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2006.11水牛「動きを揃えること」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年11月号『水牛』寄稿
動きを揃えること

複数の人が一緒に踊るとき、たぶん私たちのほとんどは全員の動きが揃っている点をとても評価する。バレエやミュージカル、ラインダンスなどで、大勢の踊り手が一糸乱れずに踊っているさまを見るのは壮観だし、そこに美しさを感じる。けれど、揃っているのが美しいというのはある1つの価値観であって、絶対的なものではない。

バレエやミュージカルやラインダンスなどには、振付家という全体を統括する人がいる。画家が一点透視法を用いて画面に絵を描いていくように、振付家は、自分の目という一点を基準にして、大勢の踊り手を額縁舞台の中にデザインしてゆく。踊り手の動きは1つに揃えられ、個々の面貌が消されて、最後には1つの線として配置される。そうしたときに初めて別の美しさが見えてくる。それが全員が揃っている美しさ、なのだ。

そういう視線が1970年代にジャワ・スラカルタの伝統舞踊界にも持ち込まれた。アカデミー(ASKI、現在の国立芸大)の学長で、かつ中部ジャワ芸術発展プロジェクト(PKJT、1969~1981)の長も兼任していたゲンドン・フマルダニという人が、西洋芸術の概念を持ち込んで伝統舞踊改革を推し進めた。それは一言で言えば伝統舞踊の舞台芸術化で、その中でもPKJTの一番の特徴が、複数の人で踊る演目(特に女性舞踊)で全員の動きを一糸乱れぬように揃えたことなのだ。当時それは驚異的で新鮮で、一般の人たち、特に若い層の心をとらえたのだが、その一方で、舞踊関係者からはロボットみたいだという批判も受けていた。

この「揃っている動き」の発見は、当然ながら「群舞」という概念の発見と表裏一体の関係にある。フマルダニは1960~62年に欧米に留学してモダン・ダンスやバレエも学んでいる。そしてイギリスではバレエを見た感想を書き残しているのだが、そこには、空間におけるバレエの線のすばらしさと、ジャワ舞踊ではたとえ複数の人が一緒に踊っていても、それは単独で踊っている人が集まっているだけなのだ、という気づきが書かれている。この舞踊の線というのは明らかにコール・ド・バレエの人たちの軌跡を指していて、フマルダニ自身も群舞という概念を言い表すのにコール・ド・バレエという語をよく使っている。

しかし、フマルダニがコール・ド・バレエの概念をジャワ宮廷舞踊の演目(特に儀礼性の高い女性舞踊)にまで当てはめたのは間違いだった、と私は思う。確かに元来のジャワ宮廷舞踊には単独舞踊の演目はなく、複数(4人とか9人)で踊るものばかりだ。それに皆同じ衣装を着て、同じ振付を踊る。しかし、だからと言って、彼女らは群舞(コール・ド・バレエ)だと言えるのだろうか?たとえば、やはり宮廷の式学である舞楽も皆同じ衣装を着て同じ振付を踊るけれど(4人で踊るものなんかは、宮廷舞踊のスリンピととても似ている)、あれを私たちは誰も、コール・ド・バレエみたいなものだとは思わないだろう。ジャワ宮廷舞踊や舞楽の踊り手は、コール・ド・バレエのように、他の何か(主役)を引き立てるために背景化された存在ではない。舞台には彼らしかおらず、彼ら自身が「世界」、あるいは「宇宙」を代表している。舞楽の方は知らないけれど、ジャワの女性宮廷舞踊の踊り手には、各ポジションに「頭」、「首」、「胸」などという名前がついていて、つまりはそれぞれに意味がある存在なのだ。

一糸乱れぬ動きを、フマルダニは踊り手たちに毎日長時間の練習を課すことで、可能にした。全員の動きを経過点ごとに揃えて、手で布を払ったり、引きずっている裾を足で蹴り払うタイミングまで揃えていった。だから当時の踊り手=今の芸大の先生たち、とくに女性の先生たちは、全員の動きをいかに揃えられるかという点に練習の意義や達成度を見出す。女性舞踊にそれが顕著なのは女性舞踊の方が一緒に踊る人数が多いのと、それからやはり公演機会が多かったからだと思う。

私はかつて芸大の先生たちと一緒に公演したことがあって、来月もそのメンバーと一緒に公演することになっているのだが、この全員で揃えようという志向の強さには参ってしまう。今度の公演は私がスポンサーなので、とにかく、全員の動きは揃える必要がない、昔の宮廷舞踊のように個々の舞踊を踊ってください、と強く要望している。それでも先生たちは、「1人だけ動きが違ったら、間違えたと思われて嫌だ」と言う。他の人と揃わないということを、なんだかとても恐れるのだ。私としても、「むしろ古い上演の仕方として、あえて全員の動きを揃えてしまわないようにした」ということを、司会の方から言ってもらわないといけないなと思っている。

ジャワの音楽や舞踊にはウィレタンwiletanという語があって、個々の演奏家や踊り手の間で微妙に異なる個人様式のことを言う。過去の有名な踊り手は皆それぞれ独自のウィレタンを持っている。そういう単語があるということからも分かるように、各人でウィレタンが違うのはむしろ当たり前なのだが、先生たちのウィレタンに対する態度はこうだ。Aという公演ではaというウィレタンでいきましょう、とか、振付のこの部分はaというウィレタンだけど、あの部分ではbにしましょう、とかいう具合に、いろんなウィレタンをメニュー化しておいて、その中から1つ選んで揃えるのである。確かに芸大という所にはいろんな調査レポートがあるので、先生たちはいろんなウィレタンを知っている。私はウィレタンというのは踊り手の人格と一致した時におのずとにじみ出てくるもの、あるいは個々の踊り手がアイデンティティをかけて追求するものだと思うのだが、先生たちは、いろんなウィレタンをとっかえひっかえ使い分られることにプライドがあるみたいで、自分の個性にあったウィレタンを追求しようという姿勢があんまり見られない。(本当は、そういう意識がない、とまで言ってしまいたいぐらいだ。)そしてそれはたぶん、全体で揃えましょうという志向の高さと裏表の関係にある。

こういう具合だから、4人で踊るスリンピで、私と3人の芸大の先生が踊ると、当然私だけが揃っていないということになる。このことは以前の公演でも観客から指摘されてきたのだが、しかし上手下手は別として、私の舞踊の方がよりクラシックに見えるとも、何人もの人に評された。皆で揃えようという意識が私にはないのだが、それはつまり観客に見せようという意識が乏しいのだ。そういう観客へのサービス精神がないという点が、とてもクラシックな舞踊と映るらしい。来月(26日)の公演がどうなるか分からないが、また来月か再来月にその結果を書いてみたいと思う。
2006.10水牛「ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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今回掲載するのは2006年10月号の記事(9月号には寄稿せず):「ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て」です。実は、この記事に関してはサイト『水牛』のアーカイブにも掲載されています。
➡ ガリン・ヌグロホの映画『オペラ・ジャワ』を見て
それはともかく、私は2006年9月にインドネシアでこの映画を見て感想を書いたわけですが、タイミングよく、来年2月に東京で上演されるようです。

