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10/15 岸城神社公演で踊る曲
10/15(日)岸和田市・岸城神社でのジャワ舞踊・ガムラン奉納公演。私はクトゥットマングンの曲でガンビョンを踊ります。7/29奈良公演で踊った曲(以下、映像リンク)と同じ曲ですが、音階も衣装も演出も変え、情景スケッチのような感じで踊ります。助演が3人…。乞う期待!

インドネシア伝統舞踊の会2017年7月29日ジャワ舞踊ガンビョン•冨岡三智
撮影: 抜水みどり 様
2005.12水牛アーカイブ「男性群像の魅力」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年12月号
男性群像の魅力


先日能の「安宅」を見ていて、男性ばかりがぞろぞろと出てくる能なんだなあとあらためて気がついた。たぶん平均的な観客として私は、能といえば、死者の亡霊や化身が出てきて昔を今に語る、いわゆる夢幻能が好きである。さらに面をつけた優美な女性が登場して舞うような能の方が、やはり見ていて美しい。というわけで、今まで安宅のような現在能(現実の世界を描く能)でかつ面をつけない壮年の男性が出てくる演目には食指が動かなかった。それに、勧進帳の話ならば歌舞伎の演出の方がきっと面白い、という先入観もあった。文楽やテレビの時代劇の勧進帳のシーンも、能ではなく歌舞伎を基にしているようである。これらでは弁慶を中心にして、弁慶と富樫、弁慶と義経というヒーロー同士の対決・葛藤にスポットが当てられ、3者の個性の違いがクローズアップされる。ヒーローに感情移入して舞台を見る観客としては、こんな風に物語が集約されるのはまことに都合が良い。その代わり、他にいるはずの山伏の存在は省略されるかほとんど描かれない。

それが「安宅」では一行として弁慶と義経(子役が務める)以外に9人の男性(同山)が登場する。一行が最初舞台に登場し、2列に立って全員正面を向いたり互いに向き合ったりして謡う場面では、その嵩高さと密度、全員の声の厚みに圧倒される。そういえばこれだけの人数が能舞台に載るような演目は見たことがなかった。またその後弁慶が舞台中央に位置し、同山達が舞台に一重に弧を描くように座る時に、一端観客に背を向けたあと端から順に1人ずつ正面に向き直るシーン、また山伏一行が通行を許され弁慶を先頭に急ぎ足で舞台から橋掛かりまで移動するシーン、それが義経が止められたために弁慶以下が舞台に引き返し富樫に迫るシーンなどは、まさに息を呑む勢いとスピードと迫力で展開される。ここでは主役・弁慶とその背景を成すその他大勢という構図ではなくて、巨大なエネルギーの総体が弁慶という人格に具現化されたような感がある。弁慶はそのうごめくエネルギーに突き動かされている。私には弁慶も同山も現実の人間とは見えないのだ。台本が書かれた時点での意図はともかく、能における弁慶は、歌舞伎なんかで描かれるような人間ばなれした人間のヒーローではなくて、人間を超えた存在になっていると思う。もっともそれはシテに表現力があるからこそ可能なのだが。

ここでふと、ジャワで男性によるブドヨを見た時のことを思い出す。ブドヨとは女性9人が同じ衣装を着て同じ振付を舞う宮廷舞踊のことだが、ジョグジャカルタ宮廷ではかつて男性がブドヨを舞っていたことがあるといい、それを再現してみる公演があったのである。この時は踊り手の男性は皆女装していたのだが、その時につくづく、同じ衣装で9人並ぶのでも、女性9人と男性9人とでは印象がかなり異なると痛感した。私はブドヨを見ながらも実は、昔見た「八甲田山」という映画の雪中行軍のシーンを思い出していた。女性なら舞台を滑るように移動すると見えるところが、男性だと行軍に見えてしまう。女性群舞が展開されている時は空間は水平にも垂直にも広がりが感じられるのに、男性群舞だと空間が詰まって息苦しく感じられる。

またボリショイ・バレエ(ソ連時代)の作品で「スパルタクス」というのがあった。細かい点は忘れたが、男性群舞が中心になった作品だったと覚えている。見た当時は子供心に男ばっかりで息が詰まりそうだと思ったが、今になるともう一度見てみたい気がする。

こういう嵩高さ、圧迫感は成人男性ならではの魅力だ。それが群舞になると増幅される。量は質に転化する。見目麗しい女性や美少年らによる群舞では、こういう重たい充満した運動エネルギーを表現することは無理だ。ただ舞踊では華やかさの方が受けるのも事実で、観客の方にもある程度の鑑賞歴がないと、男性群舞はむさ苦しくて暑苦しいだけと思ってしまうように思う。私も男性の群舞が面白いと思えるようになったのは最近のことである。
2005.11水牛アーカイブ「プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その2」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年11月号
プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その2


