっとするような大音量で、特に慣れないうちは、明け方これで目が覚める。アジアのイスラム圏にスピーカーを売り込んだのは日本の音響会社だという話を聞いたことがあるが、本当だとしたらハタ迷惑なことをしてくれたものだ。スピーカーが普及する前はイスラム導師がモスクの上から大声で呼びかけていたらしいが、町の小さなモスクならそれで十分だという気もするし、その方が宗教的な風情もあるだろうに。
話がそれた。ソロのような地方都市だけではなくて、首都ジャカルタでも停電はあるようだ。昨年、ジャカルタのあるお役所に夕方行ったら、停電していて弱ったことがある。役所に着くと、大勢の人がいっせいに階段から下りてくる。聞くと、30分くらい停電していて仕事にならないので、いつもより早い時間だが退社するという。えっと思ってアポを取った人に携帯電話で連絡する。その人は退社せずに待っていてくれた。が、待ってくれている以上、行かねばならない。降りてくる人とぶつかりながら、狭い階段を9階まで必死で駆け上がったが、ジャカルタのような都市でも停電はあるのかと驚いたことだった。
いまや日本では、普段の日に停電するなどと誰も予期しないだろう。駅前商店街で停電して家に戻り着いたとき、(実は私の家もその並びにある)、「電気が消えると、人間て、思わず外に飛び出すもんやねえ。」と言った母の言葉がなんだかおかしかった。停電から1時間ほどたってから電力会社の車が廻ってきて、「さきほどは、突発的な事故停電によりご迷惑をおかけしまして……」とアナウンスしていた。そうか事故か、と原因を知るだけで、なんとなくほっとする。どこかで電気工事をしていて、誤って電線を切ったのだろう。こういうアナウンスはインドネシアでは全くなかった。それだけ停電が常態化しているのか、そこまで(過剰に)親切にする習慣がないのか。逆に言えば、日本では停電はアナウンスしないといけない異常事態ということにもなるのだろう。
珍しい停電に遭遇して、日本の電力は安定して供給されているということも、あらためて思い起こす。インドネシアでは、電圧が日本ほど一定に保たれていないみたいだ。220vとあっても、うまく電力がコントロールできないとそこからはみ出すことがあり、だから電気製品がよく壊れるのだという。冷蔵庫だとかパソコンだとか、高価な電化製品を使うなら必ず電圧安定装置(スタビライザー)を使うこと、直接コンセントにさしては駄目だよ、と、パソコンが壊れてからアドバイスされた。そういえば大学のパソコンでは必ずスタビライザーを使っている。テレビだけはブラウン管を通るからスタビライザーを使わなくても大丈夫、と言う人がいたが、それが正しいのかどうか私は知らぬ。
最後に余談だが、インドネシアでパソコンを使っている時に、近くで雷が落ちたことがある。外は雨でゴロゴロと遠くで低く轟く音がしていたが、あまり気にならないくらいだった。私は床に直に座って、ラップトップのモバイルパソコンを、文字通り膝の上にのせて使っていた。そこに急にものすごい落雷音がして家の電気が消え、同時にラップトップからしびれるような衝撃がきて、思わずそれを放り投げてしまった。これが感電か、雷で一気に電圧が高まるんだなあ、と体感したことだった。
2017年08月16日 (水)
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。
『水牛』2005年5月号
振付家名のクレジット(4)振付、振付家の呼び方
前回の最後で、「インドネシア若手振付家フェスティバル」が1978年から始まり、初めて振付家が脚光を浴び始めると書いて(続く)としたのだけれど、今回は少し視点を変えて、振付、あるいは振付家をインドネシアでは、特にジャワのソロではどう呼んでいるのか、書いてみよう。
この「インドネシア若手振付家フェスティバル」はインドネシア語ではフェスティバル・プナタ・タリ・ムダといい、プナタ・タリが振付家を表している。タリは舞踊を意味し、プナタはタタする人=秩序正しく構成する人だ。振付だとプナタアンとなる。これだと、さまざまな動きや型といった要素を構成して作品に仕上げることが振付だというニュアンスがある。このフェスティバルはインドネシアで現代舞踊を推進する目的で始まったから、振付家にコレオグラファーという外来語をそのまま使っても良さそうなものだが、使っていない。
それから振付家=プニュスン=ススンする人、振付=ススナン・タリという言い方もある。ススンはつなげるという意味で、これなどは特に(他の舞踊のことは分からないのだけれど)、ジャワ舞踊の伝統的な振付を表すのに向いている言葉だという気がする。ジャワの舞踊や音楽は一まとまりのフレーズ=スカランとつなぎのフレーズの2種類に分かれていて、スカランを何度か繰り返してつなぎのフレーズがくるという構造になっている。ネックレスのようにフレーズをつないでいくイメージが、ススンという語にはあるように感じられる。
外来語のコレオグラフィー、コレオグラファーという語も、インドネシアでは1961年に始まるラーマーヤナ・バレエで使われている。(それ以前からすでに使われていたかも知れない。)この場合は、新しい伝統舞踊劇のジャンルを表すのにバレエという西洋語が用いられているから、その振付家にもコレオグラファーという西洋語を用いたのかなという気がする。
けれど、現在ではコレオグラファーという語を聞くと、伝統的でない/現代ものの舞踊作品の振付家をイメージしてしまう。私が留学している時に、授業で自分の好きなコレオグラファーを選んでその作品の特徴を書いてくるという宿題が出たことがあった。生徒が選んだのはほぼすべてインドネシア国内の現代舞踊家で、芸大や芸術高校の履修科目に入っている、とても有名な伝統舞踊作品の作者の名前――クスモケソウォとかマリディとかガリマンなど――はぜんぜん挙がらなかった。そのことに先生は大きくショックを受けていたけれど、実は私自身もこれらの人々のことに思い至らなくて、それがショックであった。確かにこれらの人々もコレオグラファーと呼ぶべきなのだ。それを失念していたのは、これらの人々の作品がすでに古典化していて新しい作品という感覚が無くなってしまっているからかも知れないし(これらの人々が活躍したのは戦後になってから)、またコレオグラファーという外来語から、どうしても欧米スタンダードの現代的な作品を振り付ける人を想像してしまうのかも知れないと感じている。
インドネシア・ソロの芸大では、このコレオグラフィーという語と、それからコンポジシ(英語のコンポジション)という語が振付を表す語として使われていて、両方併記されることも多い。どちらかというと2000年頃以前はコンポジシの方がよく使われていて、それ以後はコレオグラフィーが代わってよく使われるようになった気がする。コンポジシは、音楽科では作曲の意味で使われている。もっともそれが英語での普通の使い方だろう。英語圏では舞踊作品や舞台芸術作品を作ることにもコンポジションという語を使うのか、私は知らない。(少なくとも私の辞書にはその使い方は載っていない。)
このコンポジシという語は、基本的には伝統的なテクニックから離れた振付を指すのに使う、と芸大の先生は言う。では芸大では伝統的な手法で振り付けたものは何と呼ぶのかと聞くと、それはガラパンだという。ガラパンとは辞書的には「作る」という意味のようであるが、ジャワでは音楽や舞踊をアレンジ・演出することを指している。卒業制作でガラパンするというと、だいたいワヤン(影絵)でおなじみの話を、自分なりに新しくアレンジして舞踊劇に仕立てていることが多い。その場合は伝統的な舞踊や音楽のテクニックを中心に使っている。
その他に、現在のソロでほとんど聞くことがないが、クレアシ・バル=新創造という語がある。クレアシは英語のクリエーション=創造のことだ。この語はソロではバゴン(故)というジョグジャカルタの現代舞踊家の作品に対して使われることが多く、他のジャワの舞踊家の作品に対しては使われないように思う。ジョグジャカルタの音楽家や留学生からは、バゴンに関係なく、新しい表現というニュアンスでこのクレアシ・バルという語を何度も耳にしたことがあるから、ジョグジャカルタではよく使う、あるいは使っていた語なのかも知れない。
ソロの芸大の舞踊科の先生からこんな話を聞いたことがある。あるとき地方(ソロ近郊)でのクレアシ・バル・コンテストの審査員を頼まれ、どんな振付作品が出てくるのかと楽しみにしていたら、ディスコ・ダンスのようなものばかりだったそうだ。いまやクレアシ・バルは地方ではディスコ・ダンス風のものだと理解されているらしい。