『オペラジャワ』上演
日時: 2月2日(土)14:00~120分
会場: アテネ・フランセ文化センター

     千代田区神田駿河台2-11 アテネ・フランセ4階
東京国際映画祭CROSSCUT ASIA提携企画映画上映会 ラララ♫東南アジア

exblogガドガド12月24日記事でも関連記事がいろいろ紹介されています。
インドネシアの映画:『オペラジャワ』Opera Jawa(監督:ガリン・ヌグロホ)@ CROSSCUT ASIA」:「ラララ♩ 東南アジア」後編 来年1月末





2006年10月号『水牛』寄稿
ガリン・ヌグロホの映画「オペラ・ジャワ」を見て

突然だが、この8月5日から1年の予定でインドネシアのソロ(正称スラカルタ)市にジャワ舞踊の調査で来ている。9月はじめに電話付の家を見つけて入居し、やっと自分のパソコンから直接原稿が送れるようになった。先々月に「舞踊の謝礼~1」という文を書いて、その続きはインドネシアに来てから書こうと思っていたら、すっかり気分が変わってしまった。それでその続きはいつかまたということにして(このフレーズ、しばしば使っている気がする)、今月はガリン・ヌグロホ監督の新作映画「オペラ・ジャワ」評を書いてみたい。



ガリン・ヌグロホは1961年ジョグジャカルタ生まれ。インドネシアを代表する若手映画監督で、日本でもその作品はよく上映されている。私が同監督の映画を見るのは「そして月も踊る」(1991)、「枕の上の葉」(1998)とその元になったドキュメンタリー「カンチルと呼ばれた少年」に続いて4作目になる。「オペラ・ジャワ」はベネチア、トロント、ウィーンの各映画祭に出品されている。

ちなみに私が「オペラ・ジャワ」を見たのは2006年9月1日、「ソロ・グランド・モール」内にある「グランド21」という映画館においてだった。ソロでは9月1日~7日までワヤンをテーマにした「ブンガワン・ソロ・フェスティバル2006」が開催されていて、ワヤン(影絵)、ワヤン・オラン(舞踊劇)からワヤンに題材をとる現代作品までいろんなものが上演されていた。このフェスティバルのオープニングを飾るのが「オペラ・ジャワ」で、上映に先立ってガリン・ヌグロホの挨拶もあった。

それではまず映画の内容について、少し長くなるが、招待状に書いてあったシノプシスを翻訳して引用する。

「これはガムラン・ミュージカル映画で、ガムラン音楽や舞踊の名手、インスタレーション作家に支えられている。このコラボレーション作品は真実を求めての争いについて語っているが、真実とは、多くの血を流した果てに打ち立てられるものなのだ。この物語は、小さい村に住むシティとスティヨという夫婦の物語である。彼らは壷を焼いて売っている。ところがその村では、ビジネスはルディロという金持ちの男が握っていて、いつもひどいことをする。シティとスティヨとルディロはかつてワヤン・オラン(舞踊劇)ラーマーヤナの踊り手で、スティヨはラーマ、シティはシンタ、そしてルディロはラウォノを演じていた。スティヨとシティの生活は倒産で先行き不透明となり、そこにかねてよりシティを愛していたルディロが彼女に取り入ろうとする。一方スティヨは、シティの内面の変化に気づいて、自分の経済力のなさや無気力さを感じている。3人の元踊り手は、三角関係に陥っているとは感じていない。ちょうど、ワヤン・オラン・ラーマーヤナの中の「シンタ焼身」の葛藤の場面のように。ルディロはあの手この手で、時には暴力的にシティを奪おうとし、無力なスティヨは、シティを閉じ込めようと極端な行動に出る。シティは動揺の中で自分の本心を見出そうとする。この3人の葛藤で残されたものがまさに今日の我々の光景であり、ラジオやテレビで見聞きすることだ。つまり多くの対立は暴力に満ち、困難を打開する方法は残虐性に満ちていて、最後は悲劇に終わる。スティヨはついに妻を追いかけて殺し、その心臓を取り出して、妻の心の声が本物かどうか確かめる。この映画はガムラン音楽、歌、舞踊、衣装、演技、ビジュアルとインスタレーションによるレクイエムであり、ジャワ文化というマルチカルチャーな表現の中で生まれた。虐殺への悲しみのレクイエム。その虐殺は、大地の果てでの極端な対立、不安に満ちた社会の対立から生まれた。これは、さまざまの悲しみ、災害の、対立の、恐怖の、そして血塗られた大地への悲しみのためのレクイエム。」

次に配役について。シティ役のアルティカ・サリ・デウィは2004年のミス・インドネシアで、彼女だけは舞踊と全然関係がない。スティヨ役がミロト、ルディロ役がエコ・スプリヤントで、この3人のセリフ=歌の部分はみな吹替である。他にイ・ニョマン・スロ(彼はバリ人)やレトノ・マルティ、そしてそれ以外にも多くの有名なソロの舞踊家やグループが出演している。音楽はラハユ・スパンガ。セリフ=歌は全部ジャワ語でインドネシア語の字幕がついていた。



私自身はこの映画に出演する舞踊家・音楽家の多くを知っていて、その作品も見ている。その目で見ると、この映画には彼らの個性や存在感、舞踊振付が十分盛り込まれていて魅力的だ。しかし、映画としてみると、登場人物、特に主演の3人の人物の掘り下げ方が弱い。そしてそれは出演者の演技力に問題があるというよりは、人物を行動に駆り立てる「必然的な物語」を監督が構築していないからだと私には思える。

まず、ラーマーヤナ物語をベースにする必然性が私には感じられない。①ラーマーヤナと、②シティとスティヨとルディロという3人の男女の物語では、人物の置かれている状況がかなり違っていて、相似していない。私たちがある古典の物語を下敷きにドラマを描こうとすれば、古典の中でドラマを生み出していた根本的な原因=外的状況を現代に再現しようとするだろう。なぜなら、人間の内面心理は(もちろん個人差があるにしろ)その外的状況から必然的に生みだされてくる部分があり、そこにドラマが成立するからだ。「元ラーマーヤナの踊り手だった」という設定だけでラーマーヤナの世界を借りてくるのは、少し皮相的な気がする。

