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6/9 バティック展で着付とお話
6/9 以下の写真をアップしました。

6/9 画廊「けんちくの種」における、渡辺智子さんの所蔵バティック展の初日は無事終わりました。オープニングイベントでバティックの着付の実演とお話をさせていただきました。

バティックを指導されている渡辺さんがご自身の資料用にと収集されたバティックの数々を、ぜひ会場に足を運んでご覧ください。手仕事のおおらかさや温かみが感じられます。

背景の展示品はもちろん、着付けに使っているのも渡辺さまのバティックです。ボディに着せるのには、若干テクニックが必要でした。針ピンを指しても文句は言わないけれど、巻き付けている間、踏ん張ってもくれない…(笑)。
●201869ちゃこ
撮影: 近藤チャコ様

終わって、すでに数人が帰られてから、参加者で写真を撮ればよかった…と気づき、撮影したもの。
●201869batik抜水
撮影:抜水みどり様



以下の通り、大阪府池田市でバティック(ジャワ更紗)教室を主宰される渡辺智子さんが、資料として収集されている古い中部ジャワのバティック約20点の展示会を開かれます。その初日に私のジャワ更紗の着付デモンストレーションやお話があります。

渡辺さんのブログでの記事➡ https://kodama33.exblog.jp/29512154/

世界の手仕事布をめぐる旅展 vol.2
中部ジャワのバティック ~柄の魅力を製作工程と共に~


2018年6月9日(土)~6月24日(日)
11:00~17:00
場所:けんちくの種 (箕面市桜1−13−32)
※会期中お休みはありません。
ただし、ジャワの伝統衣装の着付とお話中は一時的にCloseとなります。

■■ジャワの伝統衣装の着付とお話■■
ジャワ舞踊家の冨岡三智さんによるバティック(ジャワ更紗)の着方とそのお話。
日時: 6月9日(土)14:00~15:00
参加費:1000円

要予約

■■蝋描きワークショップ■■
バンダナサイズの布に中部ジャワの柄を蝋描きしよう。
日 時:6月16日(土) or 17日(日)
13:30~16:30 各定員6名
参加費:4000円(お飲物+みくり食堂お菓子付)
要予約

※『ジャワの伝統衣装の着付けとお話』と『蝋描きワークショップ』はご予約が必要です。ご予約の際にお名前、当日連絡のつく連絡先、ワークショップについてはご希望日程(16日or17日)をお伝えください。
お問合せ・ご予約:けんちくの種     
Tel: 072(734)6343
Mail: info@tane-design.jp





6/2 バリ舞踊祭に出演
6/5 写真を追加しました。

関西バリ舞踊祭は無事終了しました。ご来場くださいました皆さま、ありがとうございます。ここに写真を掲載します。

ジャワ舞踊スラカルタ様式 「スコルノ」
2018年6月2日、岸和田市・岸城神社 戎殿前    
第10回 関西バリ舞踊祭にて

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撮影: Tamura Hirokazu 様

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撮影: Tamura Hirokazu 様

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撮影: Tamura Hirokazu 様

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撮影: 池田冴子 様

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撮影: 池田 冴子 様

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以下の催しに出演します。催し名は”バリ舞踊”ですが…(笑)。実は、関西バリ舞踊祭はこの第10回を以て終了となります。主催の実行委員会からのオファーで初めて共演が叶うこととなりました。ちなみに、10月にはいつもの「第10回 ジャワ舞踊・ガムラン音楽奉納公演 観月の夕べ」が岸城神社であります。

第10回 関西バリ舞踊祭
日時: 2018年6月2日(土)16:30~20:00
会場: 岸和田市・岸城(きしき)神社 境内
     ※雨天時は社殿内で実施
主催: 関西バリ舞踊祭実行委員会

ジャワ舞踊の出演は第1部最後の17:37~18:10頃の予定で、順序は以下の通り。その後すぐ20分の休憩になります。

①ジャワ舞踊ジョグジャカルタ様式「サリ・クスモ」
  舞踊: 坂口裕美子 佐々木あるむ 佐々木宏実 竹田敦子
       谷川原恵美 谷田朋美    村岸紀子

  曲名は「花の精髄」ジョグジャカルタでジャワ舞踊を始める際、
  一番初めに習うことの多い曲。シンプルな動きの中に、地面に
  根を張って風に揺れる様なジャワ舞踊の特徴がよく出ている。