さて、スマトラ島のリアウ州にあるプカンバル市では私の舞踊がどんな風にとらえられたのだろう。参加者の中で外人らしい外人だったのは私だけだったので、それで注目してもらえたというのは幸運であった。それにインドネシア語でインタビューを受けることができる、というのも良かったのだろう。(英語が話せそうな記者はいなかったから。)私にしても、丁寧なインタビューをしてもらえ、自分の考えをまとまって話せたことは幸いであった。

最初に私の作品について説明しておくと、私のベースはジャワのソロ様式の舞踊で、曲はソロの音楽家に委嘱した。伝統曲と新しく作曲したものが混じっているが、新しい部分も伝統音楽の語法で作曲されている。作品のタイトルは「ON-YO」(陰陽)で、冒頭の歌では古事記のイザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みのシーンのテキストを使っている。宇宙が混沌から分離生成し死んでいくまでの過程、人の生から死への過程、人と神との合一に至るまでの過程などのイメージを重ね合わせている。

2005 on-yo by zainuddin Boy
写真:Zainuddin Boy

日本語のテキストを混ぜて使っていることは意外だったのか、そのことに言及した評が多かった。実はこれは作曲家のアイデアで、私が意図したことではない。彼はジャワ語と違う日本語の音(オン)の響きを使ってみたく、一部に日本語の詩を入れたいと言ってきたので、それなら冒頭に古事記のそのシーンを使おうと、ひらめいたのだ。私としてはその国生みのイメージを宇宙の始まりのイメージに重ねただけで、あとの歌詞は全部ジャワ語である。ところが、プカンバルの人ならジャワ語のテキストの意味も分からないだろうと思うのだが、それについては全然質問されなかった。日本語の方により意味があると思われたのかもしれない。

ジャワの伝統曲やジャワ語の歌詞を使っていることに対しては、1人(+α)だけ否定的な意見を言った人がいた。スマトラから出演しているグループの音楽家(+その友達)だ。彼は私に、なぜ日本の曲を使わないのか、音楽は自分のアイデンティティと切れないものだから、自分は絶対に出身の地域の楽器と言語にこだわる、と言う。この人は実は全然知らない人ではない。スマトラにある国立芸大の先生だが、私の留学中にソロの芸大・大学院で修士を取っていた。私がソロの芸大・大学院でジャワの伝統舞踊を踊っているのも見ているのだし、それに彼自身も出身地でない地域で勉強するという経験をしているのだから、ジャワの舞踊も私のアイデンティティの一部だと思ってほしかったな、と正直思う。

記者の人や一般の人(ジャワ人以外)からは、「なぜジャワ舞踊をベースにしたのか?」という質問がよくあった。これは今回に限らずよく受ける質問なのだが、質問者が日本人とインドネシア人では少しニュアンスが異なる。日本人の場合は「日本人なのに、なぜ外国の舞踊を選ぶのか?」という意味で質問をしてくる(でも、バレエをやっている人に同じ質問はしないみたいだ)が、インドネシア人だと「インドネシア舞踊の中でもいろいろあるのに、なぜジャワの舞踊を選んだのか?」という意味になることが多い。芸術系の学校や舞踊団体で舞踊を勉強している人は特にそうである。というのは、そういう所ではその地域の舞踊を中心に他地域の舞踊もいろいろと学ぶからだ。いろんな地域の舞踊ができるとインドネシアでは舞踊家としてのチャンスも広がり、また創作にも役に立つ。だから、インドネシアの芸大に留学していろいろ習っただろうに、なぜその中でジャワ舞踊だけを選んだのかと彼らは思うらしい。

さてジャワ人の反応だが、スタッフも参加者も大体知っている人が多かったので、「なぜジャワ舞踊をベースにしたのか?」ということは誰も聞かなかった。しかし作品のジャワ語の歌詞や伝統曲の用い方に敏感に反応する。その1つの感想が、振付が音楽に付き過ぎているというものだ。確かに私は音楽の様式やメロディーを振付では重視する。

ジャワの伝統舞踊では音楽の構成と振付と歌詞が一体化しているのが特徴だ。けれど1970年代にソロで行われていた伝統舞踊改革(PKJTプロジェクト)では、音楽の構造と振付の連関はあまり重視されなかった。(敢えて壊したという側面もある。)またコンテンポラリ舞踊の音楽ということになると、伝統楽器をフル編成の形で使わないという方向に進んでいるようだ。それで楽器なしで踊り手自身が伝統的な詩を歌いながら、あるいは音楽家が詩を歌うのを背景に、踊るということをよくやる。これはインドネシア初のコンテンポラリ舞踊とされるサルドノ・クスモの「サムギタ」(1969年)で既に見られるやり方だ。

私としてはフリーリズムの詩にのせて踊るにも限界があると思っているから、いろんなガムラン音楽の形式を使用したし、伝統的な音楽形式で作曲してもらったけれど、音楽に付き過ぎるのは古いという先入観がジャワ人の間にはあったと思う。そのくせ、振付が歌詞の意味に対応していないと言う人はジャワ人に多かった。

