2018年06月24日 (日)
島根県松江市の熊野大社で25年間継続されてきた国際民族音楽祭「庭火祭」が終了されると、このたび実行委員会よりご連絡がありました。私は2012年9月に、留学していた大学の舞踊団と共に公演しています。神社や地方自治体、地元企業が一丸となって大規模な公演を毎年継続されてきたこと、あらためて凄いなと感じ入っています。
↓主催者のサイトより
第20回「かがり火とスリンピの夕べ ージャワ宮殿に伝わる四方舞ー」
実行委員会に敬意を表し、その時の公演について私が『水牛』に寄稿したエッセイ「庭火祭 こぼれ書き」をここに再掲しておきます。
高橋悠治氏のサイト『水牛』
> 冨岡三智アーカイブ
> 庭火祭 こぼれ書き
●参考映像
本ブログ リンク: 映像(宮廷舞踊)/ court dance videos
> Srimpi Anglirmendung Niwabisai
●関連記事
本ブログ 記事分類: '12 スリンピ in 庭火祭
庭火祭 こぼれ書き
冨岡三智
9月8日に、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)の一行とともに、島根県松江市は熊野大社の境内で開催された「庭火祭」で公演を行うことができた。というわけで、今回はこの公演についてあれこれ書いてみたい。
実は、芸大を日本に招聘してスリンピ公演をし、自分も一緒に踊るというのは、芸大に初めて留学した時からの私の悲願であった。当時、そんな大言壮語はできなかったが、やっと実現したので、ここに書く。でも、大望(大妄?)を抱いてから実現まで、16年もかかってしまった…。私の役どころは主催者と芸大との間のコーディネート、兼・舞踊家、兼・添乗員といったところ。15人の団体を海外から招聘するには予算は多少厳しかったが、芸大の学長スラメット・スパルノ氏は最初からこの神社での奉納公演という趣旨と文化的背景に共感して、出演を快諾し、自分も行くと言ってくれた。この学長の積極的な姿勢がなかったら、今回の公演は成功しなかったと思う。
スリンピを生演奏で完全な形で上演するというのは、私が最初から考えていたことだ。ジャワのスラカルタ宮廷では、王国の四方には国の安寧を加護してくれる神々がそれぞれに坐すと考えられている。これをキブラッ・パパッとかパジュパッと呼び、瞑想のときにはこれら四方の神々に対して祈る。宮廷舞踊スリンピは、4人の女性の踊り手が四方に対して同じ動きを繰り返し、神社でいう四方舞のコンセプトを体現している。それを日本の人に、とりわけ、この熊野大社に集まる人々に知ってもらいたい。そのためには、現在は通例化してしまっているような短縮版ではなく、振付を完全な形で上演したい、と私は思っていた。中でもこの「アングリル・ムンドゥン」を選んだのは、そのキブラッ・パパッが振付の中でもっともうまく表現されていて、クマナという宮廷舞踊特有の楽器を使っているから。クマナは一部の古い曲にしか使われず、みだりに演奏してはならないとスラカルタ宮廷では言われていたもの。この曲は現存のスリンピの中で最も古く、1790年に作られた曲で、雨を呼ぶと言われている。人智を超えた不可視の存在への畏怖の念が最も伝わってくる曲で、熊野大社にはぜひともこれを完全版(約1時間)で奉納したかった。このスリンピ、雨を呼ぶとされるのだが、前夜の雷雨にも関わらず当日は好天に恵まれた。熊野大社がある所は八雲町というくらいで、雲が多い、つまり雨が多いところらしく、毎年のように多少の雨には見舞われるらしいのだが…。日本に火をもたらしたという熊野大社に坐します神様は、ジャワの舞踊曲の霊力に対抗して、その威力を示したのだろうか…。