このように思いつくままに挙げてみたけれど、インドネシアは地域によって言語も舞踊も音楽も異なる。インドネシア語が共通語だといっても、地域によって音楽や舞踊の概念が違えば、振付家、振付を表す言葉だって異なるだろう。たとえば、振付という行為がススナンという語で表すのが不適切な地域だってあるかも知れない。おそらく芸術大学や芸術高校がある地域間では、学校の人材交流の中で言葉もある程度共通化してくるのだろうけれど、まだまだ他にも振付、振付家を指す語がたくさんあるのではないかと思っている。
『水牛』2005年5月号
振付家名のクレジット(4)振付、振付家の呼び方
前回の最後で、「インドネシア若手振付家フェスティバル」が1978年から始まり、初めて振付家が脚光を浴び始めると書いて(続く)としたのだけれど、今回は少し視点を変えて、振付、あるいは振付家をインドネシアでは、特にジャワのソロではどう呼んでいるのか、書いてみよう。
この「インドネシア若手振付家フェスティバル」はインドネシア語ではフェスティバル・プナタ・タリ・ムダといい、プナタ・タリが振付家を表している。タリは舞踊を意味し、プナタはタタする人=秩序正しく構成する人だ。振付だとプナタアンとなる。これだと、さまざまな動きや型といった要素を構成して作品に仕上げることが振付だというニュアンスがある。このフェスティバルはインドネシアで現代舞踊を推進する目的で始まったから、振付家にコレオグラファーという外来語をそのまま使っても良さそうなものだが、使っていない。
それから振付家=プニュスン=ススンする人、振付=ススナン・タリという言い方もある。ススンはつなげるという意味で、これなどは特に(他の舞踊のことは分からないのだけれど)、ジャワ舞踊の伝統的な振付を表すのに向いている言葉だという気がする。ジャワの舞踊や音楽は一まとまりのフレーズ=スカランとつなぎのフレーズの2種類に分かれていて、スカランを何度か繰り返してつなぎのフレーズがくるという構造になっている。ネックレスのようにフレーズをつないでいくイメージが、ススンという語にはあるように感じられる。
外来語のコレオグラフィー、コレオグラファーという語も、インドネシアでは1961年に始まるラーマーヤナ・バレエで使われている。(それ以前からすでに使われていたかも知れない。)この場合は、新しい伝統舞踊劇のジャンルを表すのにバレエという西洋語が用いられているから、その振付家にもコレオグラファーという西洋語を用いたのかなという気がする。
けれど、現在ではコレオグラファーという語を聞くと、伝統的でない/現代ものの舞踊作品の振付家をイメージしてしまう。私が留学している時に、授業で自分の好きなコレオグラファーを選んでその作品の特徴を書いてくるという宿題が出たことがあった。生徒が選んだのはほぼすべてインドネシア国内の現代舞踊家で、芸大や芸術高校の履修科目に入っている、とても有名な伝統舞踊作品の作者の名前――クスモケソウォとかマリディとかガリマンなど――はぜんぜん挙がらなかった。そのことに先生は大きくショックを受けていたけれど、実は私自身もこれらの人々のことに思い至らなくて、それがショックであった。確かにこれらの人々もコレオグラファーと呼ぶべきなのだ。それを失念していたのは、これらの人々の作品がすでに古典化していて新しい作品という感覚が無くなってしまっているからかも知れないし(これらの人々が活躍したのは戦後になってから)、またコレオグラファーという外来語から、どうしても欧米スタンダードの現代的な作品を振り付ける人を想像してしまうのかも知れないと感じている。
インドネシア・ソロの芸大では、このコレオグラフィーという語と、それからコンポジシ(英語のコンポジション)という語が振付を表す語として使われていて、両方併記されることも多い。どちらかというと2000年頃以前はコンポジシの方がよく使われていて、それ以後はコレオグラフィーが代わってよく使われるようになった気がする。コンポジシは、音楽科では作曲の意味で使われている。もっともそれが英語での普通の使い方だろう。英語圏では舞踊作品や舞台芸術作品を作ることにもコンポジションという語を使うのか、私は知らない。(少なくとも私の辞書にはその使い方は載っていない。)
このコンポジシという語は、基本的には伝統的なテクニックから離れた振付を指すのに使う、と芸大の先生は言う。では芸大では伝統的な手法で振り付けたものは何と呼ぶのかと聞くと、それはガラパンだという。ガラパンとは辞書的には「作る」という意味のようであるが、ジャワでは音楽や舞踊をアレンジ・演出することを指している。卒業制作でガラパンするというと、だいたいワヤン(影絵)でおなじみの話を、自分なりに新しくアレンジして舞踊劇に仕立てていることが多い。その場合は伝統的な舞踊や音楽のテクニックを中心に使っている。
その他に、現在のソロでほとんど聞くことがないが、クレアシ・バル=新創造という語がある。クレアシは英語のクリエーション=創造のことだ。この語はソロではバゴン(故)というジョグジャカルタの現代舞踊家の作品に対して使われることが多く、他のジャワの舞踊家の作品に対しては使われないように思う。ジョグジャカルタの音楽家や留学生からは、バゴンに関係なく、新しい表現というニュアンスでこのクレアシ・バルという語を何度も耳にしたことがあるから、ジョグジャカルタではよく使う、あるいは使っていた語なのかも知れない。
ソロの芸大の舞踊科の先生からこんな話を聞いたことがある。あるとき地方(ソロ近郊)でのクレアシ・バル・コンテストの審査員を頼まれ、どんな振付作品が出てくるのかと楽しみにしていたら、ディスコ・ダンスのようなものばかりだったそうだ。いまやクレアシ・バルは地方ではディスコ・ダンス風のものだと理解されているらしい。
このように思いつくままに挙げてみたけれど、インドネシアは地域によって言語も舞踊も音楽も異なる。インドネシア語が共通語だといっても、地域によって音楽や舞踊の概念が違えば、振付家、振付を表す言葉だって異なるだろう。たとえば、振付という行為がススナンという語で表すのが不適切な地域だってあるかも知れない。おそらく芸術大学や芸術高校がある地域間では、学校の人材交流の中で言葉もある程度共通化してくるのだろうけれど、まだまだ他にも振付、振付家を指す語がたくさんあるのではないかと思っている。
2017年08月15日 (火)
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。
『水牛』2005年4月号
振付家名のクレジット(3)
宮廷舞踊家クスモケソウォ(1909~1972)は、「スラカルタ宮廷の舞踊」を「スラカルタ地域の舞踊」へと広めた。宮廷舞踊家はそれまで匿名の存在だったが、宮廷外で舞踊教育をリードするようになったために、名前を残すことになった。
***
その次の世代でジャワ舞踊を代表する振付家といえば、ガリマン氏(1919~1998)とマリディ氏(1934~)である。この2人は「スラカルタ地域の舞踊」をさらに発展させ、古典となる作品を作り上げた。2人の作品を見ていると、宮廷舞踊の儀礼性を残しながらも、より純粋に芸術性を追求している。振付に個人の個性が見てとれる。そういう意味で2人は近代的な舞踊家・振付家だと言えるだろう。2人の作品は現在の芸術高校や芸術大学で教える舞踊の中心的なレパートリーになっており、その曲の多くはカセットで市販されている。
市販カセットには、2人の曲の他にASKI・PKJT、あるいはPKJT・ASKIとクレジットされているものがある。PKJTは中部ジャワ芸術センタープロジェクト、あるいは中部ジャワ芸術発展プロジェクトのことであり、ASKIはアカデミー(1964年設立、現在の芸術大学)のことである。PKJTはインドネシア政府の開発プロジェクトの1つで、1969~1981年に実施された。ゲンドン・フマルダニ(1923~1983)がリーダーである。またフマルダニは1971年からアカデミーの学術部門長、1975年から亡くなるまで学長を務めた。トップが同じであるため、両機関は一体化して芸術活動を行っていた面もあり、そのためPKJT・ASKIと並び称される。PKJTで手がけた古い舞踊のリメークや創作のレパートリーは芸術大学のカリキュラムに定着している。ガリマンもマリディもPKJTやASKIで指導していたが、いわゆるPKJT・ASKI版を手がけたのは、2人よりも若い世代である。
PKJT・ASKIで作られた作品の場合、カセットにしろ公演の場合にしろ、その振付家名はあまりクレジットされない。芸術大学の内部の人ならば誰が中心となってその振付を手がけたのか知っているが、外部の人間には分からない。そのことに私は以前からやや違和感を抱いていた。ガリマンやマリディという著名な振付家が活躍する時代になったのに、なぜPKJT・ASKIでは振付家個人の名前をクレジットしないのだろうか、まるで宮廷舞踊家が匿名であった時代に逆行したみたいだと、最初私には感じられた。
