2006.02水牛「ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年2月号『水牛』寄稿
ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり  
冨岡三智

日本の年末年始には、越し方行く末を考えさせてしまう何かがある。久しぶりにしみじみと年末年始を満喫していて、ふと、ここ10年くらいのインドネシアや日本の暮らしの変わり様を振り返ってみようと思いついた。この間2~3年おきに日本とインドネシアを行き来していると、その度にそれぞれの国が大きく変化したなあと意識せざるをえなかった。ずっと日本にいれば、あるいはずっとインドネシアにいれば、おそらくそういう気づきも日常生活の中で風化してしまったかも知れない。というわけで、まず今回はスハルト時代とその後の変化について気づいた点あたりから始めよう。

念のため書いておくと、私は1996年~1998年5月と、2000年~2003年にインドネシアのソロ(正称はスラカルタ)に留学している。1回目の留学はスハルト大統領時代の末期で、1998年5月に帰国した直後に全国的な暴動になってスハルト退陣につながった。そして2回目の留学はワヒド大統領からメガワティ大統領―スカルノ元大統領の娘―の時代にあたる。

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2回目に留学したとき、スハルト時代は終わったんだなあと感じたことがいくつかあった。その1つが警察での質問事項である。留学すると警察にも出向き、外人登録をする。その時に細かくいろんなことを聞かれるのだが、2回目の留学では外れていた項目が1つだけあった。それは「1965年9月30日に、あなたはどこにいて何をしていましたか?」という質問である。

この日の出来事は後に9月30日事件と呼ばれる。これをきっかけにスハルトが台頭し、スカルノに取って代わって大統領になった。そして事件に関与しているとされた共産党シンパが数10万人粛清され、1998年の暴動の時のように多くのチナ(華人)が襲われた。スハルト政権下では、この事件に関与していた疑いがあれば(本人だけでなく身内でも)インドネシア人なら絶対公務員になれなかったし、外人なら入国拒否された。

だからこの質問は踏み絵の儀式なのだ。その証拠に、生年月日を見れば私がその時にまだ生まれていなかったことは明らかなのに、わざわざ質問して私に答えさせる。私が「まだ生まれてませんでした」と答えると、やおら書類にその返事を書き込む。他の項目だと、こっちが答えるより先に一人合点して書類に書き込んでいくことも多いくせに(人の話をちゃんと最後まで聞かないインドネシア人は多い)。

2回目に留学した時にはその質問がなくなっていたので、「あの『9月30日に~』の質問はしないのですか」と、わざと聞いてみた。そうしたら「もう、なくなりました」で終わりである。「へー、いつから?」と突っ込んでも良かったのだが、警察でそこまで悪ノリするのはやめた。

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またスハルト時代には、役所や公立の機関では毎週月曜と毎月17日(インドネシアの独立記念日が8月17日なので)の始業前に集会があった。そういう所にはメインの庁舎の前に芝生を植えた円形広場があり、広場の中央には国旗掲揚台があって、そこで集会をするのである。そしてこの日は職員全員グレーの公務員服を着てこないといけない。

私は2回の留学とも市役所の裏に住んでいた。朝7時半に始まる1時間目の授業に出ようと思うと、市役所の前を7時前に通る。月曜のその時間帯には、公務員服を着た市役所職員がこの広場いっぱいに出ていたことを思い出す。

事情は芸大(国立大学だから職員や教員はみな公務員)でも同じである。ただ、いかんせん芸術系の学校ゆえ、まじめでない先生も多かった。それも音楽科よりも舞踊科に。音楽科では月曜や17日の公務員服の着用率はまあまあ高くて、今日は月曜日とかいうことが視覚的に分かったが、舞踊科ではそれはあまり分からなかった。

ある月曜日、私はちょっと早めに芸大に行って、集会の様子を見てみようと思った。大学に着くと集会はもう始まっていて、広場に入る正門も閉められている。ふと横を見ると、舞踊科の先生達がいる。「いや~遅刻してね~。まだ中に入れないね~」と私に弁解していたが、それ以前に公務員服を着ていない。はじめから集会に入るつもりはなかったんだろう。けれど、こんな不まじめさの方が健全だなという気もしていた。

こういう儀礼に気づいたのは1回目の留学早々である。入管に行った日がたまたま17日で、朝8時から入口は開いているのに、9時半頃まで職員が誰も出てこなかったのだ。頭にきて警備員に問いただすと、今日は17日の集会だからね、という答え。その言葉は黄門さまの印篭に似て、有無を言わせない。

それが2回目の留学では、17日にも入管に行かざるを得なくなったけれど、集会はやっていなかった。市役所での月曜の集会も全然見ないし、芸大でも月曜に制服を着ている先生もいない。それで念のため芸大の先生達に確認してみたら、やっぱり集会はスハルト退陣後になくなったということだった。

そしてそれがなくなってみると、日々の雰囲気も少し変わったなとあらためて感じる。特定の日に公務員服があふれるという風景は、今にして思えば妙に儀礼的で、硬直した雰囲気がつきまとっていた。あれはやっぱりスハルトへの忠誠を誓う儀式以外の何物でもなかった。だからこそ、スハルトが退陣してしまうと簡単に止めてしまえるのだ。「もう伝統になっているから今後も続けましょう」なんて誰も言い出さなかったのだろう。

