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2020.05水牛「コロナ アモックにならないように」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年5月」(水牛のように)コーナーに、
コロナ アモックにならないように」を寄稿しました。

すっかりアップロードを失念しており、いま7月分の原稿を書いているところ。2か月前の状況が遠い過去に見えます。




コロナ アモックにならないように…
冨岡三智

先月、非常勤講師先の大学の3/31時点での状況を書いたけれど、4/7緊急事態宣言が発令されることになったので、4/3頃にすでに状況は一変した。4月2週目から対面授業を開講するとしていた大学も急遽オンライン授業に変更し、けっきょく本日4/30時点では4校中3校が前期はすべてオンライン授業と決まった。仕事上の課題はあるにしても、実はわりと落ち着いている。家にこもるのが好きで仕事も一応あるからだが、物理的危害が加えられそうな不安はまだない…という理由が大きい。

最初のインドネシア留学時に、通貨危機(1997年)をきっかけにルピアが下落し、逆に物価が高騰して生活物資が不足し、暴動からスハルト大統領退陣(1998年5月)に至る直前までの状況を経験したから、あの当時の状況よりはマシである。研究者の調査報告を読んでいると、当時の買い溜めパニックは相対的に富裕層の高級スーパーにおける買い溜めが引き金となって伝統市場などに波及していったようだ。当時、特に不足が叫ばれていた代表格が食用油と砂糖だった。これは揚げ物が多い食事にたっぷり砂糖を入れたお茶を飲む南国ならではの状況だったろう。教会やモスク、王宮などが油や砂糖を買い付けて配給していたことを覚えている。

当時私がよく買い物していたマタハリ・デパートでは値札が頻繁に差し替えられ、そのうち値上がりに追いつかなくなって手書きになり、私が帰国する直前(5月上旬)に値札が一斉に棚から消えた。つまり時価になったのだ。そして、売り場の棚の所々にバーコードリーダーが置かれ、自分で値段を読み取るようになっていた。(余談だが、当時のマタハリには最新の富士通のPOSレジが導入され、バーコードリーダーで値札を読み取るようになっていた。)この、値札が消えた時の衝撃が忘れられない。同日午後に友人がマタハリに行った時には、すでに閉まっていたらしい。そして、私の帰国後にマタハリは放火されてしまった。

現在の日本でもマスクなどの高額販売や転売が問題になっているが、貧富の差が激しかったインドネシアでは物価上昇を狙って売り惜しみをしていると思われる店や、政府と癒着する富裕層への怨嗟が増していった。マタハリの実情は知らないが、大手のショッピングセンターや日本車などのショールームなどがそのために焼き討ちの対象になり、富裕層と目される華人に矛先が向かった。私たち日本人留学生の顔も、インドネシア人から見れば華人と区別がつき難いから狙われるかもしれない…という恐怖を、あの頃は本当に感じていた。自分の借りている家に「ここは日本人の家です」とペンキで書いた方がいいかもしれないと、留学生同士でしたくらいだ。今、自粛しない店への嫌がらせが一部で起きている。インドネシアには圧倒的な貧富の差と30年に渡るスハルト強権政治に対する反動があり、現在の日本ではあそこまでアモックにはなるまいと信じている。アモックamokはインドネシア語(マレー語)から英語に取り入れられた単語の1つだ。理性を失って荒れ狂った様を言う。1998年の暴動~政変の間によく使われた。最近、ふと当時のことを思い出す…。
2020.04水牛「コロナこの頃」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年4月」(水牛のように)コーナーに、
コロナこの頃」を寄稿しました。

いつも月末ぎりぎりに原稿を送っているので、原稿にある 「4校のうち1校が2週間遅れで開講、1校が1か月遅れで開講、1校が通常開講だけれど1か月間は対面授業禁止(オンライン対応)、1校が通常通り開校」 は3/31夜時点での状況。その後、4/3夜にまた情勢が変わって、通常開校予定だった大学も当面は対面授業なし(期限不明)になりました。というわけで、今は毎日在宅勤務です。




コロナ収束には時間がかかりそうだ。1年以上かかるかもしれない。実は、2月末から3月半ばまでインドネシアに渡航しようと、1月下旬に予約を入れていたのだが、2月半ばに取りやめた。行くのは問題ないとしても帰国する頃の状況が不透明、日本に入国できなかったり2週間隔離されたりするかも…という旅行社のアドバイスに従ったのだ。3月2日から日本では小中高の臨時休校が始まったけれど、3月末には収束しているだろうと感じていたのに、結局それどころではなくなってしまった。人の出入国だけでなくて郵便まで制限されてきている。この分だと8~9月にインドネシアに行くのも無理そうか…。今年は行ってやりたいことがあって、時間もとれたのになあと残念だ。

そして非常勤講師で行っている大学の授業だが、4校のうち1校が2週間遅れで開講、1校が1か月遅れで開講、1校が通常開講だけれど1か月間は対面授業禁止(オンライン対応)、1校が通常通り開校である。通常通りというのに驚いたので大学に確認したところ、必須授業が多いので換気等に注意してやるとのこと。5月になる頃にはとりあえずの収束は見えてくるのだろうか。
2020.03水牛「ジャワ舞踊作品のバージョン(7)ガンビョン」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年3月」(水牛のように)コーナーに、
ジャワ舞踊作品のバージョン(7)ガンビョン」を寄稿しました。

