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2019.02水牛 「インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年2月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し」を寄稿しました。

まだ携帯電話も普及していない、不動産屋もないインドネシアの古都ソロ(正式にはスラカルタ)での家探しについて。今にしてとても残念なのは、この当時のご近所さんと撮った写真が1枚もないこと。



インドネシアで住んだ家(1)1軒目の家探し

昨年の11月号、12月号で留学していた芸大のキャンパスについて書いたので、今回は私が住んでいた地域の話。

留学してどこに住むのかは大きな問題だ。留学先の芸大(スラカルタ市/通称ソロ市にある)には寄宿舎はないので、遠方出身のインドネシア人学生はだいたい大学周辺にある下宿に住む。しかし、インドネシアではプライバシーがあまりないので、私には下宿で住むのは到底無理そうに思え、一軒家を探すことにした。大学での授業以外に、スラカルタ王宮やマンクヌガラン王宮にも通うから、これらの場所に近くて、大学にはバスや自転車で通える範囲がいい。また、日本では駅や銀行や中央郵便局が近くにある所に住んでいて便利だから、インドネシアでも似たような環境がいい…ということで、クプラボンかカンプンバル辺りで家探しをすることにした。クプラボンはマンクヌガラン王宮とその東側の地域だ。カンプンバルはその東側の地域で、市役所、中央郵便局にバンク・ヌガラ・インドネシア銀行があり、スラマット・リヤディ通りを挟んで南側にはスラカルタ王宮がある。また、幾つかの系統のバスは中央郵便局を経由していて、交通の便も良い。

1996年当時のスラカルタに不動産屋はなかったので(今はあるだろうか?)、聞き込みをして探すしかない。知り合いに聞く以外に、何軒かの個人経営規模のホテルに飛び込んで、オーナーに一軒家を持ってませんか?と尋ねてみた。そういう人なら、他にも不動産を持っているのではないかと思ったのだ。実際に家を紹介してくれた所もあったが、立地条件が合わなかった。そうこうしているうちに、あるホテルの人から人を紹介された。いくつも不動産物件を知っていて、紹介してくれるという。その人を信用しても良いものかどうか不安だったが、とにかく用心して物件を紹介してもらうことにした。一応エリアは決めていたが、せっかくの機会でもあるので、もう少しエリアを広げ、提案してくれた20軒余りを見て回った。

紹介してくれる家はどれも寝室が3~4室もあるような大きな家で、その後の状況を見ると会社が借りているケースが多かった。しかし、ついにカンプンバルの街中で小さくて手頃な家に行き当たる。その家の管理を任されている人はその隣のRT(町内会)の会長も務めており、信頼できる人だった。この人に当たったことが幸いで、抜け目のない仲介者にも高すぎない礼金を支払って別れることができた。もっとも、今から思えばあの仲介者の持っていた情報はどれも良質で、だからこそあの管理人とも巡り合えたのだなと思う。

私が契約した家は市役所の裏門を出てすぐの所にあった。現在は裏門から出入りできるのでその辺りは賑やかになっているが、当時は門は締め切られていた。私の家探しの条件は、電気も水道もあり、固定電話もついていること。電気はともかく、町中でも水道のない家はあった。そして、固定電話のある貸家は町中でも少なかった。さらにこの家の台所には流し台があり(伝統的な作りで流し台がない家もわりとある)、家の外にも洗濯用の蛇口があり、いずれも水が勢いよく出た(水がちろちろとしか出ない家もある)。電気は蛍光灯で明るい。おまけに屋上には物干し場があり、家の内側から出られるようになっている…など、私には理想的な家だった。さらに契約後に判明した良い点は、街中の家なので水道水の質が良く、ゴミ回収も毎日あり(毎月、ゴミ回収代を町内会に支払っていた)、カマル・マンディ(水浴場)の排水溝が大きく、水が良く流れたこと。

この家に入居するに当たり、私の方から依頼して入居契約書を作成した。管理人が用意した文面には、家に誰かを泊める場合は町内会長に報告すべしとあって驚いたのだが、これはインドネシア人が入居する場合でも同じだったようだ。当時はまだスハルト独裁政権時代で、現実には友達を泊めても問題はなかったが、建前上はこの文言が必要だったということだろう。近所づきあいに関しては、留学しに来ているのだから町内会の諸々の付き合いはしなくても良いと、管理人とRT会長が言ってくれた。これは具体的には冠婚葬祭の時に人手を出したり、近所の男性たちが交代でやっている夜警の当番をしたりしなくてもよいという意味だったと思う。実際、町内でお葬式があった時、私は参列して香典を出したけれど、手伝いは要請されなかった。そうそう、この近所づきあいをあまりしなくてよい、他人に過干渉しないというのも町中に住むメリットだ。ちょっとしたものをお裾分けして立ち話する程度の付き合いは私もなるべくするようにしていたけれど、程よい距離感があった。

さて、この家のオーナーは当時50くらいの女性だった。彼女はビジネスオーナーで仕事人間でやってきたが、その年になって結婚したい人が現れ、結婚してメダン(スマトラ島)に移るので、その自宅を貸そうとしていたのだった。この家の使い勝手の良さは、オーナーも女性で1人暮らしをしていたからかもしれない。この家の右隣りにはおばあさんが住んでいた。品の良いカトリック教徒で、家にはオルガンがあり、復活祭が近づくと人々が集まってよく讃美歌を歌っていた。また、私の家の前には中華系のおばさんとスンダ人の旦那の年配夫婦が住んでいた。私が2000年になって再留学した時にはこの右隣の家のおばあさんも中華系のおばさんも亡くなっており、また私が住んでいた時にお葬式を出した家は大手企業に買われ改築されて、すっかり様変わりしてしまった。
2019.01水牛 「平成の最後、昭和の最後」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年1月」(水牛のように)コーナーに、
平成の最後、昭和の最後」を寄稿しました。


平成の最後、昭和の最後

平成天皇が万感を込めた誕生日の会見のお言葉を述べて1週間後、平成最後の正月が穏やかに明けた。昭和最後のお正月はこんなものではなかったな…と不意に思い出す。

ご病気の昭和天皇を憚って様々な行事が取りやめとなり、私的イベントまでが不謹慎だと自粛された。その年、私は大学4年生だった。卒論を仕上げるため、帰省せずに1人で下宿に残っていた。1月7日、大家さん(1人暮らしのおばあさん)のわざわざの知らせで私は崩御を知り、卒論締切(10日)間近という緊張感がぷつんと切れてしまった。戦後生まれで格別天皇びいきでもない自分がそのような感情に襲われるということは、経験するまで分からないことだった。あれは、戦後という1つの時代が終わったという虚脱感のようなものだったのだろう。

卒論を提出した翌日、友人と大学の門前のファミリーレストランで卒業旅行の打ち合わせをすることにしていた。しかし、そこも他の店も軒並み臨時休業していて、結局、大学で打ち合わせした。崩御の日から多くの飲食店が休業していたのは本当だった。あの同調圧力の強さは、戦時中はかくやあらんという雰囲気だった。

平成天皇の退位によって、やっと昭和的なものが良くも悪くも終わるのだろう。私は明治~大正~昭和と生きた祖父母のように三代を生きることになり、「昭和は遠くなりにけり」なんて感慨をそのうち漏らすのだろう。