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スハルト時代と言えば、ゴルカル党の黄色を思い出す。この時代の政府系イベントでは、何かというとしつこく黄色を使った。

上で公務員服のことを書いたが、あれも正式の行事の場合は中に黄色いシャツを着なくてはいけないようだ。これは芸大の公務員達だけの式典(趣旨は忘れた。生徒は入れない)の通達で知った。そこには、公務員服ならびにその下にゴルカルの黄シャツを着用すべしという条件が書いてあって、着用していなければ中に入れないことや、黄シャツがない人は新たに購入すべしということも付記されていた。

そしてテレビ中継される国家行事などでは、前の方の席にずらりと陣取る人達――議員か閣僚か――が皆黄色い背広を着て映っていたことを思い出す。日本で黄色い背広を着るのは漫才師くらいだから、このインドネシアの偉いさんの光景はとても奇妙な感じがしたものだ。そしてその一方、偉いさん達の前で繰り広げられる舞台の衣装にも黄色の割合が高い。

たとえば、確か1997年のハリ・イブ(母の日)の行事もそうだった。故・スハルト夫人の故郷・カランアニャル(ソロ郊外)でスハルト臨席のもと行われた時、ソロの芸大に女性舞踊を出すよう指示がきた。その時は60何人かの踊り手がいて(60何回目かのハリ・イブだったから)ガンビョンを提供したのだが、衣装の上着は全員黄色だった。

またソロでは、スハルト時代は毎年の独立記念日や正月に市役所でワヤン(影絵)があったのだが、その時も、伝統衣装に身を包むダラン(影絵操者)も演奏家も決まって黄色い上着を着ていた。

こんな風に、色でアピールするというのは素朴だけれど効果的だ。ゴルカルが行事を主催しているということが、何のナレーションがなくても、遠くからでも、そして子供にも一目瞭然に分かる。

時は流れて2002年の12月、暴動時ではなかったが焼失したソロの市役所が再建され、そのオープニングがメガワティ大統領を迎えて行われることになった。近所のことゆえ私はのこのこと市役所の門の前に行って、塀の外から中の様子を見ていた。そうしたら接待係の人達のクバヤ(伝統衣装の上着)がみんな真っ赤(メガワティの政党の色)だったのだ。それを見たとたん、ああメガワティの時代に変わったんだなと強く実感したことだった。スハルト時代なら、あの人達はみな黄色いクバヤに身を包んでいたはずだから。スハルト色を払拭するのなんてこんなに簡単だったんだと、以前を知る者は拍子抜けしてしまう。

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そしてスハルト後を強く印象づけるのがチナ(華人)文化の解禁だ。2000年2月に再留学してすぐ、ソロでも中国雑伎ショーがあって、芸大の舞踊科でも結構話題になった。また各種イベントにバロンサイ(獅子)やリヨン(竜舞)が決まって登場するようにもなった。こういうものは9月30日事件以降禁止されていたから、1回目の留学では全く目にすることがなかった。いったい、この巨大なバロンサイや竜はいつインドネシアに運びこまれたのだろう。そしてチナの子弟達は、どこで、どうやって練習していたのだろう、指導者はどこから呼んだのだろうか、などと考えてしまう。

チナの人達が祝う旧正月も、2002年は暫定的に、そして2003年からは正式に祝日になった。この日、バロンサイがスラマット・リヤディ大通り沿いの店々(オーナーはたいていチナ)を獅子舞して廻ったという。そしてデパートやスーパーでは旧正月用品の売り出しが華やかに行われた。食品のパッケージやグリーティングカードはどれも赤色で、そこに金色でめでたい文句の漢字が書いてある。

1998年末から経済危機がひどくなり、暴動が発生するようになると、多くのチナ系の人達が略奪・暴行の目に遭った。本当はソロはかなり荒れた所だ。もっともその一番荒れた時期に私は日本にいた。それでも一触即発の雰囲気になるまでの様子は知っている。1998年の旧正月は、表立って祝うのが危ないとチナ系の人達は自粛していた。
私達日本人の方にも、チナに間違われて襲われるかもしれない、インドネシア人には日本人とチナの顔の区別はつかないだろうし……、という恐れがあった。そんな空気を体感していただけに、こんなに派手に旧正月用品の売り出したり、チナでない一般のインドネシア人も「旧正月おめでとう」と挨拶したりする日がくるなんて、当時は想像できなかった。

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最後にスハルト時代の終わりにとどめを刺すのが、スハルトの肖像が描かれた5万ルピア札(当時の最高額紙幣)が消えたことだ。それは2000年8月のことで、それだけではなく全紙幣のデザインが刷新された。偽札が増えてきたからというのが表向きの理由だったが、スハルト紙幣の登場は他の紙幣デザインに比べてそんなに古いことではない。歴史的には独裁者が自分の肖像紙幣を発行するようになるとその政権も末期らしいが、それはまさにスハルトにも当てはまっている。