その理由の1つとして、グループ振付が多かったということが挙げられる。フマルダニの考えでは、振付は分業すべきであったようである。たとえば2人で踊る舞踊ならば、1人ずつがそれぞれのパートを振り付ける。これには、PKJTが地方で行われた国のプロジェクトだということも関係しているかも知れない。プロジェクトとしては中部ジャワ州の多くの人々が制作にコミットし、成果を分かち合うほうが成功だと言えるからだ。これは共同体的な発想でもある。とはいえ、同じ国のプロジェクトだったラーマーヤナ・バレエでは総合振付家や振付アシスタントの名前はクレジットされている。それは公演主体のプロジェクトであったからかも知れないし、また年齢的にも地位としても突出した人がいたからこそ可能だったのかも知れない。
それはともかく、PKJT・ASKIが振付家名をクレジットしない理由として他に考えるのは、フマルダニの指導の影響力が大きかったからではないかということだ。PKJT・ASKI版ではグループで振り付けていても、フマルダニが手を入れて変えた部分が多いと多くの人が語っている。それに明らかにフマルダニが著作物で主張している考えが振付に実現されている。
(話がそれるが、そのフマルダニの主張とは西洋舞踊に影響を受けた額縁舞台用の振付、全員の一糸乱れぬ揃った動き、速い動き、などだ。フマルダニは1960~1963年までイギリスとアメリカに留学しており、インドネシア人の中でも早い時期に西洋舞踊を鑑賞し且つ学んでいる。一方、現在においてもスラカルタの芸術高校、芸術大学にはバレエやモダンダンスの実技はない。)
また練習や振付の後には毎回フマルダニの講評と全員でのディスカッションがあったから、実質的な総合振付家はフマルダニだと言っても良いくらいのものではなかったか、そしてフマルダニ自身にそういう自覚があったために、PKJT・ASKIでは実際に振付に当たった人をクローズアップしなかったのではないか、とも私には思えるのだ。それではなぜフマルダニは自分の名前を出さないのかということにもなろうが、それはやはりプロジェクトの長としてプロジェクト全体の成果を強調したかったのだろうという気がする。
フマルダニは、皆で寝食も芸術活動も共にする共同体を作りあげることを理想としていた、それは1970年代も終わりになってくると半ば実現していた、と私には思われる。そしてそれは欧米の寄宿制の舞踊学校を備えたバレエ団のようなものを念頭に置いていたのではないかという気がする。(しかしまたそれはかつての宮廷の舞踊家のあり方にも共通する。)事実、PKJTの拠点でありASKIのキャンパスでもあったサソノムルヨ(宮廷敷地内にあるコンプレックス)では、練習スペースとなる中心のプンドポ(ジャワの伝統的な儀礼空間)を囲む建物群が寮になっていて、多くの学生や教官、そしてフマルダニ自身も住んでいた。サソノムルヨでは5:00にはフマルダニが率先してクントゥンガン(スリット・ドラム)を叩いて皆を起こし、アカデミーの授業前から舞踊練習が行われた。そしてアカデミーの授業が終わると、また夜中まで各種練習が続く。その間フマルダニはつきあって指導し、細かくコメントを与え、ディスカッションをする……。(ちなみに1時限目の授業は7:30に始まる。しかし舞踊訓練の前の4:00にスンダ・ガムランの練習がある。また一番空いている時間帯だからということで、アカデミーの音楽試験公演もしばしば4:00過ぎから行われていたらしい。)
脱線ばかりになってしまったけれど、いずれの理由にしろ、誰か1人を振付家としてクローズアップするということをしなかったのは、フマルダニがPKJT・ASKIを共同体的なものとして指導したためだと言えるだろう。しかしPKJT・ASKIの時代=1970年代、の終わり頃から振付家が脚光を浴び始める。つまり1978年からインドネシア若手振付家フェスティバルというものが始まるのだ。(1986年でいったん終了し、1991年から現在のインドネシア・ダンス・フェスティバルに引き継がれる。)このフェスティバルは現代舞踊をインドネシアに定着させようとジャカルタで始まったもので、初めて踊り手よりも振付家に焦点を当てている。
(続く)
『水牛』2005年4月号
振付家名のクレジット(3)
宮廷舞踊家クスモケソウォ(1909~1972)は、「スラカルタ宮廷の舞踊」を「スラカルタ地域の舞踊」へと広めた。宮廷舞踊家はそれまで匿名の存在だったが、宮廷外で舞踊教育をリードするようになったために、名前を残すことになった。
***
その次の世代でジャワ舞踊を代表する振付家といえば、ガリマン氏(1919~1998)とマリディ氏(1934~)である。この2人は「スラカルタ地域の舞踊」をさらに発展させ、古典となる作品を作り上げた。2人の作品を見ていると、宮廷舞踊の儀礼性を残しながらも、より純粋に芸術性を追求している。振付に個人の個性が見てとれる。そういう意味で2人は近代的な舞踊家・振付家だと言えるだろう。2人の作品は現在の芸術高校や芸術大学で教える舞踊の中心的なレパートリーになっており、その曲の多くはカセットで市販されている。
市販カセットには、2人の曲の他にASKI・PKJT、あるいはPKJT・ASKIとクレジットされているものがある。PKJTは中部ジャワ芸術センタープロジェクト、あるいは中部ジャワ芸術発展プロジェクトのことであり、ASKIはアカデミー(1964年設立、現在の芸術大学)のことである。PKJTはインドネシア政府の開発プロジェクトの1つで、1969~1981年に実施された。ゲンドン・フマルダニ(1923~1983)がリーダーである。またフマルダニは1971年からアカデミーの学術部門長、1975年から亡くなるまで学長を務めた。トップが同じであるため、両機関は一体化して芸術活動を行っていた面もあり、そのためPKJT・ASKIと並び称される。PKJTで手がけた古い舞踊のリメークや創作のレパートリーは芸術大学のカリキュラムに定着している。ガリマンもマリディもPKJTやASKIで指導していたが、いわゆるPKJT・ASKI版を手がけたのは、2人よりも若い世代である。
PKJT・ASKIで作られた作品の場合、カセットにしろ公演の場合にしろ、その振付家名はあまりクレジットされない。芸術大学の内部の人ならば誰が中心となってその振付を手がけたのか知っているが、外部の人間には分からない。そのことに私は以前からやや違和感を抱いていた。ガリマンやマリディという著名な振付家が活躍する時代になったのに、なぜPKJT・ASKIでは振付家個人の名前をクレジットしないのだろうか、まるで宮廷舞踊家が匿名であった時代に逆行したみたいだと、最初私には感じられた。
その理由の1つとして、グループ振付が多かったということが挙げられる。フマルダニの考えでは、振付は分業すべきであったようである。たとえば2人で踊る舞踊ならば、1人ずつがそれぞれのパートを振り付ける。これには、PKJTが地方で行われた国のプロジェクトだということも関係しているかも知れない。プロジェクトとしては中部ジャワ州の多くの人々が制作にコミットし、成果を分かち合うほうが成功だと言えるからだ。これは共同体的な発想でもある。とはいえ、同じ国のプロジェクトだったラーマーヤナ・バレエでは総合振付家や振付アシスタントの名前はクレジットされている。それは公演主体のプロジェクトであったからかも知れないし、また年齢的にも地位としても突出した人がいたからこそ可能だったのかも知れない。
それはともかく、PKJT・ASKIが振付家名をクレジットしない理由として他に考えるのは、フマルダニの指導の影響力が大きかったからではないかということだ。PKJT・ASKI版ではグループで振り付けていても、フマルダニが手を入れて変えた部分が多いと多くの人が語っている。それに明らかにフマルダニが著作物で主張している考えが振付に実現されている。
(話がそれるが、そのフマルダニの主張とは西洋舞踊に影響を受けた額縁舞台用の振付、全員の一糸乱れぬ揃った動き、速い動き、などだ。フマルダニは1960~1963年までイギリスとアメリカに留学しており、インドネシア人の中でも早い時期に西洋舞踊を鑑賞し且つ学んでいる。一方、現在においてもスラカルタの芸術高校、芸術大学にはバレエやモダンダンスの実技はない。)
また練習や振付の後には毎回フマルダニの講評と全員でのディスカッションがあったから、実質的な総合振付家はフマルダニだと言っても良いくらいのものではなかったか、そしてフマルダニ自身にそういう自覚があったために、PKJT・ASKIでは実際に振付に当たった人をクローズアップしなかったのではないか、とも私には思えるのだ。それではなぜフマルダニは自分の名前を出さないのかということにもなろうが、それはやはりプロジェクトの長としてプロジェクト全体の成果を強調したかったのだろうという気がする。