それはともかく、ジャワ、特にスラカルタでは、本来の宮廷舞踊は長くて退屈だから、短縮上演するものだという意識が濃厚だ。それは1970年代というモダニゼーションが発展した時代になって、はじめて宮廷舞踊が解禁されたという経緯によるものだ。その先鋒となったのが、宮廷舞踊の解禁を要請したPKJTという国家プロジェクトであり、その路線を継承した芸大である。けれど、第一世代の人たちは、短縮化するために当然宮廷舞踊を長い形で習ったわけで、今回日本に行った教員たちは、学生時代にそれを経験した世代である。
学長のスラメッ・スパルノ氏(専門は歌とルバーブ)によると、大学の卒業試験で当たったのが奇しくもこの「アングリル・ムンドゥン」で、1時間くらいかかる完全版の歌詞を全部暗記させられたのだという。それくらい、当時は厳しい教育だったらしい。またこの公演に選ばれた学生によると、今でも芸大では音楽科の卒業試験の必須科目の1つにブダヤン(宮廷舞踊スリンピやブドヨの歌)があるとのこと。もちろんいまでは卒業試験では短くしか上演しないが、そういうわけで今回の公演に参加できたことは非常に勉強になったと言ってくれた。
ところで、ガムラン楽器は拝殿前に壇を組んで置いたのだが、大ゴングが大しめ縄の真下にくるように設置したのは主催者のこだわり。また、踊り手は神楽の舞殿でしばらく瞑想し、天女のごとく石畳(舞のスペース)の方に降りていってほしいという依頼も主催者からある。踊り手としてもこの舞殿に上がることができたのは感激だった。当日は庭火祭の神事として、宮司の祝詞と舞殿での4人の少女による神楽と笛があって、そのあとスリンピが始まった。打ち合わせでは、神楽のあと舞殿の下にスタンバイということだったが、先頭の踊り手の人が舞殿まで上がってしまった。けれど、結果として私たち踊り手は舞殿の中で笛の音を聞くことになり、気持ちを統一することができた。プンドポもそうなのだが、こういう舞の空間は音で満たされてこそ、より空間として生きる、という気がする。
公演の前半がスリンピで、後半はタユバン、つまり前半で供物(サジェン)としての舞いを見せ、後半で神人交歓の踊りをする、というのが本公演の流れ。タユバンは踊り手が歌いながら観客を誘って踊るという、庶民のお祭りの踊りである。この流れは、宮廷が公演したのでは不可能で、芸大だからこそできることである。タユバンでは、一番に学長に踊ってもらう、というのが私のリクエスト。学長はなかなかのタユバンの踊り手だという情報を得ていたから、ここはぜひとも踊ってもらわねばと思った次第。道中で聞いたのだが、学長は若いときは歌いながら踊るタイプの踊り手だったそうで、芸大に入ってから音楽を専門にするようになったらしい。その理由は、演奏家のほうが年取ってもできるから…だそうだ。確かに。本当はタユバンでは女性の踊り手が男性を誘うのだが、ここでは逆に男性が女性の踊り手を誘うという形にした。スリンピの踊り手たちには着替える時間がいるので、時間をつないでもらう意図もある。
スリンピとタユバンの間に、グンディン・ボナン(器楽曲)と神楽歌とクマナおよびジャワの歌のコラボレーション。グンディン・ボナンも本当は儀礼の開始の前に(前夜に)演奏するものだが、ここはスリンピを優先。また神楽歌というのは、熊野大社の鎮火祭で国造が舞うという百番の舞で使われる音楽で、現在の琴の原型となった琴板という楽器を打ち鳴らしながら歌うもの。琴板というのは初めて見た。演奏は熊野大社の伶人の方々。神楽歌の「アアアア、ウンウン」という発声を聞いていると、クマナの音同様、単調なだけにかえってその音自体の威力を感じる。
〜〜〜
庭火祭は単なる公演イベントではない。出演団体には市内2か所の小学校で鑑賞会をすることが条件である。出演者は市内の農業研修者が宿泊する施設に泊まり込み(4人1部屋)、ボランティアの人たちも一緒に泊まり込んで作ってくれた食事を食べる。だから、教育的な使命感があって、コミュニティとして関われる団体というのが条件なのだ。芸大に公演を依頼したのは、スリンピ完全版にタユバンも上演できて、さらに、こういう条件に適っていたからでもある。