※ ちなみに私の過去記事は以下から読めます。
『水牛』冨岡三智アーカイブ 
『水牛』冨岡三智アーカイブ 未収録記事一覧 



ガンビョンについては、2003年1月号の『水牛』に寄稿した「ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(2)民間舞踊」の中で書いている。ここまで古い号はバックナンバーでもカバーされていない。ちなみに、これが『水牛』への寄稿3作目だった。その次は2014年11月号に「ジャワ舞踊の衣装 ガンビョン」を寄稿していて、これはバックナンバーにある。意外にも、それ以外は書いていない…ということで、今月はガンビョンについて書こう。

まず、私の手許に残る幻(?)の2003年の『水牛』寄稿記事からの引用…。

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ガンビョンはチブロン太鼓の奏法とともにスラカルタで発展した、現在ではスラカルタを代表する舞踊ジャンルである。その太鼓奏法も現在ジャワ・ガムランにおける演奏会スタイルの標準になっている。ガンビョンは楽曲優先の舞踊で、太鼓が繰り出す手組み(スカラン)を聞いて、踊り手がそれに合った振りを踊る。ガンビョンでは最初4つと最後のスカランが決まっている他、終わり方にも定型がある。他は順不同とは言え、歩きながら踊るスカランと止まって踊るスカランを交互に演奏しなければならない。これらの制約の中で太鼓奏者は数多くのスカランから自由に選んだり、また即興的に作ったりして演奏した。

ガンビョンは女性の単独舞であるが、実は1960年代後半まではガンビョンは一般子女が嗜むにはふさわしくない舞踊だった。ガンビョンを踊るのは、レデッ又はタレデッと呼ばれる流しの女性芸人か、または商業ワヤン・オラン(舞踊劇)劇場の踊り手に限られていた。その芸風は歌いながら踊るというもので、しかも性的合一に至るコンセプトを描いた扇情的な振りが多かった。

それは農村の豊穣祈願の踊りに発するからだという。(日本でも農耕儀礼ではしばしば性的な行為が模倣される。)だがそれゆえ多産を願うものとして、昔からしばしば結婚式ではプロの踊り手を呼んでガンビョンを踊ってもらったという。現在でも結婚式や各種セレモニーでガンビョンが踊られることが多いのは、根底に儀礼的な性格をまだ残しているからだろう。

さて、開放的な気風のマンクヌガラン宮ではガンビョンを取り入れ、接待用の娯楽舞踊として洗練させた。そして宮廷舞踊の要素を付加し、即興的な要素を排して歌いながら踊るのも止め、レデッのイメージを払拭した演目「ガンビョン・パレアノム」を作り上げる。それでも当初は親族が踊るのはタブーだったが、60年代後半には親族も踊るようになった。パレアノムはスラカルタの舞踊家達に知られて広まり、また芸術機関でもガンビョンをスラカルタを代表する舞踊として取り上げるようになって、ガンビョンは一般に定着した。

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ガンビョンは楽曲がラドラン形式かグンディン形式かによって太鼓(ひいては振付)のパターンの組み方が違う。どの曲を使っても良いのだが、ラドラン形式なら「パンクル」、グンディン形式なら「ガンビルサウィット」という曲を使うのが定番で、カセットも市販されている。いずれもガムランを嗜む人なら誰もが知っている曲である。上で述べた「ガンビョン・パレアノム」もメインで使う曲は「ガンビルサウィット」だが、通常のグンディン形式のガンビョンではやらないケバルという演出(速いテンポで踊る)を追加しており、別物になっている。

「ガンビョン・パレアノム」がマンクヌガラン王家で最初に作られたのは1950年、初演されたのは1951年の王家当主(マンクヌゴロVIII世)の妹の結婚式であった。なお、「パレアノム」(若いニガウリの意)はマンクヌガラン王家の旗印のことで、同王家を代表する曲として作られたことを端的に表している。このオリジナル版は宮廷舞踊のように構成されており、長さも45分あった。1973年に(次で述べるガリマン版が作られた翌年に)15分の短縮版が王家で作られた。

王家の外で初めて「パレアノム」をアレンジしたのはガリマンで、1972年のことである。カセットも市販されている。ガリマンは誰かの結婚式でマンクヌガラン王家の「パレアノム」を見て(おそらくマンクヌゴロ家縁者の結婚式だったのだろう)、生き生きとしてダイナミックな展開に魅了され、自分でもアレンジしてみたのだという。ガリマン版の特徴は10分と短いこと、そして決まっている最初の4つの太鼓の手組(スカラン)のうち1つしかやっておらず、さらに他の手組もあまり知られていないものや自分で創作したものを入れていることである。このガリマン版は当初は批判されたらしい。しかし、音楽家でもあるガリマンは、民間のレデッが必ずしも順番通りにスカランを演奏するわけではないことを知っており、かつ規則通りに踊るとガンビョンはどれも同じような舞踊になってしまうため、あえて変化をつけたようだ。