確かに私は振付を歌詞に付け過ぎるのは嫌な性質だ。だから歌詞全体の大体の意味と雰囲気は考慮するけれど、個々の単語の意味に対応するような振付をしようとは初めから思ったことがなかった。おそらく私がジャワ語に精通していても、そういう振付の仕方はしないだろう。それが、ジャワ人から見ると、日本人でジャワ文化への理解が足りないために振付と歌詞の対応まで思い至らない、と見えるらしい。

これらの2点は音楽や歌詞をどの程度まで振付に反映させるのかという問題だ。本当はジャワ人の間でも振付に対する考え方や個人の嗜好によってその程度はいろいろなのだが、こういう見本市のような場になると、どうしても私個人の解釈とは思ってもらえずに、「ジャワ人と違う日本人としての解釈」だと思われてしまう。
2005.10水牛アーカイブ「プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その1」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

※2005年9月号には寄稿していません。




『水牛』2005年10月号
プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その1


8月24日~26日に、インドネシアはスマトラ島にあるリアウ州・プカンバル市で行われた第4回コンテンポラリ舞踊見本市(Pasar Tari Kontemporer)が開催された。私も招待されて作品を上演してきたので、今月はこの見本市を紹介しよう。本当は先月号用にとこの原稿を書いていたのに、インターネット・カフェのコンピュータはなぜか原稿の入ったフロッピーを受け付けてくれず、挙句にはコンピュータの方が壊れてしまった。断じて私のせいじゃない!と思いつつ、送れなくて残念であった。

プカンバルというのはリアウ州の州都で、人口100万人くらいの石油商業都市であり、カルテックス石油の本社がある。地理的にはスマトラ島の中部東側にあって、シンガポールから近い。最近インドネシア政府はバンカ島に次いでリアウ州への経済投資を熱心に呼びかけているらしい。6車線のまっすぐに延びる幹線道路沿いに、市役所や銀行、州の各種機関、今回の会場なんかが並んでいる。

会場のBandar Seni Raja Ali Haji(アリハジ王芸術センター)は州立のタマン・ブダヤ(アート・センター)※とは別の組織で、州の芸術文化の中心になっているみたいだ。広大な敷地に、リアウ州の各カブパテン(県)の伝統的な家屋が再現されていたり、リアウ州芸術家会議の事務所やリアウ・ムラユ芸術アカデミーがあったり、ギャラリーや各種スタジオなどが点在していたりする。今回の見本市を主催するYayasan Laksmana(ラクスマナ財団)もここに拠点を構える。ただ劇場だけはまだ建設中(2006年完成予定)で、見本市は仮設の野外舞台で行われた。この劇場は、完成すると、ジャカルタ芸術劇場(GKJ)をしのぐインドネシア最大の劇場になるらしい。

(※インドネシアでは1980年代から1990年代にかけて全州にタマン・ブダヤが設置され、州の文化活動の中心となっている。)

この野外仮設舞台というのは舞踊にはあまりふさわしくなかった。人の背丈ほどの高さの舞台で、観客は数十メートル離れた所から見上げるように舞台を見るようにしている。2日前にここでロックコンサートがあったらしく、予算の都合でその設備をそのまま使ったらしい。客席からは舞台の奥行きが全然感じられず、床面も全く見えない。それだけでなく、本番直前になって舞台の両脇にスクリーンが現れた。主催者は動きの細部が見えるように設置したと説明していたけれど、そうであれば観客席と舞台を近づけるべきだ。舞踊というのは踊り手が観客の反応を受け、観客が踊り手の息遣いを直に感じ取るところに成立するもののはずなのに。ただでさえ舞台は遠く、これでは野外でテレビを見ているようなものだ。と言ってみても、このスクリーンはスポンサーのTELKOMSELが提供していたから、主催者は嫌でも断れなかったに違いない。

出演者は全部で18組である。地元のプカンバルからも3組出るのは、この地域の現代舞踊のレベル向上のためだということだ。残りの15組のうち外人はシンガポールから2組、日本から私の合計3組。ただ外人と言ってもシンガポールの2組はどちらもマレー系、私もインドネシア語を話すから、共通語はインドネシア語(マレー語)である。なんだかマレー系民族の祭典に見えないこともない。私は一応外人であるものの、STSI(インドネシア国立芸術大学)ソロ校で合計5年間学んでいてジャワ宮廷舞踊をベースにしているから、気分的にはソロ出身である。だから私の関心や不安は、自分の舞踊がジャワのコンテキストを離れたところでどのように評価されるのか、という点にあった。この点については後で触れる。そして国内組の出演者の内訳は、同じスマトラ島内ではアチェ、メダン、パダンパンジャン(2組)から計4組、カリマンタン島(ボルネオ島)から1組、ジャワ島はジャカルタ、ソロ(2組、2組ともSTSIソロ校の卒業生)、ジョグジャカルタ、スラバヤ、マランの6組、バリ島から1組、となっている。