公演の翌日は、実行委員会の人たちの案内で出雲大社など松江市内を観光。熊野大社のあたりからだと車で1時間あまりかかり、意外に遠いと実感。出雲大社は現在60年に一度の遷宮工事の真っ最中だったが、ちょうど結婚式を終えて記念撮影しているカップルがいたり、ご祈祷をしている人があってその様子が見れたりと、生きている神社の姿が見れて良かったかなと思う。
帰りは夜中にバスで出て車中泊というスケジュールで、出雲から帰ったあと、旅館の休憩室のようなところで休憩させてもらう。ボランティアの人たちがここにも最後に挨拶に顔を出してくれて、大感激。島根ではガムラン楽器の所有者である瀬古先生から一行に、琴のお土産がある。さっそく、1人の先生が琴をシトゥルのようにして縦に置いて弾きはじめ、皆が歌を入れたりして、なんだか宴会みたいになる。日本の楽器とは思えないジャワっぽい音色が出る。この先生は昔アメリカに留学したときに、授業で琴を習ったことがあるらしいが、それ以来全然やっていないので、すっかり忘れたとかいいながら、さすがに器用に弾きこなす。夜中の11時にここを出発。こんな夜中にスタッフの方々に見送られて出発できるなんて、なんてありがたい。今回は結局他の場所での公演がなかったこともあり、一行は庭火祭のためだけに来日したのだが、ゆっくり松江の人々と交流でき、町を見れたことは何よりの財産になったなあと思う。
↓主催者のサイトより
第20回「かがり火とスリンピの夕べ ージャワ宮殿に伝わる四方舞ー」
実行委員会に敬意を表し、その時の公演について私が『水牛』に寄稿したエッセイ「庭火祭 こぼれ書き」をここに再掲しておきます。
高橋悠治氏のサイト『水牛』
> 冨岡三智アーカイブ
> 庭火祭 こぼれ書き
●参考映像
本ブログ リンク: 映像(宮廷舞踊)/ court dance videos
> Srimpi Anglirmendung Niwabisai
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本ブログ 記事分類: '12 スリンピ in 庭火祭
庭火祭 こぼれ書き
冨岡三智
9月8日に、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)の一行とともに、島根県松江市は熊野大社の境内で開催された「庭火祭」で公演を行うことができた。というわけで、今回はこの公演についてあれこれ書いてみたい。
実は、芸大を日本に招聘してスリンピ公演をし、自分も一緒に踊るというのは、芸大に初めて留学した時からの私の悲願であった。当時、そんな大言壮語はできなかったが、やっと実現したので、ここに書く。でも、大望(大妄?)を抱いてから実現まで、16年もかかってしまった…。私の役どころは主催者と芸大との間のコーディネート、兼・舞踊家、兼・添乗員といったところ。15人の団体を海外から招聘するには予算は多少厳しかったが、芸大の学長スラメット・スパルノ氏は最初からこの神社での奉納公演という趣旨と文化的背景に共感して、出演を快諾し、自分も行くと言ってくれた。この学長の積極的な姿勢がなかったら、今回の公演は成功しなかったと思う。
スリンピを生演奏で完全な形で上演するというのは、私が最初から考えていたことだ。ジャワのスラカルタ宮廷では、王国の四方には国の安寧を加護してくれる神々がそれぞれに坐すと考えられている。これをキブラッ・パパッとかパジュパッと呼び、瞑想のときにはこれら四方の神々に対して祈る。宮廷舞踊スリンピは、4人の女性の踊り手が四方に対して同じ動きを繰り返し、神社でいう四方舞のコンセプトを体現している。それを日本の人に、とりわけ、この熊野大社に集まる人々に知ってもらいたい。そのためには、現在は通例化してしまっているような短縮版ではなく、振付を完全な形で上演したい、と私は思っていた。中でもこの「アングリル・ムンドゥン」を選んだのは、そのキブラッ・パパッが振付の中でもっともうまく表現されていて、クマナという宮廷舞踊特有の楽器を使っているから。