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2004.04水牛アーカイブ「私のスリンピ・ブドヨ観」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

…ということで連載している「水牛アーカイブ」ですが、実はこの記事が私の記事としては一番古いものとして「水牛」に掲載されています。2004年のこの記事、2005年の1記事、が掲載され、2006年10月から連続して掲載されています。
➡ http://suigyu.com/noyouni/michi_tomioka/post_83.html

なお、本文にあるジャワ宮廷舞踊:スリンピとブドヨについては、どちらの映像も リンクの一番上、 映像(宮廷舞踊) に入っています。いずれも、私が踊っています。ご参照下さい。ちなみに、ブドヨの写真(Heru Santoso撮影)は、公演当時、Reader's Digest Indonesiaに掲載されたものです。




『水牛』2004年3月 
私のスリンピ・ブドヨ観


スリンピとブドヨはともにジャワの宮廷女性舞踊で、マタラム王朝の後裔のジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の宮廷に伝えられている。どれも完全に上演すると1時間ほどかかるので、現在では10~25分に短縮されている。スリンピとブドヨの完全版をできる限りすべて修得するというのが、私の留学時代の課題であった。今回はスリンピとブドヨ(完全版)という舞踊について、私が自分自身の舞踊体験から感じとったことだけを書いてみた。したがってこれらはジャワの文献に書かれていることでもなければ、舞踊の師が教えてくれたことでもない。また観客の立場から見た見方でもなく、私が5年間振付の時間を経験し続けて感じたことである。

●スリンピ

srimpi1 blog P1040564 blog


スリンピは4人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付は抽象的で、同じ振りを2回または4回、方角を変えて繰り返し、シンメトリーなパターンを描く。舞楽のようなものだと想像してもらえれば良い。宮廷舞踊では4本の柱で囲まれた方形の空間で舞うのだが、その空間の雰囲気も舞楽の舞台に似ているように思われる。

スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。

そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。私がそう言った時に、まさしくそう思うと言ってくれたジャワ人舞踊家が2人いた。(同意してくれそうな2人にしか話していないが)曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。

●ブドヨ

ブドヨ2 Heru Santoso blog

ブドヨは9人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付も抽象的で、同じ振りを方角を変えて繰り返すところなどもスリンピと同様であるが、9人という人数で踊られるだけに複雑なフロアパターンを多く描き、またシンメトリーでないものも多い。ブドヨはスリンピと違って多くの作品が失われてしまった。ただしブドヨの本歌とも言うべき「ブドヨ・クタワン」はいまなおスラカルタ宮廷で毎年王の即位記念日に行われている。これは門外不出の舞踊である。今に残る数少ないブドヨ、または元はブドヨであったと言われるスリンピ作品を舞ってみて痛感するのは、ブドヨは大地を歩く舞踊であるということである。

ブドヨに特有なステップのあるララスやプンダパンという動きでは、踊り手は前に進むかと思えば後退し、また進み……を繰り返す。大地を慎重に踏み固め、練り歩いているような気に私はなるのだが、歩くという行為自体が宗教的、呪術的行為になり得る。

アボリジニには聖地を結ぶ古い小道を儀式的に徘徊(walk about)し、それぞれの聖地で決められた儀式を行って、精霊のエネルギーの循環を助けるという信仰があるそうだ。またイギリスでキリスト昇天祭に催される「大地の境界線を打ち据える」(beating the bounds)儀式も似たような徘徊の行事だという。ライアル・ワトソンの「アース・ワークス」でこれらのことを儀式的徘徊の存在を知った時、また日本でも陰陽師が行うという反閇(へんばい、歩くことによって行う呪法)があることを知った時に、これらはブドヨと同じではないかという気がしないではいられなかった。

9人がこうやって大地を踏みしめてもぞもぞ、ぬるぬると移動するとき、私はこの9人が巨大な1個の生命体となって大地を這っているような感覚に襲われる。1人1人の踊り手は大地を踏みしめているのだが、1個の生命体となった時には、蛇のような足無しのものが這っていくという感じなのだ。特に9人が一列の隊形の時はなおさらである。だがこの生命体は9人の徘徊によって生じたエネルギーかも知れない。それは「気」のようなもので、霧が谷川の上を蛇のように(気とくれば龍に例えるほうが良いかもしれない)流れていくように、ブドヨのエネルギー体が大地を這っているのかも知れない。

何ともまとめようのない文章になってしまった。読者の方は、宮廷舞踊に対してなんと突飛なことを考えているのだと思うかもしれない。だが舞踊の動きはイメージの中に生き、そしてイメージは連想に支えられていると私は思っている。スリンピやブドヨを、こんなイメージを持った舞踊として表現できたらと私は思っている。