2013年10月23日 (水)
インドネシアの劇団テアトル・ガラシのユディによる演出、ミヒャエル・エンデの作品、出演は日本人による作品をSPACで見てきました。
★10/25 写真追加
SPAC>サーカス物語のリンク http://www.spac.or.jp/13_juggler.html
ブログ、アフタートークの映像等もこのサイトから見られます。

『サーカス物語』
公演日:2013年10/19-20, 10/26-27,11/2-3(土-日)
SPAC/静岡芸術劇場にて
私が見に行った日:2013年10月19日15:00-(一般公演初日)
終了後アフタートーク、その後オープニング・パーティー
演出:ユディ・タジュディンYudhi Ahmad Tajudin
(俳優・スタッフ一同の構想に基づく)
音楽:イエヌー・アリエンドラYennu Ariendra
照明:イグナティウス・スギアルト Ignatius Sugiarto
作 :ミヒャエル・エンデ
訳 :矢川澄子(岩波書店刊『サーカス物語』より)


参照:
冊子「劇場文化」、「SPACeSHIPげきとも」
SPAC>サーカス物語 http://www.spac.or.jp/13_juggler.html
ブログ、アフタートークの映像等もこのサイトからリンクがあります。
追記★ 以下のサイトにもこの公演のレビューがあります!
「しのぶの演劇レビュー」(高野しのぶさんのサイト)
http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2013/1020200032.html
■ユディの演出について
私自身、ユディと知り合いで、以前SPACでやった『南十字☆路』も見ているし、その大阪公演もSPACの了承を得て主催させてもらったし、またインドネシアにいる時にも何度か彼の演出した舞台を見ている。そんな私が今回の舞台を見て感じたことを、散漫に書き連ねてみる。
なんで、ユディがヨーロッパ人のエンデが書いた『サーカス物語』の演出を委嘱されたのだろう?というのが一番最初に感じた疑問だったのだが、芸術総監督の宮城氏の説明によればこうだ。SPAC秋のシーズン」のシリーズでは、学校鑑賞事業のため世界の名作劇の上演を手掛け、『サーカス物語』もその観点から選ばれた。しかし、この物語は展開するにしたがって、大蜘蛛が登場したり明日国で戦うことになったりと奇想天外な場面がどんどん増えてきて、演劇作品としてどう表現すべきか難しくなった。ユディならばその奇想を超越する舞台作りができるだろうと考えたらしい。そこは『南十字☆路』の経験や、それ以前からの宮城氏とユディ氏との交流があってこその直観だっただろう。
舞台を見て、セリフが多いことにまず驚く。ユディ本人にもそう言ったら、笑っていた。彼が立ち上げた劇団テアトル・ガラシの公演ではセリフによって場面が展開していくわけではなく、言葉以外の身体の動きや視覚イメージといった要素が大きくモノを言うから、原作はあってもセリフは大きくカットされるかもと、勝手に予想していたのだった。今回は原作の世界がある上に、学生の鑑賞事業にもなっているため、ユディは言葉による伝わりやすさを意識したみたいだ。そこがなんとなく新鮮に感じられた。
終演後に気づいたのだが、演出:ユディだけではなく、音楽:イェヌー・アリエンドラと照明:イグナティウス・スギアルトも、ユディを支えるスタッフとしてテアトル・ガラシから参加していた。照明家は『南十字☆路』でも来日している。音楽については、開演前にジャワの伝統的な歌が流れていたり、どのシーンだか忘れたが不穏な音楽が流れるところで、ルバーブ(ジャワの胡弓)をゴシゴシ擦るような音が流れていたりしたので、音楽家がジャワ人だと知って納得。あの音と雰囲気はジャワ人でないと出せない。
アフタートークでは、ユディが英語を話したのでまた驚く。今回の制作では、ユディと日本人役者、スタッフは英語でコミュニケーションを取っていたらしい。これがインドネシア語でコミュニケーションだと、また雰囲気が違った作品ができていた可能性がある。
プログラムでは、演出のユディの名前の後に、「俳優・スタッフ一同の構想に基づく」とある。日本では演出家が100%指示している(又はそのように思われている)ために必要な註釈なのだろう。インドネシアでは演劇でも舞踊でも、そういう風に制作することが普通な――少なくとも多い――ように思われる。
■(プレ・)プロローグ