3人の心理描写も中途半端なのは、これも外的な状況がきちんと描けていないからだろう。3人の心がそれぞれに揺れていることは感じられるが、その心の揺れの直接の原因がはっきりしない。だからドラマも進展してゆかないのである。いつの間にスティヨは妻を殺害しようとまで思いつめていたのか、シティはルディロやスティヨに対してどういう感情を抱いていたのか…。そういう点を監督自身が煮詰めていないように見える。したがってこれが悲劇だという主張ができていないのだ。

さらに、この②の物語を③現在の社会に満ちている悲劇・暴力というテーマにつなげるには無理がある。映画の最後に、ラブハン(ジャワ王家が毎年、南海に棲む王国の守護神に供物を捧げる儀式)をアレンジしたシーンがある。全人類の悲劇というテーマは、そのシーンの存在によって暗示されているだけで、②の物語から帰納的に導き出されたものではない。それだけではない。彼はシノプシスの中で悲しみの中に災害の悲しみにも言及しているが、これは人間関係の葛藤の中で起きた虐殺とは同レベルで扱うべきことではないはずだ。おそらく彼は自分の出身地であるジョグジャカルタ近郊で起きた地震の惨状が念頭にあり、レクイエムということで一緒くたにしてしまったのだろう。

このように、この映画では、①の物語、②の物語、③のテーマというのはオーバーラップもせず、深化もしない。ただ①の人物設定を借りて別の物語=②が展開し、そこに③のテーマが新たにくっつけられていった…だけなのだ。物語の力によって普遍的なテーマが迫り出されてくるわけではなく、イメージによって話が飛躍していくのである。もちろん①の物語の枠を借りて別の物語を展開しても良いし、論理的な展開よりもイメージ表現を重視しても良いが、もし彼がこの映画を通して普遍的な③のテーマを語りたいなら、それが①や②のドラマの展開を経て必然的に生まれてくるように構成するべきだろうと思う。

こんな批判的なことを書くと、ヌグロホ監督のファンには怨まれるかもしれない。ただ彼を少し弁護しておくと、このような話の展開の仕方はジャワ人にはありがちだ。ジャワでは個別の事例から論理的に普遍的な真理が導き出されるのではなく、その論理のプロセスがすっ飛んで、なんでも象徴・シンボルの話になってしまうことが多い。だから上のような私の意見は、私が話したジャワ人数人にはほとんど分かってもらえなかった。ヨーロッパでの映画祭ではどのように評価されるのだろうか。



それからもう1つ。「オペラ・ジャワ」に限らずガリン・ヌグロホの映画でいつも気になるのは、物語にとって必然性のない「ジャワ」の強調が多いことだ。「オペラ・ジャワ」の最初に、スティヨがスラカルタ宮廷の行事「スカテン」にアブディ・ダレム(家臣)の姿をして王宮に入るシーンがある。しかし、その後の物語におけるスティヨの境遇を見ていると、彼は別にアブディ・ダレムとして生きているわけでもなく、このシーンは物語とは何の関係もないことが分かる。

またスラカルタ王宮で即位記念日にのみ踊られるという秘舞「ブドヨ・クタワン」の映像が挿入されているが(踊り手から判断すると、これは『そして月も踊る』用に撮影した映像だろう)、これもシティとスティヨの物語とは全然関係がない。2人の愛の象徴としてブドヨの映像を出したのだと言う人もいたが、なぜ「ブドヨ・クタワン」でなければならないのだろうか。確かに「ブドヨ・クタワン」は王と南海に棲む王宮の守護女神との愛を描いているが、シティとスティヨの愛の引き合いに出すには格が違いすぎて、私には違和感がある。ガリン・ヌグロホは「カンチルと呼ばれた少年」でも舞踊・ブドヨ(この時は確かジョグジャカルタ様式のブドヨ)のシーンを挿入している。その時はナレーションから男女の愛の象徴として使っていることが明白だったが、この時も前後のストーリーとブドヨとは全然関係がなかった。

このような「ジャワ」の強調、しかもジャワ王宮文化の強調は、彼が海外の映画祭を対象に映画制作をしているからではないだろうか。つまりジャワ人である彼が海外で自分の文化的アイデンティティを強調するために必要以上にやっていると思うのだ。そのために彼が表現する「ジャワ」は「ブドヨ=愛」、「ジャワ=王宮文化」のようにステレオタイプ化し、外人の眼から見たエキゾチックなジャワを再生産している。日本でも、「こういうところ(愛の表現)でブドヨを出すあたりがジャワ人ですね~」と感心する声を聞くから、おそらく映画祭というような場では評価を得やすいのだろうが、私には鼻についてしまう。彼自身はこの点をどのように自覚しているのか、機会があれば聞いてみたい気がする。



ここでは「オペラ・ジャワ」の映像の美しさや、全編に流れる音楽については触れていない。ただ映画を見たときから、ジャワ人にとって物語とは何なのかということを一番考えずにはいられなかった。そしてその一方で、私の頭にある「物語」、「人物の心理」、「必然」などという概念はどこから来たのだろう、という思いにもとらわれてしまった。だから威勢良くヌグロホを批判しているように見えるだろうが、私自身にもその批判の矢が向いているのである。



その後…

以上の原稿を送った後でこの映画の歌の担当者の1人に出会い、この映画についていろいろと彼の感想を聞くことができた。私が上のように「物語」の枠組みが弱いと思うと話したところ、インドネシアでもそれを指摘する声があるが、それはガリン・ヌグロホが敢えて狙ったことではないか、と言う。彼によると、この映画で歌の構成を担当したのがスティヨ、シティ、ルディロ役に計3人いて(みな芸大スラカルタ校の先生)、それぞれラーマーヤナの「シンタ焼身」のエピソードの展開に沿って歌詞を書いたのに、編集されたのを見ると、どれも歌詞の順序がかなり入れ替わっていて、驚いたらしい。ちなみに、舞踊のあるシーンで演出した人が、編集されたのを見て「なんでこうなるの?」と思ったらしいから、監督は人々が「物語を欲する」のを裏切りたかったのかも知れない、とも思う。

また、先ほどの歌の担当者は、ラーマーヤナ物語の枠から外れているということについてはヒンズー教の側から反対の声が上がり、それについての論争が新聞に盛んに取り上げられていたとも教えてくれた。そこでインドネシアの新聞を検索してちらっと目を通してみた限りでは、どうやら、インドネシア・ヒンズー教の最高組織(パリサダ)が、ヒンズー教を冒涜しているという風に批判したらしい。

実は私には、この宗教界からの批判というのは全く意外だった。もし「オペラ・ジャワ」がもっとうまくラーマーヤナ物語の枠を生かしてスティヨとシティとルディロの話を作り上げるのに成功したとしても、それがラーマーヤナ物語を冒涜するとは思えない。ラーマーヤナは物語であり、経典ではないはずだ。なぜこの映画にそんなに敏感に反応したのか、調べてみたら面白いかもしれない。
2006.08水牛「踊りの謝礼 ~1」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年8月号『水牛』寄稿
踊りの謝礼 ~1