フマルダニは、皆で寝食も芸術活動も共にする共同体を作りあげることを理想としていた、それは1970年代も終わりになってくると半ば実現していた、と私には思われる。そしてそれは欧米の寄宿制の舞踊学校を備えたバレエ団のようなものを念頭に置いていたのではないかという気がする。(しかしまたそれはかつての宮廷の舞踊家のあり方にも共通する。)事実、PKJTの拠点でありASKIのキャンパスでもあったサソノムルヨ(宮廷敷地内にあるコンプレックス)では、練習スペースとなる中心のプンドポ(ジャワの伝統的な儀礼空間)を囲む建物群が寮になっていて、多くの学生や教官、そしてフマルダニ自身も住んでいた。サソノムルヨでは5:00にはフマルダニが率先してクントゥンガン(スリット・ドラム)を叩いて皆を起こし、アカデミーの授業前から舞踊練習が行われた。そしてアカデミーの授業が終わると、また夜中まで各種練習が続く。その間フマルダニはつきあって指導し、細かくコメントを与え、ディスカッションをする……。(ちなみに1時限目の授業は7:30に始まる。しかし舞踊訓練の前の4:00にスンダ・ガムランの練習がある。また一番空いている時間帯だからということで、アカデミーの音楽試験公演もしばしば4:00過ぎから行われていたらしい。)
脱線ばかりになってしまったけれど、いずれの理由にしろ、誰か1人を振付家としてクローズアップするということをしなかったのは、フマルダニがPKJT・ASKIを共同体的なものとして指導したためだと言えるだろう。しかしPKJT・ASKIの時代=1970年代、の終わり頃から振付家が脚光を浴び始める。つまり1978年からインドネシア若手振付家フェスティバルというものが始まるのだ。(1986年でいったん終了し、1991年から現在のインドネシア・ダンス・フェスティバルに引き継がれる。)このフェスティバルは現代舞踊をインドネシアに定着させようとジャカルタで始まったもので、初めて踊り手よりも振付家に焦点を当てている。
(続く)
2017年08月14日 (月)
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。
『水牛』2005年3月号
振付家名のクレジット(2)
前回触れたスラカルタ舞踊の古典とも言うべき「ルトノ・パムディヨ」(1954年作)や舞踊の基礎「ラントヨ」(1950年頃作)がクスモケソウォ(1909~1972)の作だと聞けば、これはうなずける。クスモケソウォは宮廷舞踊家で、その立ち居振る舞いも容貌も宮廷美学の理想を体現していると言われていた。私は本人を直接知らないにしろ、その話に聞く人柄は見事に作品に反映されている、という気がする。
***
では「マニプリ」はどうだろう。現在ではマリディ氏がリメークした「マニプレン」(1967年作、マニプリのようなものの意)が知られているけれど、実はそれに先行して「マニプリ」という作品があり、それはクスモケソウォ作だとされている。あくまでも優美なジャワ宮廷舞踊家のイメージと、飛び跳ねる感じのインド舞踊の動きは結びつかないなあと思っていた。
それも道理で、そのクスモケソウォ作の「マニプリ」も、名が表す通りインド舞踊のマニプリを元にしており、クスモケソウォが個人でインド舞踊風の動きを考案したわけではないのだ。
「マニプリ」が作られたのは1953年頃のことである。インド政府派遣の舞踊家アミット・ポールが、スラカルタにある国立コンセルバトリ(今の国立芸術高校)に来てワークショップをした。この人はインドネシア各地の舞踊を視察していて、スラカルタのコンセルバトリでジャワ舞踊を習い、代わりにコンセルバトリの人達はインド舞踊のマニプリを習った。とはいえ、アミットはマニプリのカセットテープを持っていなかった。(当時はまだオープンリールのテープしかない時代である。)せっかく動きを習っても音楽がなくては上演できないというので、当時のコンセルバトリの校長・スルヨハミジョヨが「ジャワの曲に動きをつけよう!」と言いだして、「マニプリ」が誕生したという訳である。ジャワの曲の構造に当てはまるように動きも少し変えたという。
この「マニプリ」は現ムスティカ・ラトゥ化粧品会社の社長の結婚式で初演された。私の舞踊の師であるJ女史(当時コンセルバトリにいた)も初演メンバーの1人だ。そしてマリディ氏もこの「マニプリ」上演を見ている。J女史が初演メンバーの1人だったことや、この「マニプリ」は現在の「マニプレン」よりもっとインド風で大人の舞踊だった(「マニプレン」は子供の舞踊として定着している)ことなどを、私は最初にマリディ氏から聞かされた。
その後J女史に「マニプリ」成立の事情をあれこれ聞いていると、コンセルバトリのワークショップの中から舞踊が生まれたということがわかってきた。一般に「○○氏振付」と銘打たれているとその人が100%動きを考え出したように思われるけれど、「マニプリ」の場合はワークショップの舞台となったコンセルバトリの代表者として、クスモケソウォの名前が挙げられていたのだ。クスモケソウォは当時コンセルバトリ唯一の舞踊教師で、位の高い宮廷舞踊家だったから、コンセルバトリでの業績はすべてクスモケソウォの名前に帰せられていたのだろう。そういう意味で、「ラントヨ」や「ルトノ・パムディヨ」をクスモケソウォが振付けたというのと「マニプリ」の振付家がクスモケソウォだというのは少々意味が異なる。
ところでマリディ氏はなんでそれを1967年になってリメークしたのだろう。その事情についてはうかつにもまだマリディ氏に聞いていない。私の友人は、「マリディ氏はアメリカに行った時にインド舞踊・マニプリを見て『マニプレン』を振り付けたという話を聞いている」と言う。それを考え合わせると、アメリカでインド舞踊マニプリを見てコンセルバトリの「マニプリ」を思い出しリメークしたのかな、という気もする。
現在では「マニプレン」のカセットが市販されているから、「マニプリ」、「マニプレン」(この呼称はしばしば混同して使われている)の振付家といえば、マリディ氏の名前だけが知られている。
***
クスモケソウォといえば、1961年から始まっている「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家としても有名だ。これはプランバナン寺院の野外舞台で乾季の満月の前後に上演されている。現在では観光用舞台としてしか見られていないけれど、始まった当時は運輸・郵政・観光大臣管轄の下、スラカルタのコンセルバトリ校長・スルヨハミジョヨがディレクターを務め、スラカルタ宮廷とパク・アラム家(ジョグジャカルタ宮廷の分家でスラカルタ宮廷と縁戚関係にある)の舞踊家や音楽家が総力を結集して取り組んだ一大プロジェクトだ。(現在の出演者は地理的に近いジョグジャカルタから来ていて、スラカルタからは来ていない)
当時すでにコレオグラファーという用語が使われていて、クスモケソウォの肩書きはコレオグラファーである。この場合も本人が新しい動きや型を全部考案したというわけではなくて、総合演出家である。男性舞踊荒型と女性舞踊のパートに関してはアシスタントの振付担当者が別に3人ずつ位いた。なにしろ舞台が巨大(間口50m×奥行き14m)だから、群舞も含めて出演者が200~300人位いる。(200人と300人の差は大きいが、人によって言うことが違うのだから仕方ない。)それに猿だの鹿だの鳥だのいろんなキャラクターが出てくるから、振付家1人では対応は無理というものだろう。クスモケソウォが自ら手がけたのは主役のラーマ王子(優形)の動きなどである。
「ラーマーヤナ・バレエ」では他のアシスタントの振付家の名前も舞踊教師としてクレジットされていた。しかしそれでもクスモケソウォの名前が振付家としてクローズアップされるのは事実だ。それでそのことに不満を持って、公演が始まってすぐに降板した舞踊教師もいる。
こういう問題は舞踊が宮廷の中だけで上演されている間は起きなかったことだ。宮廷では王の名前だけがクレジットされ、舞踊家は平等に匿名だった。しかし舞踊が宮廷外に出ると、誰が創ったのかが問題にされるようになる。それは名声や金銭収入につながるから、振付の一部を担ったと自負する舞踊教師が振付家として自分の名前がクレジットされないこと、何でも宮廷舞踊家の業績になってしまうことに不満を抱くのも無理はない。
(続く)
『水牛』2005年3月号
振付家名のクレジット(2)
前回触れたスラカルタ舞踊の古典とも言うべき「ルトノ・パムディヨ」(1954年作)や舞踊の基礎「ラントヨ」(1950年頃作)がクスモケソウォ(1909~1972)の作だと聞けば、これはうなずける。クスモケソウォは宮廷舞踊家で、その立ち居振る舞いも容貌も宮廷美学の理想を体現していると言われていた。私は本人を直接知らないにしろ、その話に聞く人柄は見事に作品に反映されている、という気がする。