舞台は中央が円形に出ていて、サーカス小屋の中のようなイメージ。下手に一段低くなった狭いスペースがある。開演前から、モップを押す役者が1,2人、舞台を横切っている。この時、BGMにはジャワの伝統的な歌が流れている。彼らは登場人物には完全に扮しておらず、役者がそのまま舞台に上がったような感じ。そのうち役者たちが舞台上で準備運動したり、額縁入りの絵を持って舞台を横切ったりする。場内アナウンスはその間に挟まれていたはずなのだが、よく覚えていない。そのうち、下手に置かれた会議机で、役者たちのミーティングが始まる。演劇集団の団長が『サーカス物語』を読んで印象に残るものを持ってこいと言ってあり、団員たちはそれぞれ、鏡だの、さきほどの額縁入りの絵だの、バニラの芳香スプレーなどを持ってきて、それぞれの思いを語る。
『サーカス物語』では、立ち退きを命じられたサーカス団のその期限前夜の様子を描いている。ひょっこり戻ってきた放浪癖のあるピエロのジョジョに、知的障害のある女の子のエリが、自分たちが出てくる「つくり話」をせがむ。その「つくり話」が展開し、現実の世界と交錯してジョジョとエリが互いの記憶を取り戻し、お互いが探し求める相手だと知って物語が大団円を迎えたかに見えたあと、立ち退き前夜という現実に場面が戻る。団員たちは契約を破棄し、エリを手放さないと決意するが、明日朝にはここを出なくてはならない…。
ユディの舞台では、この入れ子構造の物語の前にさらにプロローグがあって、「つくり話」の力はより増幅されているように思える。劇中のサーカス団員は、「ジョジョのつくり話」を通して立ち退きという現実に立ち向かっていくことになるのだが、この「『サーカス物語』というつくり話」を通して、今度は私たち観客が現実世界に立ち向かっていくんだよと、SPAC劇団員に背中を押されている気がするのだ。ジョジョは立ち退きを命じる工場経営者から、エリを追い出してその工場が作っている製品を宣伝する専属契約を受け入れるならば、立ち退かなくて済むと持ちかけられている。しかし、エリがこのサーカス団に拾われたのは、この会社が引き起こした公害で汚染された地域だった…。つまり、エリの障害はこの公害と関わりがあるとほのめかされている。
エンデのこの作品は先進国の公害問題は下火になった1982年(日本語版出版は1984年)に書かれているから、近代化の負の面を描いた一般論の他人事として受け止めることも可能だっただろうが、現在の日本にはより深刻な原発問題が目の前にあるし、経済発展著しいインドネシアでは公害が大きな問題になりつつある。水俣病、イタイイタイ病という言葉はインドネシアでもよく知られている。だから、近いうちにインドネシア公演ができたら、現実社会の批判として受け止められる可能性が高いだろうと思う。公演にスポンサー企業がつかないという事態も起こるかもしれないし、また、所得格差が大きい国だから、公害企業が弱者の立場にある人々の生活救済のためと称して専属契約で商品を販売させることだって、実際に起こる可能性がある。戯曲では、サーカス団員たちがこの契約を受け入れないと決断するところで終わるが、エピローグのないこの公演では、観客自身にも決断するんだよというメッセージが残される。
公演後のアフタートークでも、「なぜエピローグを冒頭にも置いたのか」という観客からの質問があった。その場にいた私は、実はこの質問の意味が分からなかったのだが、ウェブで見直すと、立ち退き前夜の場面が物語の冒頭と最後にあるという点を指しての質問だったようだ。立ち退き前夜のシーンをそれぞれプロローグ、エピローグとして描くのは、戯曲にすでに盛り込まれた構造だと思うが、ユディはさらにプレ・プロローグあり、ポスト・エピローグなしの構造にしたと言える。
■エリとエリ王女
この公演で面白いと思ったのが、エリとエリ王女を別々の役者が演じていることだった。なぜそうしたのかユディに聞き忘れたが、出演者によれば、これは当初からユディのアイデアだったらしい。うまく言えないけれど、公演が進んでいくうちに、そうであることが自然に思えてきた。もしかしたら、身体障害者であるエリは不死身のエリ王女の影で、影が光を取り戻す物語でもあるのかもしれない。あるいは生身の人間エリがファンタジーの国に置き忘れてきたエリ王女という夢を取り返す物語でもあるのかもしれない。
■ガラスのお城と明日国(あしたのくに)

SPACウェブサイトより http://spac.or.jp/blog/?p=14681