②ジャワ舞踊ジョグジャカルタ様式「スカル・プディヤストゥディ」
 舞踊: 櫻井有紀 西岡美緒 

  ジョグジャカルタの宮廷舞踊家・サスミントディプロの1975年の
  作品を、短縮したバージョンです。神様に祈りを捧げ、祝福を
  受けるというおめでたいテーマから、結婚式や開会式などの
  ハレの日によく踊られています。

③ジャワ舞踊スラカルタ様式「スコルノ」
  舞踊: 冨岡三智

  スラカルタ宮廷舞踊家・クスモケソウォの1960年頃の作品。
  宮廷舞踊の基礎が学べるよう振り付けられている。伴奏曲は
  ジャワ人なら誰でも知っている「パンクル」。優美な女性の姿を
  描いている。

  この演目の説明についてはサイト『水牛』今月号に書いています。
  ➡ 2018.05水牛 「ジャワ舞踊作品のバージョン(6) 『スコルノ』」

いずれも演奏: コンチョ・コンチョ ハナジョス ビンタン・ララス
2006.02水牛「ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年2月号『水牛』寄稿
ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり  
冨岡三智

日本の年末年始には、越し方行く末を考えさせてしまう何かがある。久しぶりにしみじみと年末年始を満喫していて、ふと、ここ10年くらいのインドネシアや日本の暮らしの変わり様を振り返ってみようと思いついた。この間2~3年おきに日本とインドネシアを行き来していると、その度にそれぞれの国が大きく変化したなあと意識せざるをえなかった。ずっと日本にいれば、あるいはずっとインドネシアにいれば、おそらくそういう気づきも日常生活の中で風化してしまったかも知れない。というわけで、まず今回はスハルト時代とその後の変化について気づいた点あたりから始めよう。

念のため書いておくと、私は1996年~1998年5月と、2000年~2003年にインドネシアのソロ(正称はスラカルタ)に留学している。1回目の留学はスハルト大統領時代の末期で、1998年5月に帰国した直後に全国的な暴動になってスハルト退陣につながった。そして2回目の留学はワヒド大統領からメガワティ大統領―スカルノ元大統領の娘―の時代にあたる。

     ●

2回目に留学したとき、スハルト時代は終わったんだなあと感じたことがいくつかあった。その1つが警察での質問事項である。留学すると警察にも出向き、外人登録をする。その時に細かくいろんなことを聞かれるのだが、2回目の留学では外れていた項目が1つだけあった。それは「1965年9月30日に、あなたはどこにいて何をしていましたか?」という質問である。

この日の出来事は後に9月30日事件と呼ばれる。これをきっかけにスハルトが台頭し、スカルノに取って代わって大統領になった。そして事件に関与しているとされた共産党シンパが数10万人粛清され、1998年の暴動の時のように多くのチナ(華人)が襲われた。スハルト政権下では、この事件に関与していた疑いがあれば(本人だけでなく身内でも)インドネシア人なら絶対公務員になれなかったし、外人なら入国拒否された。

だからこの質問は踏み絵の儀式なのだ。その証拠に、生年月日を見れば私がその時にまだ生まれていなかったことは明らかなのに、わざわざ質問して私に答えさせる。私が「まだ生まれてませんでした」と答えると、やおら書類にその返事を書き込む。他の項目だと、こっちが答えるより先に一人合点して書類に書き込んでいくことも多いくせに(人の話をちゃんと最後まで聞かないインドネシア人は多い)。

2回目に留学した時にはその質問がなくなっていたので、「あの『9月30日に~』の質問はしないのですか」と、わざと聞いてみた。そうしたら「もう、なくなりました」で終わりである。「へー、いつから?」と突っ込んでも良かったのだが、警察でそこまで悪ノリするのはやめた。

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またスハルト時代には、役所や公立の機関では毎週月曜と毎月17日(インドネシアの独立記念日が8月17日なので)の始業前に集会があった。そういう所にはメインの庁舎の前に芝生を植えた円形広場があり、広場の中央には国旗掲揚台があって、そこで集会をするのである。そしてこの日は職員全員グレーの公務員服を着てこないといけない。