クマナは一部の古い曲にしか使われず、みだりに演奏してはならないとスラカルタ宮廷では言われていたもの。この曲は現存のスリンピの中で最も古く、1790年に作られた曲で、雨を呼ぶと言われている。人智を超えた不可視の存在への畏怖の念が最も伝わってくる曲で、熊野大社にはぜひともこれを完全版(約1時間)で奉納したかった。このスリンピ、雨を呼ぶとされるのだが、前夜の雷雨にも関わらず当日は好天に恵まれた。熊野大社がある所は八雲町というくらいで、雲が多い、つまり雨が多いところらしく、毎年のように多少の雨には見舞われるらしいのだが…。日本に火をもたらしたという熊野大社に坐します神様は、ジャワの舞踊曲の霊力に対抗して、その威力を示したのだろうか…。
それはともかく、ジャワ、特にスラカルタでは、本来の宮廷舞踊は長くて退屈だから、短縮上演するものだという意識が濃厚だ。それは1970年代というモダニゼーションが発展した時代になって、はじめて宮廷舞踊が解禁されたという経緯によるものだ。その先鋒となったのが、宮廷舞踊の解禁を要請したPKJTという国家プロジェクトであり、その路線を継承した芸大である。けれど、第一世代の人たちは、短縮化するために当然宮廷舞踊を長い形で習ったわけで、今回日本に行った教員たちは、学生時代にそれを経験した世代である。
学長のスラメッ・スパルノ氏(専門は歌とルバーブ)によると、大学の卒業試験で当たったのが奇しくもこの「アングリル・ムンドゥン」で、1時間くらいかかる完全版の歌詞を全部暗記させられたのだという。それくらい、当時は厳しい教育だったらしい。またこの公演に選ばれた学生によると、今でも芸大では音楽科の卒業試験の必須科目の1つにブダヤン(宮廷舞踊スリンピやブドヨの歌)があるとのこと。もちろんいまでは卒業試験では短くしか上演しないが、そういうわけで今回の公演に参加できたことは非常に勉強になったと言ってくれた。
ところで、ガムラン楽器は拝殿前に壇を組んで置いたのだが、大ゴングが大しめ縄の真下にくるように設置したのは主催者のこだわり。また、踊り手は神楽の舞殿でしばらく瞑想し、天女のごとく石畳(舞のスペース)の方に降りていってほしいという依頼も主催者からある。踊り手としてもこの舞殿に上がることができたのは感激だった。当日は庭火祭の神事として、宮司の祝詞と舞殿での4人の少女による神楽と笛があって、そのあとスリンピが始まった。打ち合わせでは、神楽のあと舞殿の下にスタンバイということだったが、先頭の踊り手の人が舞殿まで上がってしまった。けれど、結果として私たち踊り手は舞殿の中で笛の音を聞くことになり、気持ちを統一することができた。プンドポもそうなのだが、こういう舞の空間は音で満たされてこそ、より空間として生きる、という気がする。
公演の前半がスリンピで、後半はタユバン、つまり前半で供物(サジェン)としての舞いを見せ、後半で神人交歓の踊りをする、というのが本公演の流れ。タユバンは踊り手が歌いながら観客を誘って踊るという、庶民のお祭りの踊りである。この流れは、宮廷が公演したのでは不可能で、芸大だからこそできることである。タユバンでは、一番に学長に踊ってもらう、というのが私のリクエスト。学長はなかなかのタユバンの踊り手だという情報を得ていたから、ここはぜひとも踊ってもらわねばと思った次第。道中で聞いたのだが、学長は若いときは歌いながら踊るタイプの踊り手だったそうで、芸大に入ってから音楽を専門にするようになったらしい。その理由は、演奏家のほうが年取ってもできるから…だそうだ。確かに。本当はタユバンでは女性の踊り手が男性を誘うのだが、ここでは逆に男性が女性の踊り手を誘うという形にした。スリンピの踊り手たちには着替える時間がいるので、時間をつないでもらう意図もある。
