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水牛 映画や小説についての記事
音楽家・高橋悠治氏のサイト『水牛』に2002年11月からエッセイを寄稿し始めましたが、2020年9月号で190本に達しました。ほぼ18年の連載で、欠かさなければ215本に達していたはずですが、通信事情や身辺多忙のため送れなかった回も毎年1~2回は生じています。自分でも過去に何を書いたのか頭の中で整理しきれなくなり、テーマ別に目次を作ることにしました。複数のテーマにまたがる記事もありますが、1記事につき1テーマということで分類しています。

…ということを、2020年9月にやりかけていたのですが、その後いろいろと忙しくなって中断していました。このたび2021年5月号までの記事も入れて、あらためてその続きをすることにします。



今回は、『水牛』寄稿記事の中でインドネシアに関する映画や小説について書いた記事をまとめました。

●以下の5本は本ブログの 水牛アーカイブ未収録記事一覧 にあります。
なお★印のものは『水牛』アーカイブにも収録されています。

http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-848.html

2006年10月号 ガリン・ヌグロホの映画「オペラ・ジャワ」を見て ★

※ガリン・ヌグロホはインドネシア人の映画監督で、国際的な映画フェスティバルに多く出品。

●以下は 『水牛』冨岡三智アーカイブ にあります。
http://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka

2013年5月号:「サストロダルソノ家の人々 ジャワ人家族三代の物語」の世界(1)
2013年6月号:「サストロダルソノ家の人々 ジャワ人家族三代の物語」の世界(2)
2014年5月号:映画「アクト・オブ・キリング」(1)
2014年6月号:映画『アクト・オブ・キリング』(2)

「サストロダルソノ家の人々」はウマル・カヤム(元ガジャマダ大学教授)の著作。「アクト・オブ・キリング」は、インドネシアで1965年9月30日に発生した虐殺事件を、虐殺の側にあった人々にカメラの前で再現させるという手法で撮影した映画。製作:イギリス、デンマーク、ノルウェー。監督:ジョシュア・オッペンハイマー。
『水牛』 主催/出演した公演、見た公演についての記事
音楽家・高橋悠治氏のサイト『水牛』に2002年11月からエッセイを寄稿し始めましたが、2020年9月号で190本に達しました。ほぼ18年の連載で、欠かさなければ215本に達していたはずですが、通信事情や身辺多忙のため送れなかった回も毎年1~2回は生じています。自分でも過去に何を書いたのか頭の中で整理しきれなくなり、テーマ別に目次を作ることにしました。複数のテーマにまたがる記事もありますが、1記事につき1テーマということで分類しています。

…ということを、2020年9月にやりかけていたのですが、その後いろいろと忙しくなって中断していました。このたび2021年5月号までの記事も入れて、あらためてその続きをすることにします。



今回は、『水牛』寄稿記事の中で、私が主催したり出演したりした公演、また私が見た公演について書いた記事をまとめました。

●以下の5本は本ブログの 水牛アーカイブ未収録記事一覧 にあります。

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2003年03月号 ジャワでの舞踊公演(1)公演の背景
2003年04月号 ジャワでの舞踊公演(2)
2004年11月号 日本の獅子舞、インドネシアの獅子舞
2004年12月号 『大野一雄の宇宙と花』によせて
2005年10月号 プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その1
2005年11月号 プカンバルより~第4回コンテンポラリ舞踊見本市~ その2
2005年12月号 男性群像の魅力

●以下は 『水牛』冨岡三智アーカイブ にあります。
http://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka

2007年02月号:ジャワに舞う能
2007年07月号:第4回インドネシア舞台芸術見本市
2008年07月号:ヤマタノオロチと立ち合う
2008年08月号:布石の8月
2008年10月号:石見神楽とジャワ舞踊による「オロチ・ナーガ」
2009年07月号:HMPのインドネシア公演
2009年10月号:ジャワ舞踊と落語の公演
2010年10月号:観月の夕べ
2010年08月号:大阪でのテアトル・ガラシ公演
2011年09月号:「パンジー・スプー」上演をめぐる問題
2012年01月号:チャンディより謹賀新年
2012年08月号:学会と観光
2012年10月号:庭火祭 こぼれ書き
2014年07月号:東ジャワのポテヒ
2014年10月号:台湾とインドネシアのポテヒ(布袋戯)
2014年12月号:インドネシアン・ダンス・フェスティバル(IDF) 
2015年05月号:インドネシアの「世界ダンスの日」
2015年06月号:再び「安宅」論
2017年12月号:能舞台に舞うジャワ舞踊
『水牛』 インドネシア芸術についての記事
音楽家・高橋悠治氏のサイト『水牛』に2002年11月からエッセイを寄稿し始めましたが、2020年9月号で190本に達しました。ほぼ18年の連載で、欠かさなければ215本に達していたはずですが、通信事情や身辺多忙のため送れなかった回も毎年1~2回は生じています。自分でも過去に何を書いたのか頭の中で整理しきれなくなり、テーマ別に目次を作ることにしました。複数のテーマにまたがる記事もありますが、1記事につき1テーマということで分類しています。

…ということを、2020年9月にやりかけていたのですが、その後いろいろと忙しくなって中断していました。このたび2021年5月号までの記事も入れて、あらためてその続きをすることにします。



今回は、『水牛』寄稿記事の中で、インドネシア芸術について書いた記事をまとめました。

●以下の5本は本ブログの 水牛アーカイブ未収録記事一覧 にあります。

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2003年12月号 アジアのコラボレーション(1)
2004年01月号 アジアのコラボレーション(2)
2004年09月号 独立記念日と芸術あれこれ
2005年07月号 IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その1
2005年08月号 IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その2

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2008年3月号:スハルト大統領の芸術
2011年12月号:1961年インドネシア舞踊団来日
2013年8月号:代表的なインドネシア舞踊とは?
2016年1月号:申年に思う
2018年9月号:アジア大会開幕式

2016年1月号のタイトルが変ですが、これは1961年開始のジャワ舞踊劇『ラーマーヤナ・バレエ』用に多くの猿の舞踊の型が創られたこと、そして、そのおかげでアセアンの他の国に比べてインドネシアには猿の踊りが多いという話です。
『水牛』 ジャワの伝統的な生活について書いた記事
音楽家・高橋悠治氏のサイト『水牛』に2002年11月からエッセイを寄稿し始めましたが、2020年9月号で190本に達しました。ほぼ18年の連載で、欠かさなければ215本に達していたはずですが、通信事情や身辺多忙のため送れなかった回も毎年1~2回は生じています。自分でも過去に何を書いたのか頭の中で整理しきれなくなり、テーマ別に目次を作ることにしました。複数のテーマにまたがる記事もありますが、1記事につき1テーマということで分類しています。

…ということを、2020年9月にやりかけていたのですが、その後いろいろと忙しくなって中断していました。このたび2021年5月号までの記事も入れて、あらためてその続きをすることにします。



今回は、『水牛』寄稿記事の中で、ジャワの伝統的な生活について書いた記事をまとめました。

●以下は本ブログの 水牛アーカイブ未収録記事一覧 にあります。
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2004年07月号 マンクヌガランの観光舞踊

●以下は 『水牛』冨岡三智アーカイブ にあります。
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2008年01月号:外から見たジャワ王家〜ジャカルタでのアンゴロ・カセ
2010年12月号:地震と火山
2011年06月号:都市の顔:ソロとジョグジャ
2011年10月号:ジャワの宗教、信仰、呪術
2013年01月号:ジャワと干支、巳年にむけて
2013年03月号:ジャワの二方位、四方位
2013年04月号:ジャワの二方位、四方位(2)ソロの四方位に見る南海
2016年06月号:ジャワ人の名前と呼び方
2017年01月号:ジャワ神秘主義と卵
2017年08月号:ジャワの雨除け、雨乞い
『水牛』 ジャワ王宮の伝統行事について書いた記事
音楽家・高橋悠治氏のサイト『水牛』に2002年11月からエッセイを寄稿し始めましたが、2020年9月号で190本に達しました。ほぼ18年の連載で、欠かさなければ215本に達していたはずですが、通信事情や身辺多忙のため送れなかった回も毎年1~2回は生じています。自分でも過去に何を書いたのか頭の中で整理しきれなくなり、テーマ別に目次を作ることにしました。複数のテーマにまたがる記事もありますが、1記事につき1テーマということで分類しています。