18組のうち、I Nyoman Sura(バリ)、Sianne(スラバヤ)、私の3人がソロ(単独)で踊った。I Nyomanは先月号、先々月号で書いたIPAM(インドネシア舞台芸術見本市)に出演していて、なんとなく私と関心のあり方や趣味が似ているなあと思っていたら、今回の公演ではお互いのテーマはほぼ同じだった。簡単に言えば、人が生まれてから死ぬまでのプロセスをテーマにしている。でも彼と私とでは表現の仕方は大きく違う。私が初日、彼が2日目の公演で、初日の私の上演が終わったときに彼から「テーマが同じなんで違う日で良かった。けれど同じ日に公演しても、お互いに表現が違うから面白かったかも知れない」と言われた。彼の舞踊にはバリ舞踊の、あの骨や筋肉の緊張感、時間の緩急が感じられる。どちらも私にはないものだ。

Sianneは中国系で、バレエの他(スラバヤではバレエのグループはたくさんあるらしい)、中国とインドネシアの伝統舞踊もベースにしている。彼女は尺八の曲を使って上演した。彼女の舞踊は、ジャワ舞踊ほど大地にひっついていなくて、でもロマンチックバレエよりも低い所を滑らかに浮遊していくような感じだ。赤い扇子を使っていたけれど、単に中国風に見えなかったところがいい。どうも彼女は赤い色が好きらしく、毎日赤いTシャツを着ていた。ちなみに彼女は最終日のSukarji SrimanI(ジャカルタ)の作品にも出演している。 NyomanもSianneも、静かでとても強い存在感を持っている。私自身は、舞踊には何よりも個人の存在感を重視する性質なので、やっぱりこの2人に魅かれた。

この2人は2日目の公演だったのだが、惜しかったのは2日目に大雨になったこと。観客が皆屋根のあるところに避難したから、観客席はさらに遠くなり、激しい雨音に観客の集中力は遮られがちになった。それでも2人の上演には魅きつけられるものがあった。また舞台の後ろは幕がなくて(開始前の話では黒幕があるということだったが)、背後に大きな木が見えている。Sianneの時には木にライトが当てられ、その向こうに何度も稲光が光るのが見えたのが、私には思いがけず効果があったように思う。神秘的な映像を見ている気がした。

カリマンタンのHariyansaの作品の中に、彼が単独で伝統的な男性シャーマンの舞踊をベースにした旋回舞踊を踊るシーンがある。そのシーンでの彼はとても存在感があった。本来は強いアルコールを飲み、半トランスになって病気治癒のために踊るというこの舞踊には、森の精が踊っているような雰囲気が感じられた。けれど作品全体の出来はいま一つだった。彼以外の4人の群舞の踊り手は高校生から大学1年生とまだ若くてあまり表現力がなく、カリマンタンの森林が伐られてゆく悲しみを描いているという群舞の振付も説明的だったからだ。彼はこの群舞のシーンでコンテンポラリらしさを出そうとしたに違いない。けれど、従来の伝統のコンテキストを超えた舞踊になっているという意味で、旋回舞踊のシーンの方がコンテンポラリになっている気がする。

シンガポールの2団体はマレー系の舞踊なので、シラット(伝統武術)をベースにした動きにしても衣装にしても、スマトラ島の舞踊と印象が似ている。しかし動きや構成はより凝っており、テンポも速くて洒落ている。ただ今回出演した団体に限らないのだが、シンガポールの舞踊というのは総じて、どうも伝統の型を見事にアレンジするだけにとどまっているような気がしてならない。だから見終わった途端に印象が薄れてしまうし、1人1人のダンサーの個性も見えてこない。

Fitri Setyaningsih(ソロ)とBesar Widodo(ジョグジャカルタ)はあの大仮設舞台を使用しなかった。前者はコンクリートの上にネオン・サインのような明かりを置いての、後者は木の植え込みのある所でロウソクの明かりを置いての上演だった。全員が同じ舞台を使用するものだと思っていたから、正直なところ、そんなの有り?という気がする。両者ともあの仮設舞台で上演していたら効果は半減しただろうから。

これらの公演はすべて夜に実施され、25日と26日の午前中はセミナー、午後からはワークショップという予定が組まれた。ギャラリーといってもドームのような空間で、入口を入るとその中央にある池が目に入る。池には水草が茂り、魚が泳いでいる。池の真ん中に浮島みたいなスペースがあって、橋がかかっている。島の背後は黒い幕で閉じられ、三方に開けている。私達が島でワークショップをしているのを、展覧会を見に来た小学生や中学生の団体が橋の向こうから遠巻きに眺めている。この半ば孤立し半ばオープンな空間は私には面白く、また居心地が良かった。ここでソロとかデュエットの小品を踊れたら良いなと思う。