ガラスのお城とは、ジョジョが語る物語の中で、エリことエリ王女が住む世界であり、明日国とは、ジョジョことジョアン王子が治める国。ガラスの国では白と鏡がモチーフで、舞台の背景には、六曲屏風のような鏡とそれに取り付けたドア枠のようなフレームが飛び出す絵本のように置かれる。真っ白のドレスを着たエリ王女や、白いヨーロッパ風上着に白い仮面をつけた城の住人が白いフレームをくぐり抜けるたび、彼らが鏡に映り込んで、どこまでが現実で、どこから鏡の中なのか分からないきらめきの世界が広がる。プロローグで鏡やきらきら光る物を持ってきた劇団員が多くいたので、鏡が重要なアイテムらしいと観客の頭に刷り込まれているから、どんな風にこの世界が描かれるのかとわくわくしながら見ていたが、期待を裏切らない。ちなみにこの飛び出す絵本式道具は日本人スタッフのアイデアらしい。
ちなみに、ガラスのお城という翻訳について、これは鏡のお城という意味ではないだろうか?と思ってしまった。エンデの言語ではどうか分からないが、インドネシア語では鏡もガラスも同じで、kacaと言う。実のところ両者の素材は同じで、ガラスの裏面をコーティングしたら鏡になるらしい。原作は読んでいないが、私が思うにガラスの城というのは鏡の中に広がる世界のことで、だからこそ、エリ姫は鏡で自分を見ない限り(生身の肉体を認識しない限り)不死身であり、城の住人もみな影なのではないだろうか…。ユディの演出でも、ガラスのお城は鏡の中の国として表現されていたように見える。

SPACウェブサイトより http://spac.or.jp/blog/?p=14617
さて、鏡の装置を裏返しに置くと、一転してカラフルな絵の衝立となって場面は理想の地・明日国となり、住民たちは原色でポップな衣装を着て登場する。この色合いはいかにもインドネシアだが、相当控えめだ。しかし他の観客には刺激が大きかったみたいで、トークでもこのポップというかサイケな色の感覚について話があった。ユディも、ここは日本だからということで、どうしても色を使いたくなる衝動をだいぶ抑えたらしい。さもありなん。放っておいたら、エンデの世界は『南十字☆路』の世界に取り込まれてしまったかもしれない…。
それはさておき、これらの2つの国は衝立の使い方と同様に、ちょうど表裏一体になっている。色を超越して無菌の白色光と影だけがあるガラス(鏡)のお城と、雑菌だらけの色が氾濫する(ついでにお色気もある)明日国。ヨーロッパ伝統風衣装とインドネシア・ポップ風衣装。この二元的な世界の描き方は――おそらくユディは全然意識していないだろうが――ワヤン(影絵芝居)的という気がする。ちなみに、アフター・トークでのユディの言によれば、出演者たちは明日国に発展途上国のイメージを重ねたそうだ。
■大蜘蛛アングラマイン
ジョアン王子を籠絡する謎の女の正体が大蜘蛛なのだが、これが、「かに道楽」風の写実的で巨大な作り物ではなく、背の高い三輪車に乗る姿で表現されていて秀逸だなあと思う。ユディが三輪車に目をつけたのは、それがサーカス小屋にあってもおかしくないものだからだと言う。アングラマインは2人1役で、前輪には女性が座り、後輪に男性が後ろ向きに座って漕いでいる。場面により声が変わるだけでなく(女声、男声、両方の声)、女声は前方の高い所から、男声は後方の低い所からと立体的にサントラ風に響いてくるので、蜘蛛の巨大さと不気味さが聴覚から感じ取れるというのが新鮮だった。また、女性は角兵衛獅子のように仮面を頭の上に載せているので、一段と顔が高い所にあるのも巨大さを強調し、かつ複数の顔が目の数が多い蜘蛛を連想させる。
■劇中歌
この舞台には歌やダンスがふんだんにある。日本語の問題もあるから、歌は日本側であらかじめ用意しておいたのかな、でも日本人が作るにしてはメロディーやテンポが少しちがうような…などと思っていたら、この劇中歌の作曲もジャワ人音楽家が手掛けているとのことだった。最初は歌詞の英語訳を見てメロディーを考え、その後日本語のシラブルに合うように、調整していったという。カロファイン(エリ王女に仕える魔法の鏡)が舞台上空のブランコで歌う哀しげな歌が虚空に響くシーン(その後、彼女は砕け散ってしまう)、それに、エリがエリ王女としての過去を思い出し、ジョジョこそ自分が探していた影だと気づくときの歌には泣けてしまった。たぶん、作曲家が日本語に訥々と向き合った感じが、切々と歌いあげられる心情に合致したからかもしれない。
■アングラマインとの対決
photo: Yennu Ariendra