…ということを、2020年9月にやりかけていたのですが、その後いろいろと忙しくなって中断していました。このたび2021年5月号までの記事も入れて、あらためてその続きをすることにします。



今回は、『水牛』寄稿記事の中で、ジャワ王宮の伝統行事について書いた記事をまとめました。

●以下の2本は本ブログの 水牛アーカイブ未収録記事一覧 にあります。

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2003年06月号 スラカルタの年中行事(1) 
2003年07月号 スラカルタの年中行事(2) 

●以下は 『水牛』冨岡三智アーカイブ にあります。
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2015年01月号:スカテン祭り
2015年07月号:断食月と王宮とガムラン
2016年05月号:パレード
2018年07月号:ブドヨ・クタワン
2019年08月号:犠牲祭(イドゥル・アドハ)
2019年12月号:8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録
2020年09月号:ジャワ暦大晦日の宝物巡回
2021年01月号:丑年にちなんで~水牛キヤイ・スラメットの話
『水牛』 ジャワ舞踊について、学ぶことについて書いた記事
音楽家・高橋悠治氏のサイト『水牛』に2002年11月からエッセイを寄稿し始めましたが、2020年9月号で190本に達しました。ほぼ18年の連載で、欠かさなければ215本に達していたはずですが、通信事情や身辺多忙のため送れなかった回も毎年1~2回は生じています。自分でも過去に何を書いたのか頭の中で整理しきれなくなり、テーマ別に目次を作ることにしました。複数のテーマにまたがる記事もありますが、1記事につき1テーマということで分類しています。

…ということを、2020年9月にやりかけていたのですが、その後いろいろと忙しくなって中断していました。このたび2021年5月号までの記事も入れて、あらためてその続きをすることにします。



今回は、『水牛』寄稿記事の中で、ジャワ舞踊を学ぶこと、師事することについて書いた記事をまとめました。

●以下の5本は本ブログの 水牛アーカイブ未収録記事一覧 にあります。なお★印のものは『水牛』アーカイブにも収録されています。
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2003年10月号 舞踊とリハビリ
2004年02月号 心をとらえるもの
2004年03月号 ラサを支えるもの
2006年07月号 風景が変わること
2006年11月号 動きを揃えること ★

●以下は 『水牛』冨岡三智アーカイブ にあります。
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2007年09月号:己が姿を確かめること その1 鏡を使うこと
2007年11月号:己が姿を確かめること(2)ビデオを使うこと
2018年06月号:儀礼と見世物
2018年10月号:動きを生み出すもの
2020年12月号:師事すること
2021.05水牛「1980年代のジャカルタで生まれたブドヨ~『キロノ・ラティ』」
2021年9月16日、 いくつか注を加筆し、参考写真もアップしました。

高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
2021年5月」(水牛のように)コーナーに、
1980年代のジャカルタで生まれたブドヨ~『キロノ・ラティ』」を寄稿しました。

20210403kironoratihsulistyofoto.jpeg
「キロノ・ラティ」写真(提供:Sulistyo Tirtokusumo)
※クリックすると画像が拡大します。