スリンピとタユバンの間に、グンディン・ボナン(器楽曲)と神楽歌とクマナおよびジャワの歌のコラボレーション。グンディン・ボナンも本当は儀礼の開始の前に(前夜に)演奏するものだが、ここはスリンピを優先。また神楽歌というのは、熊野大社の鎮火祭で国造が舞うという百番の舞で使われる音楽で、現在の琴の原型となった琴板という楽器を打ち鳴らしながら歌うもの。琴板というのは初めて見た。演奏は熊野大社の伶人の方々。神楽歌の「アアアア、ウンウン」という発声を聞いていると、クマナの音同様、単調なだけにかえってその音自体の威力を感じる。
〜〜〜
庭火祭は単なる公演イベントではない。出演団体には市内2か所の小学校で鑑賞会をすることが条件である。出演者は市内の農業研修者が宿泊する施設に泊まり込み(4人1部屋)、ボランティアの人たちも一緒に泊まり込んで作ってくれた食事を食べる。だから、教育的な使命感があって、コミュニティとして関われる団体というのが条件なのだ。芸大に公演を依頼したのは、スリンピ完全版にタユバンも上演できて、さらに、こういう条件に適っていたからでもある。
公演の翌日は、実行委員会の人たちの案内で出雲大社など松江市内を観光。熊野大社のあたりからだと車で1時間あまりかかり、意外に遠いと実感。出雲大社は現在60年に一度の遷宮工事の真っ最中だったが、ちょうど結婚式を終えて記念撮影しているカップルがいたり、ご祈祷をしている人があってその様子が見れたりと、生きている神社の姿が見れて良かったかなと思う。
帰りは夜中にバスで出て車中泊というスケジュールで、出雲から帰ったあと、旅館の休憩室のようなところで休憩させてもらう。ボランティアの人たちがここにも最後に挨拶に顔を出してくれて、大感激。島根ではガムラン楽器の所有者である瀬古先生から一行に、琴のお土産がある。さっそく、1人の先生が琴をシトゥルのようにして縦に置いて弾きはじめ、皆が歌を入れたりして、なんだか宴会みたいになる。日本の楽器とは思えないジャワっぽい音色が出る。この先生は昔アメリカに留学したときに、授業で琴を習ったことがあるらしいが、それ以来全然やっていないので、すっかり忘れたとかいいながら、さすがに器用に弾きこなす。夜中の11時にここを出発。こんな夜中にスタッフの方々に見送られて出発できるなんて、なんてありがたい。今回は結局他の場所での公演がなかったこともあり、一行は庭火祭のためだけに来日したのだが、ゆっくり松江の人々と交流でき、町を見れたことは何よりの財産になったなあと思う。
2018年06月06日 (水)
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。
水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。
2006年3月号『水牛』寄稿
「ここ10年のインドネシアと日本(2)電話」
冨岡三智
1度目の留学から1年半をおいて同じ町に留学してみたら、電話事情も大幅に変わってしまっていた。携帯電話やインターネットが普及し始めていただけでなく、従来のワルテル(ミニ電話局)より小規模の公衆電話があちこちに出来ていたのだ。電話回線の整備が遅れており、電話がない家もまだある割には、通信事情は格段に良くなった。というわけで今回は、私の生活圏での電話事情がどう変わったのかについて書いてみよう。
・家庭の電話
私は2度の留学とも市役所の裏に、電話のある1軒家を借りた。電話付というのが私の譲れない条件だったのだが、しかしこれは結構大変だった。町の中心部でも電話がない物件がいっぱいあるのである。全部で合計20軒くらいの貸し家(どれも街中)を見て廻ったけれど、電話のある家は私が借りた家以外になかったように思う。
電話回線の整備が追いついていないとは言っても、電話が確実に増えているのは確かだ。1度目の留学の間――1996年から1997年頃――に電話番号の桁数が1つ増えて6桁になった。スラカルタ市内の電話番号は冒頭に6が、郊外では8がついた。当時電話局に貼ってあったポスターによると、この電話回線の普及にも各国の援助が入っていて、ブロック毎にそれぞれの国の管轄があった。確かジャワ島ブロックは日本(NTT)の管轄だったように思う。