私は2回の留学とも市役所の裏に住んでいた。朝7時半に始まる1時間目の授業に出ようと思うと、市役所の前を7時前に通る。月曜のその時間帯には、公務員服を着た市役所職員がこの広場いっぱいに出ていたことを思い出す。

事情は芸大(国立大学だから職員や教員はみな公務員)でも同じである。ただ、いかんせん芸術系の学校ゆえ、まじめでない先生も多かった。それも音楽科よりも舞踊科に。音楽科では月曜や17日の公務員服の着用率はまあまあ高くて、今日は月曜日とかいうことが視覚的に分かったが、舞踊科ではそれはあまり分からなかった。

ある月曜日、私はちょっと早めに芸大に行って、集会の様子を見てみようと思った。大学に着くと集会はもう始まっていて、広場に入る正門も閉められている。ふと横を見ると、舞踊科の先生達がいる。「いや~遅刻してね~。まだ中に入れないね~」と私に弁解していたが、それ以前に公務員服を着ていない。はじめから集会に入るつもりはなかったんだろう。けれど、こんな不まじめさの方が健全だなという気もしていた。

こういう儀礼に気づいたのは1回目の留学早々である。入管に行った日がたまたま17日で、朝8時から入口は開いているのに、9時半頃まで職員が誰も出てこなかったのだ。頭にきて警備員に問いただすと、今日は17日の集会だからね、という答え。その言葉は黄門さまの印篭に似て、有無を言わせない。

それが2回目の留学では、17日にも入管に行かざるを得なくなったけれど、集会はやっていなかった。市役所での月曜の集会も全然見ないし、芸大でも月曜に制服を着ている先生もいない。それで念のため芸大の先生達に確認してみたら、やっぱり集会はスハルト退陣後になくなったということだった。

そしてそれがなくなってみると、日々の雰囲気も少し変わったなとあらためて感じる。特定の日に公務員服があふれるという風景は、今にして思えば妙に儀礼的で、硬直した雰囲気がつきまとっていた。あれはやっぱりスハルトへの忠誠を誓う儀式以外の何物でもなかった。だからこそ、スハルトが退陣してしまうと簡単に止めてしまえるのだ。「もう伝統になっているから今後も続けましょう」なんて誰も言い出さなかったのだろう。

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スハルト時代と言えば、ゴルカル党の黄色を思い出す。この時代の政府系イベントでは、何かというとしつこく黄色を使った。

上で公務員服のことを書いたが、あれも正式の行事の場合は中に黄色いシャツを着なくてはいけないようだ。これは芸大の公務員達だけの式典(趣旨は忘れた。生徒は入れない)の通達で知った。そこには、公務員服ならびにその下にゴルカルの黄シャツを着用すべしという条件が書いてあって、着用していなければ中に入れないことや、黄シャツがない人は新たに購入すべしということも付記されていた。

そしてテレビ中継される国家行事などでは、前の方の席にずらりと陣取る人達――議員か閣僚か――が皆黄色い背広を着て映っていたことを思い出す。日本で黄色い背広を着るのは漫才師くらいだから、このインドネシアの偉いさんの光景はとても奇妙な感じがしたものだ。そしてその一方、偉いさん達の前で繰り広げられる舞台の衣装にも黄色の割合が高い。

たとえば、確か1997年のハリ・イブ(母の日)の行事もそうだった。故・スハルト夫人の故郷・カランアニャル(ソロ郊外)でスハルト臨席のもと行われた時、ソロの芸大に女性舞踊を出すよう指示がきた。その時は60何人かの踊り手がいて(60何回目かのハリ・イブだったから)ガンビョンを提供したのだが、衣装の上着は全員黄色だった。

またソロでは、スハルト時代は毎年の独立記念日や正月に市役所でワヤン(影絵)があったのだが、その時も、伝統衣装に身を包むダラン(影絵操者)も演奏家も決まって黄色い上着を着ていた。