ガリマン版が出た翌年頃、私の師:ジョコ女史も義弟の結婚式で上演するために「パレアノム」をアレンジした。ガリマン版を土台にしながら、最初の部分は規則通りにスカランを並べている。端的に言えば、ガリマン版(主要部であるインガーの長さが2周期)の前に1周期足して3周期にしている。ジョコ女史はなるべくたくさんのスカランを教えられるようにアレンジしたので、18分余りもあって結構長く感じる。このジョコ女史版は、芸術大学のカセット・シリーズの中に入っている(ただし入退場の曲は、ジョコ女史とは異なっている)。

ジョコ女史は自分がアレンジした「パレアノム」をある舞踊団体で教えていたが、芸術大学(当時はASKIと言った)教員がそれを習い覚え、ジョコ女史版(3周期)の3周期目をカットして、入退場の曲を変えてPKJT-ASKI版にアレンジした(PKJTは当時芸大の学長が兼任していた芸術プロジェクトの名前)。これが1979年のことで、カセットも市販されている。ただ、これはあくまでも結婚式上演用のアレンジで、私が芸大で授業を履修していた時に「ガンビョン・パレアノム」として習ったのは、長い方のジョコ女史版であった。

実はこれ以外に、ガリマンと並ぶ2大巨匠のマリディも「ガンビョン・パレアノム」をアレンジしていて、カセットも出ている。が、基本はジョコ女史版と同じで、入退場曲をさらに変え、スカランを1つ差し替えているくらいである。マリディは、同世代のガリマンやジョコ女史がアレンジしているのを見て、自分もやらねばと思ったらしい。

こんな風に「ガンビョン・パレアノム」が大流行したのは、マンクヌガランで作られた演出の面白さが核にあっただけでなく、結婚式で上演する機会が多く、かつカセット化によって多くの人が習い踊ることができるようになったという点が大きい。
2020.02水牛「訃報続き」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年2月」(水牛のように)コーナーに、
訃報続き」を寄稿しました。

※ ちなみに私の過去記事は以下から読めます。
『水牛』冨岡三智アーカイブ 
『水牛』冨岡三智アーカイブ 未収録記事一覧 



訃報続き

ここのところ、お世話になった方々が連続して亡くなった。追悼の意を込めて少し思い出について書いてみる。

昨年末の12月29日にはスプラプト・スルヨダルモ氏(74歳)が亡くなった。在野で国内外の舞踊家に大きな影響を与えた舞踊家で、私も尊敬する舞踊家の口からプラプト氏のことについて聞く機会が何度もあり、氏の影響力をつくづく感じたものだ。氏は聖なる場や自然と一体化し、内的なものから生まれる動きに従って踊る人だった。実はサルドノ・クスモ氏と同年(1945年)、同地域(スラカルタ市クムラヤン地域、宮廷芸術家が多く住んだ地域)の生まれである。この2人がジャワの現代舞踊の2大潮流をつくり出したと言って良い。氏は海外で指導することも多く、1986年にスラカルタに開いたスタジオ「ルマ・プティ」では国内外から学びに来る舞踊家を受け入れ、舞踊イベントなども開いていた。私も何度かそこでのイベントに参加したこともある。それ以外に、毎年大晦日から新年にかけてはヒンズー教のスクー遺跡でスラウン・スニ・チャンディ」(遺跡での芸術の集い、の意)というイベントを開催されていた。私も2011年大晦日に声をかけていただき出演したが、観光文化省の信仰局長やスラカルタ王家のムルティア王女を来賓に迎えるほどの規模の大きなイベントだった。

今年に入り、1月18日には留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のサルユニ・パドミニンセ女史(61歳)が亡くなった。私が芸大に留学した時に1年生の基礎の授業を受け持っていたのがサルユニ女史だった。私にとっては芸大授業で初めて習った女性の先生である。2度目に留学した2000年、ちょうど芸大に開設された大学院に入学したサルユニ女史は、私がジョコ・スハルジョ女史から受けていた宮廷舞踊のレッスンに、もう1人の教員と一緒に参加してくれた。そして2000~2003年の3年間はずっと一緒にジョコ女史の元で宮廷舞踊を練習し、2002年にはジョコ女史も入れて4人で芸大大学院の催しで『スリンピ・ラグドゥンプル」完全版を踊った。その翌年にはジョコ女史の息子が振り付けた公演でも一緒に踊り、2006年と2007年に私がスリンピとブドヨのプロジェクトをして3公演を制作した時にもすべて出演してもらった。芸大の授業では先生は見本を見せてくれるとは言え、最初から最後までついて踊ることはしない。しかし、長い宮廷舞踊をずっと一緒に踊る時間を共にできたことは、今から思えば非常に贅沢な時間で、言葉にならない影響をいろいろ受けたように思う。

1月22日にはバンバン・スルヨノ氏(芸名:バンバン・ブスール氏、60歳)が、翌1月23日には岩見神楽岡崎社中の元代表の三賀森康男氏が亡くなった。2人は、私は友人たちが2008年に企画したジャワ舞踊と岩見神楽の共同制作に参加して島根で『オロチ・ナーガ』を一緒に作り上げてくださった方々である。バンバン氏はマンクヌガラン王家の舞踊家として活躍するだけでなく、2000年に大学院が開設されて以降はサルドノ氏の助手として指導にあたり、呼吸や声についての独自のメソッドを持っていた。島根で公演した時には舞踊のワークショップもしてもらったのだが、バンバン氏の呼吸法や声にものすごく私の身体が感化されて、あくびが止まらなかったことを覚えている。三賀森氏は社中の中で最も年長ながら、最も柔軟な姿勢で受け入れてくれた。伝統を極めた人はこんなにも自在なのだと感じた。お互いに長い歴史を持つ岩見神楽とジャワ舞踊の間をつなぐすという経験をして、私は、遠く離れた場所でそれぞれ井戸を深く深く掘り下げていけば、いつかは同じ地下水脈に行き当たるのだな…と感じたことだった。
2020.01水牛「ネズミのいる生活」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2020年1月」(水牛のように)コーナーに、
ねずみのいる生活」を寄稿しました。

