FC2ブログ
 
2005.02水牛アーカイブ「振付家名のクレジット(1)」
多忙のため、更新が滞ってしまって申し訳ありません。

私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

※2005年1月号は寄稿していません。




『水牛』2005年2月号
振付家名のクレジット(1)


ある舞踊作品が誰の作なのかをクレジットするにもいろんなやり方がある。今回はいわゆる伝統的なジャワ舞踊の世界において、舞踊の作者=振付家の名前をどのようにクレジットしてきたのかについて述べよう。

以前にも書いたように、ジャワ舞踊は宮廷舞踊と民間舞踊の2つの流れに分けることができる(2002年12月号2003年1月号)。宮廷においては、舞踊は王(や王族)の作とされる。たとえば「スリンピ・ゴンドクスモ」は後のパク・ブウォノ8世が皇太子に即位した時に作られ、そのためにパク・ブウォノ8世の作だとされる。現実には宮廷舞踊家が作っているはずであるが、その名前は言及されない。それは公共工事や建築が王の業績だとされるのと同じである。舞踊作品が新しく作られたりリメークされたりするきっかけも王や皇太子に即位する時というのが多く、芸術作品を作ることは芸術家個人ではなく王(や王族)の事業であり業績だと見なされていたことが分かる。

このような意識は実は現在にもまだ生きている。たとえばソロの宮廷には新しいレパートリーとして「ブドヨ・キロノラティ」という作品がある。これは宮廷ではムルティア王女の作だとされているが、実際はスリスティヨという人が作っている。その初演時にムルティア王女がバタッというブドヨでは一番重要なパートを踊り(スリスティヨ氏はかつてソロの宮廷で踊っており、王女とは親しい)、王女がこの作品を気に入って宮廷でも使いたいと断ったという。しかし他人の作品を上演するというなら通常は元の振付家の名前をクレジットするところだが、宮廷がそうすることはない。

宮廷芸術家がその名前をクレジットされ、業績を認められるのは実は宮廷外においてである。ソロの宮廷はパク・ブウォノ10世が1939年に亡くなってからは経済的に逼迫し、それまで十分な待遇で暮らしてきた舞踊家が宮廷外で裕福な宮廷貴族層の子弟に、あるいは学校で舞踊を教えて暮らさざるをえなくなった。この時代は宮廷芸術家にとっては生活の危機で辛酸を嘗めた(全くの余談だが、これをインドネシア語ではマカン・ガラム=塩を食べると表現する)時代だと言えるが、その結果多様な個人スタイルや解釈が生まれたという点では、芸術が進展した時代だったとも言える。

このような宮廷舞踊家の中で初めて振付家と呼ばれたのがクスモケソウォ(1909~1972年)である。(クスモケソウォについては「水牛の本棚」no.3のサルドノ著の「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」を参照してください。)宮廷舞踊家の中でも特にクスモケソウォが有名だったのは、宮廷舞踊家として一番位が高かっただけではなく、1950年にソロにインドネシア初の芸術コンセルバトリ(その後のSMKI、現在のSMK negeri 8=芸術高校)が開校したときに唯1人の舞踊教師であり、1961年に始まるプランバナン寺院での「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家だったため、広く一般の人に名前が知られたことによる。

クスモケソウォの作品で一番知られているのは、1952年作の「ルトノ・パムディヨ」であろう。これは、宮廷舞踊の語彙と用法だけで作られた最初の新しい舞踊だと言える。こういう言い方は何だか変であるが、現在私達が習う伝統舞踊のレパートリーが作られるのがこの「ルトノ・パムディヨ」以降なのである。宮廷舞踊というのは厳密に言えば女性舞踊のスリンピとブドヨ、男性舞踊のウィレンだけであって、これらの多くは1970年代に公開されるまでは門外不出である。

「ルトノ・パムディヨ」は単独舞踊であるという点で従来の宮廷舞踊の伝統にはない新しいスタイルであり、またそこで使われている宮廷舞踊のテクニック自体も当時はまだほとんど一般には知られていなかった。ちなみに宮廷舞踊のテクニックを修得するためのメソッド「ラントヨ」も、クスモケソウォによって1950年頃にコンセルバトリの授業で教えるために考案されている。

この作品は、インドネシア政府が初めて芸術使節を海外(このときは中国)に派遣した時にソロからの舞踊作品として作られたものである。この海外公演後に「ルトノ・パムディヨ」はコンセルバトリで教えられるようになり、以来現在に至るまで芸術高校、そして芸術大学(1964年開校)の基本レパートリーとして定着した。このように海外公演のために特に振り付けられたということ、そして教材とされたことで、この作品のオリジナリティと振付家名が守られたと言える。

(続く)

yabu kumiko - 修正 - コピー
「ルトノ・パムディヨ」を踊る筆者11/3グローバルステージで踊る