・ワルテル
ワルテルというのはミニ電話局のことで、1980年代後半からインドネシア全土に広まったという。中央電話局同様に、そこにある電話ブース(3台くらいある)から電話をかけたり、ファックスを送受信したりしてもらえる。しかし電話料金の支払いはできない。電話機に料金が表示され、その代金を窓口で支払うというシステムだから、おつりももらえてコイン式やカード式の公衆電話よりずっと便利だ。
私が初めてインドネシアのソロに行った1989年3月、日本に電話をかけたいと言うと中央電話局に連れて行かれた。この時点では、1992年以降よく利用することになるワルテルはまだなかったように記憶する。で、中央電話局ではと言うと、まずオペレーターに電話をかけてもらい、「○○さん、△番のブースへどうぞ~」と呼ばれて初めて電話口に出ることができる、というシステムだった。国際電話だけがこうだったのではなく、国内電話でも同様である。それが1992年2月にはすでに、パサール・ポンにワルテルが登場し、自分でダイアルして電話をかけられるようになっていた。インドネシア全土にワルテルが広まったのは、きっと「自分でダイアル式」になってからのことに違いない。
現在ではそういう老舗ワルテルだけでなく、店や下宿などの一角にブースを作って電話機1台を置いているだけ、というタイプがそこここにある。これらが広まったのは、1998年の暴動の時にコイン/カード式公衆電話が多く焼かれたからだ、と聞いた。こういうワルテルの料金は老舗ワルテルに比べて高く、かつ値段にばらつきがある。(端数は決まって切り上げられる。)また職員についても、老舗ワルテルの場合はたぶん電話局の職員だ(まだ聞いてないけれど、ワルテル間で異動があるという話は聞いたことがある)。しかし新しいワルテルの職員(お金を取る人)は、明らかにその店や下宿のオーナーである。
ちなみに、こういう新しいワルテルの電話機はモジュール・ジャック仕様になっているから、嫌がられること請け合いだが、インターネットにつなぐことができる。老舗ワルテルの電話機はしっかりした箱型で、回線も太くて抜けない。
・携帯電話
これも暴動後に急速に普及した。最初の留学(~1998年5月)では、私の知る芸大の先生たちはまだ携帯電話を持っていなかった。それが2000年2月に戻ってきたらぼつぼつ携帯電話を持つ先生がおり、その後の3年の内に、ほぼ皆が持っているくらいに普及してしまった。この頃は、「○○先生はあの研究プロジェクト予算(教育省からおりる)で携帯電話を買った」というような話を、学生達から時々耳にした。研究経費を浮かせてその分を携帯電話にまわしていたらしい。
そして今では芸大学生や留学生の多くも携帯電話を持っている。暇があるとSMS(メール通信のようなもの、ただしインターネット経由ではない)を打っている光景も日本と変わらない。このジャム・カレット(ゴムのように伸び縮みする時間の意)のお国では、相手が約束を忘れているのか、遅刻しているだけなのかわからないまま悶々・イライラと人を待つことが昔はよくあったけれど、そんな文化ももうなくなるだろうという気がする。
水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。
2006年3月号『水牛』寄稿
「ここ10年のインドネシアと日本(2)電話」
冨岡三智
1度目の留学から1年半をおいて同じ町に留学してみたら、電話事情も大幅に変わってしまっていた。携帯電話やインターネットが普及し始めていただけでなく、従来のワルテル(ミニ電話局)より小規模の公衆電話があちこちに出来ていたのだ。電話回線の整備が遅れており、電話がない家もまだある割には、通信事情は格段に良くなった。というわけで今回は、私の生活圏での電話事情がどう変わったのかについて書いてみよう。
・家庭の電話