中ジャワ・スラカルタの音楽家・舞踊家の間には、PY(ペイェー)という隠語がある。お金をもらって上演するという意味で、プランバナン寺院での観光舞踊劇「ラーマーヤナ・バレエ」が始まった1961年頃から使われ始めたという。PYとはpayu(パユ)=お金になる、の子音を取ったもので、それはつまり芸術行為によってお金を頂戴することを賤しむ気風があったからこそ生まれた言葉なのだ。この語を使い始めたのは、「ラーマーヤナ・バレエ」の総合振付家クスモケソウォの長男だと言われている。

「ラーマーヤナ・バレエ」はインドネシア初の観光用・大型野外舞台劇で、その中心的な担い手はクスモケソウォが教鞭を執るスラカルタの芸術高校関係者(教員、学生、教員の子の子)を中心に、あちこちにいる弟子たちなどだ。この人は宮廷舞踊家で、その中でも最も保守的な人だったから、芸術を学んでいる者がお金を手にするのはよくないと考えていた。宮廷舞踊家にとっては、舞踊は人格の陶冶のためにあるべきだったのだ。だから1960年代頃のギャラは「ミー・アヤム一杯分」だったという。当時大人だった人から子供だった人まで、世代の異なる3人が3人ともそう表現した。ミー・アヤムとは鶏肉入りラーメンだが、屋台で食べられる最も安い食事である。スラカルタからプランバナン寺院までバスで行って(団体バスで行くのだが、今の道路事情でも片道1時間余りかかる)舞台をつとめるのだから、子供ならともかく、大人にとっては全く割のあわないギャラである。出演自体を嬉しい、有難いと思えないと続かない。

だから、ラーマーヤナバレエの初期を担った、当時まだ中高生だった踊り手たちは、大学に進学するとラーマーヤナ・バレエから離れてしまうことが多い。例外だったのは初代ラーマ王子役で、ジョグジャカルタにある大学の医学部に通いながら、1968年に留学するまでずっとラーマをつとめた。これは親(医者)が裕福で、息子をクスモケソウォに習わせており、かつ「ラーマーヤナ・バレエ」の仕掛け人の1人だったから可能だったのだ。

それはさておき、大学生になったラーマーヤナ・バレエの踊り手は、ホテルなどで舞踊のアルバイトをする。ジョグジャカルタでは、スラカルタと違って、毎日のようにどこかのホテルで公演がある。実際、クスモケソウォの孫娘もそうで、ジョグジャカルタの芸術大学に進学して下宿しながら、ホテルでの公演やパク・アラム王家主催の公演に出て授業料や生活費を稼いだという。

またジョグジャカルタの大学に進学したが、スラカルタに戻ってスリウェダリ劇場に出演していた元・出演者もいる。彼は最初、スリウェダリ劇場のギャラがラーマーヤナ・バレエよりはるかに高額なことに驚いたという。そのギャラで学費を全部賄えただけでなく、当時は高価なものであった自転車まで買えたという。スリウェダリ劇場は商業施設で、歌舞伎興行みたいに毎日公演を打ち、そのチケット収入で採算をとる。ここではしかるべき対価をもらって上演するのが当たり前であり、恥ずべきことではなかった。

(続く)



※ 上に「続く」とありますが、実は続きがないです(笑)。
2006.07水牛「風景が変わること」
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2006年7月号『水牛』寄稿
風景が変わること  

ジャワ中部地震が起きてから1ヶ月が経った。私はまだ大きな地震に遭ったことがないから、被災について語る資格はないかも知れない。けれど、私自身の経験した小さな不幸について書いてみる。

最初の留学から帰国して間もなく、私は妹を亡くした。そのときになって初めて私は、今まで家族を亡くした人の気持ちを全然分かっていなかったのだと思わずにはいられなかった。私が留学している間に、私が舞踊を師事していたJ先生は夫を亡くし、P先生は父親を亡くしていた。私はお葬式に参列し、特に親しく師事していたJ先生の夫の年忌にはずっと参列していた。当時の私は私なりに先生達の悲しみに同情しながらも、ジャワ人は死を神の思し召しとしてあっけらかんと受け止めているように見える、などと感じたりしていた。私自身の身にそんなことが降りかかるまでは。

いかに第三者には気丈に見えていても、人の気持ちはそんなに簡単に割り切れるものではなく、いくら信仰心厚くとも(P先生はカトリック、J先生はイスラムを信仰している)、感じる悲しみの絶対量に違いはない、と今は思う。死をあっけらかんと受け止めているように見えていたのは、人生の不条理さをジャワの人々が心得ていて、それを受け止める心構えができていたからだと思う。そして逆に、当時の私には、そのことに気づくだけの感性がまだ備わっていなかった。

妹を亡くした後、私は舞踊の練習を1人で続けた。漠然と、ジャワ舞踊を手放してしまったら自分が崩壊してしまうような気がしていた。ガムランの曲を聴くだけでも胸が締めつけられて息苦しかったのに。なぜそんなにまでしてジャワ舞踊にしがみついていたかったのだろう。

「メナック・コンチャル」という舞踊曲がある。出陣する王子の雄雄しい姿の描写の後に、想いを寄せる姫の面影を追う王子の姿が描写される。曲の形式がそれまでのラドランからクタワンというゆったりとしたテンポに変わり、ボーカルが切々とした思いを歌い上げる。王子は今度の戦いで死ぬことを予期しているのだ。この作品のクタワンに移行する部分で、急に涙があふれてきた。死ぬことを予期した王子の激しいやるせなさが、急に私の胸にも突きあげてきたのだ。こんなことは、ジャワで練習していた時には一度としてなかったことだった。いくら作品のテーマや歌詞の意味を理解してはいても。また一度そんな風に聞こえてしまうと、もうそれ以外のようには聞こえてこなくなる。

妹が亡くなって1年半後、私は再びジャワに留学し、「カルノ・タンディン」という舞踊作品を習っていた。これは「マハーバーラタ」の中の物語の1つで、アルジュノとカルノという異父兄弟が敵味方に分かれて戦い、最後にはカルノが敗れる様を描いている。この曲には2人が離れていったかと思うと、向きを変えて近づいてくる、という振付が何度か出てくる。その向きを変えた時に歌が入ってくるのだが、そこで、カルノとアルジュノが自分と妹にダブって「もう2度と会えない」という気持ちがよぎったり、もう時間を元には戻せないと感じて、そのたびにいつも涙が止まらなかった。けれど、その箇所でそんな思いがこみ上げてくるということは、いくら作品を分析しても出てこないに違いない。この演目は重い演目で、上演される時にはお供えが必ず用意される、ということをいくら知っていても、それはやはり頭の先の理解にとどまっていて、お供えを用意せずにはいられない心の内をわかったことにはならない。

