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2003.04水牛アーカイブ「ジャワでの舞踊公演(2)」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、継続的に掲載されているのは2007年からで、2004~2006年の分は部分的にしか掲載されていません。私の手元にあるはずの記事原稿が長らく行方不明になっていましたが、このたび思わぬファイルから見つかりましたので、まだ『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していきます。




『水牛』 2003年4月号
ジャワでの舞踊公演(2)


前月の続きで、ジャワで私が出演した舞踊公演について報告する。前回の内容(公演の背景)を簡単に振り返っておくと、この公演はSTSI(インドネシア国立芸術大学)スラカルタ校大学院の修了制作で、指導教官はサルドノである。大学院生は大学教官かそれに相当する人である。この公演を制作したJは私の宮廷舞踊の師・J女史の息子であるが、サルドノの舞踊の師で宮廷舞踊家・クスモケソウォ(故)の孫にあたる。サルドノはクスモケソウォからJ女史を経てJに至る舞踊の系譜を作品のテーマとするよう助言した。

ところで「水牛の本棚」no.3にサルドノの著述「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」が掲載されている。クスモケソウォについて多くのことが書かれているので、是非併せて読んでいただきたい。

公演プログラム

1「ルトノ・パムディヨ」(Retna Pamudya)  クスモケソウォ作(完全版)
2「スリ・パモソ」(Sri Pamoso)       クスモケソウォ作(復曲)
3「ダルマニン・シウィ」(Dharmaning Siwi) J作

1は女性戦士・スリカンディが敵のビスモを倒すまでを描いた女性単独舞踊である。1954年に中国への芸術使節(misi kesenian)の演目として作られ、J女史が初演した。その後はスラカルタ舞踊の基本的な演目として一般に定着している。市販カセットにはJ女史による短縮版が収録されているが、本公演ではオリジナル版をクスモケソウォの弟子だったM女史が上演した。そしてクプラという踊りの合図になる楽器(木箱のようなものを木槌で叩く)をJ女史自ら奏した。

2は1969年頃の作品で、廃れていたものを今回復曲させた。クスモケソウォの弟子が海外で踊るため男性単独舞踊の作品を師に依頼してできたものである。今回は舞踊譜を保存していたクスモケソウォの弟子・S.T氏によって上演された。

1と2の演目は両者とも単独舞踊であり、海外公演のために作られたことが共通する。これは海外では1人で踊らざるを得ないことが多いが、本来の宮廷舞踊の演目では男女を問わず単独舞踊は存在しないためである。また両者ともコンドマニュロ(Ldr.Kandhamanyura)を伴奏曲としていることが興味深い。多分クスモケソウォが舞踊を通して表現したいものを一番表現できた曲だったのではなかろうかと思う。

3はJ自身の作品で、曲はJの友人に委嘱された。私を含む女性4人、男性4人の踊り手によって踊られた。ダルマニン・シウィ」(Dharmaning Siwi)とは「子(孫)の果たすべきこと」というような意味である。前回も述べたように、この公演では祖父や母の教えをJが受け継いでいくという点に眼目があり、男性の部分はクスモケソウォの、女性の部分はJ女史の舞踊テクニックを用いて構成されている。

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公演写真(向かって右側が冨岡) photo by Hari Sinthu

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公演写真(向かって右側が冨岡) photo by Boy

公演の場所

公演はプンドポ、それも、現在も使われていて且つ昔の趣きのある所でやりたい、というのがJの希望だった。ジャワの伝統舞踊はプンドポで行われるものとして発展してきたからである。

プンドポとはジャワの王宮や貴族の邸宅に設けられた式正の空間である。壁がなく柱だけで屋根を支えており、特に一番中央の空間を作る4本の柱はソコと呼ばれて重要である。

Jの実家の近くに素晴らしいプンドポを持つ家があった。しかし柱はクリーム色に塗られ、装飾も施されていて立派過ぎるという。王宮は別として柱は木地のままが良いということで、そこは却下となった。次にJの実家はどうかということになった。クスモケソウォは宮廷舞踊家としてプンドポのある家を宮廷から下賜されている。しかし指導教官からはOKが出なかった。その理由は手狭であるということの他、サルドノが知っている頃からはずいぶん様子が変わったからだという。その代わり自分のアート・スタジオを使うようにと言った。そこはマンクヌゴロ何世だったか忘れたが、その人の愛妾の邸宅だった所で、プンドポもそなえていた。

公演まで

J自身は公演の1年くらい前から既に祖父の弟子を訪ねてインタビューを始めたり、母のJ女史に私達が習うのを見たりしていたが、公演のための直接の練習は10月から始まった。

11月6日にイスラムの断食が始まってからは、練習時間は15:00からブカ・プアサ(buka puasa)までとされた。私以外は皆イスラム教徒である。イスラムの断食は日の出(16:30頃)から日没(17:30頃)までである。ブカ・プアサとはその日の断食を明けることを言い、イスラム教徒にとって家族や友人とブカ・プアサするのはこの上もなく嬉しい時間のようである。Jは練習のあとでその時間を皆と共有することを大事にしていた。

