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2005.03水牛アーカイブ「振付家名のクレジット(2)」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年3月号
振付家名のクレジット(2)


前回触れたスラカルタ舞踊の古典とも言うべき「ルトノ・パムディヨ」(1954年作)や舞踊の基礎「ラントヨ」(1950年頃作)がクスモケソウォ(1909~1972)の作だと聞けば、これはうなずける。クスモケソウォは宮廷舞踊家で、その立ち居振る舞いも容貌も宮廷美学の理想を体現していると言われていた。私は本人を直接知らないにしろ、その話に聞く人柄は見事に作品に反映されている、という気がする。

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では「マニプリ」はどうだろう。現在ではマリディ氏がリメークした「マニプレン」(1967年作、マニプリのようなものの意)が知られているけれど、実はそれに先行して「マニプリ」という作品があり、それはクスモケソウォ作だとされている。あくまでも優美なジャワ宮廷舞踊家のイメージと、飛び跳ねる感じのインド舞踊の動きは結びつかないなあと思っていた。

それも道理で、そのクスモケソウォ作の「マニプリ」も、名が表す通りインド舞踊のマニプリを元にしており、クスモケソウォが個人でインド舞踊風の動きを考案したわけではないのだ。

「マニプリ」が作られたのは1953年頃のことである。インド政府派遣の舞踊家アミット・ポールが、スラカルタにある国立コンセルバトリ(今の国立芸術高校)に来てワークショップをした。この人はインドネシア各地の舞踊を視察していて、スラカルタのコンセルバトリでジャワ舞踊を習い、代わりにコンセルバトリの人達はインド舞踊のマニプリを習った。とはいえ、アミットはマニプリのカセットテープを持っていなかった。(当時はまだオープンリールのテープしかない時代である。)せっかく動きを習っても音楽がなくては上演できないというので、当時のコンセルバトリの校長・スルヨハミジョヨが「ジャワの曲に動きをつけよう!」と言いだして、「マニプリ」が誕生したという訳である。ジャワの曲の構造に当てはまるように動きも少し変えたという。

この「マニプリ」は現ムスティカ・ラトゥ化粧品会社の社長の結婚式で初演された。私の舞踊の師であるJ女史(当時コンセルバトリにいた)も初演メンバーの1人だ。そしてマリディ氏もこの「マニプリ」上演を見ている。J女史が初演メンバーの1人だったことや、この「マニプリ」は現在の「マニプレン」よりもっとインド風で大人の舞踊だった(「マニプレン」は子供の舞踊として定着している)ことなどを、私は最初にマリディ氏から聞かされた。

その後J女史に「マニプリ」成立の事情をあれこれ聞いていると、コンセルバトリのワークショップの中から舞踊が生まれたということがわかってきた。一般に「○○氏振付」と銘打たれているとその人が100%動きを考え出したように思われるけれど、「マニプリ」の場合はワークショップの舞台となったコンセルバトリの代表者として、クスモケソウォの名前が挙げられていたのだ。クスモケソウォは当時コンセルバトリ唯一の舞踊教師で、位の高い宮廷舞踊家だったから、コンセルバトリでの業績はすべてクスモケソウォの名前に帰せられていたのだろう。そういう意味で、「ラントヨ」や「ルトノ・パムディヨ」をクスモケソウォが振付けたというのと「マニプリ」の振付家がクスモケソウォだというのは少々意味が異なる。

ところでマリディ氏はなんでそれを1967年になってリメークしたのだろう。その事情についてはうかつにもまだマリディ氏に聞いていない。私の友人は、「マリディ氏はアメリカに行った時にインド舞踊・マニプリを見て『マニプレン』を振り付けたという話を聞いている」と言う。それを考え合わせると、アメリカでインド舞踊マニプリを見てコンセルバトリの「マニプリ」を思い出しリメークしたのかな、という気もする。

現在では「マニプレン」のカセットが市販されているから、「マニプリ」、「マニプレン」(この呼称はしばしば混同して使われている)の振付家といえば、マリディ氏の名前だけが知られている。

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クスモケソウォといえば、1961年から始まっている「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家としても有名だ。これはプランバナン寺院の野外舞台で乾季の満月の前後に上演されている。現在では観光用舞台としてしか見られていないけれど、始まった当時は運輸・郵政・観光大臣管轄の下、スラカルタのコンセルバトリ校長・スルヨハミジョヨがディレクターを務め、スラカルタ宮廷とパク・アラム家(ジョグジャカルタ宮廷の分家でスラカルタ宮廷と縁戚関係にある)の舞踊家や音楽家が総力を結集して取り組んだ一大プロジェクトだ。(現在の出演者は地理的に近いジョグジャカルタから来ていて、スラカルタからは来ていない)

当時すでにコレオグラファーという用語が使われていて、クスモケソウォの肩書きはコレオグラファーである。この場合も本人が新しい動きや型を全部考案したというわけではなくて、総合演出家である。男性舞踊荒型と女性舞踊のパートに関してはアシスタントの振付担当者が別に3人ずつ位いた。なにしろ舞台が巨大(間口50m×奥行き14m)だから、群舞も含めて出演者が200~300人位いる。(200人と300人の差は大きいが、人によって言うことが違うのだから仕方ない。)それに猿だの鹿だの鳥だのいろんなキャラクターが出てくるから、振付家1人では対応は無理というものだろう。クスモケソウォが自ら手がけたのは主役のラーマ王子(優形)の動きなどである。

「ラーマーヤナ・バレエ」では他のアシスタントの振付家の名前も舞踊教師としてクレジットされていた。しかしそれでもクスモケソウォの名前が振付家としてクローズアップされるのは事実だ。それでそのことに不満を持って、公演が始まってすぐに降板した舞踊教師もいる。

こういう問題は舞踊が宮廷の中だけで上演されている間は起きなかったことだ。宮廷では王の名前だけがクレジットされ、舞踊家は平等に匿名だった。しかし舞踊が宮廷外に出ると、誰が創ったのかが問題にされるようになる。それは名声や金銭収入につながるから、振付の一部を担ったと自負する舞踊教師が振付家として自分の名前がクレジットされないこと、何でも宮廷舞踊家の業績になってしまうことに不満を抱くのも無理はない。

(続く)