昨日の続きの今日があって、そして明日に続いていくという世界が破綻したとき、それまで見ていた風景は一瞬にして変わる。いくら被災地の映像を見、同情の念をもよおしても、この風景が変わらなければ被災者の気持ちには達し得ない、と思う(私は救援活動に携わる人々を批判しているのではない)。そしてまた芸術というのは、たぶん、それまでの安定した世界が破綻しようとするときにこそ見えてくるもののような気がする。
2006.06水牛「ジャワ島中部地震の報道について」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

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2006年6月号『水牛』寄稿
ジャワ島中部地震の報道について 

5月25日早朝6時頃、ジャワ島中部のジョグジャカルタ(以後ジョグジャと略)州を中心に地震が起きた。

日本でのメディア報道では、被害の一番甚大なバントゥル県のニュースがやっぱり一番多い。バントゥル県はちょうどジョグジャ市街と、ジャワ島南海岸との間にある。被害が一番甚大な地域だということで、いろんな救援団体が入っている。それからプランバナン寺院が崩壊したことも、割と早い時期に報じられた。そのプランバナン寺院の東半分が属しているクラテン県の被害も結構大きいらしいのだが、私の友人が現地の知人らに確認したところでは、ここには支援の手(特に食料供給)がほとんど届いていない。

NIKKEI NETでは、5月30日午前の段階で地震の死者は5,428人、全半壊または損傷した家屋が約95,000軒とあり、クラテン県のホームページでは、同県の被害は同日朝7時半の時点で死者1,039人、全壊または損傷した家屋が77,683軒(公共施設、個人家屋の合計)だとある。バントゥル県では同日午後8時15分の時点で死者3,789人、崩壊・損傷した家屋が26,733軒。それぞれどういう風にデータを取っているのか分からないから(特に家屋のデータについては)比較できないのだが、クラテン県の被害も小さくないことは分かる。

それでもクラテン県の様子があまり報道に乗らないのは、1つにはこの県がジョグジャ州ではなく中ジャワ州に属しているからだろう。今回の地震はジャワ島地震という呼称にほぼなっているが、震源がジョグジャ周辺だと報道されているために、一般の関心はジョグジャと呼ばれる地域の範囲を越えることがない。その反対に、どの報道で使われた地図にも、ジョグジャ市、ムラピ山、プランバナン寺院と並んで、被害のなかったボロブドゥール遺跡の位置が示されていた。いま挙げた地域はすべてジョグジャ観光のメッカである。被害もなく震源地から65kmくらいも離れているボロブドゥールの位置を示すのは、それが観光ガイドではジョグジャの項目に入れられており、ジャワでは一番有名な観光地だからなのだ。観光ガイドではジョグジャ/プランバナン寺院観光のページの次は中ジャワ州/スラカルタ(通称ソロ)のページになっているから、ジョグジャの地域はプランバナン寺院で終わりという風に見えてしまうのだろう。

あるいはまた、こんな風にも考えられる。いったんバントゥル県が最大の被災地と認定され、救援部隊が次々にバントゥル入りするようになると、マスコミはバントゥルにいてその救援活動を報道してさえいれば、新しいニュースはいくらでも伝えられる。つまり、死傷者の数や崩壊した家の数などは必ず刻々更新されてゆくし、新しい支援団体もやってくる。それに支援団体の活動を伝えることは、日本の外交を宣伝する上でも、納税者(政府援助の負担者)や義援金を送る人たちを安心させるためにも重要な仕事だ。そうなると、クラテンみたいに支援団体に注目されていない地域については、手間ひまかけて報道するメディアが少なくなるんじゃなかろうか、と思えたりもする。

それから、もしかしたら地方自治体の首長の被災アピール度にも理由があるかも知れない。29日に見つけたのだが、バントゥル県のホームページのトップには、義援金募集の記事が出ているのである。2つの銀行口座が書いてあって「バントゥル県知事―天災」宛てに送る。どちらもドメスティックな銀行だから、国内に向けて支援要請を発信しているわけだ。(この文章を送る直前になって気づいたのだが、県の英語版のホームページには、この支援要請のお願いや銀行口座は書いていなかった。)それに続いて、被災データや救援物資の配給データへのリンクがあり、また県知事のSMS(携帯電話のショート・メール・サービス)センターの番号が出ていて、村民が知事に要求を伝えることもできることになっている。(今もあるのか知らないけれど、同様のサービスはユドヨノ大統領が以前やっていた。)地方自治体が直接、義援金募集のページを出したことに私は驚いた。いったいこの口座に寄付する人がいるのか、このお金が着服されずに、きちんと支援に廻される保証はあるのか、私には分からない。しかし、少なくとも、バントゥル県の知事は被害の大きさを外部に向かって強くアピールしている。そのために、クラテン県が割りを食っている面もないとは言えまい。

  ●

こんな風にクラテン県のことが気になるのは、この県がジョグジャカルタとスラカルタの2つの王宮都市の間にあって、両方の宮廷に多くのダラン(影絵操者)や音楽家や舞踊家を輩出している地域だからなのだ。

ジャワの宮廷では、ムラピ山には王族の祖先霊が住み、南の海には、女神ラトゥ・キドゥルが棲んでいると信じられている。代々の王はこの女神と結婚することで、その王権の正統性を得ている。ジョグジャの王宮は、ちょうどこのムラピ山と南のジャワ海を結ぶ一直線上に位置している。この1ヶ月の間に、その北のムラピ山で噴火活動が活発化して火砕流が発生し(15日、地震後の29日)、南海岸側で地震が起きたということは、何か神々の怒りでもあるのではないか……と、ジャワ人でなくとも(あるいはジャワ人でないからこそ?)考えてしまう。
2006.05水牛「ジャワ舞踊の衣装」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年5月号『水牛』寄稿
「ジャワ舞踊の衣装」

最近はジャワ舞踊の話からそれてしまっていたので、久しぶりにジャワ舞踊の話に戻ろう。ジャワ舞踊の魅力は、その優雅な動きにあるのはもちろんなのだが、その動きを作っている衣装の魅力に負うところも大きい。というわけで、今回は特に衣装に注目してみよう。

ジャワ舞踊というのは、中部ジャワ地域で王宮を中心に発展した舞踊のことで、スラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)が主な中心地である。ちなみに文化的に単にジャワと呼ぶ場合は中部ジャワだけを指し、東ジャワや西ジャワを含めない。

●カイン・バティック

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上半身:バティック製のドドッ・アグン/下半身の着付:サンバラン

