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2023.07水牛「ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要」
高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
2023年07月」(水牛のように)コーナーに、
ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要」を寄稿しました。

本記事 https://suigyu.com/2023/07#post-9160
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka


ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要
冨岡三智


実は仕事をやりくりして、6月半ばから少しインドネシアのスラカルタに行っていた。今回の主目的は、ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要への出席である。2020年10月号の『水牛』に「ジョコ・トゥトゥコ氏の訃報」を書いたのだけれど、早いもので、もう1000日法要の日が巡ってきた。ジャワでは亡くなって40日目、100日目、1年目、2年目、1000日目に法要を行い、この1000日目に墓石を建てて一区切りとする。ジョコ・トゥトゥコ氏は私が宮廷舞踊で師事していた師匠の故ジョコ女史の息子で、2回目の留学時期(2000~2003年)には大変お世話になった。2000年にインドネシアでは3つの国立芸大で大学院が開講し、スラバヤの教育大で舞踊を教えている彼もスラカルタの芸大大学院で学ぶために実家に戻ってきていた。彼のおかげで私の視野も人脈も広がり、彼の大学院修了試験公演に起用してもらって、その経験は大きな財産になった。私の大恩人だし、師匠の一族とは今まで法要で何度も顔を合わせているので会いたかったのだった。というわけで、渡航の主目的は土曜夜の法要のお祈り、日曜朝の墓参りである。

月曜にジャカルタからスラカルタに飛び、着陸した時に機内でサルドノ・クスモ氏とばったり出くわす。サルドノ氏はスラカルタの芸大大学院で教鞭をとっていた現代舞踊家で、ジョコ・トゥトゥコ氏の指導教員でもあった。なんだかジョコ氏が縁をつないでくれたような感じだ。私が定宿にしている所はサルドノ氏の実家のレストランからすぐ近くなので、一緒に空港からタクシーでレストランまで行き、昼食をとる。サルドノ氏は1週間前に私の3月公演の様子を映像作家のウィラネガラ氏(この3月公演で来日)から聞いていたらしい。というわけで、私の2021年、2023年の堺公演の映像やら、過去の私のコラボレーション作品やらを見てもらったり、ジョコ氏の話をしたりであっという間に時間は経ち、話し足りないということでまた水曜にも会うことになった。

水曜昼前、サルドノ氏が大学院の授業を行いジョコ氏が終了公演を行った場所に向かう。以前あったプンドポ(ジャワの伝統建築)やダレム(奥の間)は、床や壁の一部が残るばかりだ。実は2008年にここに来た時にはすでに廃墟のようになっていたが、いまはその廃墟の空間を覆うように頭上には鉄骨製の高い屋根ができ、2階にテラスができて、不思議な空間になっている。ここを再び町中の芸術拠点にしようとこの屋根をつけて改装オープンしてすぐにコロナ禍になってしまったので、活動ができないままになってしまっていたという。けれど、そろそろ大学生やらがここで制作したり公演したりできるようにしたい…というわけで、職人が何人か作業をしていた。今後の芸術の方向だとかの話をしたのだけれど、サルドノ氏は今年で78歳。見かけは白い髪と顎髭を長く伸ばした仙人だが、20年前から頭の中は全然老けていなくてエネルギーに満ちているなあと実感。今の60~70代の、サルドノ氏より年下世代の舞踊家たちと比べても若々しく、ずっとトップランナーであり続けている気がする。その後、実家のレストランの3階(月曜に食事したレストランの近くに、もう1軒、3階建てのレストランがある)も見せたいということで、そちらへ向かう。以前、スタジオに置いていた古いガムラン楽器のセットや自身の抽象的な絵画作品が置いてある。この空間を見ると、宮廷舞踊家(ジョコ・トゥトゥコ氏の祖父)の弟子で、にも関わらず1970年にコンテンポラリ舞踊作品を発表してセンセーションを起こし師匠と衝突してしまうことになったサルドノ氏のあり方~根っこの伝統と最先端を両方つかんでいる~がくっきり出ているなあと思う。