1980年代のジャカルタで生まれたブドヨ~『キロノ・ラティ』
冨岡三智


4月29日は世界ダンスの日である。インドネシアのタマン・ミニ(テーマパーク)でも毎年舞踊公演が行われてきたが、今年はコロナ禍の折柄、各団体の公演映像が配信された。スリスティヨ・ティルトクスモ氏の2作品:スリンピ『チャトゥル・サゴトロ』とブドヨ『キロノ・ラティ』も、タマン・ミニに所属する舞踊団により上演された。注1 前者については『水牛』2021年1月号に書いたので、注2 今回は後者の作品を本人へのインタビューに基づいて紹介しよう。

~~~

ブドヨ『キロノ・ラティKirono Ratih』はスリスティヨ・ティルトクスモが1982年に振り付けたブドヨ作品(9人の女性による舞踊)である。初演時は『レンゴ・プスピト Renggo Puspito』という題だったが、後に『キロノ・ラティ』と改題された(後述)。弓を射る鍛錬をする女性たちを描くことを通して、自立や信念のために戦う女性の強さの中にある美しさを描いている。弓は武器であり、また素早く的確に伝わる思いや感情のメタファとなっている。

●振付家
1953年スラカルタ生まれ。幼少より複数のスラカルタ宮廷舞踊家に師事。1969~1971年『ラマヤナ・バレエ』で2代目ラーマ王子をつとめ、その間、全国ラマヤナ・フェスティバル(1970年)、国際ラマヤナ・フェスティバル(1971年)に出演。1971年にジャカルタに移り、舞踊家、振付家として活躍。スラカルタ宮廷のスリンピやブドヨを多く伝承する他、主な振付作品にはスリンピ『チャトゥル・サゴトロ』(1973年)、ブドヨ『キロノ・ラティ』(1982年)、ブドヨ『スルヨスミラッ』(1990年)。現代舞踊作品『パンジ・スプ―』(1993年) 注3 などがある。

●音楽と振付
この作品では「ボンダン・キナンティ」という曲を使用する。ロカナンタ社からマンクヌガラン王宮で録音された曲のカセットが市販されているが、氏はそのカセットを聴いていた時、「ボンダン・キナンティ」の曲からテンポが速くなって「ラドラン・スマン」に移行する部分でインスピレーションを得て、この作品を振り付けたという。したがって、曲の進行はこのカセット通りなのだが、テンポが速くなるとジョグジャカルタ宮廷の舞踊のようにスネアドラムとトランペットの音を追加し、踊り手が勇壮に弓を構え何度も左右を睥睨(へいげい)するシーンの表現としたところに、この振付家の独自性が現れている。1970年代以降、スラカルタの芸術大学では新しい宮廷舞踊作品(スリンピやブドヨ)がいくつも創られたが、スネアドラムやトランペットを取り入れたものはないようだ。氏は母親がジョグジャカルタ出身であることから、自身のルーツの表現として意識的に取り入れたという。

この作品では踊り手は弓を手に登場する。スリンピやブドヨの振付には必ず戦いのシーンがあるものの、実際に武器を手に持つ演目は少なく、戦いは抽象的に描かれる。しかし、本作に限らず氏の作品では武器を実際に所持し(スリンピ『チャトゥル・サゴトロ』ではダダップ、ブドヨ『スルヨスミラッ』ではピストル)、古典的な振付よりも激しく戦い、リアルさを感じさせるのが特徴である。

これらの武器の中でなぜ弓を選んだのかとたずねたところ、特に理由はないが、弓は自分自身の一部のように感じているという。氏自身、『ラマヤナ・バレエ』のラーマ王子や古典舞踊のクスモウィチトロ(演目『サンチョヨ×クスモウィチトロ』)の名手として有名だが、これらのキャラクターはいずれも弓を持つ。そういえば、現代舞踊として振り付けた『パンジ・スプ―』でも、氏は弓を手にしていた。

本作で使う弓には矢がセットされており、スリンピやブドヨ専用のデザインである、この場合、踊り手は箙(えびら、矢を入れる筒)を肩に背負わない。このデザインの弓を持つスラカルタ宮廷の舞踊はスリンピの『ロボン』か『グロンドンプリン』しかないが、氏はこれらの舞踊は見たことはないという。では、弓の扱いは何を参考にしたのだろうかと思っていたところ、Tyra Kleenというスウェーデン人画家が1920年代に描いたスラカルタ宮廷の踊り子の絵画を参考に、イメージを膨らませたとのことだった。