さて、自分の舞踊については……来月に書くことにしよう。
2005.8水牛アーカイブ「IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その2」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年8月号
IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その2


6月6日~9日まで、バリ島のヌサドゥアでIPAM=インドネシア舞台芸術見本市が開催されていた。今月はその出品(全27公演)の中から、私の独断と偏見により、印象に残ったものを紹介する。私が日本に招聘するとしたら(お金はないけど)……という観点で見ていたり、サポーターの心情で見ていたり、いろいろである。

6月7日1作目。スマトラ島ランプンの演劇グループTeatre Satuによる" Nostalgia Sebuah Kota(ある町のノスタルジー)"はとてもシンプルで洗練されていた。演劇に分類されているけれど、ジャワでなら舞踊作品に入るかもしれない。身体の動きが美しい。その地域の伝統的な舞踊の動きらしきものも使われているけれど、既存の動きを安易に借用せずにきちんと消化している。台詞は平易なインドネシア語、一部英語で、分量は多くなく、リフレーンが多い。言葉や、鈴や、手桶に入れた米(豆?)の音が重なり響くことによって、イメージがさざなみのように広がっていくという気がする。また照明の色調や変化、衣装の配色が美しい。テーマやメッセージ性を求める人にはよく分からない舞台だろうが、そういう見方をしなくても良いという気がする。視覚的、聴覚的にとても記憶に残る舞台。雨の日に傘を差しているシーンから始まるけれど、日本の秋の長雨のような情緒や湿度を感じさせる。

4作目はソロからKomunitas Wayang Suket。Ki Slamet Gundonoという小錦のような巨体のダラン(影絵操者))が率いるこのグループの面々は、ワヤンを翻案した新しいワヤン的作品を次々に発表している。プログラムでは演劇に分類されているけれど、やっぱりこれはワヤンとしか呼びようがない。私もこのグループとは親しく、そのせいもあって私の名前が登場してしまったので、関係者には大受けだった。ジャワ語主体だけれど、今回はところどころでインドネシア語や英語を混ぜていて、その混ぜ方とタイミングがまたおかしかった。場面の展開だとか、Gundonoの抑揚とか間合いとか、ジャワ人にはこの劇は文句なく面白い。IPAMアドバイザーであるソロの芸大元学長やジャワ人のお役人など、いい年をしたおじさん達が、本当に箸が転んでもおかしいというくらいの笑い方をしていた。でもこういう感受性のよいジャワ人たちが全然いなくて、公演はまじめくさって見るものと思っている人達(特に日本人)の中で見たらどうだろうか。どこまでこの面白さは伝わるのだろうか、私にはまだよく分からない。

最後の10作目はアチェのWalet Dance Companyによる“Rampai Aceh”。ただしメンバーは皆ジャカルタに住む。このおじさんはIPAMに来る前に愛知万博に出演していたらしい。リーダーのおじさんの歌に合わせて20人くらいの女性が密着して横一列に座り、あるいは立ち、体を叩いたり全員が同じ動きを繰り返す。テンポは次第にエスカレートしてゆくにも関わらず、全員の動きは全く乱れずシンクロし続ける。アチェの舞踊も地域によって人数や動きや場所移動のパターンに違いがあるらしく、ここではいろんな地域のものを混ぜているということだった。その技術水準には圧倒されたし、やはりジャカルタでやっているだけあって、アチェ舞踊としても、一段舞台芸術として垢抜けている気がした。にも関わらず、これを単独で上演するのは難しいように思う。どうしても機械的で単調になりがちな気がするのだ。他にいろんな演目があれば、それもジャワ舞踊のようにテンポが遅くて全員の動きを過剰に揃えようとしない舞踊などと一緒に上演されたら、とても引き立つだろうと思うのだけど。実際インドネシア各地の芸能で、これだけ動きを揃えようとする舞踊も珍しい。シンクロするのは共同体の結束、イスラムにおける人と神との合一を求める気持ちの表れだとリーダーのおじさんは言っていた。蛇足になるが、これをワークショップでやるのは面白いかもしれない。1つ1つの動きをゆっくりやれば、あまり複雑ではないし、全員が同じことをするのも安心だ。慣れてきたら徐々にスピードを上げていけば、参加者のレベルによってはかなりの達成感が味わえるかもしれない。