こんな風に、色でアピールするというのは素朴だけれど効果的だ。ゴルカルが行事を主催しているということが、何のナレーションがなくても、遠くからでも、そして子供にも一目瞭然に分かる。

時は流れて2002年の12月、暴動時ではなかったが焼失したソロの市役所が再建され、そのオープニングがメガワティ大統領を迎えて行われることになった。近所のことゆえ私はのこのこと市役所の門の前に行って、塀の外から中の様子を見ていた。そうしたら接待係の人達のクバヤ(伝統衣装の上着)がみんな真っ赤(メガワティの政党の色)だったのだ。それを見たとたん、ああメガワティの時代に変わったんだなと強く実感したことだった。スハルト時代なら、あの人達はみな黄色いクバヤに身を包んでいたはずだから。スハルト色を払拭するのなんてこんなに簡単だったんだと、以前を知る者は拍子抜けしてしまう。

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そしてスハルト後を強く印象づけるのがチナ(華人)文化の解禁だ。2000年2月に再留学してすぐ、ソロでも中国雑伎ショーがあって、芸大の舞踊科でも結構話題になった。また各種イベントにバロンサイ(獅子)やリヨン(竜舞)が決まって登場するようにもなった。こういうものは9月30日事件以降禁止されていたから、1回目の留学では全く目にすることがなかった。いったい、この巨大なバロンサイや竜はいつインドネシアに運びこまれたのだろう。そしてチナの子弟達は、どこで、どうやって練習していたのだろう、指導者はどこから呼んだのだろうか、などと考えてしまう。

チナの人達が祝う旧正月も、2002年は暫定的に、そして2003年からは正式に祝日になった。この日、バロンサイがスラマット・リヤディ大通り沿いの店々(オーナーはたいていチナ)を獅子舞して廻ったという。そしてデパートやスーパーでは旧正月用品の売り出しが華やかに行われた。食品のパッケージやグリーティングカードはどれも赤色で、そこに金色でめでたい文句の漢字が書いてある。

1998年末から経済危機がひどくなり、暴動が発生するようになると、多くのチナ系の人達が略奪・暴行の目に遭った。本当はソロはかなり荒れた所だ。もっともその一番荒れた時期に私は日本にいた。それでも一触即発の雰囲気になるまでの様子は知っている。1998年の旧正月は、表立って祝うのが危ないとチナ系の人達は自粛していた。
私達日本人の方にも、チナに間違われて襲われるかもしれない、インドネシア人には日本人とチナの顔の区別はつかないだろうし……、という恐れがあった。そんな空気を体感していただけに、こんなに派手に旧正月用品の売り出したり、チナでない一般のインドネシア人も「旧正月おめでとう」と挨拶したりする日がくるなんて、当時は想像できなかった。

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最後にスハルト時代の終わりにとどめを刺すのが、スハルトの肖像が描かれた5万ルピア札(当時の最高額紙幣)が消えたことだ。それは2000年8月のことで、それだけではなく全紙幣のデザインが刷新された。偽札が増えてきたからというのが表向きの理由だったが、スハルト紙幣の登場は他の紙幣デザインに比べてそんなに古いことではない。歴史的には独裁者が自分の肖像紙幣を発行するようになるとその政権も末期らしいが、それはまさにスハルトにも当てはまっている。
2006.01水牛アーカイブ「年末年始の時間~赤穂浪士からとんどまで」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

昨年9月に2005年12月号をアップして以来、取り紛れてしばらくアップできていませんでしたが、再開します。水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。




年末年始の時間~赤穂浪士からとんどまで

年の瀬の追われるようにあわただしい雰囲気の中を駆け抜け、新年に突入してぼーっとする、という日本の年末年始の雰囲気が私は好きだ。

インドネシアでは西洋暦の正月だけでなく、ジャワ・イスラム暦正月、ヒンズー暦正月(ニュピ)に太陰暦正月(スハルト政権が倒れてから祝日に加えられた。中華系の人たちが祝う)が祝日になっている。ジャワで一般の人たちが一番盛大に祝うのはイスラム暦正月だ。宮廷行事や年忌法要、80歳のお祝いなんかはこの暦に従う。また兄弟姉妹が同じ年には結婚式を挙げないという時の暦もジャワ暦で、生活には西洋暦よりもジャワ暦の方が重要だ。

