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2005.12水牛アーカイブ「男性群像の魅力」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。




『水牛』2005年12月号
男性群像の魅力


先日能の「安宅」を見ていて、男性ばかりがぞろぞろと出てくる能なんだなあとあらためて気がついた。たぶん平均的な観客として私は、能といえば、死者の亡霊や化身が出てきて昔を今に語る、いわゆる夢幻能が好きである。さらに面をつけた優美な女性が登場して舞うような能の方が、やはり見ていて美しい。というわけで、今まで安宅のような現在能(現実の世界を描く能)でかつ面をつけない壮年の男性が出てくる演目には食指が動かなかった。それに、勧進帳の話ならば歌舞伎の演出の方がきっと面白い、という先入観もあった。文楽やテレビの時代劇の勧進帳のシーンも、能ではなく歌舞伎を基にしているようである。これらでは弁慶を中心にして、弁慶と富樫、弁慶と義経というヒーロー同士の対決・葛藤にスポットが当てられ、3者の個性の違いがクローズアップされる。ヒーローに感情移入して舞台を見る観客としては、こんな風に物語が集約されるのはまことに都合が良い。その代わり、他にいるはずの山伏の存在は省略されるかほとんど描かれない。

それが「安宅」では一行として弁慶と義経(子役が務める)以外に9人の男性(同山)が登場する。一行が最初舞台に登場し、2列に立って全員正面を向いたり互いに向き合ったりして謡う場面では、その嵩高さと密度、全員の声の厚みに圧倒される。そういえばこれだけの人数が能舞台に載るような演目は見たことがなかった。またその後弁慶が舞台中央に位置し、同山達が舞台に一重に弧を描くように座る時に、一端観客に背を向けたあと端から順に1人ずつ正面に向き直るシーン、また山伏一行が通行を許され弁慶を先頭に急ぎ足で舞台から橋掛かりまで移動するシーン、それが義経が止められたために弁慶以下が舞台に引き返し富樫に迫るシーンなどは、まさに息を呑む勢いとスピードと迫力で展開される。ここでは主役・弁慶とその背景を成すその他大勢という構図ではなくて、巨大なエネルギーの総体が弁慶という人格に具現化されたような感がある。弁慶はそのうごめくエネルギーに突き動かされている。私には弁慶も同山も現実の人間とは見えないのだ。台本が書かれた時点での意図はともかく、能における弁慶は、歌舞伎なんかで描かれるような人間ばなれした人間のヒーローではなくて、人間を超えた存在になっていると思う。もっともそれはシテに表現力があるからこそ可能なのだが。

ここでふと、ジャワで男性によるブドヨを見た時のことを思い出す。ブドヨとは女性9人が同じ衣装を着て同じ振付を舞う宮廷舞踊のことだが、ジョグジャカルタ宮廷ではかつて男性がブドヨを舞っていたことがあるといい、それを再現してみる公演があったのである。この時は踊り手の男性は皆女装していたのだが、その時につくづく、同じ衣装で9人並ぶのでも、女性9人と男性9人とでは印象がかなり異なると痛感した。私はブドヨを見ながらも実は、昔見た「八甲田山」という映画の雪中行軍のシーンを思い出していた。女性なら舞台を滑るように移動すると見えるところが、男性だと行軍に見えてしまう。女性群舞が展開されている時は空間は水平にも垂直にも広がりが感じられるのに、男性群舞だと空間が詰まって息苦しく感じられる。

またボリショイ・バレエ(ソ連時代)の作品で「スパルタクス」というのがあった。細かい点は忘れたが、男性群舞が中心になった作品だったと覚えている。見た当時は子供心に男ばっかりで息が詰まりそうだと思ったが、今になるともう一度見てみたい気がする。

こういう嵩高さ、圧迫感は成人男性ならではの魅力だ。それが群舞になると増幅される。量は質に転化する。見目麗しい女性や美少年らによる群舞では、こういう重たい充満した運動エネルギーを表現することは無理だ。ただ舞踊では華やかさの方が受けるのも事実で、観客の方にもある程度の鑑賞歴がないと、男性群舞はむさ苦しくて暑苦しいだけと思ってしまうように思う。私も男性の群舞が面白いと思えるようになったのは最近のことである。