6月8日。この日一番期待していたのが、東ヌサトゥンガラ州(バリから東側に延びる諸島)からのササンドゥという伝統楽器の演奏。ササンドゥは昔のインドネシア紙幣の裏側に描かれていて、一度実物を目にしたいと思っていたのだ。弦楽器が同地特産の草で作った共鳴箱?に入っている。この草はまるでプラスチックみたいに頑丈である。余談だが、伝統衣装のおじいさんたちがかぶっている鳥形帽子(成人男子がかぶるものらしい)もその草で織ってある。さて公演はおじいさん3人がそれぞれササンドゥを演奏し、時折1人が手振りで踊るというものだった。この公演を単独で海外公演に持ってゆくのはきついように思う。音楽も単調に聞こえてしまうし、なにしろおじいさんだけでは、やや魅力に欠ける。舞台で見せるためには何らかの見せ方の工夫が必要だろう。むしろ日本の地方なんかで、民俗芸能を継承しているおじいさん達なんかと一緒に、酒を酌み交わしつつ一晩上演する(酒盛りと変わらなかったりして)なんていうのが似合う気もする。また、もしこれがインドネシア各地の民族音楽を紹介するプログラムの中の1つとして上演されるのなら、これでいい。アチェ舞踊のところでも触れたけど、そういう場合にはバラエティの豊富さが問われるからだ。おじいさんの地方性を色濃く漂わせた物腰、帽子や手織りの伝統の布には、ジャワやバリや他の地域の文化とは異なる魅力が十分にある。

6月9日3作目(だっけ?)は南スラウェシのSanggar Kreatifによる“Tongkonan”。生演奏での上演で、演奏家と踊り手合わせて15人くらいいたのではなかろうか。結構大所帯だった。私は彼らと同じ安ホテルに泊まっていた。実は私はIPAMの登録上はプレゼンターになるのだが、宿泊はインドネシア人芸術家用の所を希望していたのだ。それで前日の夜にホテルの中庭でやっていた練習も見ていて、正直なところ、その時点ではあまり期待してなかった。ところが、舞台では皆打って変わって魅力的な舞踊家になったので驚いてしまった。特に魅力的だったのが若い男の子達で、日本でアイドル・デビューしても十分通用するくらいなのだ。作品も舞踊と音楽だけで構成された舞台にはドラマ性があり(後で聞くと、物語はスラウェシの民話を基にしているらしい)、次の場面を予期させるようにうまく場面転換がされていた。最後の終わり方にも、また新たなドラマが続いていきそうな余韻が感じられた。さらに臼と杵を使ってそれで音を出したり、餅つき踊りみたいな踊りがあったりするのも、日本人には親近感がわく。それが地方色コテコテでなかったのが良かった。垢抜けたフォークロアという感じだ。

7作目はソロのマンクヌガラン宮から"Srimpi Muncar"(スリンピ・ムンチャル)である。踊り手は4人だが何しろガムラン演奏家の数が多いから、所帯としては一番規模が大きかった。 スリンピというのは女性4人による宮廷舞踊である。マンクヌガランはソロの宮廷の分家になるのだが、スリンピの演目はジョグジャカルタの宮廷から引用している。この演目はメナク物語から取られていて、中国のお姫様とジャワのお姫様が1人の男性をめぐって戦い、中国のお姫様が負けるというお話である。スリンピの形式にするため中国とジャワのお姫様が2組いるという構成で、また普通のスリンピでは4人とも同一衣装を着るけれど、ジャワのお姫様と中国のお姫様の衣装は異なっている。この時の衣装は5年間の留学中に私の全然見たことのないものだった。聞くと、古いアンティークの衣装だという。またいつもの上演と違って、中国のお姫様の化粧と動きがより中国的(あくまでもジャワ人から見て)である。

舞踊はまあこんなものなのだが、私が以前から気になっているのは中国のお姫様の描き方である。このことは初日のRuly Nostalgiaの作品にも言える。Rulyの作品“sKumolobumi”もメナク物語をたたき台にしている。ジャワ人が描く中国人には、釣り目に京劇のような厚い化粧、衣装と化粧に赤を多様し、中国拳法のような、あるいはわざとぎくしゃくした動きを用いるといったステレオタイプが認められる。これは日本人にすると、あまり気持ちの良いものではない。(そう言うのは私だけでなくて、日本人の留学生の多くはそう感じるようである。)日本人なら、こんなにエキゾチック過剰に中国人を描かないだろう。もしかしたら欧米人には「これが中国の姫」というレッテルがあって分かりやすいかもしれないけど、中国ネタのものを日本に持ってくるのは難しい、というか持ってこないでほしいと正直なところ感じている。

以上、舞踊評だかなんだかよく分からない文章になってしまった。その他にも紹介したい作品は多々あるのだけれど、またそのうち書くこともあるかも知れない。IPAMでは欧米基準でコンテンポラリ舞踊と呼べるものも、伝統舞踊、民族音楽ものも多く紹介された。まだきちんと調査していないけれど、従来のインドネシア政府は「多様な地方芸術」としていろんな地方の芸術をパックにして海外に紹介するということに力を入れていたように思う。それは現在でもあるのだが、それだけでなく単品で海外に出せる=売れるものを後押ししようとしている、という気がする。
2005.7水牛アーカイブ「IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その1」
8月忙しくて更新を怠っていましたが、やっと水牛アーカイブも更新です。

私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年7月号
IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その1