ジョジョは自分がジョアン王子であることを思い出し、サーカス団員たちと共にアングラマインに奪われた明日国奪還の旅に出る。この大蜘蛛の糸に絡めとられた王国は、蜘蛛の巣の柄を描いた巨大な布を、天井から山の形になるように末広がりに吊り下げることで表現されている。この布を見た時に、ワヤン(影絵)だなと直観する。大蜘蛛はこの中にいてシルエットが映し出されるのだろうと思っていたら、予想通りになった。できれば大蜘蛛のシルエットはもっと大きく、ワヤン人形でやるように大きくなったり小さくなったりした方が良かったが、影を大きくするにはあの大きな三輪車と光源の距離を調節しないといけないので、ちょっと難しいかもしれない。
善悪の対決や「自分はどこからきてどこへ行くのか」という問いはジャワのワヤンにおける大きなテーマだ。「自分のことが分からない」と歌うジョジョに、エリは「自分にはそれが分かったのだ」と歌で応え、一行が悪との最終対決に踏み出すという一連の流れは、どうしてもワヤンの世界と二重写しになる。ただ、それらはワヤンだけの哲学ではなく、普遍のテーマでもあるだろう。
アングラマインと戦う一行は、スクリーンの前に様式的で静止したポーズを取って配置される。ジャワ人であれば、誰もがこのシーンにワヤンの様式美を感じ取るだろう。トークでもユディは「ワヤン・ウォン」のように演出したと言っている。ワヤン・ウォンというのは、水牛の皮で作った影絵人形劇(ワヤン)の様式を模して人間(ウォン)が行う劇のことで、ワヤンの1種だと言える。ワヤンと言えば日本人は影の方から見るものだと思いがちだが、ジャワでは影側から見るのは祖先霊たちで、一般の観客は人形遣いの側から見るのが主流である。したがって、この公演では私たち観客は蜘蛛の巣スクリーンを人形遣い側から見ているとも言えるのだ。サーカス団一行は舞台の右側に坐して並ぶが、それは、ジャワでは人形遣いの右手に善側の人形が並ぶことを踏まえている。
一行のゆっくりとした動きはワヤン・ウォンのようだが、伝統的な動きそのものではない。ユディは様式美を真似ようとしたのではなくて、様式が持つ内的な力強さを表現に生かそうとしている。舞台を縦横に動き回っていたどのシーンよりも、役者たちはゆるぎなく舞台に存在している。そして、どうにも自分が分からずにふらふらしていたジョジョは、それまでに出したこともないような芯のある声でアングラマインに挑む。この時の人物の舞台配置の割合が素晴らしい。ワヤンの人形遣いの中にも、人形の配置が抜群にいい人もいれば、そうでない人もいる。ユディの舞台は道具や人物や光の配置が絶妙だが、特にこのシーンは特に彼の真骨頂が発揮されていた気がする。
■印象的なシーン
上述のアングラマインとの対決以外に、視覚的な美しさで印象に残ったのが次の2シーン。
最初と最後のシーンで、明日国を覆う蜘蛛の巣の布が、サーカス団員たちが野宿する黒い空の向こうに不気味に丸められぶら下がっているシーン。それは遠目には化学工場のパイプの一部のようにも、ガンガン音が響く工事現場のドリルの形のようにも、また蜘蛛の卵のようにも見える。赤だか黄色だか緑だか分からないような鈍い色は不気味で、毒ガスを含んでいそうな色だ。黒い空からこんなものが垂れているから、閉塞感も感じさせる。皮膚感覚で不気味さ、重苦しさが感じられる。
ブランコのシーン。青い光が舞台を満たし、舞台上空高くに吊り下げられるブランコに座る白装束のカロファインが浮かんで見える。このシーン、時間はまるで静止したように、そして空間もほんとうに虚無なように見える。カロファインの歌が本当にその空間に染みていくように見える。
photo: SPAC
★10/25 写真追加
SPAC>サーカス物語のリンク http://www.spac.or.jp/13_juggler.html
ブログ、アフタートークの映像等もこのサイトから見られます。

『サーカス物語』
公演日:2013年10/19-20, 10/26-27,11/2-3(土-日)
SPAC/静岡芸術劇場にて
私が見に行った日:2013年10月19日15:00-(一般公演初日)
終了後アフタートーク、その後オープニング・パーティー
演出:ユディ・タジュディンYudhi Ahmad Tajudin
(俳優・スタッフ一同の構想に基づく)
音楽:イエヌー・アリエンドラYennu Ariendra
照明:イグナティウス・スギアルト Ignatius Sugiarto
作 :ミヒャエル・エンデ
訳 :矢川澄子(岩波書店刊『サーカス物語』より)
参照:
冊子「劇場文化」、「SPACeSHIPげきとも」
SPAC>サーカス物語 http://www.spac.or.jp/13_juggler.html
ブログ、アフタートークの映像等もこのサイトからリンクがあります。
追記★ 以下のサイトにもこの公演のレビューがあります!