ジャワの伝統衣装の着付では、バティックを施したカイン(上下約1m×長さ約2mの布)を1枚、腰に巻く。バティックは一般にジャワ更紗と呼ばれている が、多くの人が想像するような多彩な色使いの花鳥模様のジャワ更紗は、スラカルタやジョグジャカルタのものではない。王宮都市のバティックは、白地や茶色 地に抽象化された模様が整然と描かれた地味なものだ。その中でも舞踊に用いられるのがパラン模様である。これは王族だけが着用できる禁制模様で、現在でも それは守られている。つまり踊り手がこの柄を着用できるというのは、逆に言えば、踊っているときだけ踊り手は王族の身分になれるということなのだ。

このカインの着付け方にはいろいろあるのだが、スラカルタには、カイン・バティック1.5枚分を横に縫い合わせたものを巻きつけ、裾を60cmくらい引き ずる着付け方(女性用)がある。スラカルタ宮廷舞踊の着付け方で、ジョグジャにはない。この着付け方を一般的にサンバランと呼ぶ。この布を腰にぴったり沿 うように二巻きし、余りが体の前面に来るようにして襞を取り、その襞を両足でまたぐように着て、尻尾のように後ろに伸ばす。その尻尾が、標準体型の人だ と、だいたい60cmくらいの長さになるというわけだ。そして踊る時は、裾が足にからまないように、その尻尾の部分を左や右に蹴りさばく。実はサンバラン とは「サンバル=蹴る」の名詞形なのである。しかしサンバランというのは通称で、宮廷では違う名称がついているが、失念してしまった。実は裾を引きずるよ うな服を着てみたいというのが私の小さい頃からの夢だった。ローブデコルテや十二単、打ち掛けなど、お姫様の衣装はどれもみな裾を引きずるものと決まって いる。サンバランの裾はこれらの衣装のように張りがなく、その蹴られた裾がさざ波のように揺れるから、いかにも優雅だ。

さらに宮廷舞踊のスリンピやブドヨでは、その尻尾の部分にピンクと白のバラの花びら、それに刻んだ良い香りの葉(これらをあわせてクンバン・スタマン=庭 の花という)を巻き込む。おまけに香水まで振り注ぐ。それ以外の舞踊作品でもサンバランの着付けをすることはあるけれど、花びらまでは巻き込まない。座っ て合掌していた踊り手が立ち上がり、裾を蹴るたびに、ねじっていたカインの端がほどけ、巻き込まれた花びらが少しずつこぼれて、宙に舞い散る。その様子は 散華のようだ。それに視覚的に美しいだけでなく、花びらの香りが辺り一面に拡がって嗅覚をも刺激する。これは踊り手の気分をも恍惚とさせてしまうくらい だ。

ブドヨの場合は、クンバン・スタマン以外に薬味のようなものも混ぜる。薬味の内容については失念したが、1つはしょうがみたいなものを使う。ジャワで「ダ ルマニンシウィ」という作品を踊った時に(水牛2003年3月、2003年4月に書いています)、実際にその薬味を巻き込んで踊ったことがある。花びらだ けだと官能的な雰囲気に酔ってしまいそうになるけれど、この薬味が入ることで一気に鎮静され、瞑想的な気分になる。と言いつつも、「ダルマニンシウィ」の 時は、私はしょうがの匂いに思わず空腹感を覚えてしまったのだが…。

花を巻き込むだけでなく、カインにお香を焚きしめることもある。宮廷にはかつて王様が着用するカインにお香を焚きしめる係がいたという。私は、王女さまが お香を焚きしめたカインを身に着けて踊るのを見たことがある。その時は踊り手との距離が遠かった割りには、動きにつれて仄かに香りが漂ってきたのには驚い た。こんな風に香りや花を贅沢に使うやり方は日本にはないなあと思ったものだ。


●カイン・チンデ

サ ンバランには、カイン・バティック以外にチンデと呼ばれる布を使うものもある。チンデはインド伝来の柄で、スラカルタではブドヨだけに使われる。ブドヨ (9人の女性による舞踊)の方がスリンピ(4人の女性による舞踊)よりも儀礼的な舞踊で、それにチンデを使うのは、おそらく宮廷儀礼とヒンズー仏教との間 に何らかの関係があったからなのだろう。そのチンデの布は、インドでは織物であった。私も日本での展覧会やスラカルタの骨董屋でオリジナルのチンデを見た ことがある。どちらも布の両端に織物の耳が厚く残っていた。現在ジャワで目にするチンデは、染めて作られているから耳はない。しかし布の両端に線が描かれ ていて、耳の名残がある。


●サンプール

サンプールは腰に巻いて、手で払ったり、指でつまんだりして使う布である。大人だと60cm幅×3mくらいの大きさのサンプールを使う。ジョグジャではほ とんどチンデ模様のものを使うのだが、スラカルタでは男性荒型の舞踊やブドヨを除き、ほとんどの場合無地のものを使う。シフォンなどの柔らかく透けた布地 を使い、両端にビーズで房をつけることが多い。

これがまた乙姫や天女や仏様が肩にかけているショールのような感じで、お姫様好きには憧れの小物である。だがサンプールを払うのは簡単そうに見えて結構難 しい。未熟者が払うと手首によけいな力が入ってしまうし、それに薄物はとにかくアクセサリー類にひっかかり易く、未熟者はとかく粗相しがちだ。けれど上手 な人がサンプール払うと、なんだかサンプールの滞空時間が長くて、本当に画に描かれた天女を見ているような気持ちになる。スリンピやブドヨでは皆同じ衣装 を着て踊るけれど、ある人の周囲だけ時間の流れがスローモーションになっていて、あるいは濃密な空気が立ち込めていて、その人のサンプールだけがいつまで もふんわりと宙になびいている、と見えることがある。そんな風に踊れたら良いなといつも思っている。

●ビロードの胴着

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胴着…左:コタン/右:メカッ、いずれも無地のサンプール

下半身を覆うのがジャワの伝統的なカイン・バティックであるのに対して、女性の上半身を覆うのは西洋からもたらされた素材=ビロードの胴着である。こんな 風に上半身と下半身の素材のルーツが異なるのは、ジャワ舞踊だけに限らず東南アジア各地の伝統衣装によく見られるものだ。南国ではかつて上半身に何もまと わなかったのだが、西洋人が服を着るように教化・強制したので、上半身が西洋風の衣服になった、というわけである。それはともかく、ジャワの女性舞踊の一 般的な着方にはメカッ(=ビスチェ・タイプ、両肩を出す)とコタン(=袖なし上着)の2通りのモデルがある。どちらもビロード地に金糸で刺繍をおいたり、 モールやビーズで房をつけたりして、豪華に仕立て上げたものが多い。

