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2003.07水牛アーカイブ「スラカルタの年中行事(2)」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』 2003年7月号
スラカルタの年中行事(2)

                    
前回に続き、スラカルタの1年の行事について述べる。インドネシアの祝日はほとんどが宗教行事に由来し、それぞれのカレンダー(例えばイスラム暦は1年が約354日である)で日が決まる。そのため日付だけでなく各祝日の順序も毎年変わる。今回は独立記念日以降の祝日について述べよう。

★8月17日 インドネシア共和国独立宣言記念日


8月ともなると、家の塀や各町の門のペンキを塗り直したり、「独立〇年」(たいていの町の門には書かれている)の数字を更新したりする光景があちこちで見られる。そしてさまざまな催しが隣近所、町や市、学校や各種団体の主催で行われ、それらはトゥジューブラサン(「17日の行事」の意)と呼ばれている。芸術家達も単に催しに呼ばれて行くだけでなく、自分達の地域で色々とイベントを仕掛けているようである。踊り手にインタビューしていると、よく踊った機会として結婚式の他に独立記念行事を挙げる人が多かった。

私が住んでいた町の中心部では、芸術への関心は低かった。独立記念行事と言えば昼にはパン食い競争、スプーン競争(正確な名称は忘れたが、スプーンに卵をのせて走る)や子供の塗り絵大会など、夜にはカラオケやダンドゥットというのがよくあるパターンだった。それでもなぜかは知らないが街頭で映画を上演した年もある。

しかし伝統芸術に関心のある地域ではガムランの演奏、舞踊やクトプラ(大衆演劇)の上演などをしている。私が行ったスリウェダリ劇場近くのある郡では、郡内のメインストリートに3つも舞台が設けられ、夕方から(昼からだったかも知れない)それぞれの舞台で子供によるジャワ舞踊大会や地域の人々によるガムラン演奏があった。

また市役所では必ず一晩のワヤン(影絵芝居)があったものである。96~98年には西暦大晦日と独立記念日前夜にはいつも市役所でワヤンがあった。98、99年は私は日本にいたので知らない。99年10月頃に市役所が焼かれ、それ以降2002年12月に再建されるまで市役所でのワヤンはなかった。今年の独立記念日はどうであろうか。

他の役所でも独立記念日の式典が前夜にあるようである。昨年スラカルタ郊外のある県でそれを見ることができた。本当はその式典を見るつもりで行ったのではなく、舞踊歌劇の上演があると聞いて見に行ったのだが。てっきり、役所の広場でいろいろ独立記念イベントがあってその内の1つだろうと思って行ってみたら、その上演は役所内での式典の一環で、出席者は制服姿の公務員や警察官ばかりだった。その式典は22:00過ぎ(予定では21:00)に始まり、いろんな演説があり、その折々に皆が「ムルデカ!(独立)」と叫んで拳を振り上げていた。この種の式典は日本では普通昼間にするのではなかろうか。ともかくこの行事はマラム・ティラカタン(マラムは夜、ティラカタンは一晩起きていることという意味)となっていたがオールナイトではなく、その舞踊歌劇の上演が終わった12時前後に行事は終了した。ところで、なぜこの舞踊歌劇が式典の一環で上演されたのか。実はこのグループはその少し前に県代表で中部ジャワ舞踊歌劇コンテストに出場し優勝したので、そのお祝いということだった。この県には芸大教官が多く住んでいることもあって芸術後援には熱心な地なのだが、それでも鑑賞しているお役人達は退屈そうな様子だった。

・9月24日 モハメット昇天祭

・11月25、26日 イドル・フィトゥリ(1424年断食明け)


イドゥル・フィトゥリの1ヶ月前から断食が始まる。王宮では断食期間中はガムランの音を出すことは禁じられており、舞踊の練習も1ヶ月休みとなる。この期間中に楽器や宝物を清めるという。

jamasan gamelan 2011
↑写真:2011年、マンクヌガラン宮で断食月に楽器を清めているところ

それでは町は静かなのかと言えば、そうではない。断食は日の出から始まるので、その前に皆食事(サウール)を取る。それが大体夜の2時半とか3時なのである。こんな真夜中にサウールを知らせるアナウンスがモスクから流れるのもうるさいが、それより前の1時半頃に近所の若い男達がグループでクントゥンガン(スリットドラム)を叩きながら歌い、「サウールの準備をしよう」と近所に触れて廻るのがもっとうるさい。これで必ず目が覚めてしまって、以後眠れない。これもイスラムの行事だとは思うものの、傍目には不良が夜中に騒いでいるのと変わりがないような気がする。