他の日には芸大(ISI Surakarta)にほぼ毎日行って、振付の師、学長、第一副学長、ガムラン音楽科の教員らに会い、今年3月と2021年10月に堺で行った公演の映像を見てもらって、いろいろアドバイスをもらったり、これからのヒントをもらったり、意見交換したりした。実は、それが今回の渡航の第二の目的だった。振付の師には創作を指導してもらっただけでなく、私の宮廷舞踊の公演や録音に歌やクプラ(舞踊に合図を出すパート)で参加してもらってきた。ちょうど大学院の入試面接で忙しくしていたが、会って食事し、話をすることができた。学長や第一副学長はウィラヌガラ氏(3月の公演のために映像を制作してくれた映像作家、公演のため来日)から公演の話をすでに聞いていたと言う。サルドノ氏もウィラネガラ氏から話を聞いていたと言っていたし、知らないところで情報をつないでくれることが本当にありがたい。これらの人々には、1時間近い宮廷舞踊の上演や重い曲である「ガドゥン・ムラティ」を演奏したりして、観客からの反応が好評だったこと、有料公演で提示したこと、関西ガムランのレベルの高さなどに大変驚かれた。だいだいジャワ人は、こういう演目は退屈で飽きられると思っている。けれど本当の宮廷儀礼に触れたい、本当の瞑想的な雰囲気に浸りたいという観客は、少ないかもしれないけれど確実にいる、と私は強調した。そうそう、木曜夜に見に行った公演で、元TBS(スラカルタにある中部ジャワ州立芸術センター)で照明をしていた人(すでに定年)が見に来ていて、「あー!君はブドヨ・パンクル公演のミチだね!」と出会うやいなや言ってくれたことが非常に嬉しかった。私の『ブドヨ・パンクル』公演もこの人に担当してもらったのだが、それは2007年のことなのだ。それで、この人にも私の堺公演の映像をみてもらい(私はどこにでもパソコンを持参していたのだった)、照明家ならではのアドバイスをもらった。

ちなみに、ウィラヌガラ氏は毎月スラカルタの芸大大学院に教えに来ていて、今回私の来イネに予定を合わせて授業の日を調整してくれたので、一緒に食事する。その時に、3月の堺公演のためにお祈りしてくれたスラカルタ王家のラトゥ・アリッ王女(故パク・ブウォノXII世の長女)も誘ってくれて、3人で食事となり、やはり公演映像を見ていただいた。公演で使ったウィラヌガラ氏の映像には故パク・ブウォノXII世を始め亡くなった王家関係者が多く映っており、供物を作って王宮の各所に備えている宮廷儀礼の様子も映っていてとても貴重だ。ウィラヌガラ氏は2004年にパク・ブウォノXII世が亡くなるまでずっと王と王家のドキュメント映像を撮り続けてきた人なのである。王女からも様々なコメントや励ましの言葉を戴き、記念にとバティックまで頂戴する。

というような感じで、わたしの滞在はあっという間に過ぎてしまった。いま、これを書きながら、なんだか過去にも似たようなことをしていたような気がしていたのだが…思い出した!ジョコ・トゥトゥコ氏の公演に出た後2週間足らずで留学を終えて帰国し、その半年後に大学院生となってインドネシア調査に行った時に、いろんな人に自分の舞踊に対する批評やアドバイスを求めて廻っていたのだった…。しかも、その時の様子を2004年2月号の『水牛』に「心をとらえるもの」として書いていた。そして、この時もサルドノ氏にいろいろアドバイスをもらっていた(!)。あれから約20年、私はちょっとは成長できているのだろうか…。今は亡きジョコ・トゥトゥコ氏その母や私の師匠の故ジョコ女史に問うてみたら、何と答えてくれるだろうか…。
7/16 ジャワ舞踊・基礎練習ワークショップ
7/16ラントヨ・ワークショップ終了しました。奈良県北部から3名参加してくださいました。今回は皆でサンパランkain samparan(通常の腰布より生地が長く、引きずって着る、宮廷舞踊の着付け方)を巻き、サンパランの裾を蹴って歩きました。ゆっくりした音楽にのって丁寧に、音楽の節目を意識しながら歩くこと、手の動きが体についていくこと、体を押し出すことを意識するようにやりました。ゆっくりした動きに集中し、瞑想のような体験で心地よかったという感想があって嬉しいです。次回は8/20 14:00~(毎月第3日曜)です。