私は2度の留学とも市役所の裏に、電話のある1軒家を借りた。電話付というのが私の譲れない条件だったのだが、しかしこれは結構大変だった。町の中心部でも電話がない物件がいっぱいあるのである。全部で合計20軒くらいの貸し家(どれも街中)を見て廻ったけれど、電話のある家は私が借りた家以外になかったように思う。
電話回線の整備が追いついていないとは言っても、電話が確実に増えているのは確かだ。1度目の留学の間――1996年から1997年頃――に電話番号の桁数が1つ増えて6桁になった。スラカルタ市内の電話番号は冒頭に6が、郊外では8がついた。当時電話局に貼ってあったポスターによると、この電話回線の普及にも各国の援助が入っていて、ブロック毎にそれぞれの国の管轄があった。確かジャワ島ブロックは日本(NTT)の管轄だったように思う。
・ワルテル
ワルテルというのはミニ電話局のことで、1980年代後半からインドネシア全土に広まったという。中央電話局同様に、そこにある電話ブース(3台くらいある)から電話をかけたり、ファックスを送受信したりしてもらえる。しかし電話料金の支払いはできない。電話機に料金が表示され、その代金を窓口で支払うというシステムだから、おつりももらえてコイン式やカード式の公衆電話よりずっと便利だ。
私が初めてインドネシアのソロに行った1989年3月、日本に電話をかけたいと言うと中央電話局に連れて行かれた。この時点では、1992年以降よく利用することになるワルテルはまだなかったように記憶する。で、中央電話局ではと言うと、まずオペレーターに電話をかけてもらい、「○○さん、△番のブースへどうぞ~」と呼ばれて初めて電話口に出ることができる、というシステムだった。国際電話だけがこうだったのではなく、国内電話でも同様である。それが1992年2月にはすでに、パサール・ポンにワルテルが登場し、自分でダイアルして電話をかけられるようになっていた。インドネシア全土にワルテルが広まったのは、きっと「自分でダイアル式」になってからのことに違いない。
現在ではそういう老舗ワルテルだけでなく、店や下宿などの一角にブースを作って電話機1台を置いているだけ、というタイプがそこここにある。これらが広まったのは、1998年の暴動の時にコイン/カード式公衆電話が多く焼かれたからだ、と聞いた。こういうワルテルの料金は老舗ワルテルに比べて高く、かつ値段にばらつきがある。(端数は決まって切り上げられる。)また職員についても、老舗ワルテルの場合はたぶん電話局の職員だ(まだ聞いてないけれど、ワルテル間で異動があるという話は聞いたことがある)。しかし新しいワルテルの職員(お金を取る人)は、明らかにその店や下宿のオーナーである。
ちなみに、こういう新しいワルテルの電話機はモジュール・ジャック仕様になっているから、嫌がられること請け合いだが、インターネットにつなぐことができる。老舗ワルテルの電話機はしっかりした箱型で、回線も太くて抜けない。
・携帯電話
これも暴動後に急速に普及した。最初の留学(~1998年5月)では、私の知る芸大の先生たちはまだ携帯電話を持っていなかった。それが2000年2月に戻ってきたらぼつぼつ携帯電話を持つ先生がおり、その後の3年の内に、ほぼ皆が持っているくらいに普及してしまった。この頃は、「○○先生はあの研究プロジェクト予算(教育省からおりる)で携帯電話を買った」というような話を、学生達から時々耳にした。研究経費を浮かせてその分を携帯電話にまわしていたらしい。
そして今では芸大学生や留学生の多くも携帯電話を持っている。暇があるとSMS(メール通信のようなもの、ただしインターネット経由ではない)を打っている光景も日本と変わらない。このジャム・カレット(ゴムのように伸び縮みする時間の意)のお国では、相手が約束を忘れているのか、遅刻しているだけなのかわからないまま悶々・イライラと人を待つことが昔はよくあったけれど、そんな文化ももうなくなるだろうという気がする。
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