※ ちなみに私の過去記事は以下から読めます。
『水牛』冨岡三智アーカイブ 
『水牛』冨岡三智アーカイブ 未収録記事一覧 



ネズミのいる生活

今年は子年というわけで、今月はネズミとの思い出をあれこれ語ってみよう。

●留学前の日本での話~
ある夜、風呂上がりのあと台所で本を読んでいたら、オーブンの下からすぐ近くの棚の下に何かが走った気配がする。直接姿を見ていないが、これはネズミだなと直感。しばらくすると、もう少し距離が離れたコーナーの物陰に走る影。またしばらくすると、今度は素早く移動せず、様子を伺いながら出てくる。果たしてネズミだ。物陰でない所にまで出て来たから、私の存在にはまだ気づいてなさそうである。このまま悟られなかったら私の勝ち…と勝負を挑む気になり、私は息をひそめ、視線は床に落とさず、気配を消した。…ネズミは物陰のない所を横断して、私のいる食卓の方に近づいて来た。が、まだ私に気づかない。…私は木になりきろうとする。…私の足元の近くまで来た。…私は緊張感を出さないように気をつける。…が、ここでネズミがいきなり私の足の甲に上ってきた!しばらく我慢したものの、ついに足が浮いてしまった。当然、ネズミの方も驚いてオーブンの下に一直線に逃げ込んでしまった!(実は食卓はオーブンの近く)ネズミにとっては、私の足は小山にしか見えなかったのかもしれないが、いくら何でも足に上った時点で気づきそうなものだ。私の気配の消し方がうまかったというより、あのネズミの方が鈍感だったように思えてならない。

●ジャワの話
最初の留学時に住んだ家には、二階の物干し場に上がる階段の中にネズミが住んでいた。何匹かいたかもしれないが、私が目にする時はいつも1匹だけだった。この家ではその階段がある家事部屋が一番奥で、次に水浴場と水屋があり、次に寝室があり、一番手前が客間になっていた。入居当初はネズミも警戒心が強くて家事部屋でもなかなか目にすることもなかったのに、いつの間にか水浴場に、さらに寝室に進出してくるようになった。とはいえ、私が気づくと猛ダッシュで階段の方に駆け戻る。私は家にいるときは客間で舞踊の練習をしていることが多かったが、そのうち寝室との境(ドアはついてない)の所にまで来る気配がするようになった。その頃には、私がネズミを目撃しても昔ほど速攻でダッシュせずに一呼吸おいて逃げ出したり、ダッシュしても途中で一瞬立ち止まってこちらを振り返ったりするようになっていた。

そんなある日、私は男踊りの練習に疲れて床に腰を下ろしていた。腰の両脇に垂らしたサンプールという布はつけたまま、無造作に後ろに払っていた。壁にもたれてお茶を飲みながらぼーっとすることしばし…、さて練習を再開しようとサンプールを見ると、なんとサンプールの上にネズミが後ろ座りに座っている!目と目が合い、お互いにフリーズしてしまった。とは言え、ネズミの方が一瞬早く我に戻り、ダッシュで逃げ出す。普段はネズミの気配が分かるのに、しかも私が身に着けている布の上に座られているのに、全然気づかなかったのが不思議だ。それにしても、なぜサンプールの上に座ろうと思ったのだろう…。

このネズミは一度水浴び場の水溜めに落ちたことがある。夜中に私が机に向かっていると、水浴び場から急にパーンと物が飛ぶ音が聞こえた。さてはポルスターガイストか!?と気味が悪くなりつつ水浴び場に行くと、水溜めからパシャパシャ水音がする。見ればネズミが足掻いていて、私の顔を見るやキーキーと声を出して必死に鳴く。横に水浴び用のプラスチックの手桶が転がっている。さては、ネズミがこの手桶に飛び乗ったところ、手桶がひっくり返ってネズミが水溜にはまり、その反動で手桶は宙に舞って床に音を立てて落ちたのだろう…。トム&ジェリーみたいな状況だが、それしか考えられない。それはともかく、手桶を横にして水面に平行にネズミの方に近づけて掬い上げ、床に放してやると、いつもほどに機敏でないが階段の方に戻っていった。

この家のネズミには他にもいろいろと思い出があるのだが、どうも私を警戒しつつも存在には気づいてほしくて距離を縮めてきたような気配があった。家ネズミは2年以上生きることもあるそうだから、同一のネズミだったのではないかなと思っている。日本の我が家にいたネズミもそうだが、はしこい割には間抜けなところがあって、そこが愛嬌のあるところかもしれない。
2019.12水牛「8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年12月」(水牛のように)コーナーに、
8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録」を寄稿しました。