本作の前半では、スリンピ『ゴンドクスモ』や『タメンギト』の動きが多く取り入れられている。テンポが速くなると、踊り手はまず一列横隊になって弓を構え、場所移動して次は飛行機のようなフォーメーションで一方向を向いて弓を肩の高さに掲げ、再び移動して今度は弓を放つ(といっても矢はセットされているので、飛んでいかない)。テンポが速くなると上述したようにスネアドラムとトランペットの音が入り、踊り手はその音に合わせて軍隊のように力強く頭を左右に振り、裾を蹴る。そのシーンは非常に強い印象を与える。弓を射るや一転してシルップ(鎮火の意。音楽が静かになる)となり、外側にいる5人が座り、中央にいた踊り手4人が立って踊る。シルップのシーンの動きはスリンピ『スカルセ』から取られている。シルップが終わると踊り手は最初の位置に戻って曲が終わる。その後扇を取り出し、それを扱いながら退場する。『チャトル・サゴトロ』でも最後に扇を取り出すが、これはフェミニンな雰囲気を取り戻す効果を狙っている。このように、氏はダイナミクスの変化をはっきりと打ち出すことを重視している。

本作は初演時は約25分の作品だったが、その後様々な機会で上演できるように本人の手で短縮され、現在は約15分の作品となっている。また、次で述べるように初演時はファッションショーとしての上演で、舞台は狭いT字状のキャットウォークだったため、フォーメーションは現在とは異なっていた。なお、1985年からは大統領宮殿で国賓を迎えての行事で上演されるようになった。

●初演とイワン・ティルタ
この作品が初演されたのは、1982年12月14日、ジャカルタのマンダリン・ホテルである。雑誌社のフェミナ、バティック(ジャワ更紗)作家のイワン・ティルタ、化粧品会社のレブロンがスカル・ムラティ財団のために行ったチャリティショーの一環であり 注4、自身のデザインしたバティックをプロモーションすべく、イワン・ティルタがスリスティヨにブドヨ作品を依頼したのである。1970年代末頃からイワン・ティルタはジャカルタにおけるジャワ舞踊公演のパトロンとして活躍するようになっていた。スリスティヨはこの公演の前に何度か共同したことがあり、この後約30数年にわたり彼と共同することになる。初演時の衣装はイワン・ティルタがデザインしたドドッ・アグン(上半身に大きな布を巻き付ける着方)で、バタッ(最重要の踊り手)はスメンsemenと呼ばれるモチーフ(ジョグジャカルタ王宮で結婚式に用いられる柄)の、それ以外の8人はガガッ・セトgagak setoと呼ばれるモチーフのバティックのドドッ・アグンを着用した。注5 しかし、それ以降はドドッ・アグンの場合もあればビロードの上着に冠を被ることもあり、上演の場に応じて自由に選ばれている。

●初演とムルティア王女と作品名
実はこの初演時にバタッを務めたのが、当時22歳だったスラカルタ王家のムルティア王女である。スリスティヨは元々スラカルタ王家の踊り手であり、王女のきょうだいたちと懇意だった。当時、ムルティア王女はジャカルタの国会図書館で研修を受けており、それを知ったスリスティヨが自身の教える舞踊団の練習に参加するよう誘ったのである。その際に王女からスリンピ『スカルセ』を習い、それを『キロノ・ラティ』の振付に生かしたという。このチャリティーショーの様子を取材した雑誌フェミナの記事には、王女にとってこの上演が王宮外で踊った最初であると記されている。

当初、スリスティヨは作品の題を「レンゴ・プスピト(レンゴの花)」としていた。女性たちを花にたとえたのである。しかし上演後、イワン・ティルタから題がバティックのモチーフ名と同じで 注6、舞踊作品名としてはふさわしくないと言われ、改題することにした。そこで、大学でジャワ文学を専攻していたムルティア王女に命名を依頼し、その結果王女が考案した名が『キロノ・ラティ(月光の意)』だった。バティックのモチーフ名を舞踊に使うのがなぜふさわしくないのか、スリスティヨはその理由を聞いていないそうだが、おそらく、バティック作家であるイワン・ティルタにとっては、舞踊のイメージとバティックのモチーフのイメージにずれがあったのではないかと想像する。

なお、このような経緯があるため、スラカルタではブドヨ『キロノ・ラティ』の作者がムルティア王女だと信じる人もいるが、実際はスリスティヨ氏の作品である。注7 とはいえ、王女がこの作品の成立に影響を与えたことも事実である。



注1
TMII Official(2021/4/29公開)