***
では「マニプリ」はどうだろう。現在ではマリディ氏がリメークした「マニプレン」(1967年作、マニプリのようなものの意)が知られているけれど、実はそれに先行して「マニプリ」という作品があり、それはクスモケソウォ作だとされている。あくまでも優美なジャワ宮廷舞踊家のイメージと、飛び跳ねる感じのインド舞踊の動きは結びつかないなあと思っていた。
それも道理で、そのクスモケソウォ作の「マニプリ」も、名が表す通りインド舞踊のマニプリを元にしており、クスモケソウォが個人でインド舞踊風の動きを考案したわけではないのだ。
「マニプリ」が作られたのは1953年頃のことである。インド政府派遣の舞踊家アミット・ポールが、スラカルタにある国立コンセルバトリ(今の国立芸術高校)に来てワークショップをした。この人はインドネシア各地の舞踊を視察していて、スラカルタのコンセルバトリでジャワ舞踊を習い、代わりにコンセルバトリの人達はインド舞踊のマニプリを習った。とはいえ、アミットはマニプリのカセットテープを持っていなかった。(当時はまだオープンリールのテープしかない時代である。)せっかく動きを習っても音楽がなくては上演できないというので、当時のコンセルバトリの校長・スルヨハミジョヨが「ジャワの曲に動きをつけよう!」と言いだして、「マニプリ」が誕生したという訳である。ジャワの曲の構造に当てはまるように動きも少し変えたという。
この「マニプリ」は現ムスティカ・ラトゥ化粧品会社の社長の結婚式で初演された。私の舞踊の師であるJ女史(当時コンセルバトリにいた)も初演メンバーの1人だ。そしてマリディ氏もこの「マニプリ」上演を見ている。J女史が初演メンバーの1人だったことや、この「マニプリ」は現在の「マニプレン」よりもっとインド風で大人の舞踊だった(「マニプレン」は子供の舞踊として定着している)ことなどを、私は最初にマリディ氏から聞かされた。
その後J女史に「マニプリ」成立の事情をあれこれ聞いていると、コンセルバトリのワークショップの中から舞踊が生まれたということがわかってきた。一般に「○○氏振付」と銘打たれているとその人が100%動きを考え出したように思われるけれど、「マニプリ」の場合はワークショップの舞台となったコンセルバトリの代表者として、クスモケソウォの名前が挙げられていたのだ。クスモケソウォは当時コンセルバトリ唯一の舞踊教師で、位の高い宮廷舞踊家だったから、コンセルバトリでの業績はすべてクスモケソウォの名前に帰せられていたのだろう。そういう意味で、「ラントヨ」や「ルトノ・パムディヨ」をクスモケソウォが振付けたというのと「マニプリ」の振付家がクスモケソウォだというのは少々意味が異なる。
ところでマリディ氏はなんでそれを1967年になってリメークしたのだろう。その事情についてはうかつにもまだマリディ氏に聞いていない。私の友人は、「マリディ氏はアメリカに行った時にインド舞踊・マニプリを見て『マニプレン』を振り付けたという話を聞いている」と言う。それを考え合わせると、アメリカでインド舞踊マニプリを見てコンセルバトリの「マニプリ」を思い出しリメークしたのかな、という気もする。
現在では「マニプレン」のカセットが市販されているから、「マニプリ」、「マニプレン」(この呼称はしばしば混同して使われている)の振付家といえば、マリディ氏の名前だけが知られている。
***
クスモケソウォといえば、1961年から始まっている「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家としても有名だ。これはプランバナン寺院の野外舞台で乾季の満月の前後に上演されている。現在では観光用舞台としてしか見られていないけれど、始まった当時は運輸・郵政・観光大臣管轄の下、スラカルタのコンセルバトリ校長・スルヨハミジョヨがディレクターを務め、スラカルタ宮廷とパク・アラム家(ジョグジャカルタ宮廷の分家でスラカルタ宮廷と縁戚関係にある)の舞踊家や音楽家が総力を結集して取り組んだ一大プロジェクトだ。(現在の出演者は地理的に近いジョグジャカルタから来ていて、スラカルタからは来ていない)
当時すでにコレオグラファーという用語が使われていて、クスモケソウォの肩書きはコレオグラファーである。この場合も本人が新しい動きや型を全部考案したというわけではなくて、総合演出家である。男性舞踊荒型と女性舞踊のパートに関してはアシスタントの振付担当者が別に3人ずつ位いた。なにしろ舞台が巨大(間口50m×奥行き14m)だから、群舞も含めて出演者が200~300人位いる。(200人と300人の差は大きいが、人によって言うことが違うのだから仕方ない。)それに猿だの鹿だの鳥だのいろんなキャラクターが出てくるから、振付家1人では対応は無理というものだろう。クスモケソウォが自ら手がけたのは主役のラーマ王子(優形)の動きなどである。
「ラーマーヤナ・バレエ」では他のアシスタントの振付家の名前も舞踊教師としてクレジットされていた。しかしそれでもクスモケソウォの名前が振付家としてクローズアップされるのは事実だ。それでそのことに不満を持って、公演が始まってすぐに降板した舞踊教師もいる。
こういう問題は舞踊が宮廷の中だけで上演されている間は起きなかったことだ。宮廷では王の名前だけがクレジットされ、舞踊家は平等に匿名だった。しかし舞踊が宮廷外に出ると、誰が創ったのかが問題にされるようになる。それは名声や金銭収入につながるから、振付の一部を担ったと自負する舞踊教師が振付家として自分の名前がクレジットされないこと、何でも宮廷舞踊家の業績になってしまうことに不満を抱くのも無理はない。
(続く)
2017年08月13日 (日)
多忙のため、更新が滞ってしまって申し訳ありません。
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。
※2005年1月号は寄稿していません。
『水牛』2005年2月号
振付家名のクレジット(1)
ある舞踊作品が誰の作なのかをクレジットするにもいろんなやり方がある。今回はいわゆる伝統的なジャワ舞踊の世界において、舞踊の作者=振付家の名前をどのようにクレジットしてきたのかについて述べよう。
以前にも書いたように、ジャワ舞踊は宮廷舞踊と民間舞踊の2つの流れに分けることができる(2002年12月号、2003年1月号)。宮廷においては、舞踊は王(や王族)の作とされる。たとえば「スリンピ・ゴンドクスモ」は後のパク・ブウォノ8世が皇太子に即位した時に作られ、そのためにパク・ブウォノ8世の作だとされる。現実には宮廷舞踊家が作っているはずであるが、その名前は言及されない。それは公共工事や建築が王の業績だとされるのと同じである。舞踊作品が新しく作られたりリメークされたりするきっかけも王や皇太子に即位する時というのが多く、芸術作品を作ることは芸術家個人ではなく王(や王族)の事業であり業績だと見なされていたことが分かる。
このような意識は実は現在にもまだ生きている。たとえばソロの宮廷には新しいレパートリーとして「ブドヨ・キロノラティ」という作品がある。これは宮廷ではムルティア王女の作だとされているが、実際はスリスティヨという人が作っている。その初演時にムルティア王女がバタッというブドヨでは一番重要なパートを踊り(スリスティヨ氏はかつてソロの宮廷で踊っており、王女とは親しい)、王女がこの作品を気に入って宮廷でも使いたいと断ったという。しかし他人の作品を上演するというなら通常は元の振付家の名前をクレジットするところだが、宮廷がそうすることはない。
宮廷芸術家がその名前をクレジットされ、業績を認められるのは実は宮廷外においてである。ソロの宮廷はパク・ブウォノ10世が1939年に亡くなってからは経済的に逼迫し、それまで十分な待遇で暮らしてきた舞踊家が宮廷外で裕福な宮廷貴族層の子弟に、あるいは学校で舞踊を教えて暮らさざるをえなくなった。この時代は宮廷芸術家にとっては生活の危機で辛酸を嘗めた(全くの余談だが、これをインドネシア語ではマカン・ガラム=塩を食べると表現する)時代だと言えるが、その結果多様な個人スタイルや解釈が生まれたという点では、芸術が進展した時代だったとも言える。
このような宮廷舞踊家の中で初めて振付家と呼ばれたのがクスモケソウォ(1909~1972年)である。(クスモケソウォについては「水牛の本棚」no.3のサルドノ著の「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」を参照してください。)宮廷舞踊家の中でも特にクスモケソウォが有名だったのは、宮廷舞踊家として一番位が高かっただけではなく、1950年にソロにインドネシア初の芸術コンセルバトリ(その後のSMKI、現在のSMK negeri 8=芸術高校)が開校したときに唯1人の舞踊教師であり、1961年に始まるプランバナン寺院での「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家だったため、広く一般の人に名前が知られたことによる。