8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録

今回紹介しようとする「飯炊きの儀」は、ジャワのスラカルタ王家においてスカテン儀礼の時に行われるものである。スカテンは今年は11月2日から9日まで行われた…ので、実は先月に終わっている。しかも、この儀礼は8年に1回しか行われない。最近だと2017年に行われた…ので、全く以てタイミングを外しているのだが、先日唐突に昔のことを思い出したので、書き留めておきたい。

スカテンとはジャワ島中部の王家(スラカルタとジョグジャカルタ)で催される儀礼で、イスラム預言者ムハンマドの生誕を祝うため、王宮モスクの中庭で生誕祭までの1週間、巨大なガムラン楽器「スカティ」を昼夜演奏し続けるというものである。ちなみに、ジャワ島西部のチレボンという王宮でも同趣旨の儀礼・ムルダンがある。ムハンマドの生誕祭はイスラム暦(1年約354日)で執り行われるので、毎年約11日ずつ日がずれていく。

「飯炊きの儀」とは「アダン・セゴ Adang Sego」のことで、ジャワ語で文字通り「ご飯を炊く」という意味である。王自ら巨大な4つの甑(こしき)を使って米を炊き、家臣がそれをいただいて食べる儀礼で、パク・ブウォノII世(1726-1749)の時代、つまりスラカルタとジョグジャカルタが分裂する前のマタラム王国時代、まだ都がカルトスロにあった時から行われ、現在までスラカルタ王家で継承されている。日本の羽衣伝説に似た『ジョコ・タルブ』という伝説がジャワにあるのだが、甑はその人間の男性と結婚した天女(稲の女神でもある)と関係があるとされる。

この儀礼が行われるのは8年に1度巡ってくるダル年のみである。ジャワにはウィンドゥwinduという8年周期の暦――ちょうど十二支のようなもの――があり、ダル年はその5番目だ。ちなみに、ジャワの人々はウィンドゥが8周した時(64歳)や10周した時(80歳)に、還暦や傘寿のようなお祝いをする。それはともかく、ダル年が特別であるのはムハンマドがダル年生まれであるからのようだ。スカテン最終日(つまりムハンマド生誕祭)には、食物で作られた神輿が出るのだが、その数もダル年だけ倍になる。

私も留学中の2002年にダル年に巡り合っている。当時、私はスラカルタ王家の様々な儀礼を参与観察させてもらっていたので、「飯炊きの儀」も見たいと思っていた。8年に1回の儀礼というだけでなく、この年にはぜひ見たいという特別の理由もあった。実は、この「飯炊きの儀」にはその場に華人がいるとご飯が炊きあがらないという伝承があり、華人お断りの儀礼だったのである。2000年、インドネシアでは1965年以来行われていた華人の文化・慣習に対する制限が撤廃されたが、そのような状況下において、この儀礼はどうなるのだろうか?と興味を持っていたのだ。

「飯炊きの儀」で上記のような伝承が生まれたのは、実は1740年の華僑騒乱に関連する。バタヴィアでオランダ東インド会社による華僑虐殺事件が起こると、中部ジャワでも各地で華僑が反乱を起こしてオランダ人を殺した。パク・ブウォノII世は当初は華僑を支援し、東インド会社に反旗を翻したものの、後に敗れて謝罪。その変節ぶりに家臣や華僑が怒って王に敵対した。王は東インド会社の助けを得てこの反乱を収束させたために、会社に大きく譲歩する羽目になった。華僑騒乱の時、華僑は王宮の台所を突破したとも言われており、それが「ご飯が炊きあがらない」という伝承に転化したようだ。

結局、この「飯炊きの儀」は見れなかった。王家の事務に見学申請を出していたが、ぎりぎりになって「実は、外国人は入れなくなりました…」と申し訳なさそうに言ってきた。予想外の返事だった。伝統行事としてどうしても華人禁止にしたいが、2000年以降の社会的状況下でそれを明言することはできない、だったら外国人全般を禁止してしまおうという政治判断が働いたのだろう。それほど、王家は華人/華僑に裏切られたという記憶をこの儀礼に刻印しておきたいのか。それとも、そうしなければならぬという神のお告げでも出たのか。その後の2009年、2017年のダル年にはどうしたのだろうか…と思う。
2019.10水牛「インドネシアで浦和レッズの試合を見に行った理由」
先々月アップし忘れていました…。ちなみに2019年11月号には寄稿できず。

高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年10月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで浦和レッズの試合を見に行った理由」を寄稿しました。



クディリ・サポーターのスタンド


インドネシアで浦和レッズの試合を見に行った理由

いま日本でラグビーワールドカップが開催されている。私はスポーツには全然関心がないのだが、熱気ある報道を見ていたら、昔インドネシアで観戦した浦和レッズの試合のことが思い出されてきた。というわけで、今回はその思い出話。

その試合はAFCチャンピオンリーグの浦和レッズ×ペルシク・ケディリ戦(インドネシア語の発音としてはプルシッ・クディリの方が近い)で、2007年5月9日(水)午後3時半からインドネシアのソロ市にあるマナハン競技場で行われた。当時、私は調査のためにソロ市に住んでいた(3度目の長期滞在)が、普段はテレビも新聞も見ていないこともあって、浦和レッズがインドネシアに来ることは全然知らなかった。