Gelar 46 Karya Seni Tari dalam 4 Jam 60 Menit bersama 46 Koreografer | TMII
https://www.youtube.com/watch?v=sY98SRxyzvY

NO. タイムコード:内容
48. 3:15:34​ : 世界ダンスの日挨拶:(KP スリスティヨ・ティルトクスモ)      
49. 3:18:48​ : スリンピ『チャトゥル・サゴトロ』
50. 3:34:16​ : ブドヨ『キロノ・ラティ』


●この映像で記されている上演シノプシス
Sinopsis Tari Kirana Ratih :
Kirana Ratih merupakan tarian yg menggambarkan para perempuan yg sedang berlatih memanah sebagai ungkapan keindahan dari kekuatannya yg tengah memperjuangkan kemandirian dan rasa percaya diri.
Di sini panah bukan hanya sekedar senjata, tapi juga lambang penyampaian pikiran dan perasaan yg cepat dan tepat.
TMII KIRONO RATIH
(画像をクリックすると拡大します)

注2
「1970年代のジャカルタで生まれたスリンピ〜『チャトゥル・サゴトロ』」
http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-1024.html

参考映像
注1の映像ではフォーメーションが変更されており、こちらの映像の方が参考になる。
Putri Diahastari (2018/03/04)
Tari Bedayan Kirono Ratih oleh Sekar Puri 04-03-2018
https://www.youtube.com/watch?v=EMjTKmPT2LQ




以下は2021年9月16日加筆分

注3
『パンジ・スプ―』の映像
https://www.youtube.com/watch?v=9fBlvZl8YBM


注4
『ブドヨ キロノ・ラティ』が初演されたチャリティーショーの様子を掲載する『雑誌フェミナ』(XI-11 Januari 1983号)。スリスティヨ氏提供。左ページ下が出演するムルティア王女。
femina1983.jpeg

注5
原文の語順が間違っていたので、ここでは訂正しています。

注6
レンゴ・プスピトの柄は、スラカルタのハルジョナゴロ氏(スラカルタのバティック作家、スカルノの命によりバティック・インドネシアを創出した人、王宮文化の庇護者でもある)が考案したもののようです。私がハルジョナゴロ氏からいただいた映像『BungKarno dan Haddjono Go Tik Swan』の中で、その柄が紹介されていました。以下の写真はその映像から撮ったものです。

renggopuspitoweb.png

ちなみに、この柄が分かったということをスリスティヨ氏に連絡すると、偶然ながら舞踊にあるフォーメーション(下の写真)とイメージが似ていると言っていました。
kiranaratih5web.jpg

注7
この点に関して、すでに、15年前の『水牛』寄稿記事で書いていました。今、気づきました…

『水牛』2005年2月号 振付家名のクレジット(1)
http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-877.html

(該当部)
このような意識は実は現在にもまだ生きている。たとえばソロの宮廷には新しいレパートリーとして「ブドヨ・キロノラティ」という作品がある。これは宮廷ではムルティア王女の作だとされているが、実際はスリスティヨという人が作っている。その初演時にムルティア王女がバタッというブドヨでは一番重要なパートを踊り(スリスティヨ氏はかつてソロの宮廷で踊っており、王女とは親しい)、王女がこの作品を気に入って宮廷でも使いたいと断ったという。しかし他人の作品を上演するというなら通常は元の振付家の名前をクレジットするところだが、宮廷がそうすることはない。