それでもジャワ暦も西洋暦も、大晦日を寝ずに過ごして翌朝の元旦を迎える点は日本の(かつての)正月と同じだ。ジャワだと通りのあちこちで紙製のラッパが売られ、ラッパを鳴らしたり爆竹を鳴らしたりしてにぎやかに大晦日を過ごす。市役所や劇場なんかではワヤン(影絵)や特別豪華版の舞踊劇が催されて人々でいっぱいになる。

ただどちらにしろ、ジャワには大晦日から正月への移行はあっても年の瀬がないという気がしてならない。1年がもうすぐ終わるという追い立てられるような気持ちにならないのだ。旧い年の残りの日々をカウントダウンして、大掃除をして、旧いことは忘れて(忘年)ご破算にして、まっさらの1年に更新しようという気持ちが、ジャワでは沸いてこなかった。暦がたくさんあるのもその一因かも知れない。各正月が巡るごとに追い立てられてはたまらない。あるいは、雨季と乾季のサイクルで巡る国では、時は循環しても前進しないのかも知れない。逆に四季がある日本では、時は循環するにしろ、春から夏を経て秋、冬へとゴールに向かって直線的に進む部分もあるのかも知れない。

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唐突ながら、年の瀬の感を強くするのが赤穂浪士ものの番組だ。日本人は(もちろん私自身も)なんで赤穂浪士の話が好きなのだろう。それはきっと、年末に達成感やこれでおしまい!という気持ちを刺激してくれるからなのだ。12月14日という日も良い。これが暖かく眠気を催す春先だとか、蚊の多い夏だとかだと、討ち入りの悲壮さに欠けてしまって共感できないかも知れない。それに1年の先はまだ長いから、これですべて終わったという心持ちにもなりにくい。やはり寒くなってからがいい。かといって、大晦日近くの本当に忙しい時に討ち入られてもはた迷惑な気がする。正月準備に取り掛かる事始めの日(12月13日)を迎え、なんだか気ぜわしくなってきたところに討ち入りだと、良かった良かった、浪士も本懐を遂げたし、私もこれであとは大掃除と年賀状を出せばおしまい…という気持ちにはずみがつくのだ。

ところで、早や昨年となった12月の始め頃に、赤穂浪士の講談を聞く機会があった。それも別注ネタである。注文主は討ち入り後の赤穂浪士のお預け先となったお家の1つの末裔の方である。そのお家は赤穂浪士へのもてなしがあまり良くなかったと言われているのを口惜しく思い、「大変結構にもてなした」というお話にしてほしいと注文されたのだ。会場はそのお家敷で、八畳座敷を二間続きで使い、床の間を背にした講釈師の前に、その末裔の一家(子や孫も含め)と友人たちの20人足らずが座っている。こんなアットホームな会場に呼ばれたのは初めてですと講釈師も言っていたけれど、こんな風に自宅に芸人を呼んで楽しむのは、現在の日本ではほとんど見られないだろう。今ではなんでも劇場芸術になってしまい、個人がチケットを買って入場するというのが普通だ。このお宅で講談を聞いていると、ジャワの個人宅で催される音楽会だとか影絵だとかを思い出す。ジャワではまだこんな楽しみ方が廃れていない。

それはともかく、昔はある講談を本にするとなると、ネタに関係する大名家などに本をまとめて買い上げてもらいに行ったという。そこで値切られたりすると、講釈師は講談の中でその大名家のことを散々悪く言って恨みを晴らしたらしいのだ。そのために、たとえば蜂須賀家は泥棒呼ばわりされる破目になったという。だから今回別注ネタを注文したお家も、もしかしたらご先祖が協賛金をケチったのかも知れない。そんなことを講談終了後に講釈師が話してくれた。

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こうしてめでたく正月を迎えるのだが、年の瀬がないのと同様、ジャワには正月の時間の長さもない気がする。翌朝は確かに前日よりも静かで、道路には一晩寝ずに騒いだ人たちのラッパやらゴミやらが静かに散乱している。けれど、正月はそれで終わりなのだ。特別にごちそうを食べることもないし、その日の昼からはもう普通の生活に戻ってしまう。