その試合前日の朝6時頃、突然の訪問者がある。ちなみに、朝6時というのはインドネシアでは他人に電話しても失礼ではない時間帯である。が…訪問者は見知らない青年で、近所の人が私の家まで案内してきた。その青年が言うことには、ある方の使いで、ここに日本人が住んでいると聞いて来ました、そのある方が日本のサッカーチームがソロに来るのを知って、垂れ幕を作って歓迎したいと言っています、垂れ幕を日本語で作りたいので、次の言葉を日本語に翻訳して紙に書いてもらえませんか?…そう言って、彼はインドネシア語のメッセージを差し出した。彼は本当にただの使いのようで、ある方というのは一体誰なのか、日本のチームがなぜ来るのか、どこで私のことを知ったのか、という私の疑問はちっとも晴れない。時代劇で、悪役が呼び出しの手紙を通りすがりの子供に預けたりするシーンがあるが、まさしくああいう使いである。それでも、見も知らぬインドネシア人の日本に対する好意には応えたいと思い、彼のメモを「サッカー天国 インドネシアに ようこそ」と訳して、パソコンでできるだけ大きなフォントで打って印刷してあげた。

その日の夕方、私はたまたま日本人駐在員の人から、その人が住んでいるホテル(ソロで一番グレードの高いホテルの1つ)に浦和レッズの一行がチェックインするらしいという情報を得た。その歓迎のガムラン演奏の練習がロビーであったと言う。朝の件はそのことだったかと合点してそのホテルに行ってみると、選手には会えなかったが、一行に同行する日本の旅行代理店と航空会社の担当者の人と話をすることができた。ここでやっと試合の詳細が分かったので、次の日、私は日本人留学生2人を誘って観戦することにする。

海外にいると多少は愛国的にもなる。日本にいればあえて見に行こうとは思わなくても、海外で住んでいる町にあの浦和レッズが来るなら見てみたい。しかもチケット代は2万ルピアである。新聞によると、これがVIPチケットの値段だった。当時のレートは1円=約70ルピア、日本円にして約285円で、日本で浦和レッズの試合を見ることを思えば安い…という計算も働いた。(普段は現地の金銭感覚で生活しているのだが)。

試合当日、私と友人は日本人サポーター専用だというA12ゲートから入った。この日本人席にはザッと数えて200人以上の日本人がいたので、びっくりである。ソロ在住の日本人は駐在員と留学生を合わせても20人くらいしかいないのだから。日本から駆け付けたサポーターの他、ジャカルタの日本人会(ジャカルタに駐在している日本人とその家族)の人たちも多かったらしい。ちなみに、地元ソロの日本人会に正式に連絡が来なかったのが腹立たしい。

それはさておき、向かいのペルシク・ケディリ側のスタンドに目をやると、インドネシア国旗やカラフルなインドネシア人サポーターの旗?が並ぶ中に、あの日本語垂れ幕も掲げられている!白地に黒字のシンプルな幕だが、1日で垂れ幕を準備してくれたのだ!選手や他の日本人サポーターはあの垂れ幕に気づいてくれただろうか…?結局、注文者が誰だったのか分からずじまいだが、こんな小さな、人知れない好意が寄せられていたのだということを知ってもらえたら嬉しい。

この当時の記事がないかネット検索してみたところ、試合に出場していた鈴木啓太選手が「印象的だったのが、ペルシク・ケディリとのアウェー戦。そんなに大きな都市ではなかったし、スタジアムも小さかったんですけれど、スタンドはけっこうお客さんで埋まっていて、すごい熱気でしたね。インドネシアではサッカーが根付いていることを実感しました」と語っている記事があって(注)、我がことのように嬉しくなる。

余談:鈴木氏が小さかったと言うマナハン・スタジアムだが、当時はインドネシア3大競技場の1つ(他はジャカルタとプカンバル)と言われていた。スハルト大統領を迎えて、1998年2月―退陣の約3か月前―にオープンしたという代物だ。この試合は当初、ペルシク・ケディリの本拠地である東ジャワ州クディリ市のスタジアムで開催される予定だったが、グラウンドの状態が国際大会には良くないとされ、中部ジャワ州ソロ市のスタジアムに変更されたといういきさつがある。

注)https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201801230007-spnavi

2019.09水牛「ここ30年のインドネシアと日本 ~映像記録メディア~」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年9月」(水牛のように)コーナーに、
ここ30年のインドネシアと日本 ~映像記録メディア~」を寄稿しました。



ここ30年のインドネシアと日本 ~映像記録メディア~

実は、『水牛のように』2006年3月号~5月号に「ここ10年のインドネシアと日本」と題して、スハルト時代の役所の習慣やら、電話やインターネットの事情やらについて書いた(バックナンバーには未収録)。ところが、それから10年あまりが過ぎて、もはや2006年に書いたことすら古くなってしまった。いつか、この駄文が風俗資料になるかもしれないと思いつつ、ここに30年間の変化を書き留めておこう。