2023.06水牛_「パンチャシラの日によせて」
『水牛』6月号の記事のこと、こちらにアップするのをすっかり忘れておりました。

高橋悠治氏のサイト『水牛』(http://suigyu.com/)の
2023年06月」(水牛のように)コーナーに、
パンチャシラの日によせて」を寄稿しました。

本記事 https://suigyu.com/2023/06#post-9112
冨岡三智バックナンバー https://suigyu.com/category/noyouni/michi_tomioka


パンチャシラの日によせて
冨岡三智


6月1日はパンチャシラの日(インドネシアの国民の祝日)。というわけで今月はパンチャシラ関連の思い出について。

●パンチャシラの日とは

この日の正式名称はHari Lahir Pancasila(パンチャシラ誕生の日)と言う。パンチャシラはインドネシアの国家五原則のこと。1945年6月1日(日本軍政期)の独立準備調査会の席上で、スカルノ(のちに初代大統領となる)によってその概念が提唱され、独立後に制定された1945年憲法の前文に掲げられた。1970年代末以降国民統合の象徴として称揚され、道徳教育として学校や公務員に浸透している。これが国の祝日に指定されたのは2016年、ジョコ政権下(2014~現在)になってからである。大統領はこの国際競争社会の中、パンチャシラ精神があれば逆境を克服することができると呼びかけたのだが、その背景には初の華人系キリスト教徒のジャカルタ知事・アホック氏に対するイスラム強硬派の抗議や、海外におけるISなどイスラム過激派の動きの活発化と国内の過激派団体の同調などがあり、多様性の中の統一の維持を強く打ち出したかったのだと思える。パンチャシラの5原則の第1項は唯一神への信仰である。インドネシアでは現在6宗教(イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンドゥー、儒教)が公認されており、このうちどれかを信教しなければならない。パンチャシラは宗教の別を問わず統合の象徴として存在している。

●2007年12月3日 タマンミニでのアンゴロ・カセ

この行事については、実は2008年1月号の『水牛』に寄稿した「外から見たジャワ王家~ジャカルタでのアンゴロ・カセ」で書いているので、そちらも読んでいただければ幸いである。ジャカルタのタマン・ミニ公園で開催されたアンゴロ・カセというイベントは、2007年1月から観光文化省の唯一神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニと協力して始めたもので、意見の異なるさまざまな信仰団体の人たちが直接意見を戦わせる場として設けられ、毎回ゲストスピーカーを招いて話を聞き、質疑応答が行われていた。実は2006年8月から就任した信仰局長(スリスティヨ・ティルトクスモ氏)が始めたイベントで、それ以前にも同様の機会がなかったわけではないが、長くは続かなかったらしい。私が出席したのは第9回目の開催だった。最初、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」を斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。インドネシアでは信仰と宗教は区別され、管轄も違う。このアンゴロ・カセに集うクジャウィン(ジャワ神秘主義)の団体は観光文化省唯一神への信仰局の管轄で、上でのべた公認6宗教は宗教省の管轄である。そのことはすでに知っていたが、信仰を持つ団体の拠り所もまたパンチャシラであるということに、私はこの場で初めて気づいた。