スリンピの場合はメカッでもコタンでもよいのだが、たいていはどちらを使うのか決まっている。ゴレッという種類ならコタンだし、スリカンディなどワヤン (影絵)の登場人物はメカッである。また女性の踊り手が男性舞踊の演目を踊る時は、メカッを着ることになっている。男性の踊り手なら本当は上半身何も着な いのだが、女性が踊る場合はそれはまずい…というわけである。

●ドドッ
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アラス・アラサン柄のドドッ・アグン、チンデのサンプール
出典 Karaton Surakarta p.298


ドドッというのはカインを上半身に巻きつけて着る着方の総称で、宮廷には何種類ものドドッがある。舞踊に使われるのは、ブドヨを踊る時のドドッ・アグン (大きなドドッ)という着方で、これは花嫁衣裳にも使われる。ドドッ・アグンでは約2m×5mの大きさの布を巻き込み畳み込んでいって、上半身から膝あた りまでを覆うように着付ける。それには金泥でアラス・アラサン(森の模様)と呼ばれる柄が描かれ、その生地はカインよりもずっと厚くて重い。ちなみに、私 はジャワに住んでいる時、ドドッ・アグンの布を普段はカーテンとして使用していた。ちょうど窓2枚分を塞げる上に、生地が厚くて全然光を通さず都合が良 かった。

ドドッ・アグンでは布を巻く醍醐味が味わえるとはいえ、重量も相当になるので、覚悟がないと着れない。普通は美容師に着せてもらうもので、1人ではまず着 ない(着れない)ものだが、私は日本で何度か1人で着て踊ったことがある。私はこのドドッ・アグンがジャワ舞踊の衣装の中で一番好きなのだ。

この衣装の魅力はやはりその儀礼性の高さにある。ドドッ・アグンの場合はカインとサンプールはチンデのものを使用する。これらを全部身に纏うと、ビロード の胴着にカイン・バティックを着る場合とは全然違う心持になる。ただ大変踊りにくいのは事実である。ジャワ舞踊では必ず座って合掌してから立ち上がるのだ が、ドドッでは相当量の布が上半身に巻き付いるので、手をつかずにすっと立ち上がるのが難しい。現行の宮廷の踊り方では、立ち上がる前に踊り手は必ず手を つき、「どっこいしょ」という感じで両膝を揃えて体勢を整えてからおもむろに立ち上がる。練習の時(カイン・バティックを身につけている)にその立ち方を 見てみっともないなあと思っていたが、上演の時はドドッを着ることを考えると、致し方ないなあという気がしてくる。

こういう古典のドドッではなく、着やすいドドッも発明されている。それはブドヨ用ではなく、結婚式でよく踊られるいわゆる「ラブダンス」ものの演目のため である。スラカルタでは、1970年代から男女がペアで踊る演目が結婚式用に盛んに作られるようになった。その第1号がマリディ作の「カロンセ」で、これ にはパンジ王子とスカルタジ姫という設定があり、その衣装を着る。しかしそれ以後に芸大を中心に作られた作品では、そういうキャラクター設定をせず、衣装 も次第に花嫁衣装に似せたものを使うようになってきた。つまり踊り手が花嫁・花婿を演じるというわけなのだ。この場合は、カインよりも少し長いドドッ・タ ングン(1m×2.5m、タングンは中途半端の意)と呼ばれる布を、ドドッ・アグン風に着付ける。これは薄くて着やすく、動きやすい。芸大の先生が考案し たと聞いている。
12/18 大阪樟蔭女子大学 「芸術と鑑賞」
以下でレクチャー&コンサートの授業をしました。

日 時: 2018年12月18日(火) 14:40~16:10
会 場: 大阪樟蔭女子大学・高智館円形ホール
授 業: 「芸術と鑑賞」
テーマ: 「ジャワ舞踊の世界 ~スラカルタ様式~」


「芸術と鑑賞」は秋期の講座で、学生は毎週、音楽や美術のレクチャーコンサートを受けることになっている。同講座では今まで西洋音楽と造形美術が色々紹介されてきたが、アジアの芸術、さらに舞踊を紹介するのは初めてだったとのこと。私は映像を使った解説の他に"Bedhaya Pangkur"(冒頭5分だけ、笑)、"Retna Pamudya"、"Gambyong Pangkur"の3演目を実演。ジャンルがバラバラなものを一度に上演するのは、気分的に意外に大変だった。そもそも衣装も全然違うので、舞踊衣装は着ず、クバヤ(上半身の伝統衣装)にサンバラン(ジャワ更紗を引きずるように着付ける)の姿で話す。ガンビョンの時はサンバランの裾をスタゲン(下帯)に挟み込んで対応。

12/16 カパル設立記念大会出席
カパル(インドネシア研究懇話会)
設立記念大会・第1回研究大会


日時: 2018年12月16日(日)
場所: 京都大学稲盛財団記念館
サイト➡ https://kapal-indonesia-jepang.blogspot.com/

に出席しました。この懇話会のインドネシア語名称は Kelompok Pemerhati dan Peneliti Indonesia di Jepang。この会は「会員制をとらないオープンな集まりとし、特定の専門分野や国境のうちに閉じこもることなく、広い意味でのインドネシア研究の発展を図り、参加者相互の協力ならびに親睦を促進することを目的とします。この目的を達成するために、研究大会を開催し、懇話会のブログやメーリングリストなどを通じて情報の発信を行ないます」とのことです。

2018.12水牛「芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年12月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間」を寄稿しました。


芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間

私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出話の第二弾は、舞踊の授業やレッスンをしていた場所について。

舞踊学科の実技の授業で使うのはE棟の1,2階とI棟の2,3階の教室だった。ワンフロア1教室で、40〜50人くらいの集団レッスンができるくらいの広さがあり、壁面に鏡がある部屋もあった。それ以外に、少し離れた所にあるF棟がコンテンポラリ舞踊や舞台装置の授業に使われていた。体育館のように天井が高く、小劇場や大劇場ができる以前はここで規模の大きい作品(野外大劇場でセットを組んで上演されるような作品)のゲネプロが行われていた。

教室は授業以外にも各種練習で使われ、届けを出せば個人レッスンにも使用できた。しかし、私はこの広い教室で個人レッスンをしてもらったことがほとんどない。

私は男性優形舞踊を芸大教員のP氏に師事し、個人レッスンを受けていた。留学するまで男性舞踊をやったことがなく、呑み込みも遅い私は、芸大の集団授業に全然ついて行けず、P氏に師事することにしたのだった。

最初の1セメスターは、I棟1階にある化粧室(今は別の部屋になっている)でレッスンを受けた。幅が一間半くらいの細長い部屋の両サイドに鏡と椅子がずらりと並んでいて、手狭である。音響設備もない。友人が広い教室でレッスンを受けていたので、私もそうしたいと言ったのだが、ダメだと言われた。理由は後になって判明するのだが、師は、当時の私はまだ広い環境では舞踊に集中できないだろう、狭くて静かで他人の目がない空間の方が良いと判断していた。