12月12日夜はクスモケソウォ夫人の1000日忌の供養があった。宮廷からイスラム導師が来てお祈りをする。踊り手も皆招かれた。翌朝に墓参り。

1月30日(木)17:00~スラマタン(Selamatan)
スラマタンは共食儀礼と訳される。要は無事である(Selamat)ようにと祈る儀礼で、イスラム導師による祈りのあと皆でそのお供えを食べる。プンドポのソコ内(中央)に公演関係者一同が車座に座り、その真中にお供えを置いて行われた。その後リハーサル。

1月31日(金)9:00~墓参り
J、J女史一家と踊り手全員でクスモケソウォのお墓に参り、今晩と明日の公演の無事を祈る。お墓参りのあと皆で昼食を取る。一度解散し、踊り手は15:00に集合することになった。

同日19:00~公演:一般客

明日が試験となる公演で、今日は位置付けとしてはドレス・リハーサル(Gradi Bersih)である。しかし明日は試験関係者と遠方の招待客で会場が一杯になるので、市内の友達はこの日に呼ぶようにということだった。衣装はドドットというスタイルで、カイン(腰布)とサンプールという布は今日は白色だったが、本番では緑色だった。これは宮廷のブドヨ・クタワンという儀礼を想起させた。
15:00前には家を出られない程の土砂降り。雨量は多少減ったものの、公演が終わるまでずっと雨は続いた。ちなみに2月1日は今年は旧暦正月だった。この日(前夜から含めて)に雨が降るとその年は豊作だと華人達に信じられているとも、またその日は毎年決まって雨が降るとも聞いた。

2月1日(土)19:00~試験公演:招待客のみ

この日も雨。しかし公演が始まった頃にほとんどやんだ。今日は不思議に上手くいくような気がした。それに今日はプンドポの脇の部屋に控えていても、客席から圧倒されるような雰囲気が伝わってくる。Jの一族がジャカルタ、ボゴール、スマランから皆集まっている。Jの叔父や叔母、兄弟達は皆かつてのラーマーヤナバレエの出演者だ。Jのいるスラバヤ教育大からも来ている。そして他にも多くの舞踊家達、宮廷の人達が集まっていて、後から振り返れば何とレベルの高い観客の前で踊ったのだろうと思う。

最初の「ルトノ・パムディヨ」が終わり、戻ってきた踊り手を裏で皆で「スクセス、スクセス……」(英語のサクセス)と迎える。次の「スリ・パモソ」が半ばになると、私達は円陣になって隣の人の手を取り、今日の成功を祈って黙祷する。その後ジャワ式挨拶のように互いに握手してスクセス、スクセス、スクセス、……成功しますように、と声を掛け合う。

それから女性の踊り手は、裾を長く引いたカイン(腰布)の中にクンバン・スタマン(赤と白のバラの花びらやパンダンという葉)を巻き込む。これは宮廷舞踊のやり方で、裾を蹴って踊っている間に花が大理石の床にこぼれて、見ている人にはとても美しい。
また試験の日のみ、ソコ(中央の4本の柱)の足元にお供えを置いた。パンダンの葉にショウガのようなものやらを混ぜたもので、とても良い香りがする。場を浄めるためだろう。これの名前は失念してしまった。

踊り終わって裏に戻ってくると、今度は逆に先の踊り手や化粧係の人が待っていて、「スクセス、スクセス、良かったよ……」と迎えてくれた。公演が終わり、今度はJの口頭試問が終わるのを皆で待った。その後点数が発表される。とても良い点で一同ほっとする。Jはスタッフにビールならぬアクア(水)を頭からかけられ、祝福された。

2月9日(日)12:00~慰労会(sungsuman/sumsuman)

ジャワでは儀礼が終わってしばらくすると関係者一同が集まって慰労会をし、この時にスンスンと呼ばれる白くて甘いお粥を食べることになっている。前日の2月8日がJ女史の誕生日だったので、そのお祝いも兼ねた慰労会があった。私は2月12日にここを発って日本に帰国することになっている。だから私にとっては送別会でもあった。今回の留学生活の最後のほぼ5ヶ月はこの公演のためにあったようなものなのだ。

けれどこの公演を経験できたことはジャワ舞踊を学ぶ上で貴重な経験となった。それは私自身にとっても、J女史にこの5年間学んできたことの集大成になったからだ。そしてこの公演がある種儀礼的なものだったために、お墓参りだとかスラマタンだとかの舞踊そのもの以外の要素を経験することができたからだ。ジャワの宮廷舞踊は元々宮廷儀礼というコンテクストの中で位置付けられ、遂行のための手続きを必要とする。私はそれを、全く同じコンテクストではないにしろ、経験することができたと思っている。