この6月6日から9日まで、バリ島はヌサドゥアで、第3回IPAM(イパムと読む)=Indonesia Performing Arts Martが開催されていた。助成した国際交流基金ジャカルタ支部の人と、基金が招聘した人以外に出席した日本人は私だけだった。私自身はこのIPAMのことを2年前から、つまり第1回目から聞いて知っていた。その年から調査でインドネシアの教育省や観光文化省に出入りしていて、こんな催しを始めたよと教えてもらっていたからだ。それにオーガナイズしている会社のスタッフたちとも親しい。ただ昨年、一昨年は予定が合わせられず、今年になってやっとどんなものか見ることができた。というわけで、今回と次回はそのIPAMについていろいろと見聞きしたことを書き留めておこう。

第1回目はインドネシア政府観光文化省が直接手がけていたのだが、やっぱり役所のオーガナイズではうまくいかないということで、第2回目からは民間会社がオーガナイズし、同省は後援・顧問となっている。出品者は今回まではインドネシア人アーチストばかりだが、来年からは外国人の出品も受けつけるという。それ以降は隔年ごとの開催にして、ゆくゆくは東京国際芸術見本市のように育てたい、というのが主催者の意向だ。3回目とあって知名度はまだそんなにないが、年々各国から集まる出席者も増えて、今年は66組に及んだ。ただ当初の予定ではシンガポールでのアートフェスティバルをにらんで、そちらが終わってからその出席者をインドネシアに引き寄せるという計画だったのが、シンガポールではその会期を延長したとかで、IPAMに流れる参加者がかなり減ってしまったと主催者はぼやいていた。そのためIPAMの会期は6月10日までだったのが、直前になって急遽1日短縮され、9日になった。

ではどういうアーチストが出品していたのだろう。分野は伝統もの、現代ものどちらでも良いが、今年からジャズやポップ系(いずれも民族楽器と併用している)のバンドも認められ、3グループ出演している。一応プログラムの分類でいくと音楽8組、舞踊16組、演劇3組の27組が出演した。一部の有名アーチスト/グループへのオファーはあったものの、今回は昨年までと違い、公募で多くの出品者を決定したという。ただ広く公募したとはいえ、海外へ向けて作品をアピールする力量、具体的には英語力や企画書を書くという能力にはやっぱり地域的な偏りがある。出品者を地域別に見ると、計27組のうち中部ジャワのソロ(正称はスラカルタ、私のかつての留学地)からは8組参加で、ダントツ多い。あとは首都ジャカルタ5組、東ジャワ(スラバヤ)1組、バリ島5組、スマトラ島5組(ランプン、パダン2組、メダン、リアウ)スラウェシ島2組(クンダリ、マカッサル)、そしてヌサ・トゥンガラから1組となっている。

主催者の弁によると、バリやジャワに比べまだ海外での知名度が低いスマトラやスラウェシの芸術を多く紹介したいという意向はあるけれど、まだ選考を通過できるレベルの企画が少ないということだった。逆にソロがこれほど多いのは、1970年代以降芸大やアートセンターの前身が現代芸術に力を入れてきたことなどによるだろう。宮廷舞踊というイメージがあるため伝統都市の印象が強いが、ソロはその一方で現代芸術がさかんな都市として有名なのである。(現代舞踊の旗手サルドノもソロの出身だ。)

ただソロは小さくて(人口約50万人)大企業がない都市だからスポンサー探しが大変だと、ソロからの参加者のマネージャー達が言っていた。出品者の交通費は主催者から出るとはいえ、規定に沿った分しか出ない。ちょっと規模の大きい作品を出品しようと思うと、自分で助成金を探すことになる。参加者数も多い上、ソロの芸術家なんて皆しょっちゅう海外に出ているような人たちが多いから、そうそう毎回スポンサーになってくれるところも少ない、ということらしい。スマトラやスラウェシだと参加者がまだ少ないから地域を挙げて応援してくれるだろうし、何よりお金のある大企業が多くあるのがうらやましい、とのことだ。

さて出品作品の具体的な内容については、来月紹介することにして、今回はそれ以外のIPAMの日程について紹介しておこう。

まず6月6日は主会場のヌサドゥアビーチホテルにて、出席者の受付(終日)とオープニング・ディナーのみ。ディナーの時には出品作品とは別に、バリのワヤン(影絵)が1時間ほど特別提供された。また最終日のクロージング・ディナーではマハーバーラタ物語のワヤン・オラン(舞踊劇)が、出品作品の1つとして提供された。このオープニング・ディナーと9日のクロージング・ディナーは観光文化省の主催で、同省のお役人B氏(バリ人)が構成を仕切っている。バリの影絵というとグンデル4台だけで伴奏されるグンデル・ワヤンが有名だけれど、ラーマーヤナ物語には大きな編成のガムランを伴うということだった。ラーマーヤナで始めてマハーバーラタで終える、ワヤンで始めてワヤン・オランで終える、という構成にしたかったという。B氏は4日前から現地入りして会場設営などに当たっていたらしい。この人は実はバリのコンセルバトリ(現在の国立芸術高校)創立者の1人を父に持ち、同校を卒業したあと入省している。私も自分の論文のために随分とインタビューさせてもらった。インドネシアでは1970年代くらいから役所の芸術観光部門では芸術高校や大学の出身者を多く採用するという方針を採っているのだ。それはともかく、この全体の構成は私にはとてもバリらしく、そして垢抜けて見えた。