さて断食21日目の前夜からはパッサール・マラム(夜市)が開かれ、世間は何となくそわそわした雰囲気になってくる。あと10日で断食明けという期待で、みな買い物など準備に取りかかるのである。この21日目の前夜にはカスナナン王宮からスリウェダリ(遊園地や劇場がある)までキラブ(行進)がある。馬車に乗った王族、宮廷人、お供え物、衛兵に楽士、各地から来たサンティ・スワラン(ジャワ化したイスラム歌唱、ルバナという楽器に合わせて歌う)楽団の行列が一方通行のスラマット・リヤディ通りを逆行していく。スリウェダリのプンドポに着くとイスラムのお祈りがひとしきり続いて、その後お供えが撒かれる。この行事をスリクラン(21日の行事の意)と言う。この日以降、スリウェダリ劇場では毎晩催しがある。

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写真2枚: 断食21日目前夜(Malem Selikuran)のキラブとスリウェダリのプンドポでの儀式

断食明けはちょうど日本の盆正月のような大騒ぎとなる。みな田舎に帰省するため大ラッシュが起こり、交通機関の料金は普段の約3割増の特別料金となる。デパートには菓子詰などの贈答品が並び、服地屋ではバーゲンがある。かつての日本の正月のように服を新調するもののようで、私も「子供に断食明けの服を下さい。」と言う物乞いに家に来られた経験がある。年賀状のようにギフトカードの交換もあり、断食明けが近くなるとカード描きのアルバイトをする若者が郵便局やデパートの前に出現する。さて帰省すると一族はみな年長者のもとに集まって、日頃の非を詫び許しを乞う。子供が親戚からお年玉がもらえるというのは日本と同じである。そして皆で一緒に墓参りに行く。ところでインドネシアではほとんど年中無休で営業している店も多いが、断食明けの初日はさすがにどこの店も休みになる。

断食明けの5日目にはクパットとアヤム・オポールというごちそうを作って食べる習慣がある。毎年隣りの家のおばさんが差し入れてくれたことを思いだす。またスラカルタの端にあるジュルッ公園(動物園がある)ではこの日にクパット撒きがあるという話も聞いたことがある。しかし、このクパットにしろアヤム・オポールにしろ普段から目にする食べ物で、日本のお節料理のように年に一度だけの料理という訳ではない。なぜこの日にこの料理を食べるのかはまだ聞いていない。

★12月25日 クリスマス

独立記念日の項で県主催の式典を見たと言ったが、この県が行うクリスマス行事も私は見たことがある。クリスマスと言っても1月11日になってからの実施で、この場合も私は舞踊上演があるというので行ってみたら、役所でのクリスマス行事だったというものだ。役所のホールには巨大なツリーが設置され、その隣に普通はゴング(ドラ)を吊るような竜の彫刻を施した木枠にベルが吊られていたのを覚えている。ここでの舞踊劇を構成したのはカトリック教徒の芸大教官である。劇の構成はヘロデ王の虐殺のエピソードから、救世主イエスがこの世に生まれるまでである。面白かったのはそのジャワ化ぶりであった。登場人物の衣装が全くジャワのものだったのは言うに及ばず、羊飼いと羊(ちなみに羊役は子供で、うさぎの踊りの衣装を着ていた)の掛け合いが影絵のゴロゴロ(道化が登場する場面)よろしく話から脱線してしまうあたりなど、展開もジャワ人受けするようになっていた。

また芸大とその隣にある大学との共催によるクリスマス行事というのも見たことがある。この時はキリスト教の影絵=ワヤン・ワハユの上演があった。ダラン(人形遣い)はやはりカトリック教徒の芸大教官で、上演前に「教会で何か行事があるときには是非ともワヤン・ワハユを・・・」という宣伝口上があって、約1時間上演した。確か人形は一般のワヤン・プルウォの物だったように思う。

これもやはりカトリック教徒の芸大教官の話。彼は自分が行く教会で、寄付を募る箱を廻す人に舞踊振付をしたという。見たかったが別の人から既に教会へ誘われていたので、断念した。

そして私が誘われて行った教会での演し物は高校生によるお笑い宗教劇で、イエスは携帯電話を持って登場した。ここでは登場人物はスカートを穿くなど衣装が西欧的だった。

以上、自分が知らない行事は言及せずに、経験したことだけを書いてみた。私はスラカルタのことだけしか知らないが、多分インドネシアの他地域では、同じ祝日でもいろいろな過ごし方、やり方があるように思う。