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2006.07水牛「風景が変わること」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年7月号『水牛』寄稿
風景が変わること  

ジャワ中部地震が起きてから1ヶ月が経った。私はまだ大きな地震に遭ったことがないから、被災について語る資格はないかも知れない。けれど、私自身の経験した小さな不幸について書いてみる。

最初の留学から帰国して間もなく、私は妹を亡くした。そのときになって初めて私は、今まで家族を亡くした人の気持ちを全然分かっていなかったのだと思わずにはいられなかった。私が留学している間に、私が舞踊を師事していたJ先生は夫を亡くし、P先生は父親を亡くしていた。私はお葬式に参列し、特に親しく師事していたJ先生の夫の年忌にはずっと参列していた。当時の私は私なりに先生達の悲しみに同情しながらも、ジャワ人は死を神の思し召しとしてあっけらかんと受け止めているように見える、などと感じたりしていた。私自身の身にそんなことが降りかかるまでは。

いかに第三者には気丈に見えていても、人の気持ちはそんなに簡単に割り切れるものではなく、いくら信仰心厚くとも(P先生はカトリック、J先生はイスラムを信仰している)、感じる悲しみの絶対量に違いはない、と今は思う。死をあっけらかんと受け止めているように見えていたのは、人生の不条理さをジャワの人々が心得ていて、それを受け止める心構えができていたからだと思う。そして逆に、当時の私には、そのことに気づくだけの感性がまだ備わっていなかった。

妹を亡くした後、私は舞踊の練習を1人で続けた。漠然と、ジャワ舞踊を手放してしまったら自分が崩壊してしまうような気がしていた。ガムランの曲を聴くだけでも胸が締めつけられて息苦しかったのに。なぜそんなにまでしてジャワ舞踊にしがみついていたかったのだろう。

「メナック・コンチャル」という舞踊曲がある。出陣する王子の雄雄しい姿の描写の後に、想いを寄せる姫の面影を追う王子の姿が描写される。曲の形式がそれまでのラドランからクタワンというゆったりとしたテンポに変わり、ボーカルが切々とした思いを歌い上げる。王子は今度の戦いで死ぬことを予期しているのだ。この作品のクタワンに移行する部分で、急に涙があふれてきた。死ぬことを予期した王子の激しいやるせなさが、急に私の胸にも突きあげてきたのだ。こんなことは、ジャワで練習していた時には一度としてなかったことだった。いくら作品のテーマや歌詞の意味を理解してはいても。また一度そんな風に聞こえてしまうと、もうそれ以外のようには聞こえてこなくなる。

妹が亡くなって1年半後、私は再びジャワに留学し、「カルノ・タンディン」という舞踊作品を習っていた。これは「マハーバーラタ」の中の物語の1つで、アルジュノとカルノという異父兄弟が敵味方に分かれて戦い、最後にはカルノが敗れる様を描いている。この曲には2人が離れていったかと思うと、向きを変えて近づいてくる、という振付が何度か出てくる。その向きを変えた時に歌が入ってくるのだが、そこで、カルノとアルジュノが自分と妹にダブって「もう2度と会えない」という気持ちがよぎったり、もう時間を元には戻せないと感じて、そのたびにいつも涙が止まらなかった。けれど、その箇所でそんな思いがこみ上げてくるということは、いくら作品を分析しても出てこないに違いない。この演目は重い演目で、上演される時にはお供えが必ず用意される、ということをいくら知っていても、それはやはり頭の先の理解にとどまっていて、お供えを用意せずにはいられない心の内をわかったことにはならない。

昨日の続きの今日があって、そして明日に続いていくという世界が破綻したとき、それまで見ていた風景は一瞬にして変わる。いくら被災地の映像を見、同情の念をもよおしても、この風景が変わらなければ被災者の気持ちには達し得ない、と思う(私は救援活動に携わる人々を批判しているのではない)。そしてまた芸術というのは、たぶん、それまでの安定した世界が破綻しようとするときにこそ見えてくるもののような気がする。