クスモケソウォの作品で一番知られているのは、1952年作の「ルトノ・パムディヨ」であろう。これは、宮廷舞踊の語彙と用法だけで作られた最初の新しい舞踊だと言える。こういう言い方は何だか変であるが、現在私達が習う伝統舞踊のレパートリーが作られるのがこの「ルトノ・パムディヨ」以降なのである。宮廷舞踊というのは厳密に言えば女性舞踊のスリンピとブドヨ、男性舞踊のウィレンだけであって、これらの多くは1970年代に公開されるまでは門外不出である。
「ルトノ・パムディヨ」は単独舞踊であるという点で従来の宮廷舞踊の伝統にはない新しいスタイルであり、またそこで使われている宮廷舞踊のテクニック自体も当時はまだほとんど一般には知られていなかった。ちなみに宮廷舞踊のテクニックを修得するためのメソッド「ラントヨ」も、クスモケソウォによって1950年頃にコンセルバトリの授業で教えるために考案されている。
この作品は、インドネシア政府が初めて芸術使節を海外(このときは中国)に派遣した時にソロからの舞踊作品として作られたものである。この海外公演後に「ルトノ・パムディヨ」はコンセルバトリで教えられるようになり、以来現在に至るまで芸術高校、そして芸術大学(1964年開校)の基本レパートリーとして定着した。このように海外公演のために特に振り付けられたということ、そして教材とされたことで、この作品のオリジナリティと振付家名が守られたと言える。
(続く)

「ルトノ・パムディヨ」を踊る筆者(11/3グローバルステージで踊る)
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。
※2005年1月号は寄稿していません。
『水牛』2005年2月号
振付家名のクレジット(1)
ある舞踊作品が誰の作なのかをクレジットするにもいろんなやり方がある。今回はいわゆる伝統的なジャワ舞踊の世界において、舞踊の作者=振付家の名前をどのようにクレジットしてきたのかについて述べよう。
以前にも書いたように、ジャワ舞踊は宮廷舞踊と民間舞踊の2つの流れに分けることができる(2002年12月号、2003年1月号)。宮廷においては、舞踊は王(や王族)の作とされる。たとえば「スリンピ・ゴンドクスモ」は後のパク・ブウォノ8世が皇太子に即位した時に作られ、そのためにパク・ブウォノ8世の作だとされる。現実には宮廷舞踊家が作っているはずであるが、その名前は言及されない。それは公共工事や建築が王の業績だとされるのと同じである。舞踊作品が新しく作られたりリメークされたりするきっかけも王や皇太子に即位する時というのが多く、芸術作品を作ることは芸術家個人ではなく王(や王族)の事業であり業績だと見なされていたことが分かる。
このような意識は実は現在にもまだ生きている。たとえばソロの宮廷には新しいレパートリーとして「ブドヨ・キロノラティ」という作品がある。これは宮廷ではムルティア王女の作だとされているが、実際はスリスティヨという人が作っている。その初演時にムルティア王女がバタッというブドヨでは一番重要なパートを踊り(スリスティヨ氏はかつてソロの宮廷で踊っており、王女とは親しい)、王女がこの作品を気に入って宮廷でも使いたいと断ったという。しかし他人の作品を上演するというなら通常は元の振付家の名前をクレジットするところだが、宮廷がそうすることはない。
宮廷芸術家がその名前をクレジットされ、業績を認められるのは実は宮廷外においてである。ソロの宮廷はパク・ブウォノ10世が1939年に亡くなってからは経済的に逼迫し、それまで十分な待遇で暮らしてきた舞踊家が宮廷外で裕福な宮廷貴族層の子弟に、あるいは学校で舞踊を教えて暮らさざるをえなくなった。この時代は宮廷芸術家にとっては生活の危機で辛酸を嘗めた(全くの余談だが、これをインドネシア語ではマカン・ガラム=塩を食べると表現する)時代だと言えるが、その結果多様な個人スタイルや解釈が生まれたという点では、芸術が進展した時代だったとも言える。
このような宮廷舞踊家の中で初めて振付家と呼ばれたのがクスモケソウォ(1909~1972年)である。(クスモケソウォについては「水牛の本棚」no.3のサルドノ著の「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」を参照してください。)宮廷舞踊家の中でも特にクスモケソウォが有名だったのは、宮廷舞踊家として一番位が高かっただけではなく、1950年にソロにインドネシア初の芸術コンセルバトリ(その後のSMKI、現在のSMK negeri 8=芸術高校)が開校したときに唯1人の舞踊教師であり、1961年に始まるプランバナン寺院での「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家だったため、広く一般の人に名前が知られたことによる。
クスモケソウォの作品で一番知られているのは、1952年作の「ルトノ・パムディヨ」であろう。これは、宮廷舞踊の語彙と用法だけで作られた最初の新しい舞踊だと言える。こういう言い方は何だか変であるが、現在私達が習う伝統舞踊のレパートリーが作られるのがこの「ルトノ・パムディヨ」以降なのである。宮廷舞踊というのは厳密に言えば女性舞踊のスリンピとブドヨ、男性舞踊のウィレンだけであって、これらの多くは1970年代に公開されるまでは門外不出である。
「ルトノ・パムディヨ」は単独舞踊であるという点で従来の宮廷舞踊の伝統にはない新しいスタイルであり、またそこで使われている宮廷舞踊のテクニック自体も当時はまだほとんど一般には知られていなかった。ちなみに宮廷舞踊のテクニックを修得するためのメソッド「ラントヨ」も、クスモケソウォによって1950年頃にコンセルバトリの授業で教えるために考案されている。
この作品は、インドネシア政府が初めて芸術使節を海外(このときは中国)に派遣した時にソロからの舞踊作品として作られたものである。この海外公演後に「ルトノ・パムディヨ」はコンセルバトリで教えられるようになり、以来現在に至るまで芸術高校、そして芸術大学(1964年開校)の基本レパートリーとして定着した。このように海外公演のために特に振り付けられたということ、そして教材とされたことで、この作品のオリジナリティと振付家名が守られたと言える。
(続く)

「ルトノ・パムディヨ」を踊る筆者(11/3グローバルステージで踊る)
2017年08月04日 (金)
以下、高橋悠治氏のサイト『水牛』 2015年10月号に書いた、ジャワ宮廷男性舞踊(スラカルタ宮廷様式)「パンジ・トゥンガル」のエッセイです。写真、ビデオを追加して本blogに再アップします。

撮影:坂口裕美子さま
「パンジ・トゥンガル」
いつの間にか月末になってしまい、またもや泥縄で原稿を書いている。というわけで、今回は、来たる10月3日の「観月の夕べ」公演で踊る「パンジ・トゥンガル」という曲のよもやま話を書いてみる。
「パンジ・トゥンガル」はスラカルタ宮廷に伝わる男性宮廷舞踊で―1650年パク・ブウォノ2世(1726-49)の作という―、1970年代の宮廷舞踊の解禁を受けて舞踊家の故ガリマンにより復曲された。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のカリキュラムに入っていて、3年生で履修する。男性優形(アルス)の極みとも言われる曲で、『パンジ物語』の主人公のパンジとは関係なく、キャラクターのない舞踊である。
曲名は1人のパンジという意味で、本来は2人で戦うウィレンという形式の舞踊を1人バージョンにしたもの。1人版に直したのもガリマンで、私が勝手にアレンジしたわけではない。元の2人版の舞踊名は、通称「パンジ・クンバル」(2人のパンジ)、または「パンジ・スプー」(老いたパンジ)という。ただし、本当は「パンジ・アノム」(若いパンジ)だという意見もある。伝説として、スラカルタ宮廷には王位を継ぐ者が宮廷の宝物が納められた部屋で1人誰にも見られずに踊る舞踊があるといい、それが「パンジ・スプー」である。その舞踊を踊りながら、王たらんとする者は「人はどこから来てどこへ行くのか」というジャワ哲学の問いを自問するが、ガリマンの舞踊はその王の境地に至っていないという意味で「若いパンジ」ということらしい。
若い境地とはいえ、この舞踊はなかなか難解である。テーマとしては、他の宮廷舞踊と同様、内面の葛藤や克服に至る過程を描いているのだが、メタファとしての戦いのシーンがない。女性宮廷舞踊のスリンピやブドヨには戦いのシーンがあって、ピストルを発砲したり矢を射たりする。しかし、この舞踊では剣を抜きそうな感じになるが最後まで剣は抜かないのだ。2人版でもそうで、チャンバラやってカタルシス…というわけにはいかず、徐々に緊張感が積み重なっていくのだが、最後に何か感じるところが残る。