「しのぶの演劇レビュー」(高野しのぶさんのサイト)
http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2013/1020200032.html
■ユディの演出について
私自身、ユディと知り合いで、以前SPACでやった『南十字☆路』も見ているし、その大阪公演もSPACの了承を得て主催させてもらったし、またインドネシアにいる時にも何度か彼の演出した舞台を見ている。そんな私が今回の舞台を見て感じたことを、散漫に書き連ねてみる。
なんで、ユディがヨーロッパ人のエンデが書いた『サーカス物語』の演出を委嘱されたのだろう?というのが一番最初に感じた疑問だったのだが、芸術総監督の宮城氏の説明によればこうだ。SPAC秋のシーズン」のシリーズでは、学校鑑賞事業のため世界の名作劇の上演を手掛け、『サーカス物語』もその観点から選ばれた。しかし、この物語は展開するにしたがって、大蜘蛛が登場したり明日国で戦うことになったりと奇想天外な場面がどんどん増えてきて、演劇作品としてどう表現すべきか難しくなった。ユディならばその奇想を超越する舞台作りができるだろうと考えたらしい。そこは『南十字☆路』の経験や、それ以前からの宮城氏とユディ氏との交流があってこその直観だっただろう。
舞台を見て、セリフが多いことにまず驚く。ユディ本人にもそう言ったら、笑っていた。彼が立ち上げた劇団テアトル・ガラシの公演ではセリフによって場面が展開していくわけではなく、言葉以外の身体の動きや視覚イメージといった要素が大きくモノを言うから、原作はあってもセリフは大きくカットされるかもと、勝手に予想していたのだった。今回は原作の世界がある上に、学生の鑑賞事業にもなっているため、ユディは言葉による伝わりやすさを意識したみたいだ。そこがなんとなく新鮮に感じられた。
終演後に気づいたのだが、演出:ユディだけではなく、音楽:イェヌー・アリエンドラと照明:イグナティウス・スギアルトも、ユディを支えるスタッフとしてテアトル・ガラシから参加していた。照明家は『南十字☆路』でも来日している。音楽については、開演前にジャワの伝統的な歌が流れていたり、どのシーンだか忘れたが不穏な音楽が流れるところで、ルバーブ(ジャワの胡弓)をゴシゴシ擦るような音が流れていたりしたので、音楽家がジャワ人だと知って納得。あの音と雰囲気はジャワ人でないと出せない。
アフタートークでは、ユディが英語を話したのでまた驚く。今回の制作では、ユディと日本人役者、スタッフは英語でコミュニケーションを取っていたらしい。これがインドネシア語でコミュニケーションだと、また雰囲気が違った作品ができていた可能性がある。
プログラムでは、演出のユディの名前の後に、「俳優・スタッフ一同の構想に基づく」とある。日本では演出家が100%指示している(又はそのように思われている)ために必要な註釈なのだろう。インドネシアでは演劇でも舞踊でも、そういう風に制作することが普通な――少なくとも多い――ように思われる。
■(プレ・)プロローグ
舞台は中央が円形に出ていて、サーカス小屋の中のようなイメージ。下手に一段低くなった狭いスペースがある。開演前から、モップを押す役者が1,2人、舞台を横切っている。この時、BGMにはジャワの伝統的な歌が流れている。彼らは登場人物には完全に扮しておらず、役者がそのまま舞台に上がったような感じ。そのうち役者たちが舞台上で準備運動したり、額縁入りの絵を持って舞台を横切ったりする。場内アナウンスはその間に挟まれていたはずなのだが、よく覚えていない。そのうち、下手に置かれた会議机で、役者たちのミーティングが始まる。演劇集団の団長が『サーカス物語』を読んで印象に残るものを持ってこいと言ってあり、団員たちはそれぞれ、鏡だの、さきほどの額縁入りの絵だの、バニラの芳香スプレーなどを持ってきて、それぞれの思いを語る。
