FC2ブログ
 
2006.08水牛「踊りの謝礼 ~1」
私は、毎月、高橋悠治氏のサイト『水牛』の「水牛のように」コーナーにエッセイを書いていますが、この執筆は2002年11月から始まりました。同サイトにも私のエッセイのバックナンバーが、「冨岡三智アーカイブ」に掲載されています。しかし、サイトのデザイン変更もあって、今のところは大体2007年頃からの分しか移行されていません。それで、『水牛』のアーカイブに未掲載の分をこちらに掲載していくことにします。

水牛アーカイブ未掲載分の目次はこちらです。



2006年8月号『水牛』寄稿
踊りの謝礼 ~1

中ジャワ・スラカルタの音楽家・舞踊家の間には、PY(ペイェー)という隠語がある。お金をもらって上演するという意味で、プランバナン寺院での観光舞踊劇「ラーマーヤナ・バレエ」が始まった1961年頃から使われ始めたという。PYとはpayu(パユ)=お金になる、の子音を取ったもので、それはつまり芸術行為によってお金を頂戴することを賤しむ気風があったからこそ生まれた言葉なのだ。この語を使い始めたのは、「ラーマーヤナ・バレエ」の総合振付家クスモケソウォの長男だと言われている。

「ラーマーヤナ・バレエ」はインドネシア初の観光用・大型野外舞台劇で、その中心的な担い手はクスモケソウォが教鞭を執るスラカルタの芸術高校関係者(教員、学生、教員の子の子)を中心に、あちこちにいる弟子たちなどだ。この人は宮廷舞踊家で、その中でも最も保守的な人だったから、芸術を学んでいる者がお金を手にするのはよくないと考えていた。宮廷舞踊家にとっては、舞踊は人格の陶冶のためにあるべきだったのだ。だから1960年代頃のギャラは「ミー・アヤム一杯分」だったという。当時大人だった人から子供だった人まで、世代の異なる3人が3人ともそう表現した。ミー・アヤムとは鶏肉入りラーメンだが、屋台で食べられる最も安い食事である。スラカルタからプランバナン寺院までバスで行って(団体バスで行くのだが、今の道路事情でも片道1時間余りかかる)舞台をつとめるのだから、子供ならともかく、大人にとっては全く割のあわないギャラである。出演自体を嬉しい、有難いと思えないと続かない。

だから、ラーマーヤナバレエの初期を担った、当時まだ中高生だった踊り手たちは、大学に進学するとラーマーヤナ・バレエから離れてしまうことが多い。例外だったのは初代ラーマ王子役で、ジョグジャカルタにある大学の医学部に通いながら、1968年に留学するまでずっとラーマをつとめた。これは親(医者)が裕福で、息子をクスモケソウォに習わせており、かつ「ラーマーヤナ・バレエ」の仕掛け人の1人だったから可能だったのだ。

それはさておき、大学生になったラーマーヤナ・バレエの踊り手は、ホテルなどで舞踊のアルバイトをする。ジョグジャカルタでは、スラカルタと違って、毎日のようにどこかのホテルで公演がある。実際、クスモケソウォの孫娘もそうで、ジョグジャカルタの芸術大学に進学して下宿しながら、ホテルでの公演やパク・アラム王家主催の公演に出て授業料や生活費を稼いだという。

またジョグジャカルタの大学に進学したが、スラカルタに戻ってスリウェダリ劇場に出演していた元・出演者もいる。彼は最初、スリウェダリ劇場のギャラがラーマーヤナ・バレエよりはるかに高額なことに驚いたという。そのギャラで学費を全部賄えただけでなく、当時は高価なものであった自転車まで買えたという。スリウェダリ劇場は商業施設で、歌舞伎興行みたいに毎日公演を打ち、そのチケット収入で採算をとる。ここではしかるべき対価をもらって上演するのが当たり前であり、恥ずべきことではなかった。

(続く)



※ 上に「続く」とありますが、実は続きがないです(笑)。