1996年3月にインドネシアに留学するに当たり、私は初めてハンディカムのビデオカメラを記録用に買った。確か当時は20万円近くしたが、留学だからと奮発した。それはHi8という8ミリの上位機種で、アナログ式。SPモードで120分のテープに録画する。現在のデジタル画像に慣れた目で見ると、画質の差はいかんともしがたい。が、問題は記録があるかないかなのだ。70年代と80年代の調査記録を基に書かれた海外の舞踊研究書の序文に、80年代半ばに一般用8ミリビデオが発売されて研究が大いに進展したと書いてあったことが強く記憶に残っている。それまで舞踊研究に使われてきた資料といえば、伴奏音楽の録音、舞台写真、舞踊譜(動きを専門用語で書き留めたもの)、フォーメーション図(移動方向や向きを図で表したもの)しかなかった。これらの方法を併用しても動きを言葉で説明するには限界があり、しかも、その記録を基に動きを想像し再現することができるのはその舞踊の経験者だけだ。未経験者には無理なのである。しかし、映像なら未経験者でもどんな動きの舞踊かを知ることができる。そんなわけで、80年代の一般用ビデオの発売は舞踊研究において画期的な出来事だったと思う。

2000年2月、私は古いHi8カメラを携えてインドネシアに再留学した。が、4月以降に新しく留学してきた人たちが持ってきたのはデジタルのビデオカメラ。ちなみに、その人たちは写真カメラもデジタルだった。2000年頃を境に世はアナログからデジタルに移行しようとしていた。アナログ・データをダビングするには元データと同じだけ時間がかかるが、デジタルならすぐに複製でき、編集もできてしまう。画質以上に、この複製編集の手軽さこそがデジタル化の本質だ。

youtubeの設立は2005年らしい。私の周囲では2007~08年前後からyoutubeやfacebookなどに映像をまめにアップする人たちが増えたように感じる。たぶん、編集用コンピュータの容量増加やスマホの登場(2007年)も影響しているだろう。一方、Hi8時代―つまり1980~90年代―の記録は、デジタル変換されなければ存在しないも同然になってしまう。再生機もすでに製造中止になっているのだから。私は2005年頃に自分が記録したHi8映像の多くをDVD化したが、まだの分も少なくない。私より少し古い世代の人たちの記録なら世代ごと忘れられてしまう可能性もあるように感じる。デジタル時代の人たちがHi8時代の人たちより活躍しているというわけではないのだ。デジタル格差とは、インターネット等の技術を利用できる者と利用できない者との間にもたらされる格差のことを言うが、このように世代による記録情報の残り方の格差は含まないのだろうか。
2019.08水牛「犠牲祭(イドゥル・アドハ)」
※ 9/4写真追加しました。

久しぶりの更新です。4大学(兵庫、大阪、京都、奈良)での非常勤講師の仕事がなかなかに大変で、自転車操業のような毎日でした。7月末にあわただしく成績採点を終え、8月はここ数年恒例のインドネシア語集中研修講師の仕事に入っています。さて…

高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年8月」(水牛のように)コーナーに、
犠牲祭(イドゥル・アドハ)」を寄稿しました。

いったん書いてから添削している間に、肝心なことが抜け落ちてしまっていました。以下に1996年4月28日に経験した犠牲祭のことを書いていますが、実はこの日の早朝にスハルト大統領夫人Ibu Tienが亡くなりました。Ibu Tienは私が留学していた町スラカルタの出身で、亡くなってすぐに遺体はスラカルタに送られました。「Ibu Tienのように偉い人は、犠牲祭のような良い日に亡くなるんだね…」と人々が言っていたことを思い出します。



犠牲祭(イドゥル・アドハ)

犠牲祭(イドゥル・アドハ)は世界中の人々がメッカを巡礼する大巡礼の最終日を祝う行事で、イスラム教徒にとっては断食明けの大祭(イドゥル・フィトリ)と同じく重要な祭日だ。インドネシアでは祝日で、各町内会ごとに集まって供出されたヤギやウシなどの生贄を自分たちで殺し、皆で肉を分け合い、調理して食べる。今年の犠牲祭は8月11日で、その後には独立記念日(8月17日)も控えているから、今年のインドネシアの8月はとても賑やかになりそうだ。

さて、私が初めて留学した1996年の犠牲祭は4月28日だった。イスラムの祭日はイスラム暦(1年354日)に従うので、西暦で言えば毎年約11日ずつ早くなる。つまり、この23年の間に4月、3月、2月…12月、11月…とどんどん前倒しになって、今年は8月になったというわけなのだ。留学当時の日記が見つかったので、今回は1996年4月28日の犠牲祭の思い出について書いてみる。

私は4月13日には一軒家に引っ越していたが、犠牲祭の日はそれまで住んでいた宿のあるRT(町内)に見に行った。宿の従業員が、このRTは全戸がイスラム教徒だから犠牲祭はにぎやかだよ~、おいでよ~と誘ってくれたのだ。一方、新しく入居した家のRTの住人はほとんどキリスト教徒だったようで、特に町内では何もやらなかった。

朝9時から始めるというので行く。この町内は1つのガン(小路)を挟んだエリアである。このガンから大通りに出る手前にある排水溝の大きな蓋(コンクリート製)が開けられ、ホースが引かれていた。ここで屠殺するようだ。そして、小路にはヤギが10頭近く、牛も1頭つながれている。これらは住人らが供出したもの。持てる者は分に応じて持たざる者に施しをするのがイスラムの教えなのだ。だから、犠牲祭の数日前になると、急に街にヤギを売る人・買う人が現れる。ヤギ相場も値上がりするようで、お金に余裕がある人は少し前からヤギを仕入れておいて、犠牲祭直前に高値で売るようだ。私の日記には生後4~5年の小さ目のヤギが11万ルピアというメモが残っている。ちなみに、当時のレートは1ルピア=約20円。私の宿滞在費半月分の値段なので、庶民にはそれなりに大きな金額である。