この曲は、宮廷女性舞踊のスリンピやブドヨのように、最初から最後まで息の長い節回しの女声斉唱(ブダヤン)がつくのだが、この舞踊のブダヤンが一番大変かもしれない。というのも、一番単調そうに見えるからだ。もっとも、ジャワ宮廷舞踊曲は現在人の感覚からすればどれも単調だが…。それでも、ブドヨの歌は音高がかなり上がり下がりするし、途中で転調するのもある。スリンピは大きい形式の曲から始まって複数の異なる形式のものをつないでいき、曲が変わるごとに雰囲気が変わる。ところが、「パンジ・トゥンガル/クンバル」の場合はラドランという小さい形式の曲がずっと続き、大きな速度変化がほとんどない。たぶん、歌手にすれば念仏を唱えているような境地だろうな…と想像する。それでも、私にとっては、その淡々とした流れの中に、緊張感が高まったり少しゆるんだり、焦ったり落ち着いたり、といった山や谷がいくつもあるのである。
この舞踊の振付について昔はよく理解できなかったが、最近はなんだか踊らされる曲だなあと感じている。自分の意志で動いているというより、舞台の四隅から目に見えない糸が伸びてきて、引っ張られていくような感じだ。そういう引っ張られていくような動きが多いのである。ジャワでは神にすべてをゆだね(パスラー)、神と合一する境地が理想とされる。大いなるものに身を委ねるように踊れたらよいのだろうが、そこまで悟っていない自分を自覚しつつ、10/3に臨んでいる…。
3)JavaDance&GamelanFestival(PanjiTunggai)観月の夕べ
ジャワ・スラカルタ宮廷男性舞踊「パンジ・トゥンガル Panji Tunggal」
第7回ジャワ舞踊・ガムラン奉納公演 観月の夕べ
2015年10月3日(土) 岸城神社 (岸和田市)にて
演奏: ダルマブダヤ
撮影: おおかわ登さま

撮影:坂口裕美子さま
「パンジ・トゥンガル」
いつの間にか月末になってしまい、またもや泥縄で原稿を書いている。というわけで、今回は、来たる10月3日の「観月の夕べ」公演で踊る「パンジ・トゥンガル」という曲のよもやま話を書いてみる。
「パンジ・トゥンガル」はスラカルタ宮廷に伝わる男性宮廷舞踊で―1650年パク・ブウォノ2世(1726-49)の作という―、1970年代の宮廷舞踊の解禁を受けて舞踊家の故ガリマンにより復曲された。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のカリキュラムに入っていて、3年生で履修する。男性優形(アルス)の極みとも言われる曲で、『パンジ物語』の主人公のパンジとは関係なく、キャラクターのない舞踊である。
曲名は1人のパンジという意味で、本来は2人で戦うウィレンという形式の舞踊を1人バージョンにしたもの。1人版に直したのもガリマンで、私が勝手にアレンジしたわけではない。元の2人版の舞踊名は、通称「パンジ・クンバル」(2人のパンジ)、または「パンジ・スプー」(老いたパンジ)という。ただし、本当は「パンジ・アノム」(若いパンジ)だという意見もある。伝説として、スラカルタ宮廷には王位を継ぐ者が宮廷の宝物が納められた部屋で1人誰にも見られずに踊る舞踊があるといい、それが「パンジ・スプー」である。その舞踊を踊りながら、王たらんとする者は「人はどこから来てどこへ行くのか」というジャワ哲学の問いを自問するが、ガリマンの舞踊はその王の境地に至っていないという意味で「若いパンジ」ということらしい。
若い境地とはいえ、この舞踊はなかなか難解である。テーマとしては、他の宮廷舞踊と同様、内面の葛藤や克服に至る過程を描いているのだが、メタファとしての戦いのシーンがない。女性宮廷舞踊のスリンピやブドヨには戦いのシーンがあって、ピストルを発砲したり矢を射たりする。しかし、この舞踊では剣を抜きそうな感じになるが最後まで剣は抜かないのだ。2人版でもそうで、チャンバラやってカタルシス…というわけにはいかず、徐々に緊張感が積み重なっていくのだが、最後に何か感じるところが残る。
この曲は、宮廷女性舞踊のスリンピやブドヨのように、最初から最後まで息の長い節回しの女声斉唱(ブダヤン)がつくのだが、この舞踊のブダヤンが一番大変かもしれない。というのも、一番単調そうに見えるからだ。もっとも、ジャワ宮廷舞踊曲は現在人の感覚からすればどれも単調だが…。それでも、ブドヨの歌は音高がかなり上がり下がりするし、途中で転調するのもある。スリンピは大きい形式の曲から始まって複数の異なる形式のものをつないでいき、曲が変わるごとに雰囲気が変わる。ところが、「パンジ・トゥンガル/クンバル」の場合はラドランという小さい形式の曲がずっと続き、大きな速度変化がほとんどない。たぶん、歌手にすれば念仏を唱えているような境地だろうな…と想像する。それでも、私にとっては、その淡々とした流れの中に、緊張感が高まったり少しゆるんだり、焦ったり落ち着いたり、といった山や谷がいくつもあるのである。
この舞踊の振付について昔はよく理解できなかったが、最近はなんだか踊らされる曲だなあと感じている。自分の意志で動いているというより、舞台の四隅から目に見えない糸が伸びてきて、引っ張られていくような感じだ。そういう引っ張られていくような動きが多いのである。ジャワでは神にすべてをゆだね(パスラー)、神と合一する境地が理想とされる。大いなるものに身を委ねるように踊れたらよいのだろうが、そこまで悟っていない自分を自覚しつつ、10/3に臨んでいる…。
3)JavaDance&GamelanFestival(PanjiTunggai)観月の夕べ
ジャワ・スラカルタ宮廷男性舞踊「パンジ・トゥンガル Panji Tunggal」
第7回ジャワ舞踊・ガムラン奉納公演 観月の夕べ
2015年10月3日(土) 岸城神社 (岸和田市)にて
演奏: ダルマブダヤ
撮影: おおかわ登さま
2017年08月01日 (火)
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
「2017年8月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「ジャワの雨除け、雨乞い」を寄稿しました。
私のエッセイのバックナンバーはこちら→ 冨岡三智アーカイブ
※2002年11月から同サイトに寄稿しています。
ジャワの雨除け、雨乞い
日本での雨の降り方が熱帯地方化しているように思える折柄、今月はジャワでの雨のコントロール法について述べよう。
●雨除け
王宮で結婚式の行事があった時にやっていた方法が、竹ひごを束ねた箒を逆さ立てて、その先に唐辛子をたくさん刺すというもの。ネットで調べてみたら、祈祷師(パワン)がやる一般的な方法のようで、唐辛子以外にニンニクとバワン・メラ(赤エシャロット)も使うらしい。これらは唐辛子と並んでジャワ料理を代表する3大基礎香辛料と言えるだろう。どういう理屈で雨が止むのか分からないが、あるネット記事には「祈る人は確信してやるべし」と書いてあった(笑)。

2000年冨岡撮影、石柱に立てかけた雨除けのセット(この文章を書くときは写真を見直さなかったのですが、唐辛子の下に赤エシャロットも刺さっており、下にいろいろ香辛料が並んでいますね。)
私も雨除けのためにパワンを呼んだことがある。それは、2006年11月に舞踊「スリンピ・ゴンドクスモ」の曲を録音した時のことだった。この時は芸大のスタジオではなく、芸大元学長スパンガ氏の自宅のプンドポで録音した。プンドポは王宮や貴族の邸宅には必ずある伝統的な建物で、儀礼を行うための空間だ。ガムランはこういう場所に置かれている。壁がなく柱だけで屋根を支えている建物だから屋外も同然だが、プンドポでは天井に上がっていった音が下に降ってきて音響的には素晴らしく、ガムランとは本来こういう空間で上演されるものだと実感できる。スパンガ氏の屋敷は広大で、しかも塀の前には田んぼが広がっているから、雨さえ降らなければ夜は静かになる。というわけで、雨除けが必要なのである。11月は雨期に入っているし、それに録音予定の週には町内で結婚式が2つもある(ジャワでは自宅で結婚式を挙げることも多い)。それらの家でもパワンを呼ぶから、あっちで雨除け、そっちで雨除けされたら雲がスパンガ氏の家の辺りに集まってきて、録音日に雨が降るかもしれない!こっちでも雨除けが必要だ!と演奏者たちに要請されてしまったのだ。
それで当日パワンに来てもらうことになったが、他にも伝統的な雨除けの方法として、パンツをプンドポの屋根の一番上の柱に上げるというのもあるけど、やる?と冗談交じりに聞かれた。もちろん却下であるが、そういう場合、パンツは録音主催者の私のものであるべきか、家の当主であるスパンガ氏のものなのか…、また古い時代ならパンツではなく褌などになるのだろうか?などと色んな疑問が沸き起こる…。しかし、これもどういう理屈なのだろう。