『サーカス物語』では、立ち退きを命じられたサーカス団のその期限前夜の様子を描いている。ひょっこり戻ってきた放浪癖のあるピエロのジョジョに、知的障害のある女の子のエリが、自分たちが出てくる「つくり話」をせがむ。その「つくり話」が展開し、現実の世界と交錯してジョジョとエリが互いの記憶を取り戻し、お互いが探し求める相手だと知って物語が大団円を迎えたかに見えたあと、立ち退き前夜という現実に場面が戻る。団員たちは契約を破棄し、エリを手放さないと決意するが、明日朝にはここを出なくてはならない…。
ユディの舞台では、この入れ子構造の物語の前にさらにプロローグがあって、「つくり話」の力はより増幅されているように思える。劇中のサーカス団員は、「ジョジョのつくり話」を通して立ち退きという現実に立ち向かっていくことになるのだが、この「『サーカス物語』というつくり話」を通して、今度は私たち観客が現実世界に立ち向かっていくんだよと、SPAC劇団員に背中を押されている気がするのだ。ジョジョは立ち退きを命じる工場経営者から、エリを追い出してその工場が作っている製品を宣伝する専属契約を受け入れるならば、立ち退かなくて済むと持ちかけられている。しかし、エリがこのサーカス団に拾われたのは、この会社が引き起こした公害で汚染された地域だった…。つまり、エリの障害はこの公害と関わりがあるとほのめかされている。
エンデのこの作品は先進国の公害問題は下火になった1982年(日本語版出版は1984年)に書かれているから、近代化の負の面を描いた一般論の他人事として受け止めることも可能だっただろうが、現在の日本にはより深刻な原発問題が目の前にあるし、経済発展著しいインドネシアでは公害が大きな問題になりつつある。水俣病、イタイイタイ病という言葉はインドネシアでもよく知られている。だから、近いうちにインドネシア公演ができたら、現実社会の批判として受け止められる可能性が高いだろうと思う。公演にスポンサー企業がつかないという事態も起こるかもしれないし、また、所得格差が大きい国だから、公害企業が弱者の立場にある人々の生活救済のためと称して専属契約で商品を販売させることだって、実際に起こる可能性がある。戯曲では、サーカス団員たちがこの契約を受け入れないと決断するところで終わるが、エピローグのないこの公演では、観客自身にも決断するんだよというメッセージが残される。
公演後のアフタートークでも、「なぜエピローグを冒頭にも置いたのか」という観客からの質問があった。その場にいた私は、実はこの質問の意味が分からなかったのだが、ウェブで見直すと、立ち退き前夜の場面が物語の冒頭と最後にあるという点を指しての質問だったようだ。立ち退き前夜のシーンをそれぞれプロローグ、エピローグとして描くのは、戯曲にすでに盛り込まれた構造だと思うが、ユディはさらにプレ・プロローグあり、ポスト・エピローグなしの構造にしたと言える。
■エリとエリ王女
この公演で面白いと思ったのが、エリとエリ王女を別々の役者が演じていることだった。なぜそうしたのかユディに聞き忘れたが、出演者によれば、これは当初からユディのアイデアだったらしい。うまく言えないけれど、公演が進んでいくうちに、そうであることが自然に思えてきた。もしかしたら、身体障害者であるエリは不死身のエリ王女の影で、影が光を取り戻す物語でもあるのかもしれない。あるいは生身の人間エリがファンタジーの国に置き忘れてきたエリ王女という夢を取り返す物語でもあるのかもしれない。
■ガラスのお城と明日国(あしたのくに)

SPACウェブサイトより http://spac.or.jp/blog/?p=14681