けれど日本でのお正月は松の内の間中続いている。その間に学校や会社は始まっているにしろ、正月気分というのは何となく残っている。松の内の最後の1月15日の夜に青竹を高さ3mくらいに組んで燃やし、正月飾りをその火で燃やす。それがとんどだ。私の地域(奈良県)ではとんどと呼ぶが、他にどんど焼きとか左義長とも呼ばれる。この時、書き初めも一緒に燃やし、それが空高く上がると書道の腕が上達すると言われている。県下には大勢の観光客が見に来るような有名な由緒あるとんどもあるけれど、どの地域でも田圃や広場で普通にやっている(と思う)。

子供の頃はとんどを心待ちにしていた。誰が始めたのか、とんどの夜にかくれんぼして遊ぶという習慣があったのだ。大体中学に上がる頃までそうやって遊んでいた。親も公認で、この日は夜遅くまで遊んでいても叱られなかった。とんどに点火される夜8時頃、子供たちは懐中電灯持参で集まる。しばらくは火に当たりながら書き初めの上がる高さを競い合ったりしているけれど、そのうちかくれんぼになる。思いがけない所、たとえば葉が落ちて裸になった柿の木の上なんかが、夜には立派な隠れ場所になるのが楽しかったものだ。今になって思えば、これでお正月も終わりという気分が子供の側にも強くあったような気がする。夜のかくれんぼは1年に1度、とんどの夜だけの楽しみであった。過ぎ行く正月の最後の夜だからこそ、あんなに時間を惜しんで遊んだのだろう。

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今では松の内の語も7日までを指し、百貨店は2日から営業している。年末の大掃除やお節料理づくりも大層なことはしなくなっている。それでもお正月をはさんで年の瀬、松の内という時間の移り変わりがあることが、私には嬉しい。正月は時間軸上のデジタルな点として存在するのでなくて、旧い年から徐々に新しい年に脱皮して生まれ変わるその時間の幅に存在していてほしい。
2018.05水牛 「ジャワ舞踊作品のバージョン(6) 『スコルノ』」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年5月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「ジャワ舞踊作品のバージョン(6)『スコルノ』」を寄稿しました。


ジャワ舞踊作品のバージョン(6) 「スコルノ」

2015年8月以来、久々にジャワ舞踊作品を紹介しよう。紹介するのは「スコルノ」で、ロカナンタ社から伴奏曲のカセットが出ている(品番ACD-143)。女性舞踊曲で、特に物語はなく、大人になりかけた女性が美しく身を装う風情を描いている。

「スコルノ」は1960年頃にクスモケソウォにより振り付けられた。彼はスラカルタ宮廷舞踊家にして基礎練習法・ラントヨを考案した人である。私が師事したジョコ女史はクスモケソウォの後を継いでコンセルバトリ(国立芸術高校)でジャワ舞踊を指導した人で、この曲を初演したうちの1人であり、また1979年にロカナンタ社で録音された時にも関わっている。今回の内容は、ジョコ女史から聞いていたことである。「スコルノ」はラントヨの後に最初に学ぶ舞踊曲として振り付けられた。実はジャワ伝統舞踊のレパートリーが増え始めるのは1970年代からで、これは宮廷舞踊の解禁(1969年~)と関係がある。まだ宮廷舞踊が知られていない頃に、ラントヨと併せて宮廷舞踊の基礎的な動きを練習するために作られた曲なのである。他にゴレッという舞踊の要素も採り入れている(後述)ものの、スラカルタ宮廷舞踊のようにバティックの裾を長く引き摺るように着付をする。

次に音楽について。カセット版では伴奏曲は「パンクル」(スレンドロ音階マニュロ調)なのだが、実は元々は「スカル・ガドゥン」(スレンドロ音階マニュロ調)を使っていた。変更はカセット化よりもずっと以前、振付後間もなくのことだという。「パンクル」はガムランをやっている人なら誰もが知っている曲だから、初心者にもなじみがあって踊りやすいという理由で、クスモケソウォ本人が変更したという。さらに、市販カセット版は実は短縮版である。それでも16分21秒もあるが、オリジナル版は22分もある。「スコルノ」の録音監修者はマリディ氏だが、短縮はジョコ女史が手掛けている。なぜ短縮したのかと私が尋ねたところ、カセット会社が要請したとのことだった。ジャワ舞踊曲はだいたい15分以内の長さだが、それはカセット会社がテープの片面(30分)に2曲が収録できるよう、短縮を要請するかららしい。