話を元に戻す。録音では夜8時集合にしていたが、私は準備のため7時過ぎにバイクで現地に到着した。しかし、道中で土砂降りの雨が降り始めたので怒り心頭である。8時には雨は小雨になったが、まだ誰も来ない。少なくともパワンは先に着いて雨除けのお祈りか何かをしていてしかるべきではないか?竹箒に唐辛子は準備しないのだろうか?などという思いが脳裏をよぎる。8時半頃に雨がやみ、出演者が集まり始めた。録音準備をやってとりあえず晩御飯である。この段になってパワンがやってきて、晩御飯を食べてすぐに帰って行った…。あとは演奏するだけとなった時には雨はすっかりやんで、しかも田んぼのカエルたちも全然鳴かない。演奏者たちはパワンの成果にすっかり満足だが、そもそも予定時間から遅れているのだし、1人ずぶぬれになった私にすれば結果オーライでも割り切れない部分がある。別に謝礼と晩御飯を用意しなくても雨はやむべくしてやんだような気がするし…。しかし、パワンにすれば、本来一晩雨のはずが録音を実行できる状態にできた成功事例だったのかもしれない。
●雨乞い
私が最初に留学したのは1996年の3月から2年間で、ちょうど雨季の終わり頃に着いた。そして乾季を過ぎ、次の雨季が来ようとする頃…。雨季は11月頃から始まり、本格的な降りになるのは12月頃からなのだが、この時は1月半ばになってもほとんど雨が降らなかった。ちょっと小高い所にある大学の周辺の下宿では井戸水が枯れる所も多く、大学に来てマンディ(水浴び)をする学生がこの頃は多かった。大学は公的機関だけあって井戸は深く掘られていたようだ。
そんな折、私が参加していたカスナナン王宮の宮廷舞踊の定期練習では、「スリンピ・アングリルムンドゥン」を練習する機会がぐっと増えた。この曲はムンドゥン(雲)という語を含むように、雨を呼ぶと言われている。宮廷舞踊のレパートリーの中でも1年に1回、即位記念日にのみ上演される「ブドヨ・クタワン」という曲に次いで重いとされる曲で、王宮の練習に参加して半年余りたったこの時点で、1度も練習したことがない曲だった。演奏家たちは農村地帯に雨が降るようにとお祈りをしたのちに演奏を始めたものだ。王宮の周辺では相変わらず雨は降らなかったが、郊外では微量だが雨が降ったという。
また、「ババル・ラヤル(帆を揚げる)」という曲が雨乞いのために演奏されたこともある。この曲はグンディン・ボナンと呼ばれる合奏形態で演奏される儀式用の曲の1つだが、雨と関わる由緒があるらしかった。これは、カスナナンではなくマンクヌガラン王家の演奏練習の日だったかもしれない。
これらの雨乞いは別に王家が公的にアナウンスして行ったわけではなく、王宮付き芸術家による私的な行為である。しかし、ジャワの王宮と農村との間にある精神的な紐帯を思い出させてくれる。音楽や舞踊にはこんな霊的な力があると信じられている。
「2017年8月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「ジャワの雨除け、雨乞い」を寄稿しました。
私のエッセイのバックナンバーはこちら→ 冨岡三智アーカイブ
※2002年11月から同サイトに寄稿しています。
ジャワの雨除け、雨乞い
日本での雨の降り方が熱帯地方化しているように思える折柄、今月はジャワでの雨のコントロール法について述べよう。
●雨除け
王宮で結婚式の行事があった時にやっていた方法が、竹ひごを束ねた箒を逆さ立てて、その先に唐辛子をたくさん刺すというもの。ネットで調べてみたら、祈祷師(パワン)がやる一般的な方法のようで、唐辛子以外にニンニクとバワン・メラ(赤エシャロット)も使うらしい。これらは唐辛子と並んでジャワ料理を代表する3大基礎香辛料と言えるだろう。どういう理屈で雨が止むのか分からないが、あるネット記事には「祈る人は確信してやるべし」と書いてあった(笑)。

2000年冨岡撮影、石柱に立てかけた雨除けのセット(この文章を書くときは写真を見直さなかったのですが、唐辛子の下に赤エシャロットも刺さっており、下にいろいろ香辛料が並んでいますね。)
私も雨除けのためにパワンを呼んだことがある。それは、2006年11月に舞踊「スリンピ・ゴンドクスモ」の曲を録音した時のことだった。この時は芸大のスタジオではなく、芸大元学長スパンガ氏の自宅のプンドポで録音した。プンドポは王宮や貴族の邸宅には必ずある伝統的な建物で、儀礼を行うための空間だ。ガムランはこういう場所に置かれている。壁がなく柱だけで屋根を支えている建物だから屋外も同然だが、プンドポでは天井に上がっていった音が下に降ってきて音響的には素晴らしく、ガムランとは本来こういう空間で上演されるものだと実感できる。スパンガ氏の屋敷は広大で、しかも塀の前には田んぼが広がっているから、雨さえ降らなければ夜は静かになる。というわけで、雨除けが必要なのである。11月は雨期に入っているし、それに録音予定の週には町内で結婚式が2つもある(ジャワでは自宅で結婚式を挙げることも多い)。それらの家でもパワンを呼ぶから、あっちで雨除け、そっちで雨除けされたら雲がスパンガ氏の家の辺りに集まってきて、録音日に雨が降るかもしれない!こっちでも雨除けが必要だ!と演奏者たちに要請されてしまったのだ。
それで当日パワンに来てもらうことになったが、他にも伝統的な雨除けの方法として、パンツをプンドポの屋根の一番上の柱に上げるというのもあるけど、やる?と冗談交じりに聞かれた。もちろん却下であるが、そういう場合、パンツは録音主催者の私のものであるべきか、家の当主であるスパンガ氏のものなのか…、また古い時代ならパンツではなく褌などになるのだろうか?などと色んな疑問が沸き起こる…。しかし、これもどういう理屈なのだろう。
話を元に戻す。録音では夜8時集合にしていたが、私は準備のため7時過ぎにバイクで現地に到着した。しかし、道中で土砂降りの雨が降り始めたので怒り心頭である。8時には雨は小雨になったが、まだ誰も来ない。少なくともパワンは先に着いて雨除けのお祈りか何かをしていてしかるべきではないか?竹箒に唐辛子は準備しないのだろうか?などという思いが脳裏をよぎる。8時半頃に雨がやみ、出演者が集まり始めた。録音準備をやってとりあえず晩御飯である。この段になってパワンがやってきて、晩御飯を食べてすぐに帰って行った…。あとは演奏するだけとなった時には雨はすっかりやんで、しかも田んぼのカエルたちも全然鳴かない。演奏者たちはパワンの成果にすっかり満足だが、そもそも予定時間から遅れているのだし、1人ずぶぬれになった私にすれば結果オーライでも割り切れない部分がある。別に謝礼と晩御飯を用意しなくても雨はやむべくしてやんだような気がするし…。しかし、パワンにすれば、本来一晩雨のはずが録音を実行できる状態にできた成功事例だったのかもしれない。
●雨乞い
私が最初に留学したのは1996年の3月から2年間で、ちょうど雨季の終わり頃に着いた。そして乾季を過ぎ、次の雨季が来ようとする頃…。雨季は11月頃から始まり、本格的な降りになるのは12月頃からなのだが、この時は1月半ばになってもほとんど雨が降らなかった。ちょっと小高い所にある大学の周辺の下宿では井戸水が枯れる所も多く、大学に来てマンディ(水浴び)をする学生がこの頃は多かった。大学は公的機関だけあって井戸は深く掘られていたようだ。
そんな折、私が参加していたカスナナン王宮の宮廷舞踊の定期練習では、「スリンピ・アングリルムンドゥン」を練習する機会がぐっと増えた。この曲はムンドゥン(雲)という語を含むように、雨を呼ぶと言われている。宮廷舞踊のレパートリーの中でも1年に1回、即位記念日にのみ上演される「ブドヨ・クタワン」という曲に次いで重いとされる曲で、王宮の練習に参加して半年余りたったこの時点で、1度も練習したことがない曲だった。演奏家たちは農村地帯に雨が降るようにとお祈りをしたのちに演奏を始めたものだ。王宮の周辺では相変わらず雨は降らなかったが、郊外では微量だが雨が降ったという。
また、「ババル・ラヤル(帆を揚げる)」という曲が雨乞いのために演奏されたこともある。この曲はグンディン・ボナンと呼ばれる合奏形態で演奏される儀式用の曲の1つだが、雨と関わる由緒があるらしかった。これは、カスナナンではなくマンクヌガラン王家の演奏練習の日だったかもしれない。
これらの雨乞いは別に王家が公的にアナウンスして行ったわけではなく、王宮付き芸術家による私的な行為である。しかし、ジャワの王宮と農村との間にある精神的な紐帯を思い出させてくれる。音楽や舞踊にはこんな霊的な力があると信じられている。
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