閑話休題。さて翌7日の上演は午後2時からでそれまではフリーのはずだったが、急遽朝食会が設定される。これは出席者同士や主催者らがフランクに話せる場を、ということで設定された。休憩時間もほとんどなく出品作を見続けていては、全然他の出席者と話す時間がない。これはありがたかった。朝食会は9時~11時頃まで、サブ会場のメリアバリホテルで。2時から6時まで66作品公演。7時まで休憩。7時から9時半まで4公演。

翌8日はエクスカーション・ツアーで、ペジェン村のオダラン見学。途中ウブドでギャラリー見学、パッサール(市場)で買い物、レストランにて昼食が組み込まれている。ソロの芸大の元学長Supanggah氏はアドバイザーとしてIPAMに出席していたのだが、パッサールでは親指ピアノと小さな太鼓を買っていた。こういうアカデミックでない楽器もきちんとチェックしているんだなと関心してしまう。さてメインの目的のオダランは寺院の建立記念のお祭りである。寺院に入るため、IPAM主催者による腰布と帯を身につける。当初の予定ではこの日はオダランツアーだけだったのが、日程を1日短縮したために、6時半からIPAMの日程(7公演)が入ってしまった。そのためにお寺を4時半には出ないといけなくなり、寺院であまり舞踊を見れなかったのが残念であった。

最初に寺院の手前の舞台のところで、村のおじいさんからヒンズー寺院のことなどについて説明を受ける。これがまたとても流暢な英語で理路整然と話す。こんな田舎のお年寄りでこれくらい英語がしゃべれるというのは、それだけバリの観光化の歴史は長く、深かったということなのだ。その後おばさんチームのガムラン演奏をしばらく聞いてから、寺院に入り、しばしお祈りする人々を見る。またしばらく待って、舞踊が始まった。正装姿で踊るルジャン?、バリス、花冠をかぶったルジャンまでを見た。その次にはトペンの踊り手が控えており、また夜にはガンブーや影絵もあるとのことだった。

最初のルジャン?はお世辞にもうまいとは言えなかった。おそらくまだ踊り始めたばかりなのだろう。しかしこの空間で踊るのは当たり前だという雰囲気がそこにはあった。彼女達にそういう空間があることをなんだかうらやましく思った。バリスはルジャンを踊る少女のお父さんくらいの年代のおじさんたちが群舞で踊っている。1人の年配の人に目を奪われた。その人が舞踊を職業としているかどうかは知らない。テクニック的にも上手いと思うけれど、自分の中にこみ上げてくる何かに突き動かされて無心で踊っているような、そんな風情だった。このバリスでは突起のついた盾を持っていて、途中で剣を抜く。この盾は初めて見たので、何という名前なのか分からない。バリスには使う武器によってさまざまな種類があるという。

ただこういうオダランを見た後で下手に宗教的演出をほどこした舞台を見ると、白けてしまう。IPAMではなかったけれど、IPAM終了後にジョグジャカルタに戻って見た公演というのがそういう感じだったのだ。そういう意味で、IPAMの出品作品如何によっては、このオダラン見学ツアーは諸刃の剣になるかも知れないという気がした。

最終日9日は、朝10時から12時までアドバイザーのI wayan Dibia教授とSaini KM教授による「インドネシアのパフォーミングアーツ・シーン」。昼食後1時から2時半まで国際交流基金が招聘した曽田修司氏(跡見学園女子大学マネジメント学部教授)の講演"An Overview of Global Performing Arts Market"である。IPAMはインドネシアの芸術マネジメントの向上にもつなげたいということから、専門家である氏の講演となったらしい。そして3時から6時まで公演。6時半から8時までクロージング・ディナーとバリのワヤン・オラン上演。8時から10時過ぎまで公演。

急遽日程変更になったので翌10日まで残ることになった出席者や出品者のために、ミーティングの場が設定されたらしい。しかし私は10日早朝に発ったので知らない。

(つづく)

10/15 岸城神社公演
今年の8月も1か月研修(インドネシア語指導)のお仕事で関空近くに赴任しておりました。その間、ブログ更新を怠っておりましたが、ぼちぼち公演準備態勢に入ります。今まで「観月の夕べ」と銘打って、だんじり祭りの終わった後、中秋の名月に近い土日の夜に岸城神社(大阪府岸和田市)で公演を行ってまいりましたが、今年は昼間に公演します。同神社では今年の春から毎月第三日曜日に「岸城神社むすび市」が開催されており、それに合わせて行うことになりました。詳細は追ってアップします。

2017ちらし表

2017ちらし裏