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2003.03水牛アーカイブ「ジャワでの舞踊公演(1)公演の背景」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、継続的に掲載されているのは2007年からで、2004~2006年の分は部分的にしか掲載されていません。私の手元にあるはずの記事原稿が長らく行方不明になっていましたが、このたび思わぬファイルから見つかりましたので、まだ『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していきます。




『水牛』 2003年3月号
ジャワでの舞踊公演(1)公演の背景 


昨年の11月以来ジャワから寄稿してきたのだが、この2月13日に3年間の留学を終えて帰国した。帰国前の1月31日、2月1日に大きな公演に出演した。一般の公演とは少し違うものだったので、今月と来月にわたって報告したい。

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公演写真(向かって右側が冨岡) photo by Hari Sinthu

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公演写真(向かって右側が冨岡) photo by Boy

大学院の修了制作としての公演

この公演はSTSI(インドネシア国立芸術大学)スラカルタ校・大学院修士課程の修了制作として行われ、私は踊り手の一人として参加した。スラカルタはジャワ島中部の古都で、通称はソロという。

長くなるが、まず大学院の制度について少し説明しておこう。

インドネシアでは2000年からSTSIスラカルタ校、ISI(インドネシア国立総合芸術大学、ジョグジャカルタにある)、STSIバンドン校の3校で、実技で修士号を得るコースが設けられた。これはインドネシア初の試みである。インドネシアではまだ大学教官の学位取得が遅れており、現在大学教官が順に大学院に入って学位を取得している状態であるが、芸大の教官といえど従来は他大学で修士論文を書く必要があった。上記の3校では論文コースも設けられ、若い人はそちらに振られるが、キャリアの長い教官は実技コースに入ることができる。またSTSIを卒業したばかりの人が続けて大学院に進学しようとしたところ、数年間は学外で経験を積んでくるようにと学長から申し渡され、受験できなかったという。

大学院生は現役の教官・芸術家ばかりなので、授業レベルは非常に高く、実技コースの修了制作も1公演をプロドゥースするという大掛かりなものである。STSIの卒業試験では日時や会場は設定されており作品の長さも15分前後だが、大学院レベルでは作品のコンセプトにふさわしい場所(地域の限定はなく、また劇場である必要はない)や時期を選定し、作品も1時間以上でなければならない。

大学院舞踊科の実技を担当する主任指導教官はサルドノ・W・クスモである。他にも大学院教官はいるが、修了制作についてはサルドノが全員の面倒を見ると言っている。(ちなみに第1期生は8人、2期生で約10人いる。)いずれ大学教官が皆学位を取ってしまい、新学卒者が入学するようになれば、この状況はかなり変わってくるのではないか、と思われる。

サルドノ・W・クスモはスラカルタ出身の世界的な舞踊家、振付家である。「水牛の本棚」no.3に氏の著述「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」が掲載されているので、是非併せて読んでいただきたい。サルドノの師であり、以下でも触れるクスモケソウォについて多くのことが書かれている。

制作者とサルドノと制作テーマ

私が出演した公演は2000年度入学の第1期生・Jの修了制作である。彼はスラバヤの教育大学でジャワ舞踊を教えているが、STSI大学院履修のためスラカルタの実家に戻ってきている。実はJは私のジャワ宮廷舞踊の師・J女史の息子である。J女史は宮廷舞踊家・クスモケソウォ(故人)の長男(故人)の嫁であるので、Jはクスモケソウォの孫ということになる。そこからクスモケソウォ、その次代のJ女史、3世代目の自分に至る舞踊の系譜とでも言うべきものを公演のテーマにすることになった。

クスモケソウォは宮廷舞踊家で、1950年以降設立されたスラカルタ、ジョグジャカルタの各芸術教育機関で舞踊を教えた。教育メソッドであるラントヨを編み出してもいる。そして1960年にプランバナン寺院でラーマーヤナ・バレエが始まるとその振付を手がけるなど、特に1950~60年代のスラカルタ舞踊を牽引した。またJ女史は常にクスモケソウォのアシスタントを務め、氏の退職後はその仕事を引き継いだ。

しかしJ自身にとっては、舞踊家としての祖父、母は遠い存在だったようである。祖父が亡くなったのはまだ小さい時であったし、肉親に直接習うことはあまりなかったようだ。むしろ、そこに目を向けさせたのはサルドノである。サルドノは現在ではコンテンポラリ舞踊家・振付家として有名であるが、幼少からクスモケソウォとその長男、つまりJの祖父と父に師事して宮廷古典舞踊を修得しており、ラーマーヤナ・バレエでも主要な役を踊っていた。年齢からしてもクスモケソウォの業績を一番知っているのはサルドノだと言えるのである。だからこそ、Jが自らの系譜を辿ることはスラカルタ舞踊の発展を辿ることにもなり、それはJならでは不可能なことだとサルドノは考えたのではなかろうか。そしてその成果を本当に評価できるのもサルドノ本人しかいない、と私は思う。

サルドノとの対話からJは初めて舞踊家としてのクスモケソウォやJ女史に向き合ったようだ。クスモケソウォの作品の上演、特に現在上演されなくなったものを復活させる他、クスモケソウォとその次世代のJ女史のテクニックを用いて第3世代である自分が振付した作品を上演するという案が浮上した。するとサルドノは、クスモケソウォの作品はその弟子に踊ってもらえ、と言う。それは素晴らしい案で実現したが、関係者は「一番弟子のサルドノ本人が踊ったら?」などと冗談を言ったものである。

私とJ女史と制作テーマ

ところで、なんで私が出演していたのか? J自身の作品については当時J女史の自邸でスリンピを学んでいた弟子達(STSIの先生達)を起用することが早くから決まっていた。そしてこの練習会を主宰していたのが実は私なのだ。というより元々はそれは私の個人レッスンだったのである。

私は1996年以来ずっとJ女史に師事して(私は1996~98年にも2年間STSIに留学している)、スリンピ、ブドヨという宮廷舞踊の完全版を次々に習ってきた。スリンピは4人、ブドヨは9人必要だし、完全版は長くてほとんど習う人がいないので、当初はそんなものを習ってどうするの? と結構いろんな人に言われたものだ。それでも好きだったので、私1人で、また外人の友達と2人で細々と習っていた。

それが2000年の9月頃からだろうか、私がそれを習っていると知ったSTSIの先生が入れて欲しいと言ってきた。そのうち他の先生も常連として加わるようになって、私の個人レッスンはいつの間にやらスリンピ・ブドヨ練習会となった。そしてその踊り手がそのままJの作品に起用されたという訳である。したがって私達は公演よりずっと以前から、公演出演を目的とせずにJ女史に習っていた。これは今回の公演において非常に大切な点だったと思っている。というのは今回の公演では舞踊を学ぶプロセス(それは世代間の伝承でもあり、また踊り手個人の舞踊の追求でもある)を重要視しており、さらにジャワ舞踊の精神がにじみ出ることが一番求められたからだ。

しかし私を起用する前にJはサルドノに諮っている。下手な外人が入って作品の質を落としてはいけないからだ。OKが出たということで私はほっとした。実は2002年の1月に私はサルドノのスタジオでスリンピ・ラグドゥンプルの完全版を踊ったことがある。彼はそれを見ているので、それが評価されたのだろうか。その時はSTSI大学院の活動の一環として、私はJ女史と練習会のメンバーである2人のSTSI教官(これがそのまま今回の出演者となる)との4人で踊った。その時はJ女史の弟子としてこれほど嬉しいことはないと思っていたのだが、今回の公演ではそれ以上の経験ができたことを非常に有り難く思う。