●2011年5月31日~6月1日 トゥガルで踊る

中部ジャワ州トゥガルにある信仰団体Padepokan Wulan Tumanggalのパンチャシラの日の記念式典で踊ってほしいと依頼がきた。この時でパンチャシラの式典は5回目くらいだったと私はブログに書き残している。ということは、上のタマンミニでのアンゴロ・カセ開始を機に始まったのかもしれない。段取りはまず前夜の5月31日夜に開会式。後援する観光文化省信仰局長(代理)やら警察やら市の関係者やら多くの来賓を迎えてホールで式典ののち食事、その後舞踊上演。私は自作の『妙寂アスモロドノ・エリンエリン』を披露した。翌6月1日朝9時から屋外の広場で国旗掲揚ののち、各種芸能の上演があった。この日は太鼓上演や東ジャワのレオッグなど大人数で大音量で上演するものが多かったが、私は1人でガンビョンを踊った。その後昼食があり、午後1時から4時まで「Pembinaan “Hari Pancasila”(「パンチャシラ」の育成)」をやったあと閉会式。この午後からのイベントがどういう内容だったのか思い出せないのだが、講演かディスカッションだったような気がする。

この信仰団体のパデポカン(施設)は、この種の施設としてはかなり規模が大きい方らしかった。確かに広大な敷地の中に開会式を行ったホールや国旗掲揚広場、信者たちが修行のため寝泊まりする建物が点在していた。修行のため信者はアスファルトの上に直に寝るということで、寝泊まりする部屋の床はアスファルトのままだったことを覚えている。さすがに私の部屋には敷物を敷いてくれたが…。またパンチャシラの日だけでなく、ジャワ暦正月、カルティニの日など、国の記念日に際してさまざまな式典を行っているのも、この種の施設としては他にないようだとのことだった。

実は2011年~2012年はジョグジャカルタで調査していた。今度、パンチャシラの日の記念式典で踊るんだよと知り合いの先生に知らせたら、インドネシアのために有難うという返事がきて、パンチャシラというイデオロギーの重みを少し実感したことを思い出す…。

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※ この時の写真





●2011年9月16日バンドンで踊る

西ジャワ州バンドンにある信仰団体Budidayaの式典で踊ってほしいと依頼が来た。この団体はスカルノがパンチャシラの概念を打ち出すのに影響を与えたメイ・カルタウィナタ(Mei Kartawinata)が立ち上げた団体で、1927年の9月16日にメイに啓示となる出来事があって発足したようだ。RRI(国営ラジオ放送局)バンドン支局でその式典は行われた。これも信仰局が後援。私は自作「Nut Karsaning Widhi」を初演したが、実はこの式典のために作った曲である。音楽はスラカルタの芸大教員であるワルヨ氏に委嘱し、イベントの趣旨を伝えたところ、olah batin=心の鍛練をテーマに歌詞と音楽を作ってくれた。タイトルもワルヨ氏がつけ、「魂を研鑽し、梵我一如となる」という感じの言葉らしい。Budidayaの人たちに聞いた話だが、この団体を始め信仰団体が開催するイベントはしばしば過激なイスラム団体によって妨害されるらしい。西ジャワは中部ジャワよりもイスラムがきついからかもしれない。私がRRIにいた間は大丈夫だった気がするが、開催にこぎつけるまでにいろいろあったようだ。

nut karsaning widhi
※この時の写真

●2011年大晦日 チャンディ・スクーで踊る

この時のことについては2012年1月号の『水牛』に「チャンディより謹賀新年」として書いている。これは、スプラプト氏が毎年注ジャワのチャンディ・スクー(ヒンドゥー遺跡)で開催している「スラウン・スニ・チャンディ」という催しで、これもやはり信仰局が後援するイベント。スプラプト氏はスピリチュアルな舞踊の第一人者とも言うべき人だ。実はこの時に私が上演した「Angin dari Candi(寺院からの風)」はバンドンで上演した「Nut Karsaning Widhi」と同じで、場に合わせてタイトルだけ変えたもの。私は衣装を借りに行った先で信仰局の人たちと鉢合わせしたのだが、彼らは芸術イベントが終わった後に開催される夜のお祈りで着る伝統衣装一式を借りに来ていた。ジャワの芸術家界隈には多いクジャウィン(ジャワ神秘主義)もインドネシア全土では少数派で、多数派のイスラム教徒からは受け入れられにくい存在らしく、信仰局としてはクジャウィンの活動をバックアップしたいということだった。


※この時の映像


というわけで、6月1日が来ると、この2011年の一連のイベントを思い出す。