ガラスのお城とは、ジョジョが語る物語の中で、エリことエリ王女が住む世界であり、明日国とは、ジョジョことジョアン王子が治める国。ガラスの国では白と鏡がモチーフで、舞台の背景には、六曲屏風のような鏡とそれに取り付けたドア枠のようなフレームが飛び出す絵本のように置かれる。真っ白のドレスを着たエリ王女や、白いヨーロッパ風上着に白い仮面をつけた城の住人が白いフレームをくぐり抜けるたび、彼らが鏡に映り込んで、どこまでが現実で、どこから鏡の中なのか分からないきらめきの世界が広がる。プロローグで鏡やきらきら光る物を持ってきた劇団員が多くいたので、鏡が重要なアイテムらしいと観客の頭に刷り込まれているから、どんな風にこの世界が描かれるのかとわくわくしながら見ていたが、期待を裏切らない。ちなみにこの飛び出す絵本式道具は日本人スタッフのアイデアらしい。
ちなみに、ガラスのお城という翻訳について、これは鏡のお城という意味ではないだろうか?と思ってしまった。エンデの言語ではどうか分からないが、インドネシア語では鏡もガラスも同じで、kacaと言う。実のところ両者の素材は同じで、ガラスの裏面をコーティングしたら鏡になるらしい。原作は読んでいないが、私が思うにガラスの城というのは鏡の中に広がる世界のことで、だからこそ、エリ姫は鏡で自分を見ない限り(生身の肉体を認識しない限り)不死身であり、城の住人もみな影なのではないだろうか…。ユディの演出でも、ガラスのお城は鏡の中の国として表現されていたように見える。

SPACウェブサイトより http://spac.or.jp/blog/?p=14617
さて、鏡の装置を裏返しに置くと、一転してカラフルな絵の衝立となって場面は理想の地・明日国となり、住民たちは原色でポップな衣装を着て登場する。この色合いはいかにもインドネシアだが、相当控えめだ。しかし他の観客には刺激が大きかったみたいで、トークでもこのポップというかサイケな色の感覚について話があった。ユディも、ここは日本だからということで、どうしても色を使いたくなる衝動をだいぶ抑えたらしい。さもありなん。放っておいたら、エンデの世界は『南十字☆路』の世界に取り込まれてしまったかもしれない…。
それはさておき、これらの2つの国は衝立の使い方と同様に、ちょうど表裏一体になっている。色を超越して無菌の白色光と影だけがあるガラス(鏡)のお城と、雑菌だらけの色が氾濫する(ついでにお色気もある)明日国。ヨーロッパ伝統風衣装とインドネシア・ポップ風衣装。この二元的な世界の描き方は――おそらくユディは全然意識していないだろうが――ワヤン(影絵芝居)的という気がする。ちなみに、アフター・トークでのユディの言によれば、出演者たちは明日国に発展途上国のイメージを重ねたそうだ。
■大蜘蛛アングラマイン
ジョアン王子を籠絡する謎の女の正体が大蜘蛛なのだが、これが、「かに道楽」風の写実的で巨大な作り物ではなく、背の高い三輪車に乗る姿で表現されていて秀逸だなあと思う。ユディが三輪車に目をつけたのは、それがサーカス小屋にあってもおかしくないものだからだと言う。アングラマインは2人1役で、前輪には女性が座り、後輪に男性が後ろ向きに座って漕いでいる。場面により声が変わるだけでなく(女声、男声、両方の声)、女声は前方の高い所から、男声は後方の低い所からと立体的にサントラ風に響いてくるので、蜘蛛の巨大さと不気味さが聴覚から感じ取れるというのが新鮮だった。また、女性は角兵衛獅子のように仮面を頭の上に載せているので、一段と顔が高い所にあるのも巨大さを強調し、かつ複数の顔が目の数が多い蜘蛛を連想させる。
■劇中歌
この舞台には歌やダンスがふんだんにある。日本語の問題もあるから、歌は日本側であらかじめ用意しておいたのかな、でも日本人が作るにしてはメロディーやテンポが少しちがうような…などと思っていたら、この劇中歌の作曲もジャワ人音楽家が手掛けているとのことだった。最初は歌詞の英語訳を見てメロディーを考え、その後日本語のシラブルに合うように、調整していったという。カロファイン(エリ王女に仕える魔法の鏡)が舞台上空のブランコで歌う哀しげな歌が虚空に響くシーン(その後、彼女は砕け散ってしまう)、それに、エリがエリ王女としての過去を思い出し、ジョジョこそ自分が探していた影だと気づくときの歌には泣けてしまった。たぶん、作曲家が日本語に訥々と向き合った感じが、切々と歌いあげられる心情に合致したからかもしれない。