カセット版の進行に沿って振付の流れを説明する。前奏があって本体の曲に入る…が、踊り手はまだ舞台の端にいて、曲が1周してから舞台に出る。現在ではそんな悠長なことをせず、前奏の最後の音から舞台に出ることが常態化しているが、いきなり踊り出すのは宮廷の美学に反するのである。その後はスリシックという小走りで出ていき、舞台を1周すると、舞台奥から前方に向かって真っすぐ歩いてくる。これは戦いの舞踊(ウィレン)の展開と同じだ。そして床に座ってスンバハン・ララス(一連の合掌に至る振付)をする。そのスンバハン・ララスの前につけられたスメディという型が、カセット版では削られた。これはクスモケソウォ独自の祈りの型で、同じカセットに収録されている別のクスモケソウォ作品「ルトノ・パムディヨ」のオリジナル版にもあるのだが、こちらもカセット版で削られている。クスモケソウォの作品を考える上では重要な振付なのだが、そもそも宮廷舞踊にない振付なので仕方ないかという気もする。床に座るところからテンポは倍の遅さになり、歌が入ってゆったりした流れになる。その後は立ってララスという動きを右、左(右の動きを左右反転したもの)、右と3回やる。ここの動きはラントヨと同じだが、カセット版では1回に減らされている。スンバハン・ララスを経てララスを左右に繰り返すという流れは、宮廷舞踊の定型だ。

ララスの後、太鼓がチブロンに代わり、さらに遅くなってイロモIIIというテンポになる。チブロンは音が高く、いろんな音やリズムパターンが表現できる太鼓である。チブロン太鼓でイロモIIIのテンポで踊る女性舞踊とくれば、スラカルタにはガンビョンがある。しかし、この舞踊は民間起源で性的なニュアンスがあるため、1960年代半ばまでは一般子女は踊らない類の舞踊だった。特にクスモケソウォはガンビョンを認めなかった人だ。大人の女性が踊ることのできる健全で上品な舞踊…ということでゴレッの要素を取り入れたのだと思う。どの辺がゴレッ風なのか。まず、ゴレッの代表的なスカラン(リズムパターン)を使う。ガンビョンのスカランにこそ性的な意味合いが込められているから、これは当然だ。そして、スカラン同士をつなげるつなぎのパターンもガンビョンとは変える。具体的には、マガッと呼ばれるつなぎを使わない。これは私自身が太鼓の先生から指摘されて初めて気づいたことなのだが、マガッにはガンビョンぽさがあると、クスモケソウォは考えていたようである。さらに、イロモIIIからIIへという、ガンビョンにはないテンポの変化がある(ガンビョンではIIIからIに変化する)。なお、イロモIIIの演奏部分は、オリジナルでは4ゴンガン(4周)あるが、カセットでは1周削られて3ゴンガンになっている。こんな風に構成された「スコルノ」はジョグジャカルタのゴレッとはまた別物になっている。

「スコルノ」は元々ラントヨの後で挑戦できるように作られた曲だから、使われるスカランもとても易しく、振りのつなぎも非常にシンプルだ。むしろ、せっかちにはゆっくり過ぎて間がもたないような舞踊である。クスモケソウォの舞踊は、次世代のガリマンやマリディに比べても素朴で、作品としての複雑な魅力や華やかさには欠ける。しかし、ラントヨや「スコルノ」の振付は、ジャワ舞踊の基礎を抽出し教えると言う点で優れた指導者だったと感じさせてくれる。



ラントヨについては、2002年11月に『水牛』に寄稿しています。実はこれが記念すべき寄稿第1作でした。サイトのアーカイブスにはこの頃の文章は掲載されていませんが、私のブログに掲載しています。(↓)
ブログ右列のリンク集
 >『水牛』アーカイブ未収録記事
  >2002年11月号 ラントヨ