さて、ヤギから屠殺が始まるが、肉屋ではなく地域の住民が手がけていることに驚く。ずっとお祈りを唱えている小さい子供たち(小学生低学年までくらい)に囲まれて、大人の男性がヤギの頸動脈を切り、血を排水溝に直接流す。子供たちと違って、私は怖くてその瞬間をどうしても正視することができなかった。その現場が見えない所につながれているヤギも自分の命運を察知し、順番が回ってきても抵抗してなかなか動こうとしない。屠殺されたヤギは木の枠にぶら下げられて解体が始まり、皮が剥がされ、肉や内臓が取られて骨だけがきれいに残る。皆とても手慣れていて、作業がてきぱきと進む。

解体の力仕事は男性がやる一方、内臓や肉のブロックを小さくしたり調理したりするのは女性。私も1頭分だけヤギの腸を伸ばすのを手伝うことにした。とはいえ3人がかりである。大きなざるに腸の塊が1頭分載せられてくる。塊に手を当ててみるとまだ温かい。さっきまで生きていた証。不思議に怖いとは感じず、命をいただく愛おしさを感じる。1人目がそのくねくね曲がった腸チューブをつまんで塊からはがし、しごく。2人目と3人目はそのしごかれたチューブを受け取ってさらにしごき、腸内の内容物を押し出してきれいにする。肛門に近い辺りでは内容物は全部コロコロした糞に変化してぎっしり詰まっている。1頭だけ…と気楽に考えていたが、腸がものすごく長いことに気づき、嫌気がさしてきた。いま調べたところ、ヤギの腸の長さは体長の25倍あるらしい。ヤギの体長は1~1.5mだから、腸の長さは約25~35mとなる。うろ覚えだが、2時間くらいひたすら腸をのばしていた気がする。

ヤギやウシの赤身や内臓は持ち帰り用に秤で測って分配される。それ以外にその場でヤギ肉の煮込みが調理され、皆で食べた。全部の解体と下ごしらえ、調理が終わって食事にありつけたのは2時過ぎだったと思う。暑さと周囲に充満する肉の匂いと空腹で頭がぼーっとしていたことを思い出す。こういう経験は1度で十分だというのが正直な感想だが、それでも経験できてよかった。命をいただいて食べることの重さを、私は腸の重さとして実感することができた…。

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1996年のIdul Adhaにて


2019.03水牛「インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」
高橋悠治氏のサイト『水牛』の
2019年3月」(水牛のように)コーナーに、
インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域」を寄稿しました。

実はタイトル詐欺の文章で(笑)、下見だけして住まなかった家の持ち主にまつわる思い出。


インドネシアで住んだ家(2)王宮の東側の地域

前回はインドネシアに最初に留学した時に住んだ家のことについて書いたが、その時に下見したものの結局入居しなかった家(の持ち主)の思い出について今回は書いてみよう。

住む家の契約を終え、引っ越し目前という時になって、宿の従業員が新たな情報を聞き込んできた。宿の斜め向かいの家で借り手を探しているというのだ。実は、そこに家があることを私は全然知らなかった。表通りから一本入った宿の辺りの家々には高い塀が巡らされていて、塀の奥にどんな建物が立っているのか全然見えなかったのだ。今さら仕切り直しをする気はなかったが、後学のために家だけ見ておきたいという気になり、物件を見せてもらった。持ち主はアラブ系の顔だちと服装をしていた。塀の中には広い庭があり、一人で住むには手入れが大変そうだった。私が礼を言って断ると、持ち主は「お構いなく、すべてはアラーの思し召しのままに…」という意味の言葉を返した。まだイスラムのこともほとんど知らなかったこの頃、イスラムの人はそういう風に発想するのか…と新鮮に感じたことを覚えている。

この持ち主自身はパサール・クリウォン地区に住んでいるとのことだった。実は、その地区には織物を商うアラブ系インドネシア人が歴史的に多く住んでいる。伝統文化のセンターである王宮の塀のすぐ外側(東側)の所だが、金曜礼拝の前後にこの辺りを通りかかると、全身を黒づくめの衣装で覆った女性が集まってくることに驚く。ゆるやかなイスラム教徒が多いジャワ人芸術家たちとだけ付き合っていると、こういうイスラム世界は見えてこない。ちなみに、2016年にジャカルタのスターバックス前でテロを起こした首謀者もこの地区の出身だ。この後私が住むカンプンバル地区(王宮の北側)の目と鼻の先である。実は、そのテロ事件が起こる前は、wikipediaのパサール・クリウォンの項目にはアラブ系の人がそこに集住した経緯が詳しく書かれていた。テロ関係のことを調べている友人にもそのことを教えてあげたのだが、事件後数日で記事のほとんどが削除されてしまった。何かまずいことでも書かれていたのかもしれない。というわけで、王宮の東側というとこの家の持ち主のことが思い出される。