■アングラマインとの対決

ジョジョは自分がジョアン王子であることを思い出し、サーカス団員たちと共にアングラマインに奪われた明日国奪還の旅に出る。この大蜘蛛の糸に絡めとられた王国は、蜘蛛の巣の柄を描いた巨大な布を、天井から山の形になるように末広がりに吊り下げることで表現されている。この布を見た時に、ワヤン(影絵)だなと直観する。大蜘蛛はこの中にいてシルエットが映し出されるのだろうと思っていたら、予想通りになった。できれば大蜘蛛のシルエットはもっと大きく、ワヤン人形でやるように大きくなったり小さくなったりした方が良かったが、影を大きくするにはあの大きな三輪車と光源の距離を調節しないといけないので、ちょっと難しいかもしれない。
善悪の対決や「自分はどこからきてどこへ行くのか」という問いはジャワのワヤンにおける大きなテーマだ。「自分のことが分からない」と歌うジョジョに、エリは「自分にはそれが分かったのだ」と歌で応え、一行が悪との最終対決に踏み出すという一連の流れは、どうしてもワヤンの世界と二重写しになる。ただ、それらはワヤンだけの哲学ではなく、普遍のテーマでもあるだろう。
アングラマインと戦う一行は、スクリーンの前に様式的で静止したポーズを取って配置される。ジャワ人であれば、誰もがこのシーンにワヤンの様式美を感じ取るだろう。トークでもユディは「ワヤン・ウォン」のように演出したと言っている。ワヤン・ウォンというのは、水牛の皮で作った影絵人形劇(ワヤン)の様式を模して人間(ウォン)が行う劇のことで、ワヤンの1種だと言える。ワヤンと言えば日本人は影の方から見るものだと思いがちだが、ジャワでは影側から見るのは祖先霊たちで、一般の観客は人形遣いの側から見るのが主流である。したがって、この公演では私たち観客は蜘蛛の巣スクリーンを人形遣い側から見ているとも言えるのだ。サーカス団一行は舞台の右側に坐して並ぶが、それは、ジャワでは人形遣いの右手に善側の人形が並ぶことを踏まえている。
一行のゆっくりとした動きはワヤン・ウォンのようだが、伝統的な動きそのものではない。ユディは様式美を真似ようとしたのではなくて、様式が持つ内的な力強さを表現に生かそうとしている。舞台を縦横に動き回っていたどのシーンよりも、役者たちはゆるぎなく舞台に存在している。そして、どうにも自分が分からずにふらふらしていたジョジョは、それまでに出したこともないような芯のある声でアングラマインに挑む。この時の人物の舞台配置の割合が素晴らしい。ワヤンの人形遣いの中にも、人形の配置が抜群にいい人もいれば、そうでない人もいる。ユディの舞台は道具や人物や光の配置が絶妙だが、特にこのシーンは特に彼の真骨頂が発揮されていた気がする。
■印象的なシーン
上述のアングラマインとの対決以外に、視覚的な美しさで印象に残ったのが次の2シーン。
最初と最後のシーンで、明日国を覆う蜘蛛の巣の布が、サーカス団員たちが野宿する黒い空の向こうに不気味に丸められぶら下がっているシーン。それは遠目には化学工場のパイプの一部のようにも、ガンガン音が響く工事現場のドリルの形のようにも、また蜘蛛の卵のようにも見える。赤だか黄色だか緑だか分からないような鈍い色は不気味で、毒ガスを含んでいそうな色だ。黒い空からこんなものが垂れているから、閉塞感も感じさせる。皮膚感覚で不気味さ、重苦しさが感じられる。
ブランコのシーン。青い光が舞台を満たし、舞台上空高くに吊り下げられるブランコに座る白装束のカロファインが浮かんで見える。このシーン、時間はまるで静止したように、そして空間もほんとうに虚無なように見える。カロファインの歌が本当にその空間に染みていくように見える。

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