化粧室で音楽なしできっちりと動きを指導してもらい、1曲目の舞踊作品の振付を最後まで覚えると、師は初めて広い教室でレッスンをやろうと言って空いている教室に入り、カバンやノートを床に置いて四角い舞台空間を区切った。その中で初めて向きだとか理想的な空間の取り方を指導してもらい、音楽に合わせて踊った。しかし、1回だけである。

その次のセメスターでは、F棟入口前のロビーでレッスンが行われることになった。屋根と床があるだけの空間である。レッスンに使えるのは四畳半くらいのスペースだ。教室の中ではなく、音響機材がないから、私はカセットデッキを抱えてレッスンに行った。このレッスンは夕方にやっていたのだが、師はいつも最低半時間くらい遅れて来る。ポツンと待っていると、F棟の中からは課外活動の少林寺拳法の声が響いてくるし、周囲では別の練習の音も聞こえてくる。F棟の前にはワルン(屋台)があって、この周辺で下宿している学生がいつもたむろしている。その時間帯にポンキーという愛猿を肩に乗せた学生がいつも散歩する(彼の名前は忘れた)。キャンパスのモスクからアザーン(イスラム礼拝の時刻を告げる詠唱)が聞こえてきて、山羊の集団がこのF棟のロビーを横切って疾走する。たぶん、彼らはF棟裏にあるテニスコートで草刈の仕事をし、人には聞こえない合図を聞いて一斉に帰路につくのだろう…。さらに雨季の走りとてスコールが降ってくると、一気に周辺は雨の音に包まれる…。と、一転して開放的過ぎる環境に私はイライラしたが、師はあえてここを選んでいた。2曲目に習ったのは『パムンカス』という宮廷舞踊の系統の内面的な曲だったのだが、舞踊が始まる前の正座して待つ部分(パテタンと呼ばれる音楽がつく)で、集中力が足りない!もう一度パテタンを聞いてろ!と何度もパテタンを聞かされたことがある。こんな環境の中でも自分に集中しなければならない、と言う。その当時の私はあの環境にイライラを募らせていたというのに、今となってはあの混沌さが一番懐かしい…。
2018.11水牛「芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2018年11月」(水牛のように)コーナーに、
今月は「芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場」を寄稿しました。


芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場

今年の4月からいくつかの大学に教えに行っている(インドネシアの言語とか文化とか)。大学によって立地やレイアウトはまちまちだが、ある大学のキャンパスを歩きながら、そういえば留学先の大学もこんな感じで高低差があったなあ…と思い出した。というわけで、今回は私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出の話。

芸大のキャンパス構内は、私が留学・調査していた頃(1996-2007)より建造物が増えたり教室が改装されたりして、今ではかなり感じが変わっている。芸大キャンパスは、プンドポ(ジャワの伝統的なオープンホール)や大小の劇場、野外劇場などが集まっている辺りが道路から近く、土地が平らである。船をかたどった門が設けられて、これが現在の正門だ。そこから南へ坂を下るにしたがって、本部棟や国旗掲揚広場(その前にある門がかつての正門)、事務棟や図書館、影絵科、舞踊科、音楽科、造形科と順々に配置されている。

実は芸大キャンパスがこの地に移転完了したのは1985年で、その前はスラカルタ王宮の一画:サソノムルヨにあった。サソノムルヨには国の芸術プロジェクト=PKJTの拠点や3月11日大学(UNS)のキャンパスも同居していて、これら3つの機関が揃って今の地域に移転した。というわけで、道路から芸大の船形正門を越えてさらに東に行くとUNSのキャンパスがあり、芸大から南下するとPKJTが発展解消してできた中部ジャワ州芸術センター(TBS)がある。

現在でこそ、芸大に各種劇場が揃っているが、私が留学した当初にあったのはプンドポのみ。ここで入学式や卒業式、すべての試験公演が行われていた。余談だが、このプンドポはキブラット(方角)が間違っていたことが完成後に分かったそうで、そのためルワタン(魔除けの影絵)をして、その影絵人形をキャンパスからほど近いブンガワン・ソロ川に流しに行ったそうだ。

閑話休題。ソロはコンテンポラリ芸術も盛んな地域だが、それらも伝統的なプンドポで全部上演してしまうところに、私はジャワの伝統の懐の大きさを感じて感動した。しかし、同じジャワでもジョグジャカルタにある芸大には当時からクローズドの額縁劇場があった。私はむしろそのことに驚いたのだが、それは恐らく、ジョグジャカルタ校には西洋音楽のコースがあったためではないかと思う。実は、首都ジャカルタの交響楽団で活躍する人の多くがジョグジャカルタの芸大出身者なのである。一方、スラカルタの芸大のカリキュラムには西洋音楽の実践は全然なかった。ピアノを使うのも国歌、校歌を歌う時だけ…という状況だった。

そんな芸大にクローズドの額縁舞台の劇場が建ったのは1997年末か1998年早々で、こけら落とし公演がサルドノ・クスモ作『オペラ・ディポネゴロ』だった。だが実は、この公演時に劇場の電気系統はまだ完成しておらず、発電機を持ち込んでの上演だったと後で聞いた。当時、アジア通貨危機に見舞われて工事は中断し、2000年に私が再留学してきた後に工事が再開した。小劇場が完成した後、舞踊の試験公演はすべて小劇場で上演されるようになり、同時に多くの有料公演もそこで上演されるようになった。スハルトが退陣しオトノミ・ダエラー(地方自治)体制となったことで、それまで入場無料だった試験公演が有料化された。折しも、インドネシアではアートマネジメントの必要性が叫ばれるようになった。国際交流基金がその専門家をインドネシアに招聘したり、現地の財団が公演制作者の育成プログラムを始めたりしていた。というわけで、スラカルタの芸大では2000年前後がプンドポ芸術から劇場芸術への転換点(少なくとも舞踊にとって)だったと言える。

とはいえ、欧米の劇場と全然違うのがクローズドの度合いである。壁は薄く、劇場外の音もよく聞こえる。さらに外からいろんなものが入ってくる。小劇場のこけら落とし『オペラ・ディポネゴロ』公演では、よりにもよってクライマックスのシーンとした場面で、トッケイ・ヤモリの「トッケイ…トッケイ…」という連続する鳴き声が響き渡った。また、小劇場ではないが、プンドポの裏にある録音室で私が舞踊曲の録音をしたとき、一度バッタが入ってきて中断したことがある。トッケイやバッタをシャットアウトしてこそのクローズド劇場だと思うのだが、これでは音環境についてはプンドポと変わらない…(笑)。(つづく)